226 「シン・仮面ライダー」を見た
「ん~、どうしよう?」
スカパーの予定表を見ていたら、8月頭に「シン・仮面ライダー」を放送することになってた。
庵野監督の「シン」シリーズは、「シン・ゴジラ」、「シン・ウルトラマン」と見てきたけど、「シン・仮面ライダー」は見に行こうって気になれなかったのよね。
なんせ「シン・ウルトラマン」のデキが微妙だった上に、今回は樋口監督が入ってないっていうから。
正直、庵野監督の作風って、独りよがりでダメっぽい。
「シン・ウルトラマン」の、よく言えばオマージュ満載、悪く言えば元ネタ頼りなシナリオやアクションは、あまり嬉しくないのよ。
特に「仮面ライダー」という、色々と制約の多い作品を1本の映画にするっていうのは、難易度が高い。
2時間程度の映画の中で、“改造人間を造る理由”、“組織の存在”、“仮面ライダーを名乗るきっかけ”など、基本設定の消化をするのは難しいから。
「シン・ウルトラマン」での命名の無理矢理さは、かなりひどかったもの。
何の説明もなくウルトラマンの顔が変わってたり。
NHKでやってたメイキング映像と、テレビCMで流れる「シン・仮面ライダー」予告編での迫力のないライダーキックを見て、あたしは劇場に行く気をなくした。
…んだけど、タダで見られるなら話は別だ!
見ないで文句を言うというのは、あたしの中ではレベルの低い行動だから。
もちろん“見る価値なし”という判断はあたしもよくするし、それが悪いとは思わない。
そんなところに貴重な時間とエネルギーを費やす必要なんかありゃしない。
でも、“見る価値なし”と“見たけどつまんなかった”は、感想としてのレベルが違う。
その作品を好きな人と話す時に、「見たけど、こことここがこうで、デキ悪かったよね」と言えるのか、「ゴメン、見てないし見る気もない」で終わるのかは違う。
少なくとも、あたしの中では違うのだ。
要するに、「見てもいないくせにああだこうだ言うな」って話ね。
見た上で、「ごめん、あんまりひどくて最後まで見られなかった」というのもアリ。
ただ、それだと“ラストのどんでん返しがいいのよ~~♪”に対応できないんだけどね。
実際、ラストだけは綺麗にまとまってるってことも時たまあるし。
そういう意味で、「文句言うなら見るな」って意見には首肯できない。
見なきゃ文句も言えないってこともあるのよ。
そんなわけで、「シン・仮面ライダー」を録画して見てみた。
なんかもう、特撮版の「仮面ライダー」のオマージュっぽいシーンが目白押しで、原典をなぞってるだけ感が強い。
この辺、「シン・ウルトラマン」で、CG使って、降下してくるウルトラマンを、昔みたいに飛型(飛行シーン用の人形)みたいにしてくる意味不明な演出と同じような違和感があるのよ。
「仮面ライダー」と名乗る理由も弱いし、こじつけ感が強いわね。
改造人間を示す「オーグ」という言葉は、「サイボーグ」とかの「オーガニゼーション」からだと思うんだけど、「バッタ」(日本語)と「オーグ」(英語)のミスマッチ感もひどい。
特にひどいのが「蝶オーグ」で、なんで「バッタ人間」「蝶人間」じゃダメだったのか、小一時間問い詰めたい。
アクションもダメダメ。
力強さもシャープさもないし、さりとてリアル寄りに物理法則に拘ってるわけでもない。
空を飛べないライダーが、ドラゴンボールよろしく空中で敵と殴り合ってる図は、もうバカバカしいとしか感じられない。
樋口監督が関わっていたら、その辺、もうちょっと良くなったと思うのよ。
「シン・ゴジラ」でも「シン・ウルトラマン」でも、樋口監督が結構軌道修正してたって話だし。
オーグのエネルギー源を「プラーナ」という生体エネルギーにして、他者のプラーナを吸収することで力を発揮するのは面白いけど、人間1人のプラーナがどれくらいのエネルギーになるのかっていうのは伝わってこない。
バッタオーグは風からプラーナを得るという新機能を搭載してるっていう設定なんだろうけど、マスクを着けることで機能が発揮されるなら、いちいち余剰プラーナを放出しなくてもいいんじゃないかな、とも思う。
あと、マフラーは、「バイク乗りの証」的なアイテム扱いだけど、なんか「鉄人タイガーセブン」なテイストもあったような気がする。
衣装としての“仮面ライダーの防護服”は、「服」と割り切って洗濯もできるらしいけど、防護服なら首が剥き出しなのってどうなんだろ? この辺も原典オマージュ強すぎない?
つうか、防護服脱ぐと、ベルトってどうなってんの?
プラーナがバリア(というか「ドラゴンボール」における気)的な働きをして、強大なプラーナタンクを外装している蝶オーグが強敵って展開なんだけど、この辺りで急に“プラーナが人格を内包している”みたいな話が浮上する。
この設定で、ラストにルリ子の遺志が本郷のマスクに宿ったり“安全な場所”に移し替えられたり、本郷の遺志がマスクに宿ったりするわけなんだけど。
サソリオーグの毒がプラーナを無視できるなら、それ使えば蝶オーグ撃破できるじゃん、とか言っちゃいけないのかしら?
なんだか寂しがり屋な一文字の変身システムは意味不明で、「お見せしよう」とか、これもオマージュの嵐。
後半戦は、漫画版の「仮面ライダー」っぽいテイストを帯びてる。
最終決戦で一文字のマスクが壊れ、本郷がマスクを残して溶け、本郷の遺志を宿したマスクを一文字が継承するという展開も、“なんで服は一緒に消えるのにマスクは残るの?”という疑問はあるものの、まぁ綺麗っちゃ綺麗。
漫画版での一文字編への橋渡しとなる「俺たちは2人で1人だ」が自然に行われていて、この映画で唯一の褒められるところだと思う。
うん、上記の「ラストのどんでん返し」に相当する部分だね。
あ、あと、蝶オーグとの戦いでサイクロンを2台とも壊して新サイクロンを作ったり、新調した防護服が2本線で、塗り直したマスクがライトグリーンな“新1号”モードなのは、“ズルいなぁ”と笑ってしまった。
あと、キャラ的に本郷が弱いのがなんとも…。
なんか流されてるみたいな感じで、いや、もちろん自分で考えてるとことかもあるんだけど、印象が弱いのよ。
一文字の方が我が強くて主役っぽい。
むしろ一文字が“主役っぽい”から“主役!”になるまでの物語みたい。
ルリ子とか立花とか滝が妙に濃ゆいキャラだから、なおさらそう思う。
まだ、“本郷はルリ子に惚れてる振り回されてる”とかの方が物語性があったかもしんない。
しみじみ思う。
劇場行かなくてよかった。
ライダー
いわゆるバイク乗り。ルリ子の常識では、バイク乗りはスカーフを巻くものらしい。
そもそも「仮面ライダー」というタイトルは、“仮面を着けたバイク乗り”という意味であり、漫画版では実際に“顔の傷を隠すために”仮面を着けている。
反面、特撮版の「仮面ライダー」のマスクは、顔の変化なのか仮面なのかという議論が昔からあった。
梓の個人的な見解としては、顔の変化。
理由は、6話「死神カメレオン」において、地下に閉じ込められて吊り天井で潰されそうになった時、エネルギーの消耗に伴ってマスクが消えて素顔になったこと。あの場面でわざわざ仮面を外す理由はない。
変化を維持できるだけのエネルギーがなくなると顔が元に戻ってしまう、という方が納得できる。
鉄人タイガーセブン
1973年放映の特撮ヒーローもの。ピープロ製作。
滝川剛が人工心臓SPと謎の力でタイガーセブンに変身し、ムー原人の地上侵略を阻む物語。
マイナーだけどカルト的なネタ多数。
変身の仕組みは不明だが、8話でタイガーセブンが首に巻いたスカーフは、以後、変身するたびに首に巻かれた状態で現れるようになった。
首が剥き出し
特撮版「仮面ライダー」のスーツは、当初、“革のライダースーツ改造で、マスクは顎の上部までかぶるだけ、下顎が別パーツでゴム紐で固定している”というものだった。
そのため、首や襟足が剥き出しになっている。
石森ヒーローらしくマフラー装備だが、それでも首や後ろ髪が見える。
この点も、“顔の変化か仮面か”という論争の原因のひとつ。
単に、当時は、衣装に下面がなかったからそうなっていただけである。
V3の襟は、髪の毛隠しだったりする。
なお、マスクはかぶってゴム紐で顎を固定しているだけなので、宙返りの際に脱げてしまうなどのNGもあったらしい。
ベルトってどうなってんの?
特撮版の「仮面ライダー」は、旧1号編、2号編、新1号編からなる。
2号編当初、一文字は変身する際、まず上着のファスナーを開けて変身ベルトを露出させていた。
つまり、上着の下には常に変身ベルトがあるという描写である。
また、浴衣をはだけると素肌の上に変身ベルトがあるシーンもある。
これらのことから、当初は“変身ベルトは体の一部で、常に腹部に露出している”という設定だったものと思われる。
もちろん、こういった描写はあっという間に忘れられ、2号編の途中(衣装が替わった後)からは、いつの間にか変身ベルトが腰に巻かれているという演出になった。
梓は、「シン・仮面ライダー」において、体内のプラーナエネルギーと直結しているはずのベルトが防護服の上から着けているようにしか見えないため、「体とベルトを繋ぐコネクタとか見せてくれたら納得するのに」と思いながら見ていた。
新1号
有名な話だが、旧1号編→2号編の交代劇には、本郷猛を演じた藤岡氏が撮影中のバイク事故で足を骨折して出演不能になったため、急所一文字隼人を登場させたという事情がある。
その後、藤岡氏の治療終了に伴って本郷が帰国し、一文字がアメリカに行くことになる。
この交代劇では、それぞれ、本郷はショッカーの計画を追ってヨーロッパに行った、一文字は死神博士を追ってアメリカに行った、という理由付けがなされていた。
実際、旧1号が初めて救援に現れる40話「怪人スノーマンと二人のライダー」では、1号がスイスでスノーマンと戦い敗れた後、日本に向かったスノーマンを追って来た、という流れになっている。
昭和ライダーにおける“敵は世界的組織で、主役以外のライダーは海外で敵と戦っている”という展開は、ここに始まっている。
裏事情的なことを言うと、番組初期の低視聴率の打開策として、
仮面ライダーの配色が暗くて地味だから明るくする
変身を自分の意思でできるようにする
などの提言がなされており、藤岡氏の入院に伴う主役交代を契機に実現された。
2号が変身ポーズの後ジャンプするだけで変身したり、腕と足に銀色のラインが入ったりしたのはそれによる。
ちなみに、打開策の1つに、“仮面ライダーを巨大化させる”というものもあった。
冗談のように聞こえるが、同時期放映の「シルバー仮面」では、“物語が暗い”、“戦いが地味”という弱点払拭のためにシルバー仮面が巨大化するという展開になっている。
ほかにも、“本郷が死んで主役交代”という案もあったが平山プロデューサーが猛反対して実際の交代劇になったという経緯があった。
結果、大人気番組になったのだから、運が強かったのだろう。
本郷は、2号編中盤以降、何度か救援に現れているが、その時は旧1号の姿であり、新1号編になった途端に、マスクがライトグリーンになり、腕と脇の下、足に白い2本線が入る。
姿が変わった理由は、テレビでは語られない(OPで旧1号編と違う改造シーンが映ってはいる)が、雑誌媒体ではわざとショッカーに捕まって強化改造を受けてから脱出した、と発表されていた。
なお、新1号編に登場する際の2号の衣装は新1号の衣装から線を1本外して作ったため、線が細くなり、脇の下にも線が入っているほか、見分けやすいよう手袋とブーツが赤に変更されている。
これらの事情によって
2本線は1号
1本線は2号
という捻れ現象が起きており、子供はともかく親にはわかりにくいものとなった。
実際、梓の母は、当時から今に至るまで1号と2号の区別がつかないままである。




