第5話 かけひき
ユーリの一件は、娼館の中でもちきりとなった。
当人だけが分かっておらず、誰に訊ねても『悪い女ね』と含みを持たせられるだけ。
唯一、頼りになりそうなミラに訊ねても、
――ふふっ、それは自分で考えなさい
と、愉快げに返されただけである。
誰もが明るいため、無礼を働いたわけではないと分かる。
しかしそれだけで、他に自分で考えて思いつくのは、
『上手に踊れたことが嬉しく、つい踊って自己紹介をしてしまった』
やはり言葉にしないのはいけなかったのか、との自責の念だけだ。
うんうんと悩むユーリ。
答えを教えられたのは、その翌日のこと。マイヤによって語られた。
「言葉を発さず、小首を傾げて微笑みだけを向ける――これは大人の女でもやる、目と笑みだけで男を虜にする技だよ。しかも、よほど自分に自信のある奴でないと出来ない」
「え、えぇっ!?」
「しかもユーリは〈舞姫〉。胸に直接語りかけられなんかすりゃ、男はたちまちダメになるさ。特にシンなんて、女の免疫なんてないだろうし」
そんな、と肩を落とすユーリに、マイヤはにししっと笑った。
「こうなるから、男にいい顔しちゃダメなのよ」
「うーん……」
今度は言われたことを守りながら、ちゃんと言葉にして挨拶しよう。
そう心に決めると共に、ふと男の子が『薬屋』と名乗ったことを思い出していた。
「そう言えば、薬屋だって言ってましたけど」
「ああ、シンはこの〈ハルパー通り〉の鍔の部分にある、薬師のせがれだよ。奥さんが病弱で、その腕を疑われているけれど……まぁうちらには効いていると思うよ、多分」
「じゃあ、据え置きの薬は全部ですか?」
「そうなるね。ミラ姐の薬、と言うか滋養強壮の薬もすべて処方してもらってるよ」
その言葉を聞くと、たちまちシンとその薬屋が尊いものに思えた。
ミラ姐さんが元気でいられるのは、彼らのおかげなのだ。自分はそんな人に失礼なことをしてしまった、と後悔が沸き起こってくると、居ても立ってもいられなくなってくる。
無意識に難しい顔をしていたのだろう。
目の前のマイヤ姉さんは、やれやれと小さく息を吐いた。
「シンは薬代を受け取らずに帰ったからさ。ユーリ、あんたが代わりに支払ってきなよ」
「え?」
「だけど、またいい顔するんじゃないよ?」
悪戯に笑むマイヤ。
ユーリは大きく、何度も頷いて返事をすると、駆け足で受付に向かっていた。
◇
久々の外界は、そう言えばと思い出すほど賑わっていた。
(凄い人……)
肩から小さなカバン提げ、雑踏うるさい通りを眺める。
娼館のすぐ前の通りを〈ランス通り〉と呼ぶ。真っ直ぐに長い道が由来であるが、実際は歓楽街を取り囲む鉄柵の柱からである。
通りには食材や衣類、日用品の類など、生活に困らない店舗が並ぶ。娼婦たちは原則として鉄柵の外に出ることも許されず、外界への買い出しを理由に足抜けするのを防ぐ策であった。
ユーリは娼婦ではない。しかし律儀なもので、娼館に勤める身だからと受付から許可証をもらい、路地を抜けた先の〈ハルパー通り〉まで出ていた。
(おじさんいるかな?)
ここには、おじさんのいる店・〈パールの配達屋〉がある。
娼館で働き出してから帰っていない。近くまで来たら、ふいに会いたくなった。
(だめだめ! 会ったらお尻叩かれちゃう……!)
外に出れば、不必要な接触を避けないといけない。
顔をぶんぶんと振ると、顔を引き締め、行き交う雑踏に小さな身体を隠しながら歩く。
それからすぐ、目指す薬屋を見つけた。
【ダワー・ハスン】
シンプルに文字だけの看板。横に薬種をすりつぶす道具・薬研の絵が描かれているので、ここで間違いないだろう。
ユーリは恐る恐る、開け放たれた玄関を覗き込む。正面の上がり框の木扉は閉じられたままで、他に誰もいない。まるで泥棒に入るかのように、そろりと右足を差し入れた。
(うー……苦そうな薬の臭いがいっぱい……)
思わず鼻に皺が寄ってしまう。
木扉には訪ねてきたことを告げる打木が掲げられてあり、ユーリは傍にぶら下がる木槌を握る。
(えぇっと、確か『〈踊る猫〉から、薬代を支払いにきました』って言うんだっけ)
小さく振り上げ、叩いたつもりなのに、意外にも大きく高い音が鳴った。
ぎょっと目を瞠った直後、それを合図に奥から高く元気な声が返ってくる。
『はい、ただいま!』
“いい顔”をしてはならない。木扉が僅かに開き、内から出た小さな手が縁を掴む。
すっと開かれてゆくのを見たユーリは、身体を強張らせながら、自分なりに考える顔を作った。
「お待たせ――あっ!」
そこに現れたのは男の子・謝らねばと思っていたその人であった。
抜き打ちに現れ、驚きで目を瞠ったものの、ユーリは平素を装い真っ直ぐシンを見据えた。
落ち着け。大丈夫、と自分に言い聞かせ、すっと息を吸う。
「〈踊る猫〉から、薬代を支払いにきました」
驚くほどスムーズに言えた。
「え、えと……す、すこしお待ち下さい……!」
ユーリの姿にシンは顎を引き、慌てて中に引き返す。
奥から、『何?』と聞き返す大人の野太い声がし、『何を慌てているんだ』と訊ねていた。
ばたばた、がたがた、と僅かに騒々しくなった後、土間にシンが再び現れる。追うように眼鏡をかけた壮年の男も現れ、後ろから見守るように木扉の傍に座った。
ユーリはその場で、小さく会釈をした。
「え、えぇっと、胃薬、風邪薬、消毒液に、強壮薬――」
帳面を見ながら、パチ、パチと算盤を弾くシン。
後ろにいるのはお父さんだろう。見られて緊張しているのか、手が震えて何度も計算をやり直している。ユーリはじれったくなり、貸して、とシンの手から算盤を奪った。
「えぇっと、胃薬が――」
框に腰掛け、帳面を見ながら珠を弾き始めた。
パチパチと小気味よい音が土間に響く。ほう、と感嘆の息が混じっていたが、ユーリは集中していて聞こえていない。
しめて金貨一枚と中判銀貨二枚、大判銅貨八枚にくず銅貨七十枚。
間違いないですか、とシンに訊ねるが、その返事を待たずしてカバンからお金を取り出していた。
「あ、合っています」
その言葉と同時に、ユーリは同額が入った布袋を差し出した。
「この前はゴメンね」
「え……?」
笑みを向け、ちゃんと自身の目的も果たす。
用向きはつつがなく終えた。
ユーリは立ち上がり、奥の男に「失礼します」と挨拶をすると、心踊らせながら店を後にした。
(よしっ! ちゃんとできた!)
その後ろ・薬屋の父子が、石のように固まっていることに気付かぬまま――。
◇
ふう、とユーリが緊張を解いたのは、娼館に戻った時であった。
長く深いため息を吐く姿に、マイヤやアイリーンは、ふふっと笑みを浮かべる。
「初めてのお使いは大変だったみたいね」
アイリーンが言うと、マイヤも「私もそうだったなー」と、何度も頷いた。
「マイヤは確か、お釣りちょろまかされたんだっけ?」
「そうそう! あの布屋のカフのクソジジイ、私が計算できないの知ってて懐に入れたの!」
今思い出しても腹が立つ、と絨毯を踏むマイヤ。
その姿がおかしく、ユーリは思わず笑っていた。
「で、ユーリ。今回はちゃんと、イイ顔しなかったの?」
「はいっ! この顔でやりました――」
そう言って、ユーリは先ほどと同じ顔を作る。
それを見たマイヤとアイリーンの二人は、口を開いたまま絶句していた。
「あ、あんた……」
「まさか、それで応対したって言うの……?」
「はい!」
マイヤは震えながら、人差し指をユーリに向けた。
今のユーリは、目――特に眉間を意識しながら、口を横に引き結んでいる。
それは、つんと取り澄ますような表情。
まだ八つの女の子とは思えない、“女”が露わになっていたのである。
「……それ、ミラ姐から教わったのよね?」
「いいえ? いい顔したらダメと言われていたので、顔を変化させないようにと……。でも言われてみたら、ミラ姐さんの影響はあるかもです。踊りを教わっているとき、こんな印象があるので」
ユーリは普段の顔に戻し、首を振った。
女たち二人が顔を見合わせるのを見て、これも間違っていたのか、との不安が滲む。
「最初は言葉無く、女の美を見せて……」
「次は、倦怠・不機嫌さを匂わせるすまし顔……天性の男たらしだわ」
ユーリのそれは、娼婦たち全員を驚かせるものだった。
試しに娼婦が男を誘う仕草――気だるい表情で髪をかきあげ、流し目を向けさせてみれば、百戦錬磨の女たちですら身震いする姿を見せる
マザー・シンクに到っては、目を潤ませ歓喜に打ち震えたほどだ。
『間に合ってよかったさ……』
その直後、安堵したような言葉を洩らしたのだが、ユーリには何のことだか分からない。