「残す」ことへのこだわりに対する私の批判的見解
今日は「残す」ということについてテーマをしぼって考えてみよう。「残す」というのは「遺す」と言いかえても同じだが、ここでは「後世に名を残す」という意味で理解して頂きたい。
今の時代は文学者という職業にたずさわっていない者も、SNSなどの何らかのかたちで文章を書いて発表することができるし、私もあくまでアマチュアとしてこの『小説家になろう』で創作活動にはげんでいる。
しかし(これはアマチュアに多い傾向にあるのだが)自分の作品が読者に読まれることだけを良しとするのではなく、やはり、いつか自分が文学者として報われないだろうかと願っているところもある。そして、それも決して悪いことではないが、その場合、やはり自分の死後に作品を評価されたいと思う人がいるのではないか。現世でだめなら死後でもかまわないと期待する人々が。
私が思うに文学作品をクリエイトする者にいたっては必ずと言っていいほど、自分の作品群を残したいはずである。それがSNSの場合であれば、その彼のアカウントを保存して残すであろうし、このサイトの場合でもやり方は同じである。
はっきりと言うが、文学者(創作をしている者)にとってはアマチュアでさえも、いつか評価されるだろう、死後にでも自分の名前が知れ渡るだろうと平気で信じている人たちがいる。気の毒だ。
私はこの文章や作品を「残す」という人間の思いが、逆に人間に制約を与えていることになってはいまいか心配だ。たしかに文学史をたどれば死後、評価されて有名になった文学者もいる(太宰治や宮沢賢治などがそれにあたる)。しかし、彼らは、彼ら自身はその実人生において幸せだっただろうか。後世に名を残した時点で彼らは報われたのだろうか、幸せになることができたのだろうか。
それは違うと思う。やはり、死後には人間は幸せになどなることはできない。無になっているからである。死後に褒められようが、彼らは幸せにも不幸にもなることはできない。そして、彼らはもしかしたら実人生では不幸におちいっていたのかも知れない。もちろん、それは私にはわからないが、そんな危惧は十分にあると考えられる。しかし、一つだけ言えることは彼らが後世に名を残したいと考えていたならば、なんと可愛そうな人たちだったのだろうかということだ。まあ、後世に名を残したいなどとも考えない人たちだったから、評価されたのかもしれないが。
ところで、彼らを成功の見本に立てることはここではしないでおこう。彼らはあまりに人間離れしているから。つまり、ここらで結論めいたものを出さなきゃいけないのだが、その前に、私たちの実人生にとって作品や文章を「残す」ということは本当に幸せに結びつくのだろうかという問いを立てねばならない。確かに作品を残そうが残すまいがその人の勝手じゃないかと言えばその通りなのだけれども、私の作品は私の経験から私の意見を記すことに自由であるはずなので、勝手に言わせてもらうことにする。
私の意見から言って、自分の作品や文章を「残す」ということはたぶんとりあえずはその通りに行うであろうと思う。しかし、私は自身のフェイスブックアカウントを完璧に削除した経験を持っているし、まあこのサイトの作品だったら、残すことも行うであろうけれども、それが死後に誰かに評価されるだろうとか、誰かに評価されたいなどとは思っていない。どだい無理な話である。死後に評価されたいなどと願うのはおこがましい態度である。私なら決してそういうふうには思わない。
実際、(プロ、アマチュア問わず)文学者たちはいつも名を「残し」たいとずっと考え願ってきたに違いない。しかし、死んでからではもう遅いし、すべてが無の状態なので、幸せになることはできない。それよりもまず、文学者は評価されたいが為に書くものなのだろうか。書くことだけで十分なのではないか。作品や文章を「残し」たいなどとは思わないでいい。書いているだけで幸せだ、十分だと思う。それが私の結論だ。勝手なことを言ってしまって悪い気がしています。しかし、文学作品上では自分はそうふるまう以外にはないなと考えているので、一応納得してはいます。それが人間が一番大事なことなのではと思いました。