第二章
「はい、これどうぞ」
「なんだ、これ」
「たい焼きだけど? 知らない?」
「し、知らないわけないって。何でこんなところで買い食いしてるんだよ」
ノリトは、なぜ自分がここにいるのか分からない、と目が覚めた夢遊病者のような顔で立っている。そんな彼に、あかねは手に持った焼きたてのたい焼きを差し出している。
確かあかねは「一緒に帰ろう」と言ったよなあ、と今にも言い出しそうなノリトだったが、大人しく差し出されたたい焼きを受け取る。熱かったらしく、一瞬その目が細められた。色素の薄さに等しく、意外と肌が弱いらしい。二人がいるのは御山こと鬼灯山ではない。商店街の一角だ。学校を起点とすると、むしろ鬼灯山から遠ざかっている。
コンビニやファーストフード店もちらほら見かけるけれども、全体的な作りは昔からあるアーケード街のままだ。個人で経営している小さな肉屋や八百屋、魚屋なども軒を連ねている。鬼灯町は明治から続く古風な町並みを売りにした観光の町だが、こういった昔懐かしいほのぼのとした商店街も意外に観光客に人気がある。
「あ、もしかしてノリト君買い食いとか寄り道とか駄目って言うタイプ? 結構真面目なんだね」
ノリトが浮かない理由を、買い食いが校則違反だと思っているからだと誤解したあかねの言葉に、慌ててノリトは首を左右に振る。
「そんなこと関係ないだろ! ……まあ、いい」
ため息を一度つき、ノリトはたい焼きを売る屋台の店主に向き直る。
「おじさん、俺にも」
「ええっ、一つじゃ足りなかったの?」
驚くあかねを、ノリトは白い目で見る。
「お前の分だよ。おごられっぱなしってのは性に合わないからな。ほら、好きなの選べ」
ノリトの細い指がメニューを指差す。粒あん、こしあん、カスタード、抹茶、イチゴジャム、カフェラテ、クリームチーズ、カレー、なぜかラザニアにお好み焼き。
無駄に多彩である。
「うーん、じゃあ、これ。カスタード」
「はあ? たい焼きはあんこって相場が決まってるだろ? カスタードなんて邪道だ邪道」
しばらく迷っていたあかねの決定に、ノリトは即座に反論する。あんこ以外のたい焼きなど彼には理解の外だ。
「邪道じゃないよ。れっきとしたメニューです。売り物です。売れ筋です! 人気商品です!」
「分かった分かった。俺が食うわけじゃないからいいけどさ。じゃあ、カスタードを一つお願いします」
矢継ぎ早に繰り出されるあかねのカスタードに対する擁護に、早々にノリトは折れた。
「はいよ。仲がいいね」
店主のおじさんの言葉に、ノリトは薄く笑う。
「腐れ縁ですから」
一方隣のあかねは満面の笑みで答えた。
「もちろんですよ」
と。
「それで、餌付けしてなんのつもりだ」
たい焼きを頭から食べつつ、ノリトは尋ねる。
「あ、分かった?」
あっさりともくろみを見抜かれたあかねだが、ちょっとばつが悪そうな顔をするだけで懲りた様子はない。
「お前にしちゃ頭が回るじゃないか」
「別に釣ったつもりはないけどさ。どうせお話しするなら、食べながらの方が口が軽くなるかと思って」
「二口女じゃないんだ。口は一つしかないからものを食いながら喋れるわけないだろ」
「そういう意味じゃないけどさ。ま、別にいいけど」
さすがにたい焼きを手にずっと持ったままというのも生殺しらしく、いったんあかねは会話を打ち切ると尻尾からそれにかぶりつく。
「うん、カスタードがとろっとしてるし、あったかくておいしい」
「そんなもんかねえ」
理解できない目をしているノリトに、あかねは手に持った食べかけのそれを差し出す。
「一口どう?」
「い、いや、いい」
さすがにそれはできないと判断して、ノリトは首を振った。まったくためらう様子がないのは、それだけデリカシーがないのか、それともノリトを異性として見ていないのか、長い付き合いだからか。
「――このところ、さ」
しばらく食べることに集中してから、不意にあかねが切り出した。
「ああ」
本題が始まるらしく、ノリトは耳を傾ける。
「町のネコたちが随分元気みたいだよね」
「元気って言うか、血気盛んって言うか、まあ、一言で言うなら殺気立ってるよなあ。馬鹿が。毛玉の分際で一丁前に抗争でもするつもりなのかね」
「三滝橋に通じる道にバリケードまで作っちゃってるし、どういうつもりなのかな」
「どうもこうも、本格的に街角組合と駅前組合との間で縄張り争いが表面化しているみたいだよな。御山には関係ないって放っておきたいんだが、あんな風に新公園を封じて素知らぬ顔ってのはちょっといただけないよな」
「やっぱりそうか…………」
あかねは珍しく考え込んでいる。家こそ神社であり、三枝という守役の家系の人間であり、時には巫女の装束に身を包むあかねだが、ノリトから言わせてもらうならば頭の中身は年齢相応だ。それどころか、時折こいつ何も考えてないんじゃないか、頭の中に回し車を回すハツカネズミだけがいるんじゃないかと思える時がある。
初詣や例大祭の時などに千早を着たあかねを見て思う感想で「馬子にも衣装」しか出てこないところがかなり深刻だ。三枝の家系で巫女であるからと言って、即座に清楚で可憐な大和撫子になるわけではない。あかねは明らかに運動やスポーツの方が得意な体育系だ。陸上部の大会でユニフォームを着て走ったり飛んだりしている方が余程似合う。
「そういうのは、守役としては放っておけないってわけか」
いつになく頭を使ってる様子のあかねに、ノリトは少しだけ優しい口調で言う。
「うん。一応はね」
あかねはうなずく。
「お父さんとお母さんは、御山の方にかかりっきりだし、町の方は私に任されているから。私としても、ちょっと見過ごしたらよくないような気がするんだ」
「確かに、ここまでおおっぴらにされたら知りませんでしたじゃ通じないよなあ」
あかねの両親もまた、当然のことながら守役である。あかねが中学二年生でありながら鬼灯町の守役として一応任命されているのは、彼女が優れた手腕の持ち主だからではない。単純に、両親が忙しいからだ。
あかねの両親が担当しているのは、彼女の言う通り、鬼灯町ではなく鬼灯山である。この山は普通の人間にとってはただの山だが、化外たちにとっては御山と呼ばれる日本有数の霊峰だ。何と言っても、この山は偉大なるヘビの化外であるハクメンの縄張りだ。ただそれだけで、鬼灯山は他のいかなる山よりも重要な場所となるし、全国から化外が集う。
抜ケ道を通って化外たちの世界である〈異界〉に行けば分かる。こちら側ではただの山でしかなかった鬼灯山が、巨大な都市となっているのを。斜面にはずらりと家々が立ち並び、麓から頂上までトロッコが行き来している。あかねの両親は、ハクメンに仕えるヘビの化外たちと共にここの管理に当たっている。多忙なのは言うまでもない。
「いいじゃないか。守役ってのは、もともと俺たち化外たちに対抗するために作り出された職だ。仕事熱心なのは感心だ。ハクメン様もお喜びになられるさ」
ノリトの言う通り、守役は本来は人間の側に立ち、化外たちに睨みを利かせる職業だった。それがいつの間にか、化外たちと一緒になってトラブルの解決に当たるという、平和的な仕事になっている。
「本当? 喜んでくれるかな、ハクメン様」
ノリトの言葉に、あかねはぱっと顔を輝かせる。ハクメン様、という名前が超強力な起爆剤になったようだ。
「あ、ああ、多分……いや、絶対」
何となく口にした名前だったが、そこまであかねが喜んでしまっては、ノリトとしても太鼓判を押さざるを得ない。
「そっか。そうだよね。じゃあ、もっとがんばってみようかな」
うんうん、と一人でうなずきつつ気合いを入れているあかねに、ふとノリトは疑問を抱いた。
「お前、守役になって何年経つっけ?」
「一年生になってからだから、まだ一年とちょっとだけ」
「なるほどな。町そのものはネコの組合の管轄とはいえ、中学生がこの町の化外たちのトップとはな」
鬼灯町の化外たちの管理は、町のネコたちに一任されている。ネコたちは気まぐれでお調子者でのんきで自堕落で気分屋だが、それなりに結束力はある。何より、元からこの鬼灯町に住んでいた化外たちだ。わざわざ御山からヘビの化外が降りてくるよりは、地元民に任せた方が効率がよい。だからこそ、子どものあかねが一端の守役に収まっているのだ。
「おかしいよね。自分でもそう思うよ。お神輿みたいなものだと思ってくれればいいけどさ」
あかねも、自分がお飾りに近い役職の人間であることは分かっているらしい。
「別に、嘲ってるわけじゃないさ。こう見えて、偉いと思ってるさ。俺だって、ハクメン様のように」
けれども、ノリトは真面目な顔でそう続ける。
「や、やだなあ。ノリト君。いきなりどうしたの?」
「食べれば口が軽くなるって言ったのはお前だろ。そういうことさ」
「も、もう。ちょっと照れるってば…………」
何やら目を閉じて体をくねくねさせて照れるあかねを、再びノリトは三白眼で見る。ネコの化外と長く付き合っているせいで、気分屋なところが伝染しているんじゃないかと思えてきた。
「で、がんばるって具体的にどうするんだ?」
現実に引き戻すノリトの言葉に、案の定あかねは固まった。
「え、それは……ええと。やっぱり、あちこちのネコたちから話を聞いて、いろいろ推理してみようかなって」
「お前、まだるっこしいこと考えているなあ」
「わ、悪い?」
「守役だろ? その特権を活かさない手がどこにあるんだよ」
やっぱり、何も考えていないようだ。仕方がない。だからこそ、自分のような人間以外が、共に行動するよう仰せつかったのだろう。ノリトはそう判断し、たい焼きの残りを口に放り込む。
「ほら、そうと決まったら行こうじゃないか」
「え、どこに?」
「決まってるだろ。街角組合の親分、カゲフサのところさ」
◆◇◆◇◆◇
それから十分ほど経ってから。あかねは商店街を出て小さなお寺の前にいた。記憶を頼りにたどり着いたのがここなのだが、どうにも自信がない。周囲をきょろきょろと見回すけれども、ネコの姿も見えない。知らない人が見たら、学生が帰り道にいったい何をしているのだろうと不思議に思うことだろう。
「ええと、確かここだったよね」
「多分な」
「知らないの?」
「町はネコどもの管轄だからな。あんまり干渉すると厄介なことになるぞ。連中、チビで間抜けでマタタビに目がないくせに、プライドだけは人一倍だからなあ」
ノリトの言葉に、あかねは観念して腹をくくる。とりあえずやってみるしかない。仮に間違えたとしても、誰も見ていないのだから恥もかかない。
その場に立ち、あかねは二回拍手を打つ。まるで神社で参拝するかのような仕草だ。
「――開き給え。――招き給え」
たった二回の拍手。たった二言。それが抜ケ道を開く仕草と文言だ。言い終えるや否や、あかねは目をつぶって一歩を踏み出し、山門をくぐる。目を閉じないと、抜ケ道のぐにゃぐにゃに歪んだ空間を目にすることになるからだ。
一瞬で空気が変わるのが分かった。抜ケ道は町のあちこちに開かれた、こちら側と向こう側とを繋ぐ通路だ。昔はナワメスジなどと言い、妖怪が通る道と思われていたらしい。二回拍手を打ち、「開き給え、招き給え」と合言葉を言うことによってそれは開かれ、通るものを人間たちの世界から、化外たちの世界である異界へと導く。
あかねが目を開くと、そこはお寺の境内ではなかった。そもそも、周囲の町並みが異なっている。家々の配置や道の形はおおよそ同じなのだが、建っている家の形が違う。どこもかしこも古めかしい和風建築だ。道路も舗装されていない。もうここは異界、化外たちが暮らす世界だ。鬼灯町のネコたちは、ここと人間の世界とを行き来して暮らしている。
「やった。大正解」
「カンで道を開くなよ。カンで」
隣でノリトが呆れた顔をしているが気にしない。結果的に成功したのだから、万事OKだ。
「次からはちゃんと覚えるってば」
一応そう言いつつ、改めてあかねは目の前の建物を見る。立派な門構えの随分と大きなお屋敷だ。表札には極太の書体で「石上」と書かれている。どうやらここで正解のようだ。
「ごめんくださーい」
がらがらと引き戸を開けた瞬間、あかねはちょうど今庭から外に出ようとしていたらしい、ブチのネコに足をぶつけそうになった。いくら二本足で立ち、しかもここが化外の世界といえども、ネコの大きさは基本的に変わらない。
「ニャ!」
目を見開いてそのネコは後ろにジャンプすると、あかねが何か言う前に叫んだ。
「ニャニャン! 不審者発見! 不審者発見ニャ! メーデーメーデー! 緊急事態ニャー! 出会えー! 出会えニャー!」
敵襲か何かと勘違いされてしまったようだ。慌ててそれを止めようとしたあかねの横を、ノリトがすり抜けてネコの前に立つ。
「アホ。この尾が見えないのかよ。俺はネコの化外じゃない。ヘビの化外だ」
なおも騒ごうとするネコに、ノリトはいつの間にか出していた自分の尾を見せた。鼻先にぶっそうなものを突きつけられて、ネコはたちまち黙る。
「ニャ? ニャ…ニャんで御山の化外がここにいるニャ? それにお隣の人は……もしかして守役さんニャ?」
少し落ち着いてきたネコが、こちらを向いた。
「そうだけど、もしかして忘れちゃった?」
もっとも、あかねは確かに鬼灯町の守役だが、だからといってすべてのネコが彼女のことを知っているとは限らない。とりあえずそう言ってみると、本当に忘れていたらしくネコは跳び上がった。
「ニャー! どうも失礼しましたニャ!」
空中でくるりと一回転し、そのネコはきりっとした顔でこちらを見る。
「御免ニャすって。お控えニャすって。手前、鬼灯町は呉服屋のおマツのところに生を受けまして、産湯は三滝川、七五三は矢坂神社、生まれも育ちも生粋の鬼灯っ子、東京大阪なんのその、上京留学どこ吹く風、ここを都と思いまして、住むは街角、歩くは商店街、守るは市井の皆様、一つ尻尾立てのハンゾーと覚えてくだされば恐悦至極に存じますニャ」
突然始まったネコの口上に、あかねは少し笑いそうになってしまった。本人は大まじめでやっているようだが、どうにも振り付けや言い回しが大仰で思わず笑いがこみ上げてくる。でも明らかにそのネコは一生懸命なので笑うわけにはいかない。けれども、同時にどう答えてよいのかも分からない。
「そういうの、お前たちの間で今はやっているんだ」
幸い、固まってしまったあかねに代わって、ノリトがネコに突っ込みを入れる。
「流行り廃りじゃないニャ。れっきとした正式な挨拶ニャ。これでも略式ニャ」
「無駄に長くなりそうだな、そういうのは」
「ニャー! 失礼な人ニャ!」
あくまでもひねくれたノリトの対応に、そのネコは尻尾の毛を立てた。
あかねたちがそんな下らない押し問答を繰り返していると、不意に奥から女性の声が聞こえてきた。
「まあ、それは一理あるかもねェ」
いつの間にか、縁側に着物姿の雌の三毛猫が立っている。
「珍しい匂いがするから出てきたんだけど、やっぱりね」
三毛猫は縁側に一番近い飛び石の側に置いてあった草履を履くと、こちらに近づいてくる。
ほかのネコとは違う、より高位の化外だ。なにしろその大きさからして違う。他のネコが二本足で立ちながらもサイズは普通のネコと代わらないのに対し、この三毛猫は人間とほとんど代わらない身長だ。しかも立ち方が人間とほぼ同じ、無理のない二足歩行だ。着物の着こなしも随分と様になっている。
「姐さん! ニャんでしょうかニャ!」
ネコが耳と尻尾をピンと立てて直立不動の姿勢のようなものをとった。
「あ、どうもこんにちは。私は守役の……」
そのおちついた物腰に気圧されそうになりつつも、あかねは自己紹介をしようとしたが、三毛猫は首を振った。
「三枝あかねさんでしょ。ちゃんと知っているよ」
「知ってるんですか?」
「なんといっても、うちの主人の上に立つお人だからね。きちんと覚えておかなくちゃあ下の者に示しがつかないよ」
ちらりとその三毛猫はさっきのネコを見た。未だに直立不動もどきの姿勢を崩そうとしない。随分とこの三毛猫は他のネコたちから心酔されているのか、恐れられているのかのどちらかだ。両方かもしれない。
「ってことは……」
「お初にお目にかかるね。あたしはカゲフサの家内さ。おキヌって呼んでくれたら嬉しいねェ」
そう言うと、三毛猫は相好を崩して笑う。ネコの顔なのだが、何となく品があるし何より気っ風が良さそうだ。
「おキヌさん……。きれいな名前ですね」
あかねが正直な感想を言うと、おキヌは嬉しそうに歯を見せた。
「ああ、ありがとさん。ちなみに漢字で書くと、鬼が怒るって書くけどさ」
ぎょっとしてあかねは目を開く。
「鬼ですか?」
てっきり「お絹」だと思っていたのだが。
「そう。鬼が怒るって書いて鬼怒。いい名前だろう?」
そう言っておキヌは笑うのだが、あかねは釣られて笑えなかった。ネコが直立不動のままでいる理由が、何となく分かったからだ。