反戦平和法
平和を口実とした戦争がはじまる
アメリカでは大統領選挙の選挙運動がはじまった。このため、現職の大統領は自党の後続候補の邪魔にならないよう
積極的軍事行動は控えるようになった。
日本でも木下良太がアメリカの力を背景に毛麗と同盟を結び、強大な力を得て以降、これに逆らうものもなかった。
つかのまの平和が訪れたかに見えた。しかし、アメリカ大統領はここに来て任期が終るまえに自分の実績を残そうと考えたのか、反戦平和法なる法案を作り上げた。これは、世界平和と秩序を守るために、アメリカの派兵に世界各国が同調し、兵力を派兵する軍事同盟を調印するというものだった。
世界平和の名の下、第二次世界大戦の反省を求められたドイツは、真っ先にこの反戦平和法を調印し、中東に特殊部隊を派遣した。名目は、特殊警備員という民間の組織であるが、実際にはドイツ軍精鋭部隊そのものであった。
大統領はマスコミの注目を浴びにくい特殊部隊を多様して中東においてまた戦争を拡大していった。
戦争といっても、特殊部隊による一方的襲撃である。これにドイツも参戦した。
日本においても、この反戦平和法を調印すべきだという国民運動が起こり、ついで、マスコミが世界平和のため、
第二次世界大戦の反省のため、この反戦平和法を調印すべきだという報道を盛んに行った。
右派は、この法案が通過すればまた日本の領土を拡大できると考えているようであったが、あくまでも世界平和のためにしか軍を派遣しないという条項がついた法案である。その世界平和の定義はアメリカが決める。
日本としては、調印すれば、アメリカに命令されて中東やアフリカで何の利害関係もない村に派兵し、攻撃しなければならなくなる。
このような法案を可決させては、国家百年の大計に禍根を残すと方月広は木下良太に訴えた。
方月広は、方月祭童逮捕後、実質上祭童軍の最高司令官として木下良太に服従していた。しかし、木下良太が独断で、この反戦平和法に調印しようとした事で、その関係がこじれた。
木下良太は方月広に謀反の疑いありとの情報をマスコミを通じてながさせ、孤立した方月広は松平武士に助けを求めた。
松平武士は方月祭童からうけた恩を返すため、方月祭童の逮捕を妨げることが出来なかった贖罪のために、方月広を助ける兵を起こした。
松平武士は軍勢を率いて愛知県まで到着し、愛知県に駐屯していた方月広の軍と合流した。
しかし、ここで驚愕の事実が知らされる。
アメリカとドイツの間で結ばれた反戦平和法により、ドイツの特殊部隊が岐阜に投入されることとなったのだ。
部隊長はオットー・イケダとモーリー・ナガナリーだった。オットーは日系ドイツ人であり、モーリーはゲルマン系ドイツ人であった。
モーリーは岐阜に着任早々、岐阜と愛知県の国境の町を襲撃し、民家を焼き払った。このため、それを救済するため方月広は犬山に軍を進めた。
数において優位であった方月軍であったが、ドイツ精鋭部隊の前にジリジリと後退し、小牧まで撤退してきた。
そこで松平武士の部隊がドイツ軍の後方に回り込み急襲したことにより、退路を絶たれたドイツ軍は混乱し、部隊長であるオットー・イケダとモーリー・ナガナリーは討ち取られることとなった。
これで、戦況は圧倒的に方月、松平軍の有利と見えたが、この状況下において、木下良太の軍師、黒ちゃんが内密に方月広と面会した。黒ちゃんは、もちこのまま方月軍と松平軍が戦い続けるなら、アメリカは愛知県に原子爆弾を打ち込むと告げた。この話を聞いた方月広は涙を流し、単独で木下軍と講和を結んだ。講和の条件は方月広の国外退去である。
広は講和調印のあと、すぐに飛行機に乗り、アメリカに亡命した。方月軍は完全に武装解除され、無力化されてしまった。
松平武士はその報を聞くやいなや、夜をまって夜陰にまぎれて東京まで撤退していった。
かつて浅井に背後を衝かれた時の敗走戦以来の出来事であった。
松平武士は木下良太との徹底抗戦を覚悟し、武装を強化したが、木下良太の軍師、黒ちゃんは木下に武士との和解を奨めた。しかし、武士は、木下がアメリカとの反戦平和法調印をしない事を和解の条件にしたので、木下は躊躇した。
それでも、黒ちゃんは強行に武士との和解を奨めた。
これまで黒ちゃんの政略は外れたことがないため、木下も折れて、渋々、アメリカとの反戦平和法の調印を一時保留した。その行為に対するアメリカマスコミの反応は辛らつで、平身低頭アメリカに何ども謝罪する木下に対して、木下良太はソフトファシストであると表現してこきおろした。
ちなみに、アメリカが日本に核ミサイルを撃ち込むという情報は、完全に黒ちゃんのでっち上げであり、嘘の情報であることが、後々、伊賀衆、藤林長門の調べで判明することとなった。
武士はなんとか法案を阻止した。




