第五章
結局、あかねが本格的に駅前組合のことについて調べることができたのは、日曜日を迎えてからだった。普段着かつ手ぶらで三滝橋を渡ろうとしたあかねの目に、橋のたもとに陣取っている一匹のブチ猫が見えた。橋の横に小さなテントを張って、泊まり込みをしているらしい。やや疲れた様子だが、その目は使命感に燃えている。
「ニャッ! これはあかねさん、お努めご苦労様なのでありますニャ!」
そのブチ猫はあかねが近づくのが見えると、しゃきっと背筋を伸ばして敬礼する。気合い充分だ。
「ええと、君は…………ハンゾー君、だったよね?」
「はいですニャ。名前を覚えて下さって感謝ニャ」
幸い、すぐにそのネコの名前は口から出てきた。
「だって、あんな風に見得を切られたらすぐに覚えちゃうよ」
「ニャニャニャ、そう言ってもらえたらボクも一生懸命あいさつの文句を考えた甲斐があったってものニャ。ありがとうございますニャ」
ハンゾーというこのネコの努力も、あかねに覚えられることによって報われたようだ。
「それで、今日は橋の向こうに行くつもりですかニャ?」
「うん。偵察って感じかな。一緒に行く?」
「ニャッ?」
突然のあかねの誘いに、ハンゾーは耳を立てる。
「ボ、ボクとしては……その、生意気な駅前組合のノラたちをぺちゃんこにしてやりたい気はあるんですニャ…………」
そこまで言ったものの、ハンゾーは首を横に振った。
「で、でも、その……そうニャ! ボクはこの橋を見張るっていう大事な役目を親分さんからもらっているニャ。勝手に持ち場を離れるわけにはいかないのニャ」
本当のところは、やはり縄張りの外は怖いようだ。大事な役目うんぬんは言い訳かもしれない。
「そうか、そうだよね。ごめんね、勝手に誘ったりして」
「いえいえ。お気になさらずニャ」
ほっと胸をなで下ろしているハンゾーに、あかねはしゃがみ込んで顔を近づける。
「…………ところで、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「ニャー?」
「どうして君たちの親分さん、駅前組合のネコたちと喧嘩しているの?」
あかねの質問に、ハンゾーは急に目を輝かせる。
「よくぞ聞いてくれたニャ! それは聞くも涙、語るも涙、獣医さんよりも怖くて、ノミよりもかゆい理由があるんだニャ! それはですニャ……」
「橋のこちら側はマサムネさんの遺言で、君たちの親分の縄張りとして決まっているのは知ってるよ」
「ニャ! そ、そうですかニャ……残念ニャ」
あっさりとあかねに先を越され、ハンゾーはうなだれた。
「私がちょっと気になるのは、まったく話し合う様子がないことなんだよね。元々君たちの親分と駅前組合の親分は同じマサムネさんの弟子だったって言うじゃない。それなのに随分仲が悪そうに私は思うけどな」
あかねのもっともな質問に対して、ハンゾーは当惑した様子で尻尾を左右に振った。
「それはボクたちも分からないニャ。時々親分さんはお酒の席でマサツナさんのことを口にする時があるけど、決まって自分の方が強かった、自分の方がかっこよかった、自分の方がもてたって言ってばかりニャ。ボクはまだ若いから、親分さんがマサツナさんと一緒にいた時のことは知らないニャ」
「ハンゾー君は、駅前組合のことは嫌い?」
「親分さん同士が喧嘩しているけど、本当のことを言うとボクは別に嫌いじゃないニャ。元からあんまり仲がよくなかったけど、だからといってここまでおおっぴらに喧嘩するようになったのは初めてニャ」
「そうなんだ、やっぱりね」
あかねの納得した様子に、ハンゾーは慌てた様子で言葉を続ける。自分の発言で、守役が街角組合に悪い印象を与えてしまってはたまらないと考えたのだろう。
「でもでも、親分さんだってみんなのことを考えているはずニャ。だって、こんなに喧嘩しているのだって、姐さんがおめでただからだニャ」
「おめでたって……赤ちゃんが生まれるってこと?」
「そうニャ。まだ先だけど、親分さんはお父さんになるニャ。赤ちゃんが生まれて、育っていく時に、縄張りが喧嘩ばっかりで殺伐としていたら困るニャ。赤ちゃんが可哀想ニャ。だから、親分さんは今徹底的にやっちゃって、生まれてくる赤ちゃんのために地ならしをするつもりなのニャ」
「そうなんだ……」
ここまで言ってから、ハンゾーは自分の口を両手の肉球で塞ぐ。ちょっと口が滑ったようだ。
「あ、このことは秘密にして欲しいニャ。ボクがばらしたって分かったら親分さんに怒られちゃうニャ。姐さんに尻尾の毛を抜かれちゃうニャ」
いくらおキヌが「鬼怒」でも、それはしないとあかねは思うが、とりあえずそういうことにする。
「分かってるよ。情報提供、ありがとうね。はい、これはお礼」
あかねがポケットから出した布製のポーチを受け取ると、ハンゾーは首を傾げた。
「これはポーチ……ですニャ?」
「そう。中にマタタビが入っているから、欲しい時に開けて嗅いでね」
その一言で、ハンゾーは文字通り跳び上がった。
「ニャ、ニャー! ママママタタビ、マタタビをくれるニャ!? あかねさん、本当にありがとうニャ! 嬉しいニャ!」
宝くじの一等に当選した人間も、ここまではしないと思う喜び方である。よほど嬉しいのだろう。体の周囲からピンク色のオーラのようなものまで立ちのぼってきた。やはりハンゾーは化外、この世のものとはずれた存在だ。
「こちらこそありがとう。じゃあ、行ってくるね」
「がんばっていってらっしゃいですニャ! ご無事をお祈りしているニャ!」
再び敬礼を返すハンゾーに小さく手を振って、あかねは橋を渡っていく。後ろではまだハンゾーがニャーニャー鳴きながら跳びはねているのが聞こえる。マタタビ一つでそこまで喜んでもらえれば、あかねとしても嬉しくなる。
三滝橋を渡り終えたあかねが、橋から一番近い電信柱を通り過ぎると、その陰からノリトが姿を現した。あかねよりも先に橋を渡って、ここで待機していたのだ。隠れていたのではなく単に待っていただけなのだが、ノリトの細身の体は電信柱の陰の中にちょうど収まっていた。
「素早いね」
何気ない様子で近づくノリトに、あかねは声を掛ける。
「ヘビは手足を奪われたんじゃない。自ら好き好んで捨てたのさ。そのほうが、自由に動けるからな」
ヘビの手足がない理由を、彼はそう語る。
「ありがとうね。ノリト君がいたら、ちょっとネコさんたち緊張するだろうから」
「はッ! たかがヘビの一匹でびくつくくせに縄張り争いで抗争に発展とは、笑わせるよなあ」
相変わらず、ネコたちに対するノリトの評価は辛辣だ。
「笑っちゃだめだよ。本人はいたって真面目なんだから」
「分かってるって。じゃ、行きますか。とりあえずついて行ってやるよ」
いつものように、ノリトはあかねと並んで歩く。そこが彼の指定席だ。
◆◇◆◇◆◇
「……で、一つ聞きたいんだが」
「うん」
「どうして俺たちは駅前組合の根城じゃなくて、ここにいるんだろうなあ」
「え~と、え~と……その…………迷っちゃったから、かな?」
「はあ…………まあ、いい」
隣で大きくため息をつくノリトから視線を戻しつつ、あかねは目の前の建物を見つめた。
甘味処『きゃっとうぉーく』と看板にはある。一応名前にネコという単語は入っているものの、駅前組合の親分であるマサツナの住まいには程遠い。だいたい、ここはこちら側の世界だ。抜ケ道を通った先にある、化外たちが住まう異界ですらない。そもそも、あかねたちは抜ケ道を見つけることさえできなかったのだ。
あかねの頭の中には、鬼灯町にクモの巣のように張り巡らされた抜ケ道の場所がすべて入っているわけではない。そこまであかねの記憶力はよくはない。けれども、要所となる場所くらいはさすがに入ってはいる。抜ケ道といっても、要はその入り口となる場所さえ覚えておけば、後は何とか事足りる。
「ごめんね、ノリト君。付き合ってもらっちゃったのに」
「別にいい。街角組合のネコどもが街中にバリケードを作ってよその化外が入れないようにしているに対して、こっちの駅前組合は抜ケ道そのものをねじ曲げて見つからなくしているってことか。ネコのくせに大がかりなことをする」
「こっちの方角だと思ったんだけどなあ。でもここじゃないのは見ての通りだよね」
ノリトの言葉の通りの現状である。三滝橋からこちら側の抜ケ道は、明らかにネコたちの手によってよそ者が入れないようにねじ曲げられている。だから、あかねは記憶を辿って抜ケ道の入り口に立っても、そこから先に入ることができないままだ。
「ちょっと、入って休んでいこうか」
しかし、あかねはさほど深刻な問題だとは思っていない。いくらネコたちが抜ケ道に細工を施したとは言え、いざとなればハクメンの力を借りればいい。ハクメンならば、ねじ曲げた抜ケ道を元に戻すことくらい造作もないだろう。他力本願の極みである。
「まあ、いいか。悪くない」
しばらく無駄に歩き回って、ノリトも疲れたのかあかねの誘いに応じる。
「どれどれ……あ、新作のあんころ餅……じゃなくて『にゃんころ餅』だって。美味しそうだし可愛い! 来てよかったね!」
入り口の隣に置かれたメニュー表を見て、あかねは嬉しそうな声を上げる。
そこには、ところどころにきな粉と片栗粉をまぶして、何やら三毛猫によく似た形に整えられたあんころ餅の写真がある。
「お前、わざと間違えたんじゃないだろうな」
あかねの迷い方に作為的なものを感じたらしく、ノリトが三白眼でこちらを見た。
「そ、そんなことないって。ほら、入ろう」
慌ててあかねは先んじて中に入ろうとする。
「ちょっと休んだら、もう少し探すからな」
ノリトの言葉を後ろに聞きつつ、あかねは店内に入った。どことなく大正浪漫を感じさせる素敵な店内だ。客らしき人は誰もいない。二人が入店すると、三人いた店員が一斉に頭を下げる。
「いらっしゃいませニャー」
「ようこそニャー」
「こちらにメニューがあるニャー」
「…………あ」
「…………ニャ」
聞き違えようもない。そこにいたのは、制服を着た人間の店員ではなく、制服を着たネコだった。
「ニャー! み、御山のヘビがなんでこんなところにいるニャ!」
「もしかして、も、もしかして、街角組合の差し金ニャ!?」
「大変ニャー! 一大事ニャー! 抗争が始まっちゃったニャー!」
ぼんっ! というコミカルな音と共に煙が一瞬立ちこめ、たちまち人間サイズだったネコたちは本来の姿である二足歩行のネコに戻る。
「ごめんニャすって、お控えニャすって。手前、幼少のみぎりにご主人様の引っ越しに伴いましてこちらに移り、右も左も分からぬ粗忽者、喧嘩は強い武辺者、馬鹿と指差される愚か者。向かうところは敵なしと、マサツナ様に挑んだのが運の尽き。たたき直していただきましたのは根性と男気。今では駅前組合の半端物が一人、アカオと申しますニャ」
「そしてその一番弟子、クロボシと申しますニャ」
「さらにその二番弟子、シロセと申しますニャ」
「三人寄れば文殊の知恵、女三人寄れば姦しい、三者三様、三顧の礼。三三九度に三つ揃い。三つ子の魂百までと、三つの口に誓いを立て、ひとつ駅前組合の三羽ガラスと覚えて下されば汗顔の至り、恐悦至極に存じますニャ」
その場で始まったのは、三匹のネコたちによる息の合ったあいさつだった。とっさでありながら、常日頃から練習しているらしく台詞を忘れたり仕草がかみ合わなかったりするところは一つもない。尻尾を一斉に一度振ってから、三匹のネコたちはこちらを見つめる。暗にあいさつをするよう求めているようだ。
「終わった?」
「うん、終わったニャ」
けれども、あかねはあいさつを返すことなくさっさとその横をすり抜けて、椅子に座る。
「じゃあ、注文いいかな」
「ニャ……ど、どうぞ、ニャ」
シロセと名乗ったネコは拍子抜けした様子だったが、店員として叩き込まれたマニュアルには逆らえないのか、大人しく注文票を片手にあかねの側に立つ。
「それじゃあね、まずはお勧めのにゃんころ餅を一つ」
「にゃんころ餅を一つニャ」
「白玉ぜんざいもお勧めニャ」
クロボシと名乗ったネコがすかさず勧めてくる。
「それとどっちにしようか迷ったけどね」
楽しそうなあかねをよそに、ノリトとアカオが目を合わせる。
「……どういうことニャ」
「後で説明してやるよ。ちょっと顔を貸してくれ」
ノリトは肩をすくめてから、自分もあかねの隣の席に座った。
◆◇◆◇◆◇
「お待たせしましたニャ。ご注文の品ニャ」
それから少し経つと、アカオがお盆に乗ったあんころ餅と栗ぜんざいを持ってきた。外見はカゲフサやおキヌのような、人間サイズの服を着たネコだ。けれども無理をして化けているらしい。カゲフサに比べ動作がややぎこちない。
「じゃ、オイラはこれで失礼するニャ」
なるべくならば関わりたくない、と言わんばかりに逃げようとするアカオの足に、ノリトの背から伸びた尾が巻き付いた。
「おい、待てよ」
「ニャッ!?」
「さっき言ってただろ。顔を貸してくれってな」
「ニャ……その、オイラは、お仕事があるニャ……」
「なあに、ちょっとだけだって」
ノリトは三白眼を見開いて、怯えた様子のアカオに顔を近づける。その親指が、さっそくあんころ餅を口に放り込んでいるあかねを差す。
「こいつは鬼灯町の、ひいては鬼灯山の守役なんだが、最近橋の向こうの街角組合と、こっちの駅前組合が何やらきな臭いことになってるそうじゃないか」
「そ、そうニャ。今二つの組合は仲たがいの真っ最中ニャ。それというのも……」
「ああ、お前に理由を聞きたいわけじゃない。聞きたいのは親分さ」
「お、親分さんニャ?」
「街角組合の親分にはもう話は聞いたんだ。今度はこっちの親分からも話を聞きたいんだよ。食い違いとか、思い込みとか、一方的な偏った情報をもとに判断するのは困るだろう?」
そこまで言うと、ノリトは自分たちの要求をダイレクトに伝える。
「ということでだ。悪いが、俺たちをちょっと親分の屋敷まで案内してほしいんだよ」
それにしても、守役でありながら交渉を完全にノリトに任せっきりのあかねには困ったものである。完全に目の前の甘味に自分の役目を忘れている。
「ちょ、ちょっと困るニャ…オイラはお仕事中だし、その、親分には誰も部外者は屋敷に入れるなって仰せつかっているニャ……」
「ほお、守役を部外者呼ばわりですか。偉くなったなあ駅前組合も。街角組合はきちんと筋を通して迎えてくれたんだが?」
「ニャ……ニャ……そう言われても…………」
もはやノリトの物言いは因縁をつけている状態に近くなってきた。
「お前でらちが明かないなら、弟分に同じように聞いてみようか?」
「ちょっと、ノリト君……」
あかねが横から口を挟むのと、アカオが耳をぺったりと寝かせてヒゲを全開にするのとほぼ同時だった。夢中で食べているようでいて、一応耳では二人のやり取りを聞いていたようだ。
「いやいや、それにゃあ及ばないぜ。御山のお若いの、それに守役のお嬢ちゃん」
ちょうどその時。『きゃっとうぉーく』の入り口がガラガラと音を立てて開くと、外から二匹のネコが入ってきた。派手な色のスーツを着た虎猫と、裾の長いワンピースを着た毛足の長い白猫だ。
「お、親分さんニャ! それに奥さんも!」
アカオが助かった、とばかりに全身の力を抜いてぐったりとする。海老で鯛を釣るとはやや違うが、子分を締め上げていたら待っていましたとばかりに本命がやってきた。
「どうしてここに?」
とノリトが怪訝そうな顔をするのも無理はない。
「橋の向こうからうちの連中とは違う気配のやつが二人も来たんじゃ。わしのところに情報が行くのは親分として当然だろう?」
虎猫はがっしりとした大柄な体格に見合った、野太くてごつい声でノリトの質問に答える。なまっているわけではないが、カゲフサと違って豪放な感じをその口調から感じる。案外、わざとそうしているのかもしれないが。
「おい、おフユ」
虎猫は隣の洋猫に顔を向ける。
「悪いが、嬢ちゃんと話したいんだ。そっちの若いの連れて適当によそへ行っててくれないか」
「はい、分かりました」
白い洋猫は素直にうなずく。
「おい、俺は……」
勝手に勧められていく話に抗議しようとするノリトだったが、あかねは虎猫が進めてきた話に応じる。
「そうしてきなよ、ノリト君」
あかねにそう言われては、ノリトとしてもそれ以上言えなかった。ここで言い争っては、あかねの面子が傷つくことになりかねない。
「分かった……」
不承不承ノリトは首肯しつつも、その耳に囁く。
「ここに来たのは、世間話をしに来たんじゃないからな」
「うん、もちろん」
心配なことに、いつも返事だけは一人前なのだ。