第七章
その週の土曜日の午後。恐らく鬼灯町に暮らす人々は、「今日は妙にネコの姿を見ないな」と思ったに違いない。商店街の肉屋は、よく店の裏で行儀よく待っている年取った三毛猫がいないことを心配した。川沿いの道を飼っている秋田犬と散歩している主婦は、物怖じしないでイヌにすり寄る野良猫がいなくて少し寂しい思いをした。
飼い猫たちも同様だ。あちこちの家から、朝早くから餌も食べないで外に飛び出していったきり、影も形も見せない飼い猫を呼ぶ声が聞こえてくる。けれども、それも仕方がない。鬼灯町に暮らすネコの化外たちは、野良猫として外にいようと、飼い猫として人間に飼われていようと、例外なく抜ケ道を使って異界へと消えてしまったのだから。
鬼灯町の異界。そこは建物の形と道の位置はおおよそ同じだが、古風な和風建築が立ち並ぶ別世界だ。鏡に映った世界でありながら、そこは人間たちの世界の忠実なコピーではなく、独自にアレンジされている。けれども、通りには二本足で歩くネコの姿は見えない。せいぜい、ヘビの化外が何人か手持ちぶさたな様子で歩いているくらいだ。
一方、異界でも向こう側と同じように流れる三滝川の周囲は、ネコたちで埋め尽くされている。鬼灯町に暮らすネコの化外たちが、一同に会しているのだ。土手の桜並木に花でも咲いていたら、今日はネコたちの花見かと誰もが思うことだろう。だが今は六月だ。桜の花など一輪もない。
しかし、ネコたちの様子はお祭り騒ぎそのものだ。川沿いの道にはずらりと露店が並び、ありとあらゆるお祭りの時に売られていそうな食べものが売られていた。焼きそば、お好み焼き、たこ焼き、たい焼きもあれば焼きもろこしも売られている。それだけではない。水風船がある。金魚すくいがある。綿アメまである。まさに縁日そのものだ。
地面に置かれたオーディオから、軽快なリズムが流れ出した。それに合わせて野球帽をかぶってバンダナを締め、サングラスを掛けたストリートミュージシャン風のネコが即興のヒップホップを歌い始める。内容はここ鬼灯町と、そこを取り仕切る組合、そして親分を褒めたたえるものだ。
その横では、白地に金魚が描かれた着物を着た雌のネコが、こぶしを利かせた演歌を歌っている。内容はヒップホップと大して変わらない。いつの間にか、今日はネコたちのカラオケ大会の日になったのだろうか。即席のステージの周囲では、沢山のネコたちがやんやと喝采を浴びせつつも、次にマイクを握るのは自分だと互いを牽制している。
一応こちらは駅前組合の縄張りなのだが、その事について気に掛けているネコは一匹もいない。街角組合だろうが駅前組合だろうが、耳と尻尾と毛皮のどれか一つがあるならばお仲間だと言わんばかりに、いがみ合ったり争っているネコは一匹もいない。これが本当に、数日前までは親の仇のように対立していた組合のネコたちなのだろうか。
「くだらん」
制服姿のノリトが、周囲に漂っているお気楽そのものの空気に耐えかねたらしく、吐き捨てるように言う。
「なんだこの茶番は」
実際に気分が悪くなったのか、ノリトは周囲を見回して排水溝を見つけると、そこに唾を吐く。
「そうかなあ」
一方で、早くもこののんき極まる空気に適応しているホモ・サピエンスが一匹、いや一人いる。
制服のノリトと違って、小袖に緋袴姿という、絵に描いたような巫女の装束を着たあかねだ。
「なんだってこんなに大がかりなことになってるんだ?」
「いいんじゃない? みんな楽しそうだよ」
ノリトは次は頭痛がしてきたらしく、額に手をやる。こんな大がかりなこととは、現在絶賛開催中のカゲフサとマサツナの新公園を巡った一戦である。
二人の争いはハクメンの介入の元、ルールに則って行われているはずだ。だが主催者はハクメンだが、実行委員は彼の隣で楽しそうに屋台を見て回っているあのあかねである。二人の争いをきちんと監視することもなく、こうやって遊んでいていいのだろうかとノリトは心配になるのだが、どうにでもなれと自棄にもなっていた。真面目にやるだけ損だ。
「どう? 似合う? かわいい?」
ノリトの懊悩など知ったことかと言わんばかりに、あかねは小袖の裾を持ち、その場でくるりと回ってみせる。とっておきの晴れ着ならともかく、今のあかねの外見は、彼女の体育系の内面を知るならば実に似合わない巫女の装束である。ノリトにとっては見慣れたものだ。
いや、あるいは。もしかしたら、学校の同級生で、あかねの巫女姿を見たことがない男子ならば、素直にかわいいと思ってくれるかもしれない。だがそれは軽率だ、とノリトは心の中で断じる。それは羊頭狗肉、看板に偽りありといったものだ。もしそんな風にあかねの外見に見惚れている男子を見つけたら、一発頭を尾ではたいてやろうとノリトは思う。
「馬子にも衣装だな」
結局、ノリトの返答はいつものものだ。
「もう、ノリト君ったら、いつもそればっかり」
「歯の浮くような世辞でも聞きたいのか? たとえ嘘と分かっていても?」
「そういうのが欲しいんじゃないけどさあ。もう少し、その、ちょっとくらいは……さ?」
上目遣いでねだるような物言いのあかねだが、恐ろしく似合わない。
だが、口で言っても分かるまい。ノリトは背に力を込め、ヘビの尾を体外に出した。赤銅色のそれを、肩越しにあかねの眼前に見せる。
「これを扱う感覚、お前に分かるか?」
ヘビの化外ならば、この尾は三本目の手、あるいは足のようにして自由自在に扱える。ある意味では、本来ヘビが持ち得ない手よりも器用に扱える部位だ。
「無理無理。だって私、尻尾なんかないよ」
首を横に振るあかねに、ノリトは言葉を続ける。
「それと同じだ。俺は女じゃないから、女の外見のこだわりってのは分かりにくいんだよ。少なくとも、かゆいところに手が届くような返事は期待するな」
「ノリト君ってば、つまんないくらいに論理的だなあ……」
ノリトにしてみれば噛んで含めるような表現をしたつもりだったのだが、生憎とあかねにはいまいち伝わりにくい方法だったようだ。
「おひとついかがニャ?」
いきなり二人の間に、一匹のネコが割り込むなり紙皿を差し出してきた。ネコの大きさなので、頭上に持ち上げていると言った方が正しい仕草だ。皿の中身はごく普通のマーブルクッキーだ。
「あ、もらっていいの? いただきます」
まったく疑うことなく、あかねは無遠慮にそれをつかむと一口で食べてしまう。「かわいい?」などとどの口が言うのだろう、とノリトはほとほと呆れた。
「サクサクしてておいしい。焼きたてっていいよね」
「ありがとうございますニャ。そっちのお兄さんもどうですニャ」
豪快なあかねの食べっぷりにそのネコは嬉しそうな顔になると、今度はノリトにも勧めてくる。
「……いただくよ」
そんなに空腹ではないのだが、付き合いでノリトはその中の一枚をつまむと端をかじる。取り立てて個性のない普通の味だ。
「どう? どうニャ? おいしいニャ? もう一つ欲しくなるニャ? 後引く味ニャ?」
しかし、恐らくそのクッキーの作者と思われるネコは、目をキラキラと輝かせてノリトに迫ってくる。素敵な誉め言葉が彼の口から聞ける、と心の底から信じて疑っていない。
「せかすな。それに、最初から美味いって決めつけるな」
「おいしくなかったニャ……? そんニャ……」
ノリトの答えに、そのネコはがっくりとうなだれてしまう。
そのまま近くの木に縄を引っかけて首でも括りそうな落ち込みようだ。
「あ~、違う違う。うまいって。いい味してるって」
さすがに目と鼻の先で自殺されては困るので、面倒ではあるがノリトは誉め言葉をネコにかける。
「よかったニャ。そう言われるとがんばって作った甲斐があったニャ」
おざなりな彼の言葉だが、一瞬でネコは立ち直った。
そのままそのネコは二人の間をすり抜けて、周りにいる他のネコたちにも配っている。即席のステージの上にものぼって、今度は荘厳なアニメソングらしきものを歌っているこれまたアニメのキャラクターらしき格好のネコにも無理矢理押しつけていた。さすがにあれは迷惑だろう。
「あいつ、確か駅前組合の猫だったよな。親分放っておいてもう和解してるんじゃないか、あれ」
「もともと、意固地になって争うほどのことじゃなかったんだよね。みんな、親分が喧嘩しているからそれに倣ってただけなんだよ」
「主体性のかけらもない連中だよなあ……」
よく言えば忍耐強くて義理堅い。悪く言えば陰険で執念深いヘビの化外であるノリトには、ネコの化外たちの流されるがままといった習性は到底理解できるものではなかった。つまりそれは、彼の隣にいるあかねもまた、ノリトにとっては理解の埒外にいることになるのだが。
「で、その親分さんたちは今どうしてるって?」
「う~ん、そろそろ来るんじゃないかな」
あかねの発言は無責任なものだったが、幸いタイミングだけはぴったりだった。三滝川とは反対の方向。大通りの方から歓声が聞こえてきた。
「がんばるニャー」
「ファイトニャー」
といった声も混じっている。
「あ、来た来た。見に行かなきゃ」
あかねはノリトの手を引いて、そちらへと向かった。
◆◇◆◇◆◇
ふらふらになりながら、カゲフサとマサツナの二人はゴールインした。ゴール地点である米屋の前では、二匹のネコが道路の両脇に立って白いテープを持っていたのだが、そのテープにカゲフサとマサツナは同時に倒れ込んだ。申し合わせたかのようにぴったり同着である。
「おめでとうございます。カゲフサさん、マサツナさん。町内一周マラソンお疲れ様でした。見事同着でゴールインです」
地面にへたばったままぜいぜいと息を切らしている二人に、悠々と巫女の姿をしたあかねが近づく。
「へっ……ざっと、こんなもん……よ……」
「ま……まだまだ、わしにとっちゃ……ウォーミングアップ……じゃ……」
異界の鬼灯町を、二匹は全力疾走してきたのだ。既に心臓は早鐘のように打ち鳴らされ、両足の筋肉は急な酷使で悲鳴を上げ、だぶついた腹の肉はいまだに特大の水風船のように揺れているような気がしている。この同着は図ったものではない。どちらも、相手に負けないよう全力で走った。その結果が、どちらの勝利でもない引き分けだ。
「ハクメン様もさぞお楽しみのことでしょう。お二人の健闘を、きっとハクメン様は高く評価してくださいますよ」
二人の苦しみなど関係ない、と言わんばかりに守役の声は明るく楽しげだ。けれどもそれにカゲフサとマサツナはどちらも抗議できない。何しろ彼女の後ろにはハクメンがいるのだ。守役に抗議することは、ハクメンに抗議すると同義だ。
ハクメン。鬼灯山を縄張りとする、世にも恐ろしいヘビの大公。この大蛇を怒らせでもしたらおしまいだ。親分はもちろん、組合諸共この世から抹消される。二人はその存在をすっかり忘れていた。まさか、ハクメンに目をつけられるとは思わなかった。こんなことになるならば、もっとあかねのことを丁重に扱ったことだろう。後悔先に立たずである。
「これに勝ったら、公園は俺のもの……だよな……」
「ええ、勝者に公園は与えられるとハクメン様は申しております」
しかし、後悔したのは瞬きするほどの間だ。すぐさま二人は意地汚く公園の所有権にこだわる。
「まあ、わしの勝ちに決まっとるけどな……」
「抜かせ。降りたけりゃ降りるのは今のうちだぜ」
「そっちこそ、子分の前で恥をかくのが嫌なら、今のうちに降りるのが得策じゃぞ」
再燃するカゲフサとマサツナの舌戦をよそに、あかねは川の方角に向かって歩き出した。
「はいはい、では第二戦です。こちらへどうぞ」
そう言われたからには歩かざるを得ない。本音を言うならばここでしばらく休みたいのだが、それはできない。
子分たちが見ているし、何よりも弱いところを相手に見せて舐められるわけにはいかないのだ。二人は元気よく(演技で)立ち上がり、肩を怒らせて(これも演技で)鼻歌を歌いつつ(しつこいようだが演技で)、あかねの後に続く。当のあかねは、二人を三滝川の川岸にまで案内すると、そこで振り返った。
「さあ、飛び込んでください」
――それは「今日はいい天気ですね」というどうでもいい無害なあいさつと同じくらい、さりげなくあかねの口から発せられた。
「……ニャ?」
「ニャ……?」
あまりにも唐突な、あまりにも無茶なあかねの要求に、二人は一瞬二匹に戻る。つまり、普段使わない「ニャ」という語尾が出てしまったのだ。それほどの驚きである。
「こ、これは……マラソンだったはず……ニャ?」
「それなのに飛び込むって……どういうこと……ニャ?」
なおも語尾に「ニャ」をつけつつ、二人は恐る恐るあかねに伺いを立てる。何かの間違いだ。もしくは冗談を言っているだけだ。そう願いつつ。あかねがころっと態度を変えて「冗談ですよ。嘘に決まってるじゃないですか」と言うと信じつつ。
「これ、トライアスロンですから」
けれども、聞こえてきた言葉は違うものだった。
「知らなかったんですか。トライアスロンに水泳が入るのは当たり前ですよ」
もちろん、実際のトライアスロンという競技は遠泳・自転車・マラソンの三競技を連続して行うというものだ。マラソンが遠泳の先の時点でトライアスロンではない。
陸上部であるあかねがそれを間違えるはずはない。しかし、あかねは表情を変えず無言のままだ。自分がトライアスロンと言うのだから、これはトライアスロンである。そう言い切って反論を許さない姿勢だ。実際のところ、この後に第三戦が控えているので、トライアスロン(三種競技)を広義として考えるならばあかねにも一理あるかもしれない。
「向こう岸、新公園の入り口がゴールです。今から岸まで泳ぎ切ってください。じゃあ、よーい、どん!」
二人の親分のためらいも、困惑も、恐怖さえも無視して、あかねは平然と開始の合図を告げる。だが、化外といえども水を嫌うネコが飛び込むはずがない。ましてや水風呂でもプールでもなく、ここは三滝川だ。正気の沙汰ではない。
しかし、周囲のネコたちは盛り上がる。自分たちができない水泳を、今から親分が勇敢にも挑もうというのだ。盛り上がらないはずがない。
「親分! 親分! ボクらの親分!」
「おーやぶん! おーやぶん! おーやーぶーん!」
一斉にわき上がる尊敬の念のこもった「親分」というコール。
あかねは詰めかけたネコたちの中に、あのハンゾーの姿を見つけた。ハンゾーもまた、声を合わせて「親分」の唱和に加わっている。ヒゲを震わせて、心から嬉しそうに。あの時目に涙を溜めてまでして、二つの組合の講和を、親分たちの仲直りを望んでいたのはどこのどいつだ、とあかねは内心ため息をつく。
「う……うおおおおおおおおおお!」
先に吹っ切れたのはマサツナだった。スーツの上着を脱ぎ捨て、腕まくりをしてマサツナは叫ぶ。明らかに、自分を奮い立たせるための雄たけびだ。
「わしは十代目服部六車台所ノ守彦兵衛正綱じゃあ! この喧嘩、負けるわけにはいかんのじゃあああああああ!」
やけくそな勢いで、マサツナは頭から三滝川に飛び込んでいった。どう見ても身投げである。
こうなると、負けられないのがカゲフサである。
「おうおうおうおう! 弟ども、子分ども、ひよっこども!」
こちらも肌脱ぎになってご丁寧にも見得を切る。
「この八代目石上五葉縁ノ下ノ守五郎左衛門景房の生き様、目ン玉ひんむいてよおく見ておけえ!」
やけくそな勢いで、カゲフサは尻から三滝川に飛び込んでいった。どう見ても身投げである。
そんな二人の醜態を、少し離れたところから並んで見ている者たちがいる。
「あーあ、飛び込んじまったよ」
「怖いのならば怖いと、無理なら無理と言えばよいのに」
「それができないのさ。男ってのは」
おキヌとおフユである。どこまでも意地を張り、勝ちにこだわり続ける夫の姿を、二人の妻は冷めきった目で見ていた。
「なんだか、少し可哀想に……いえ……」
おフユはそう言いかけてから、少し考えて言い直す。
「少し、可愛らしく感じてきました」
一方、川を渡る二人を見守るあかねの隣に、ノリトがさりげなく立った。
「大丈夫か? 本当に死ぬぞ?」
カゲフサとマサツナは、犬かきならぬ猫かきで泳いでいるのだが、傍目には溺れているようにも見える。
「平気だよ。ヘビの化外の人たちに見張ってもらっているから。本当に危なかったらライフセーバーみたいに助けてもらうことになってるよ」
「いつの間にそんなことを頼んだよ。用意周到だな」
どうやら、あかねも無策でこの水泳大会を企画したわけではないようだ。憎まれ口を叩きつつも、ノリトは少しだけ感心する。
「命にかかわることがあったら、お祭り騒ぎじゃすまないからね。それに、ヘビの化外の人たちも、ハクメン様の名前を出したらみんなすぐに協力してくれたし」
「そりゃそうだ。俺たちにとってハクメン様は、お前たちの社会でたとえるならば国王、いや教皇みたいなものだからな」
二人の会話はのんびりしたものだ。
何しろ、カゲフサとマサツナの泳ぎは遅々として進まないのだ。ゆっくりと二人が三滝橋に向かって歩き出すと、後ろの猫の子分たちがわらわらと続く。どのネコも隣のネコと話したり、おやつを食べたり、ひらひらとと飛ぶ蝶をニャーニャーと追いかけたりと楽しそうだ。すぐ近くで二人の親分が、「男と男の」戦いを繰り広げているにもかかわらず。