第五章(その二)
「挨拶が遅れたな。わしが駅前組合の親分、服部六車台所ノ守彦兵衛正綱じゃ。って言っても、見りゃ分かるか。はははははっ!」
おフユとノリトが席を移してから、改めて虎猫は自己紹介する。人間にたとえるならば、日焼けして恰幅がよく、しかもノリのいい中年のおじさんと言ったところだろうか。
「で、お嬢ちゃんが鬼灯町の守役かい。若いのに大変じゃなあ。いやあ関心関心。うちのサボってばかりの若いのに爪の垢でも煎じて飲ませたいくらいじゃ。はははははっ!」
何が面白いのか、再びマサツナは大笑いする。ノリトに席を移ってもらったのが無意味ではないかと、心配する必要はない。二人のテーブルの上には、一枚の札が置かれていた。
以前あかねが新公園の近くで見たような、篆書体で何か書かれた札だ。こちらの意味は恐らく「防音」もしくは「消音」だろう。マサツナがこの札を机の上に貼ってから、周囲の音が聞こえてこない。逆に周りからするならば、こちらの音が聞こえないようになっているのだろう。札には駅前組合の紋所が書かれている。
「初めまして。三枝あかねといいます」
「おう。あかねちゃんかい、よろしくな」
あかねちゃん、とは随分親しげだ。カゲフサはそう呼ばなかったな、とあかねは頭の隅っこで思う。
「で、御用のおもむきは……なあんて堅苦しいことは言わん言わん。どうせ、わしらの組合とカゲフサのヘタレ尻尾の組合との仲たがいのことじゃろう?」
「ええ、そうです。今橋の向こうでは、ネコたちがバリケードを作ってあちこちの道路を封鎖しているんですよ。特に新公園なんか完全に入れなくなっていますし。ネコたちはいいかもしれませんが、ほかの化外たちが迷惑しています」
あかねがそう言うと、カゲフサは尻尾をブンブンと振る。不機嫌な証拠だ。
「おうおう、カゲフサの奴、市井の皆さんに迷惑かけるような真似しおってからに。こんなんじゃマサムネ親父に顔向けできないんじゃ」
マサツナは顔をぐっと近づける。
「お嬢ちゃん、カゲフサに何を吹き込まれたのかは知らんが、これだけははっきり言っておくぞ。わしらは、何も道理にも仁義にももとるようなことはしておらん。潔白じゃ」
「え、でも、カゲフサさんは、マサツナさんたちが新公園を取ろうとしてきたって言ってましたが」
「かーッ! まったく胸糞悪いなあ、ほんまに。言うに事を欠いてわしを泥棒呼ばわりかいあのアホンダラは。この場にいたら一発ぶん殴ってやらなきゃ気が済まんのじゃ」
額に手を当ててマサツナは呻く。大げさな感情表現だが、どこかわざとらしい。
「そもそも、新公園は本当はわしらのものじゃ。マサムネ親父は遺言でなんて言っていたか知ってるか? こう言ってたんじゃ。『公園は大事な場所ゆえ、お互いに分け合うように』ってな。最初はこっちに主な公園は三つ。カゲフサは四つも公園を縄張りにしておった。分かるか? そもそもこっちの方が公園は少なかったんじゃ。でも、橋の向こうのことだから、わしはマサムネ親父の顔を立てて、何も言わんかった。そうしたら、新しく公園がもう一つ橋の向こうにできた。もう、どうすればいいか分かるな?」
「分け合うっていうからには、新公園をマサツナさんたちの縄張りにすれば、駅前組合が四つ、街角組合が四つでちょうど釣り合いますよね」
「そう! そこらの若いネコでも分かる簡単な計算じゃ。マサムネ親父の遺言通りの分け方じゃ。それなのに、カゲフサはああだこうだとごねてごねてごねて、結果は見ての通りじゃ。わしとカゲフサは喧嘩の真っ最中じゃ」
腕組みをしてマサツナはそう主張する。彼の言葉をそっくりそのまま信じるとするならば、確かにマサツナの方に非はない。むしろカゲフサの行動の方が問題だ。
「本当のことを言うとな、わしだって喧嘩なんかしたくないんじゃ。向こうは向こう。こっちはこっち。仲よくとは言わないまでも、お互いに干渉しあわないのが一番じゃ。寄ると触ると喧嘩しかできない間柄っていうのもあってな。なんでか分かるか?」
「相性が悪いから?」
あかねの答えにマサツナは首を振る。
「うーん、近い。近いのう。でも違う。正解は、嫉妬じゃ」
「嫉妬?」
「そう。カゲフサはわしに嫉妬しておるんじゃよ。何しろ、元々わしはマサムネ親父の一番弟子、対してカゲフサは二番弟子だったからのう。まあ、二番といっても実力も男前もわしに比べれば三番も四番も五番も六番も劣っていたんじゃが。だから、親分になって組合を構えるようになると、わしにかかわりたくなくなる。なぜか分かるか? 自分のほうが劣っているって分かれば、子分が離れてしまうからじゃ」
自分の方が優れているから、やっかみを受けているとマサツナは言っている。確かにマサツナはカゲフサに比べて気前が良さそうだが、では魅力的かと言われるとそうでもない。あかねからすればドングリの背比べだ。
「そういうカゲフサは器量の小さい奴なんじゃが、それでも弟分じゃからな。向こうがケンカを売ってこない限りは、こちらも放っておくつもりだったんじゃが、親父の遺言にあからさまに逆らうようでは放っておけん。わしに嫉妬するならいくらでもすればいい。じゃが、親父の遺言を反故にするのは許せないんじゃよ」
最後に『親父の遺言を反故にするのは許せない』という大義名分を付け加えてから、マサツナは一仕事終えた爽やかな顔で笑う。
「とまあ、この喧嘩の本当の理由はこういうことなんじゃ。分かってくれたか」
「え、ええ。一応は」
あかねはうなずくしかない。怒濤のような勢いに飲まれてしまっている。
「ははははははっ! 呑み込みが早いのう。前途有望じゃ! ほれ、もっと何か欲しいものはないか? 今日はわしがおごってやる」
「も、もうこれ以上食べられませんよ」
一方的な好意を向けられてあかねはおたおたするが、マサツナは構いはしない。
「堅いこと言わない。がんがん食べて大きくなるんじゃ。――――おおい、注文じゃ!」
「ニャ! お呼びでしょうかニャ!」
マサツナが札を剥がして大きな声で呼ぶと、一目散にこちらに向かって三匹のネコたちが駆けてくる。そのネコたちにマサツナはメニュー表から次々と新しく注文を加えていく。一見すると景気の良さそうな場面だったが、それはどこかひどく無理をしたものだった。
◆◇◆◇◆◇
マサツナによるごちそう責めが一通り終わり、あかねは女子トイレの洗面所で呻いていた。
「う~、おなかが苦しい……」
さすがに食べ過ぎた。こんなに一度に甘味処で注文したのは初めてだ。それというのもマサツナが悪い。後から後から注文を加えると、それをどんどん食べるよう勧めてくるのだ。最後の方は本当にきつかったが、何とか完食できた。
「なんだか、どっちの言い分が本当なんだろ」
排水溝に流れていく水道水を眺めつつ、あかねはぽつりと呟く。街角組合も駅前組合も、どちらの側にも正当な言い分がありそうだった。ならば自分は、どちらの肩を持つべきなのだろうか。そう考えると、こうやってごちそう責めにしたのは、マサツナの計略かもしれない。こちらに味方しろ、という。
あかねがそんなことを考えていると、突然後ろから声が掛けられた。
「三枝あかねさん、と言いましたよね」
「わっ!」
「お静かに」
いきなり名前を呼ばれてあかねは跳び上がるほどびっくりしたが、その声は静かにそれをとどめる。改めて振り返ると、そこには毛足の長い白い洋猫がいた。
「ええと……おフユさん?」
「はい。マサツナさんの妻のおフユです。以後、よろしくお見知りおきを」
「ええ、こちらこそ」
おフユは丁寧に頭を下げる。夫のマサツナとは正反対の静かで大人しそうな雰囲気だ。
「それで……どうしました?」
確かおフユは、ノリトを連れて席を移したはずではなかっただろうか。
「黙っているべきとも思いましたが、あまりにも物事が下らない方向に流れていますので、一つ忠言をしようと思い立ちました」
おフユはきれいな金色の目でこちらをじっと見る。普通ネコとはいえ化外となると、人間のように顔に表情が出る。けれども、おフユの顔にはまるで表情というものがない。まるで仮面のようだ。
「あの……聞いてました?」
そもそも、あかねとマサツナの会話は札の効果で周りに聞こえなくなっているはずではなかっただろうか。
「いいえ。聞き耳を立てるようなまねは致しません。ですが、何をあなたに吹き込もうとしているかくらいは大方見当がつきます」
小さく、本当に小さく、おフユはため息をついた。
「あかねさん、マサツナさんはこう言っていたのではないのですか。此度の喧嘩は自分の方に非があるわけではない。公園を分け合うというマサムネ様の遺言に従っているまでだ、と」
「はい、そう言っていました」
「やっぱり……」
おフユが少しだけ悲しそうな声になったので、あかねは嫌な予感がした。
「嘘、だったんですか?」
あれほど自分にいろいろとおごってくれたマサツナが、真っ赤な嘘をついていたとするとさすがに傷つく。けれども、幸いなことにおフユはそれを否定した。
「嘘ではありません。確かにそのような遺言はありました。ですが、同時に橋の向こうはカゲフサさんの縄張りであるという遺言もまたあるのです」
「じゃあ、二人の親分さんが言っていることは……」
「どちらにも理がある、ということですね。せめて、それをお互いに把握していればよいのですが。二人とも声を大にして主張するのは自分が正しいということばかり。少しは、相手も同じくらい正しいのだということが理解できれば、こんな大ごとにならずに済んだのですが」
おフユが明かした事実は、二人の親分が言い張っていることとは異なるものだった。どちらの側にも、正当と言えるような言い分があるのだ。
「ですが、あかねさん。主人を責めないでいただけますか。あなたに本当のことを明かしたのは、根に持つような方ではなさそうだと判断したからです」
そんな風におフユに言われると、あかねも困ってしまう。別に自分は何も傷ついてなどいないからだ。
「そんな、別に私は怒ってなんかいませんよ。だって、マサツナさんは嘘をついたわけじゃないんですから。私が一方的に聞いてばっかりで、うっかりしてましたから」
正直にあかねがそう言うと、かすかにおフユの口元から笑い声がもれた。
「ふふふっ。そうやって、自分の過ちを簡単に認めてしまうのも困りものですよ。守役として立ち回るのでしたら、自分が気分を害したことを主張して、私に負い目を感じさせるくらいでなくては」
「そんなことしませんよ。だって本当の気持ちじゃないですから」
「そうですか。そういうのもありといえばありでしょう」
思いの外あっさりと、おフユはそのことについての話題を打ち切る。
「もう一つ、これは身内の恥となりますが、あなたに教えておきましょう」
けれども、会話が終わったわけではない。
「今、この駅前組合は、隣町のネコの化外たちと争っています」
「そうなんですか?」
「ええ。『タワーリシチ』と名乗る、ロシアンブルーのネコを親分とする新進気鋭の集団です。正直に言って、対処の難しい相手ですね」
再びおフユは眉を寄せる。こちらについては、本当に頭が痛い問題らしい。街角組合とは意地の張り合いで済むが、こちらはもっと実際的な被害をこうむっているようだ。
「今はですから、身内の結束を強め、外部の敵に対して断固とした態度で当たらなければならない時です。新しい公園が相手側の手に落ちたままでいるのは士気が下がりますし、親分の信用にもかかわります。逆にあれを手中に収めれば、士気は上がり親分としての強さを見せつけられることでしょう」
そこまで言うと、おフユは改めて丁寧に頭を下げる。
「主人の強気な発言には、このような裏があるのです。なにとぞ、穏便なご判断をよろしくお願いいたします。守役殿」
その落ち着いた物腰を目にして、ふとあかねの頭にひらめいたものがある。
「あ、じゃあ、一ついいことを思いつきました」
「いいこと、ですか?」
「親分さんが話し合いに応じないならば、その奥さんが話し合うっていうのはどうです?」