第四章
大社の中の作りは、あかねの印象通り旅館のような間取りでもある。確かに主に仕えるヘビの化外たちはここで寝泊まりしているし、主に会いに来た化外たちもここに宿泊する。そういう意味では、旅館という感覚はあながち間違いではないだろう。けれども、決定的に普通の旅館と異なる点が一つある。
この大社という巨大な建物は、その内部にあるすべての施設がただ一人のため、御山の主であるハクメンのためにあるという点だ。働くヘビの化外たちも、台所も湯殿も寝所もすべてはハクメンのために建てられ、備えられ、使われている。よそから来る化外たちを泊めているのは、言わばその余剰でしかない。
「こんにちは、守役様。お疲れ様です」
豪勢な玄関で靴を脱ぎ、奥へと歩いていくあかねに、一人のヘビが声をかけた。もてなしのためにあいさつしたと言うよりは、どちらかというと警戒のためではないかと思える声音だ。
「え、ええ。どうも」
まばたきしないその黄色い瞳に見つめられ、あかねの腰が少し引ける。
「今日はいかなるご用でしょうか」
「え、ハクメン様に会いに……じゃなくて、街の様子のご報告に来たんですけど」
「……そのような予定があると、主上からお聞きしてはいませんが」
あくまでもヘビは淡々とした口調でそう語る。人間がなぜこんなところにいるのだろう、と言わんばかりだ。差別しているのではないが、歓迎はされていないことくらいは分かる。
「え~と、今です。今。急に呼ばれたので」
あかねは一応、嘘は言っていないと自分を納得させる。確かにハクメンの声は、自分がその側まで行くことを許してくれたのだ。それは呼ばれた内に入るだろう。そもそも、ハクメンが来ることを許さなかったら、あかねは未だに鬼灯町を歩いているに違いない。鬼灯町の抜ケ道はすべてハクメンの管轄下にある。
「……まあ、主上がそうおっしゃられたのでしたら」
しばらく疑わしげにヘビはその長い首を傾げていたが、やがて不承不承うなずいた。ハクメンの命じたことは、御山のヘビたちにとって絶対の命令である。けれども、これでよしとばかりに横をすり抜けようとするあかねに、そのヘビはさらに首を伸ばして一言付け加える。
「いいですか。くれぐれも、粗相のないようにお願いいたしますね。釈迦に説法となりますが、ハクメン様は畏れ多くも我らの主上であらせられ、本来でしたら守役であろうとも人間のお目通りが叶うような方ではないのですからね」
どうやら、そのヘビはあかねのことを信用はしているようだ。そうでなければ釈迦に説法とは言わない。
けれども、それ以上にハクメンのことを畏れているのだろう。どのようなことがあっても、その権威を傷つけるような真似があってはならないのだ。
「は~い。よく承知しています」
返事だけは一人前に、あかねは今度こそヘビの横を通り過ぎ、先を急ぐ。通路は曲がりくねって奥へと続き、まるでヘビの腹の中にいるかのようだ。
「みんな良かれと思ってやっているのはわかるんだけど、ちょっと祭り上げすぎじゃないかな」
誰もいなくなってから、あかねは先程のヘビが聞いたら開いた口がふさがらないようなことを口にした。あかねの口ぶりは、まるでハクメンが自分の父か母であるかのような遠慮のなさだ。
やがて、あかねは長い廊下の突き当たりで足を止めた。襖の前に正座し、丁寧に一礼する。たとえ襖を閉じていても、ハクメンには自分の一挙一動がお見通しだ。いや、そもそもこの大社に入った時点で、あかねはハクメンの視界に入っているのと同じだ。
「ハクメン様、お招きいただき恐悦至極です」
先程の独り言とは百八十度異なるかしこまった物言いに、襖の置くから応える声があった。
「うむ。来たか」
先程あかねの頭の中に響いた、男であり女でもある声だ。実際にその舌から発せられ、空気を震わせる声が放つ威圧感は、頭の中に聞こえるものとは桁が違う。幾多の木々が軋む音、巨大な瀑布が水面に叩きつける音、禍々しい地鳴り。
そういったものがそのまま人の声になったかのようだ。
「ご尊顔を拝してもよろしいでしょうか」
まるで神前に立つ巫女そのもののようにかしこむあかねの姿も、この声の前で示す人の態度としては至極当たり前のものとしか思えない。
「許す。入れ」
「恐れ入ります」
あかねは改めてもう一度深々と一礼をしてから、襖を開き中へと入っていった。
◆◇◆◇◆◇
大社の心臓部とも呼ぶべきそこは、旅館ならば大宴会場に等しい大きさである。昨日敷いたばかりのような、い草の香りも新しい畳の上に座しているのは、全長およそ三十メートルはあるかと思える巨大な白い大蛇だった。畳敷きの奥座敷を埋め尽くすその長大な蛇体からは、圧倒的な存在感が放たれている。
巨大なだけではない。もちろんその大きさも桁外れであることに違いはない。ただ長いだけでなく、太さもその長さにふさわしい。一抱えはある大木が、そっくりそのままヘビとなっているようなものだ。頭など、口を開けば顎をはずすことなく人間など軽々と丸呑みできてしまうに違いない。
けれども、大きさを比べるならばクジラにはかなわない。ヘビは長いが同時に細くもあるのだから。しかし、この白い大蛇が放つ存在感は、クジラなど金魚鉢のメダカ程度に変えてしまうほどのものだ。断じてただの生物が持つべき気配ではない。これに匹敵するものは、生物ではなく雄大な大自然そのものだ。
鬼灯山という山そのものが、ヘビの姿に圧縮されて奥座敷に伏しているかのようだ。これが鬼灯山の主。日ノ本に暮らすすべてのヘビの化外たちが頭を垂れる主上。霊峰の領主。最大級にして最上級の化外。その名はハクメン。古き名で呼ぶならば八百峰大山津霊という、神として畏れ奉られる領域に半ば達した化外である。
「一週間ぶりだな、あかね。今日はまた、いかなる用向きだ?」
丁寧に襖を閉めて向かい合うあかねに、ハクメンは緩やかに頭をもたげて話しかける。その存在感の割りには、ハクメンの声そのものはむしろ優しげだ。明らかに加減しているのがよく分かる。もし普通に話したならば、あかねなど声の圧力だけで部屋の隅まで吹っ飛んでしまうだろう。
「ええと、いろいろあるんですが」
「ふむ」
「まずは、いつものお約束です」
そう言うと、もう一度あかねは襖が閉まっていることを確認する。
――よし、確かに閉まっている。こちらに近づいてくるヘビもいない。
その次にあかねが取った行動は、先程あかねに不作法のないよう釘を刺したヘビが見たならば、卒倒するか心臓麻痺を起こしそうなものだった。
あかねは立ち上がると、ハクメンに駆け寄るなり勢いをつけて全身でその胴体に抱きついたのだ。言うなれば、お寺で大事にされている大仏様に抱きつくようなものだ。いろいろな意味で、やってはいけないとしか言いようない行為である。不敬と言うより、もはや命知らずだ。
「う~ん、ハクメン様、今日もとっても素敵な抱き心地です」
両腕で力一杯あかねはハクメンの胴体を抱きしめる。本気を出して両腕に力を込めているのだが、分厚いその胴体の肉はびくともしない。けれどもただ硬いだけの金属ではなく、しっかりとした弾力がある。その力強さが嬉しくて、あかねはさらに顔までくっつけて全身で抱きしめる。ある意味で言えば、これは特大の抱き枕だ。ひんやりしているが。
「まったく、お前という小娘は、恐れを知らぬな。肝が据わっているのか、恐ろしく鈍感なのか、私は時折判別できなくなるぞ」
ニシキヘビにまとわりつくハツカネズミのようなあかねに、気分を悪くする様子もなくハクメンはそう言う。いつものこととばかりに受け流しているようだ。
「だって、すごくつるつるでもちもちのもち肌なんですから。女の子としてはすごくうらやましいお肌ですよ」
頬をぴったりとあかねは寄せる。ハクメンは完璧な白蛇だ。その目は紅玉のようにどこまでも深く赤く、その鱗は真珠を薄く削いで一枚一枚張り合わせたかのように白く輝いている。手触りは確かにつるつるの上にもち肌と言えなくもない。
「ならばノリトの尾にでも頬ずりしておればよかろうに」
「ボリュームが全然違いますってば。全身でぎゅっとできるお方なんてハクメン様だけですよ」
「ほめ言葉として受け取っておくべきかどうか迷うな。お主の物言いは」
呆れたようにハクメンは息を吐く。山から吹き下ろす颪とはこんなふうに吹くのだろう。
「それに……」
「ん?」
あかねの小さな呟きに、ハクメンは反応した。どんなにかすかな声であっても、この巨大な大蛇は聞き逃さない。人間よりも繊細なその感性を、あかねは知っている。
「恐れを知らないっておっしゃいましたけれど、私はちゃんと知っているんです」
顔を上げ、生物ならば本能的に恐れるその顔をまともにあかねは見る。
「ハクメン様がとてもお優しい方だってことを。だって、鬼灯山でひとりぼっちになった小さい私を助けてくれたのは、ハクメン様なんですから」
あかねが語るそれは、二人のなれそめだ。あかねは守役としては新米だが、その化外を見ることのできる感性、言わば向こう側の存在との近しさは人並み以上だ。正式な守役の両親以上と言ってもいい。
「まだあの頃のお主は抜ケ道のまともな使い方も分からない年だったからな。私も驚いたぞ。小さな童が先程から抜け道をあっちに行ったりこっちに行ったりしているのだから何事かと顔を出してみたら、まさか道に迷って泣いているとはな」
だからこそ、まだ幼い頃は化外と人間、こちら側と向こう側の区別がつかず、よく混乱していた。
そんな折のことだ。あかねはある日知らずに抜ケ道に入り込んでしまったことがある。いわゆる神隠しだ。自分でもわけが分からずに、鬼灯町のあちこちと繋がった抜ケ道を出たり入ったりしたあげく、あかねは一人鬼灯山に放り出された。完璧な遭難である。どうしていいのか分からず泣いている彼女の頭の中に響いたのが、ハクメンの声だったのだ。
「本当に怖かったんですよ。でも、ハクメン様が泣いている私に声を掛けてくれたら、怖いのなんて吹っ飛んじゃいましたけど」
「普通、人がうわばみを見たらなおさら恐れるものだと思うのだが」
最初は声だけをかけていたハクメンだが、執拗にあかねは姿を見せるように言い、ついにハクメンは異界の向こう側からその姿を見せた。
ハクメンとしては、あかねが気を失うものと思っていた。そうやって静かになったところを、麓まで運んでいこうと考えていたようだ。しかし、あかねの反応は違った。
「一目で分かりましたよ。ああ、この人が来てくれたから、もう安心だって。実際、すぐに山から降ろしてお父さんとお母さんに会わせてくれましたし」
幼いあかねはたちまち泣き止むと、親からはぐれた子どもが親を見つけて飛びつくようにして、ハクメンにぴったりとくっついてしまったのだ。ハクメンとしては随分と予想とは違った結果になったが、それでもあかねと両親を無事引き合わせることには成功した。
「私はハクメン様に助けていただいたんです。お慕いするのは当然じゃないですか」
かくして、あかねはハクメンにべったりになってしまったのだ。あかねの実家の鬼灯神社の祭神は大物主神だが、暗にそれはハクメンを指しているようだ。そうなるとあかねは実家が祭っている神様にべたべたと甘えていることになるのだが、一度助けてしまったからなのか、ハクメンがそれを咎めることは今のところない。
「まったく、親を間違えた鳥の雛のようだ。父と母に捨てられたわけでもなかろうに」
ほとほと呆れた様子でハクメンは言う。実際、まるであかねの様子は、親以外のものを刷り込みで親と間違えているひな鳥のように見えなくもない。
「守役としての親はハクメン様かもしれませんね。あ、でも、そうなるとハクメン様はお父さん? それともお母さん?」
「好きにせよ。男女の違いなど今の私には些細な違いでしかない」
「そういうものでしょうか……」
あかねは解せない顔をする。ハクメンの声は中性的だ。長い年月を生きている内に、性別を忘れてしまったらしい。それがどのような感覚なのか、あかねには到底理解できなかった。
「ほれ、もういいだろう。そろそろ離れよ」
しばらくあかねは特大の抱き枕を堪能していたが、ハクメンにそう言われてはこれ以上楽しむことはできない。
「はい、いつもありがとうございます」
素直にそう言って身を離す。
「何かをねだられるわけではないのだから、安いものよ」
「じゃあ、お返しです。返礼です」
そう言って、すかさずあかねは畳の上で正座をすると、膝を叩く。
「またそれか」
「いいじゃないですか。はい、膝枕してあげます」
何ともぶしつけというか、これもまた命知らずの発言である。
「緊張しなくてもいいんですよ。ほら、男の人の憧れですから」
さすがにそこまで言われては、ハクメンも呆れかえったようだ。
「戯れもほどほどにせよ。さすがに聞き捨てならぬ」
そう言うなり、ハクメンはその巨大な頭をあかねの膝の上に乗せる。
「あっ重っ! 重いっ! すごい重い重い重い重い潰れる潰れる潰れますってば!」
巨石を乗せられたような圧迫感に、瞬時にあかねは音を上げる。
「少しは分をわきまえよ。いくら守役と言えども、お前は人、それも小さな娘なのだぞ」
「でも、そんな小さな娘に合わせてくださっているんですよね、ハクメン様は」
まだ続く軽口に、一度は上げかけた頭を再びハクメンは降ろす。
「あいたたたっ! ごめんなさい失礼しましたギブアップですギブアップギブアップッ!」
その声が悲鳴に変わる前に、すぐにハクメンは頭を上げる。大きさも力も桁外れのハクメンだが、決して相手を傷つけるようなことをしないのだ。それが分かっていて、あかねもふざけているのだが。
「……それで、今日はまたいかなる用があって来たのだ。夕食の前に教えてくれるとありがたいのだが。お前としても、人目のないほうが話しやすかろう」
「あ、はい。どうもすみません」
促されるままに、あかねは今日あったことをハクメンに説明し始めた。校門の前でネコたちの決起集会紛いのものを見たこと。街のあちこちにバリケードが張られていること。新公園でノリトに会ったこと。二人で街角組合の親分のところにまで抗議に行ったこと。
「……ということなんです。結局梨のつぶてで実質門前払いみたいなものですよ」
「やれやれ。まったく、何をふざけているのだあの愛玩動物どもは」
あかねのたどたどしく分かりにくい説明が終わると、改めてハクメンは呆れた様子だった。ハクメンの目はまばたきをしない宝石のような目だが、あかねははっきりとその奥にある感情を読み取れる。
「普通のネコさんたちは可愛いですよ。ちょっと物騒でも小さいからそんなに気にもなりませんし。でも、親分さんは少し怖いですね」
「お前の大きさからするならば、服を着たクマと対峙しているようなものだからな。だが、いくら大きくなったからといっても、奴らはネコであることに変わりはない。お前は人なのだから、退く必要は一切ないぞ」
「そう言いますけど、それはハクメン様がそんなに大きいからですよ。あの目で睨まれるとちょっと身がすくみます」
「ならばマタタビを持っていけ。何かあったらそいつを突きつけてやるとよい。どんな強面気取りのネコでも一発で骨抜きにできるわ」
「今度からそうします……」
自分の無計画さが、ほとほと嫌になるあかねだった。
「それで、ハクメン様はどう思いますか?」
「私か?」
「ええ」
「私に何とかしてもらいたい、と守役として依頼するつもりなのか?」
ハクメンに改めてそう言われると、何やら自分が取り返しのつかないようなことをしているような気がして、あかねはたちまち焦り始める。
「いえ、そこまでってわけじゃなくて……」
けれども拍子抜けすることにあっさりとハクメンはこう言った。
「まあ、構わぬが。別にお前に何かしら代償を支払ってもらう必要はない。ただの片手間だ。といっても、私に手足はないがな」
「皆さんみたいな姿になればありますけどね」
「あれは窮屈すぎる。食事やよそに出かける時でもない限り極力取りたくはない姿だな」
普段の姿こそ白い大蛇のハクメンだが、その気になれば他のヘビの化外と同じような、手足を持ち、長い首と尾を有する人型にもなるようだ。けれども、あかねは滅多にその姿を見たことがない。ハクメンの言葉によると、窮屈なようだ。この体を無理矢理縮めているのならそうなのだろうな、とあかねは何となく思った。
「それはともかく、話を戻そう。私としては、今のところ捨て置くつもりだな。御山に悪影響はないようだし、何より放っておけば自然と何とかなる」
あっさりとあかねに助力することを惜しまないと言ったハクメンだが、だからといって今すぐに動く気はないと言っている。
「要は童の喧嘩だ。聞く感じでは、マサムネの子分二人が勝手にお互いを敵視しているだけだろうな。以前からそうだと聞いていたが、新公園ができたことによってそれが表面化する格好の口実を手に入れたというわけか」
「だったら、なおのこと仲直りした方がいいんじゃないでしょうか。元々は同じ親分の下にいたネコたちなんでしょ? 喧嘩ばかりしていたんじゃマサムネさんが可哀想です」
捨て置け、と暗に言っているハクメンに、あかねは反論する。これも他のヘビの化外が聞いたら耳を疑うような態度だ。
「無論、最終的には講和を結ぶべきだと私も思う。だが、それは今ではない。少なくとも、もう少しお互いに争わせておくべきだな」
「分かりました。そうやって、お互いが力を使って弱くなったところを、一気にやっつけて無理矢理仲直りの場を作るつもりでしょ? さすがはハクメン様。頭がいいですね」
漁夫の利というものだ。あかねとしては精一杯頭を捻ってハクメンの行動の理由を推理したつもりだったのだが、当のハクメンは鎌首をもたげて露骨にあかねを見下げる。
「一方、お前はいつまで経ってもその頭蓋の中身に変化が生じていないことを露呈させているな。私を誰だと思う。この日ノ本では五本の指に入る化外だぞ。その私が、二匹のネコが窮鼠となったからといってかまれると思うか?」
「あ、そうですね。ハクメン様が戦えばあの親分さんなんか一発でノックダウンですよ」
ハクメンとネコの化外との力の差は歴然としている。ネコたちがどんなに力を合わせて束になってかかっていっても、到底かなうはずがない。
「したいとも思わないがな。私が言いたいのは、双方共に子分を引き連れた組合の長だということだ」
「それがどうかしたんですか?」
「一度喧嘩を始めたのならば、子分たちの見ている手前おいそれと引き下がるわけにはいかないのだよ。引き下がれば負けたことになるし、そうなれば子分たちに舐められる。ことさら見栄っ張りなネコの長たちの考えそうなことだ。振り上げた拳を振り下ろす場所が見つからなければ、絶対にどちらも和平に応じようとはしないだろうな」
ハクメンは親分たちの行動を読んでそう言う。
「そんなもんですかねえ」
けれども、当のあかねはご高説を賜ったにもかかわらず、腑に落ちないようだ。分からない時にはっきり「分かりません」と言うのは勇気のいる行為だ。「聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥」とも言う。しかし今のあかねは、単に頭がハクメンの言葉を処理し切れていないだけだ。
「あかね、何を聞いただけで満足している。私はお前よりも確かに年上だが、だからといって全知全能ではないのだぞ」
他人事と言わんばかりの態度のあかねをハクメンは睨む。
「え、じゃあ、どうすれば?」
あかねはなおもぽかんとしている。ハクメンに事態を説明しただけで満足しきっている。
「守役が聞いて呆れる。別に今日とは言わぬ。だが近いうちに三滝橋の向こうにも行き、そちらの親分とも話してくるといい。私の推理が正しいのか間違っているのか、現状の把握が日和見なのか的確なのか、それを実際に確かめてくるのだ」
「そ、そうですよね。私守役ですから、それくらいしないとバチが当たりますよね」
「当てられるものなら今当ててやりたいわ。まったく、怠け癖がつくとこれだから人間は困る」
「すみません。ちょっと調子乗っていました…………」
さすがに自分のしていたことが無責任だったことに気づき、あかねはうつむいてしまう。その姿が哀れに思えたらしく、すぐにハクメンは言葉を続けた。
「まあ、最初に言ったように、私としては此度の騒動は静観するつもりだが、お前が望むのならば私の名を出して調停に望んでもよいのだぞ」
「本当ですか?」
「ああ。三枝あかねの名では親分どもは動かぬだろうが、このハクメンの名を出せば必ず動くだろう。せいぜい利用するがいい」
すぐにフォローするところは優しいのだが、同時にあかねに随分甘いとも言える行動だ。まるで娘には甘い父親のようだ。
「ありがとうございますっ! さすがハクメン様、太っ腹です! 愛してます!」
案の定、たちまちあかねは顔を輝かせて、再びハクメンの巨大な胴体に手を回して抱きついてきた。
「愛など年頃の女児が気安く口にするでない。言葉の価値が下がる」
「でも本当に大好きですよ、私は。ハクメン様のこと」
「その気持ちだけは受け取っておこう」
真顔でそう言うあかねだったが、ハクメンは特別心が動かされる様子はない。愛という語に惑わされるほど、この白い大蛇は若くはないのだ。
「ほれ。そろそろ食事の支度が調う頃合いだろう。食べていくか?」
緩やかに身を起こすと、ハクメンはあかねに尋ねる。
「う~ん…………」
しばらくあかねは唸っていたが、意外なことに首を横に振った。ハクメンの誘いならば喜んで相伴に預かりそうなものだが、あかねはその誘いを断る。
「いいえ。せっかくのお誘いですけど、家に帰ることにします。確か今日はカレーですから。私が急にいなくなったら配分にきっと困りますよ」
けれども、逆にハクメンは満足そうにうなずいた。
「それでよい。我ら化外よりも家の者を大事にするのだぞ」
「はい。では、そろそろお暇を」
あかねとしては名残惜しげだったが、それでもこれ以上ハクメンの時間を浪費させるのは失礼なことくらいは分かっていたようだ。手を胴体からほどき、あかねはもう一度正座し、額を畳にすりつけるほどに深く一礼する。
「ハクメン様、お時間を取って下さってありがとうございました。またお会いできる時を楽しみにしています」
◆◇◆◇◆◇
――あかねが奥座敷から出て行ってから、ハクメンは一人で襖を見つめていた。
その気になれば向こうを見通し、廊下を歩くあかねの姿を見ることもできる。大社はハクメンの腹の中のようなものだ。けれどもそれはせずに、ただ今出て行った守役の少女に思いを馳せる。
「まったく……私も長いこと御山の主をしているが、あんな跳ねっ返りの守役は初めて見るぞ」
御山に暮らすヘビの化外はもちろんのこと、あかねの両親、ひいては他の守役も目を疑うような行動を取るあかねだ。少なくとも、この身に触れようとした守役はここ三百年存在しなかった。
「遠からず、あ奴はこちら側に魅入られるかもしれぬ」
ハクメンが口にするのは危惧だ。あまりにも化外たちと親しくなりすぎると、人間は異界の側へと引っ張り込まれてしまう。人間でありながら、化外となってしまうのだ。あかねは子どもの頃から化外たちの側に慣れ親しんできた。魅入られてもおかしくはないのだ。
「助けるべきではなかったか……」
珍しく、本当に珍しく、ハクメンは後悔に似た感情を口にした。こうやって、あかねが自分を慕うままにさせていたのは間違いだったかもしれない。いや、ならばそもそも、あの時抜ケ道をさ迷い鬼灯山で一人泣いていたあかねを助けたこと自体が、間違っていたのだろう。
しかし、同時にハクメンは思い出す。自分がただ泣いてばかりだったあかねの前に、初めて異界を越えて姿を現した時のことを。驚き、目を見開き、卒倒するものとばかり思っていたハクメンの予想はあえなく裏切られた。あかねは泣き止むと、にこにこ笑いながら恐れる様子もなくハクメンに寄り添ったのだった。
自分は本当に、あかねを怖がらせたくて姿を見せたのだろうか。それとも、この蛇体でありながら恐れもしない人間を、探していたのだろうか。長い時を生き、自分の性別さえも忘れてしまったハクメンだが、自分でも分からない感情などというものは、久しく忘れていたものだった。
「いや、愚問だな」
過去を変えることは自分でもできない。既にあかねは自分の人生を生きているのだ。その事について心を配る必要はない。少なくとも、この鬼灯町の縄張りを巡るネコたちの争いを、あかねがどのように解決するのかには興味がある。
純白の大蛇はそう考え、身を伏せた。少しは、その結末に至るまで楽しめるだろうと期待しつつ。