第三章
「お忙しいところ、わざわざよく来てくださいました。手前が街角組合の長、八代目石上五葉縁ノ下ノ守五郎左衛門景房でございます。カゲフサ、とだけ呼んでくだされば結構です」
おキヌがあかねたちを案内したのは、中庭に面した屋敷の客間だった。大きな座卓を挟んで座っているのは、がっしりとした体格の鯖猫だ。あちこちが縞だが手と耳が白い。
おキヌと同じく、高価そうな和服を着ている。かなりの大柄だ。立ち上がればあかねくらいの子どもならば見下ろしてしまうだろう。組合の長、簡単に言えばボス猫だけあって、貫禄がある。町のあちこちでニャーニャー鳴きながら好き勝手に楽しく戯れている他のネコの化外たちとは、漂わせている雰囲気が違う。
「お茶ニャ」
「お菓子ニャ」
襖が開くとネコたちが姿を現した。二匹のネコが持っていたお盆から、あかねとノリト、そしてカゲフサの前にお茶とお菓子を置く。お茶は玄米茶、お菓子は羊羹だ。
「卵焼きもあるニャ」
続いて別のネコがさらに卵焼きの乗った皿を置いた。中学の前で会った黒猫の言葉からすると、もしかするとおキヌの作だろうか。
「これもどうぞニャ」
最後の一匹があかねの前に置いたのは、なぜかお風呂などで浮かべて楽しむアヒルのおもちゃだった。これをどうしろというのだろう。
「あ、どうもありがとう」
意図が掴めないまま、あかねは機械的にお礼を言う。
「ニャン」
とネコたちは成し遂げた満足げな顔で出て行った。お茶とお菓子と卵焼きはともかく、アヒルは意味不明だ。
「それで、御用のおもむきは。何か、うちの下っ端が人様にご迷惑でもおかけしましたでしょうか」
おもちゃの存在に頭を悩ませるひまもなく、カゲフサがそう言ってきたのであかねはそちらに向き直る。
「う~ん、別に人間に迷惑を掛けているわけじゃないんですけどね」
「と、申しますと?」
カゲフサが露骨に怪訝そうな顔をする。
「失礼ですが、この町の化外の事情は、私たちネコに一任されているはずですが」
口調が詰問に近くなってきたので、慌ててあかねは弁解する。
「べ、別に私は喧嘩しに来たわけじゃないですよ。そんなに警戒しないでください」
「ほう。ではその隣のヘビの化外についてはどう説明されるおつもりで?」
なぜかカゲフサは、先程から黙ったままお茶にもお菓子にも手をつけないノリトの方を見る。
「守役殿の護衛ではないのですか。わざわざ御山の化外を引き連れて我らの邸宅に来たともなると、いささかこちらとしても警戒せざるを得ないのですが」
「そんな、ノリト君は学校の帰りに会っただけで……」
あかねが途方に暮れた顔でノリトの方を見る。
まさかこんなことを疑われるとは思わなかった。おろおろしているあかねを見て、ノリトは一度ため息をついてからカゲフサに向き直った。
「癇に障ったのでしたら、平にご容赦いただきたい。見ての通り、ヘビはネコと違って無手と言えども尾も牙も凶器。もしあくまでも守役殿の言葉をお疑いならば、この場で私だけ帰らせていただきますが」
ネコの親分に負けずとも劣らぬ眼光で、ノリトはカゲフサの方をじっと見る。おまけに、その言葉は相手を挑発するような内容だ。わざわざ自分のことを「ネコと違って」と言っている。ネコと違って自分は危険である、と。これがただのネコたちならば聞き流すが、町のネコを力で束ねる親分ならば馬耳東風というわけにはいかない。
しばらくの居心地が悪い沈黙の後、折れたのはカゲフサの方だった。
「いや、それには及びませんな。こちらとしても最近きな臭く、警戒を怠るわけにはいかないのです。そちらの筋を通しましょう。このままいてくださって結構です」
と言っても、折れたように見えただけだろう。初めから、この程度のやり取りは想定の内に違いない。ただの前座だ。
「話を戻します。今日私は見ました。そちらのネコが化外用のバリケードを築いて道を通れなくしたり、新公園を封鎖しているのを」
あまりこちらを歓迎してくれないのならば、さっさと本題を切り出した方がいいだろう。そうあかねは考えて、用件だけを述べることにした。
「いくらこの町の化外が、お互いに情報を交換しているネコたちとはいえ、時にはよその町から来た化外や、御山から降りてくる化外もいます。そちらの事情もお聞きしますが、守役の私としては撤去をお願いいたします」
単刀直入なあかねの言葉だったが、それはカゲフサに届くことはなかった。
「……申し訳ありませんが、いくら守役の頼みといえども、撤去はできませんな」
「それは、組合の長よりも立場が上の守役の言葉に従えない、という意味にとってもよろしいのですか」
ノリトが口を挟む。
「立場は立場。それは認めます。けれども、失礼ながら守役は本来はこちら、三枝あかね様の父母ではなかったのでしょうか」
やや無礼なノリトの態度にも、カゲフサは鷹揚な態度を崩さない。
「あかね様は仮の守役。その権威は認めますが、だからと言って私はあかね様の配下ではないのです」
「せめて、どうしてあんなことをするのか、わけをお聞かせ願えないでしょうか。」
あかねが何気なく言った言葉だったが、カゲフサは待ってましたとばかりに身を乗り出してきた。
「こちらとしても、本意ではないのですよ、むしろこちらは被害者といってもいいです。これもひとえに街角組合のため、普通に暮らすネコたちのため、ひいては町のためであり守役に代わって化外たちの治安を守るためです。何より、私どもには先代の遺言を守り抜く務めがあります」
その口から聞こえてきたのは、被害者という耳を疑うような言葉だった。
「三滝橋の向こうを縄張りとする駅前組合は、以前からこちらに無理難題を吹っかけてくる、礼儀も仁義もわきまえない野良たちの寄り合い所帯だったのですが、先日ついに見過ごすことのできない要求をしてきたのです。新公園は自分たちの縄張りだ、と言ってきたのです。お分かりですかな。このむちゃくちゃな要求の意味が」
いったん口を閉じて、カゲフサは二人を舐めるような目つきで見た。
「先代の遺言を破っている、ということですか」
意味ありげな沈黙に、あかねはまんまと乗せられてカゲフサの望んでいた言葉を引き継ぐ。
「その通りです。さすがは守役殿。話が早い」
さりげなくあかねを誉める言葉まで出てきた。カゲフサの思い通りに話が運んでいるようだ。
「そもそも、この鬼灯町はもともと三代目小田桐一角屋根裏ノ守権之丞正宗殿の縄張りでした。私こと街角組合の長である八代目石上五葉縁ノ下ノ守五郎左衛門景房がその一番弟子、川向こうの駅前組合の長とかなんとか言っている十代目服部六車台所ノ守彦兵衛正綱がその二番弟子でした。マサムネ様は身罷られる直前に遺言を残され、鬼灯町の縄張りを私とマサツナの二人で分け合うようおっしゃられたのです」
矢継ぎ早に長々とした名前を連呼されて、頭が混乱しそうになる。けれどもそれを顔に出さず、あかねは必死に頭の中で話をまとめる。要するに、元々のこの町のボスはマサムネという猫だった。その下にカゲフサとマサツナという名の二匹がいて、マサムネの死後縄張りを分け合ったらしい。
「マサツナごときがマサムネ殿の縄張りを管理しきれるとはとても思えないのですが、親分のおっしゃることなら白猫でも黒猫、三毛猫でも男、マタタビでもコショウ。私はそれに従いました。その遺言にはこうありました。三滝橋のこちら側は、私の縄張りだと」
「じゃあ、マサツナさんのしていることは……」
「れっきとした違反。いや、遺言に唾を吐く行為、不義理そのもの。マサムネ殿が残した仁義も礼儀にも後足で砂をかける許しがたい行為ですな」
言いたいことを言い終えて、カゲフサは満足げ羊羹を一口で口の中に放り込み、美味しそうによく噛んでから呑み込む。化外、それもここまで人間に近い高位のものだと、食生活も人に近くなるようだ。
「お分かりしていただけたでしょうか。こちらの立場が。こちらとしても、市井の方々に迷惑をかけるのは本意とはかけ離れた、できれば行いたくない行為です。私としても、断腸の思いで部下に命じています。けれども、ここで譲り新公園を駅前組合にとられるわけにはいかないのですよ」
あくまでもバリケードの設置は仕方なくやっていることで、駅前組合の狼藉が原因である、とカゲフサは主張している。
「もしそうなれば、マサムネ様に顔向けができません。なによりも、私を慕ってついてきてくれる子分のネコたちが路頭に迷うことになります。新公園を明け渡せば、遠からず奴らは鬼灯町すべてを手中に収めようとするはずですから」
「話し合って何とかならないでしょうか」
しばらく考えてはみたのだが、カゲフサを納得させられるような代替案を思いつくとができず、あかねは場当たり的なことしか言えなかった。
「奴らが話し合いに応じると? そもそも連中は遺言を守ることさえしない野蛮な野良どもですよ。まともな会話ができるとは思えませんな」
「そうかもしれませんが……」
案の定、あかねの案はあっさりと切って捨てられる。カゲフサの言っていることは一見筋が通っているように聞こえるが、その実すべて個人的な意見でしかない。一方的に相手方の駅前組合を悪として断罪し、自分たちに非は一切ないと主張しているだけだ。けれども、あかねはそれをどう説明していいのか分からない。
「さて、こちらの事情も分かってくださってありがとうございました。この町を守る守役であるからには、此度の騒動に対して看過してくださると期待しておりますよ」
カゲフサは用が済んだとばかりに、襖の方を見ると手を叩く。
「おキヌ、お客様がお帰りだ。お見送りしろ」
あかねはさらにその場に留まる術を、一つも思いつくことはできなかった。
◆◇◆◇◆◇
「あ~、こりゃ厄介だ。あのプライドばかりでかくなった石頭のノラネコ風情が。一丁前に大口を叩くようになったよなあ」
屋敷の外に出て、抜ケ道を通り、元いたお寺の前に戻ってから、ノリトはたまっていた不満を吐き出すようにして悪態をつく。どうにも、ヘビの化外はネコの化外を見下す傾向にあるようだ。
「のれんに腕押しだったよね」
「石頭とのれんってのもまた対照的な表現だよな」
あかねの言葉に、ノリトは白い歯を見せて笑ったのもつかの間、すぐにまたその顔が不機嫌そのものに戻る。
「くそっ、あの猩々ネコが。あかねのいうことには従えないって言うのかよ。それで仁義だ? 礼儀だ? 笑わせる」
ノリトの不満は、カゲフサに取り合ってもらえなかったことよりも、あかねが無礼な扱いを受けたことにあるようだ。
「仕方ないよ。私は仮だし」
「そこでうなずくなよ。相手の思うつぼだって」
ノリトの言うことももっともだとあかねは思う。そこで同意してしまったら、カゲフサの言っていることが正しいと認めたようなものだからだ。
けれども、あかねの頭脳ではあのネコの親分を論破できるだけのうまい言い回しが思いつかないのも事実だ。人間相手にも自分の思っていることを上手に伝えられないこともあるのだ。それが化外、ましてや百戦錬磨とおぼしきボスネコならばなおさらだ。たかがネコかもしれないが、気圧されてしまったのは否定できない。
「ありがと。代わりに怒ってくれて」
言いたいことも言えずに追い返されてしまった自分に代わって、怒りを露わにしてくれるノリトに、せめてあかねはお礼を言う。
「…………そんなのじゃない。俺は単に胸くそが悪いだけだ」
図星だったらしく、ノリトは照れたようにそっぽを向いた。
「でもよかった。とりあえず現状が分かったし」
「いいことを探せばそうなるか。ハクメン様に報告することくらいはできるな」
とりあえずはそういうことになるだろう。相手を納得させることはできなかったが、情報だけは仕入れることができた。収穫がないとは言えないだろう。
「今日はありがとうね。一緒にいてくれたから心強かったよ」
「抜かせ。ネコ相手に縮み上がるような腑抜けじゃないだろ、お前は」
ノリトが隣にいてくれて安心できたのは事実なのだが、あかねの言葉を彼は鼻で笑い飛ばす。
「女の子を、そんなに頑丈一点張りみたいに言わないの」
いくら体育系とはいえ、女の子を豪傑みたいな言い方をされたらさすがのあかねも黙ってはいられない。
「はいはい、次からは目の空かないネズミの赤ん坊みたいに大事に扱うからな」
「それってどういう……」
意味よ、と続けようとして、あかねは息を呑んだ。いきなり、額がぶつかるほどの近距離までノリトが顔を近づけたからだ。
「丸呑みしたくなるくらいに美味そうってことさ」
小さくその口が開くと、色素の薄い肌とは対照的な真っ赤な舌がのぞく。人間のそれと比べて、少しだけ長くてしかも細いような気がする。さすがに二叉に先端が分かれてはいないのだが、どことなく蛇の舌に似ている。食べられる、となぜか思ってしまい、体が知らず固まる。
「冗談だ。本気にするなよ」
殺気とも食欲ともつかない気配を漂わせたのは、ほんの数秒だけだった。あっさりとノリトは顔を離すと、何事もなかったかのように距離を取る。取り残されたのはあかねだけだ。軽口も叩けず、あかねは深呼吸する。何気なく人間のように付き合っているノリトが、人ではない化外であることを実感した思いだった。
「じゃあ、俺はこれで戻る。お前は大社に行くんだろ?」
「うん。お夕飯の前に行けば少しは二人っきりで話せると思うから」
「ならば、直接行った方がいいぞ。今からだらだら山登りなんかしてたら、飯の時間になる」
携帯を取り出して時刻を確認すると、そんな時間だ。今から鬼灯山に行って、さらに真っ当に登っていったら遅くなってしまう。
「うん、そうかも。ごめんね、一緒に帰ろうって言ったのに」
「気にするなよ。じゃあな」
結果的に無駄足に近いことになってしまったにもかかわらず、ノリトは気にする様子もなく背を向けると歩いていく。その背中にもう一度だけ「ありがとう」とあかねは言った。仮の守役がここまでできるのも、ノリトのような補佐の化外がいるからだ。
ノリトが角を曲がって見えなくなってから、改めてあかねはお寺の山門に向かい合う。再び拍手を二度打つ。
「――開き給え――招き給え」
そしてもう一言。
「――真白き御霊に申し上げる」
それは抜ケ道を繋ぐ文言だ。それも、特別な抜ケ道を。今まで使っていたそれが普通の道路ならば、今あかねが繋いだのは鬼灯山の異界までの直通だ。
『あかねか』
あかねの頭の中に、自分とは違う声が聞こえてくる。女とも男ともつかない声だ。優しげな響きは女性のようだが、同時に力強く太い部分もある。女でも男でもないというよりは、女であり男であると言った方が近いかもしれない。
「はい、ハクメン様。お側にお招き下さいますか」
その声は、先程のカゲフサの声よりも遙かに威厳があり、独特の恐ろしげな響きさえ有している。けれども、あかねはカゲフサと違ってまったく恐れる様子もない。
『よいとも。許そうぞ』
「ありがとうございます。今日も素敵ですっ」
なぜかなれなれしささえある。まるで小さな子どもが優しくしてくれる大人に懐いているかのようだ。
『わけの分からぬ世辞を申すな。頭が痛くなりそうだ』
実際、声はそう感じたようだ。呆れたような様子の声を尻目に、あかねは目をつぶって山門をくぐる。再び五感すべてがねじれる感覚の後、今度は空気どころか場所さえも変わったことを感じる。直通の抜ケ道は、鬼灯町から鬼灯山へとあかねを瞬間移動させたのだ。
周囲の喧噪が聞こえてくる。あかねは目を開いた。人間たちの暮らす世界では、ここは鬼灯神社の境内だ。けれども今いる異界では、ここは大社、山の主であるハクメンの坐す場所である。周りを歩く多くの化外たち。ネコ、イヌ、キツネ、タヌキ、イタチもいる。一番多いのはヘビだ。手足があるけれども、長い首と尾はヘビの形をしている。
鬼灯山そのものが、異界では化外たちの街となっている。あかねもノリトと一緒にトロッコに乗って山腹を登っていったら、その勇壮な町並みを見ることができたことだろう。日本中から数多くの化外たちが集まり、ほとんどの人間がまったく知ることのない賑やかな営みを続けている。
現実の鬼灯神社は、さして大きくもない凡百な神社の一つでしかない。しかしあかねの目に写るそれは、春日大社や日光東照宮と比肩するほどの大きさと華やかさだ。いや、ここは神社ではなく、城であり御殿だ。神を祭り非日常の象徴としての場所ではなく、主が暮らし、主の生活のための場所だ。
そうやって見ると、この大社という建物は豪勢で立派な和風の旅館のようにも見えてくる。朱塗りの柱の旅館というのもすごいが、忙しげに出入りするヘビの化外たちを従業員として考えると、あながち間違ってはいないようにもあかねは思う。だとすると主はずっとそこに逗留していることになるのだが。
「あの……どうされましたか?」
突然の守役の瞬間移動に、近くにいたヘビの化外が尋ねた。声からして女性だ。あかねは胸を張って答える。
「どうも。守役の三枝あかね、ハクメン様にお招きいただきただいま参上いたしました」
確かに間違ってはいない。けれども押しかけたのはあかねなのだが。その図太さを、カゲフサに発揮して欲しいところである。