第七章(その二)
異界の新公園は、向こう側の新公園と形状にさほどの変化はない。けれどもこちらの新公園には舗装された道がなく、また芝生のあちこちにあずまやのようなものが建っている。ネコたちの休憩場所なのだろう。確かに、ネコたちにとってこの日当たりのよいのんびりとした場所を、何とか自分のものにしたいと血道を上げる気持ちも分からないでもない。
そんな新公園の入り口に、カゲフサとマサツナはいた。地べたにべったりと座り込んだその姿は、一週間外をさまよい歩いた野良猫もこうはならないと思うほどにみすぼらしいものだ。全身は川に飛び込んだせいでぬれねずみである上に、ここにたどり着くまでに何度も転んだせいで泥だらけ、砂だらけ、土だらけだ。
カゲフサの立派な和服も、マサツナの派手なスーツも、あちこちが破れ、消えない染みが付き、おまけにびしょ濡れだ。普段は丁寧にトリートメントしているはずの毛並みは捨てられたモップのようになり、特に尻尾がひどい。先がちびてボロボロになった竹箒をなおも無理矢理使い続けたら、このようになるだろうか。
何よりも悲惨なのは二人の表情だ。疲労困憊し、溺れかけ、完全にへばっているにもかかわらず、その血走った目は憎しみと怨みをたたえてお互いを睨みつけている。ここまでひどい目に遭っているのに、まだ二人の闘争意欲は消えていない。いや、逆に燃え上がったのかもしれない。お互い自分が勝利する、と信じきっている。それだけが希望だ。
「おめでとうございます。マサツナさん、カゲフサさん。三滝川横断お疲れ様でした。見事同着でゴールインです」
下水の底でもがくドブネズミと化した二人の耳に、白々しいくらいに爽やかなあかねの声が聞こえた。守役が公園の奥から歩いてくる。明らかな嫌みだ。その「同着」という言葉に、カゲフサのボロ雑巾のような耳がぴくりと動いた。
「俺のほうが早かったあああああああ!」
突然、カゲフサは立ち上がると全身から滴をまき散らしながら絶叫する。
「俺のほうが先にゴールインしたんだ! した! だからこれは俺の勝ちだ! 勝ちだ! 公園は俺のものだあああああ!」
一時的な錯乱状態にあるようだ。その目は明らかに普通ではない。
「ほざけええええええ!」
一方的な勝利宣言を聞いて、マサツナが黙っているはずがない。彼もまた立ち上がると、カゲフサに詰め寄る。
「よくもぬけぬけと嘘をついたなああああああ! 親分のプライドはどこいったんじゃああああ!」
ここまでを聞くと、マサツナは公平なルールを踏みにじったカゲフサに怒っているように思える。しかし、
「わしの方が早かったんじゃ! 早かったに決まってるんじゃ! だから公園はわしのもんじゃああああああああ!」
何のことはない。単にマサツナは、カゲフサの主張をあかねが聞き入れたら困ると思っただけだ。結果として行ったことは、カゲフサと同レベルの行為である。自分の方が先にゴールした、とわめき散らすことだけだ。
果たして、二人は嘘をついて自分の順位が先だと偽っているのだろうか。それとも、心の底からそう信じ込んでいるのだろうか。正気の外に迷い出てしまった二人の表情からは、どちらが本当か窺い知ることはできない。
「黙れ! 黙れえ! 俺だ俺だ俺だ俺だ俺だあああああああ!」
「わしじゃわしじゃわしじゃわしじゃわしじゃああああああ!」
二人はあかねと子分たちと妻たちの前で、みっともなくなおも口喧嘩を続ける。ついに手も出るし足も出る。だが殴り合っているわけでない。そんな体力は二人に残されていない。カゲフサとマサツナは、公園の砂場で幼児が喧嘩する時のように、しゃがみ込むと互いに地面の砂を握ってはぶつけ合う。後足も使うところはまさにトイレの後のネコだ。
「はいはい、お二人とも落ち着いてくださいね。ハクメン様の御前ですよ。不敬です」
あかねがそう言うが、どうにも二人の耳には届いていないようだ。一度ため息をつくと、それでもあかねは次の言葉を続ける。
「それでは第三戦、最終戦です。お二人には、戦っていただきます」
その言葉が福音だった。カゲフサとマサツナは、ぴたりと動きを止めた。
「へ、へへへへへ……そうだよ……そうこなくっちゃなあ……」
「マラソンも水泳も下らないんじゃ……最後はやっぱり、爪と歯がものをいうんじゃ……」
ぎこちない動きで間合いを取ると、二人は身を屈めて睨み合う。ようやくこの時が来た。ハクメンの御前で、気兼ねなく胸の内に燃え盛る恨み辛みを暴力に変える時が来たのだ。
「この時を待ってたぜ。覚悟はいいか、このヘタレ尻尾が」
「念仏唱えるのは今のうちだぜ。このタヌキモドキが」
減らず口をたたきつつも、勝手に二人の顔は笑みに変わっていく。捕食動物の顔になって戦闘態勢を取るカゲフサとマサツナに、しかし次の瞬間言葉の冷や水が浴びせられた。
「え、何言ってるんですか?」
あかねは心底理解できないといった顔で、二人を見ている。
「なんでお二人とも、仲間割れして同士討ちをしようとしているんですか?」
「ニャ?」
同士討ち、という聞き捨てならない言葉に、二人は二匹に戻って頭の上に疑問符を浮かべた。
「戦う、って私は言いましたけど、二人で勝負するなんて一言も言っていませんよ」
「ニャ?」
意味が分からない。戦う、と言ったのならば、目の前の仇以外に誰と戦えと言うのだろうか。カゲフサとマサツナは闘争心の矛先をどこに向けてよいのか分からず、おろおろとする。けれどもあかねは、不気味なまでに平静な声のままこう言った。
「お二人が勝負を挑むことを快く承諾してくださったのは、この方です」
その言葉が引き金だった。あかねの後ろの新公園。その広大な空間がぐにゃりと歪んだ。抜ケ道ではない。新公園の中央に抜ケ道の入り口はないはずだ。だからこれは、抜ケ道ではない。けれどもやっていることはそれと似ている。
強制的に異界の内部の空間をねじ曲げて、何かが姿を現そうとしている。向こう側から異界へ、正式な通路を使って来るのではない。異界のある場所からここへと、自らの力だけで空間を歪曲させ転移してきたのだ。そんなことができるほどの力を持つ化外など、鬼灯町ではたった一人しか考えられない。
「汝、知らずや――――」
その声は、女の麗しさと、男の猛々しさとが完璧なまでに同居している。聞き手によって、それは女の声となり、男の声となるだろう。性別を超えた不可思議な声が、公園全体の空気を震わせる。「それ」ではない。「その御方」である。荒ぶる御霊の顕現が、今まさに公園の空間を触媒にして行われる。
歪んだ空間から溢れ出したのは、二つのまったく異なる気配だった。片方は「瑞気」と呼ぶべき神々しい空気だ。その場にいるだけで居住まいを正したくなるのと同時に、心が安らいでいく。だがもう片方は「瘴気」と呼ぶべき禍々しい空気だった。ありとあらゆるものを朽ちさせ、衰えさせ、死へ導くおぞましさに鳥肌が立っていく。
「我天地定かならぬ時より 日ノ本の基に住まう 祟リ大蛇の総領なり 旧き名を八百峰大山津霊 今様に名乗るならば――」
その御方はカゲフサとマサツナの眼前に、ついに姿を現した。大木よりもなお太い胴体。紅玉よりもなお赤い瞳。真珠よりもなお輝く白い鱗。全長三十メートル以上はあるその大蛇は、口を開けて名乗った。
「我が名はハクメン! 頭を垂れて伏し拝め 我は万の幸いを 千万の災いを統べるものなり――!」
そう、二人が戦うべき相手とは、御山の主であるハクメンだったのだ。
「出たニャアアアアアア!」
「怖いニャアアアアアア!」
二人――ではなくて二匹は、ハクメンを見た生物が取る至極当たり前の行動を取った。
恥も外聞もなく、二匹は悲鳴を上げてひしと抱き合った。御山の主の顕現と対峙したのだ。こうなるのが普通である。ハクメンを恐れないということは、山崩れが目の前に迫ってきても恐れないことに等しい。生物としてそれは間違っている。いみじくも山崩れは別名「蛇崩れ」とも言うのだ。破壊的な自然現象に、生物はなすすべなどあるはずもない。
このハクメンに、恐れる様子もなく抱きつくあかねが異常なだけだ。実際、その場で抱き合っているカゲフサとマサツナはまだいい方だ。ほかの子分のネコたちは、ハクメンの姿を見た途端にニャーニャー鳴きながらクモの子を散らすようにして散り散りになってしまった。おキヌとおフユも、ノリトさえどこかに姿をくらましている。
「十分間の休憩の後、試合を開始します。と言っても、ハクメン様とまともに戦ったらお二人ともノミのように潰されてしまいますものね」
ただ一人、ハクメンに恐怖を感じないあかねだけが、平然とそう告げる。馬鹿にしたような物言いだが、二人とも言い返す気力はどこにもない。砂漠の真ん中に置いたシャーベットのようにそれは溶けてしまった。
「ですので、ハンデを与えます」
あかねはルールを説明する。
「一発です。一発でもいいからハクメン様に当てることができたら、お二人の勝ちですよ。光栄に思ってくださいね」
これでも最大限譲歩したんですから、と言わんばかりにあかねはにっこりと笑った。あかねのその顔がヘビと重なっているように見えて、二人はなおさら震え上がるのだった。
◆◇◆◇◆◇
『ふむ。こんなものでよかっただろうか』
呆然と立ち尽くすカゲフサとマサツナをよそに、ハクメンは公園の奥の方にその巨体を横たえる。物理的に巨大であるのもさることながら、全身から放つ気配が凄まじいのだ。このままだと逃げたネコたちが帰ってこない恐れがあるため、公園の奥まで移動したのだ。
「さすがハクメン様、格好良かったですよ」
すかさずあかねは近寄ると、ハクメンを独占できると言わんばかりに、その体に寄りかかって座る。ハクメンの胴体を背もたれ代わりにするというなれなれしさである。手放しでハクメンの一挙一動を褒めたたえるあかねの言葉に、ハクメンは照れる様子もなく彼女の心へと語りかける。
『名乗りを上げることなど久方ぶりだな。少々、勝手が分からずこそばゆかったぞ』
話題となるのは、ハクメンが顕現する際に発したあの名乗りについてだ。あれは正式なものではない。ネコたちの口上に合わせた即席のものである。実のところ、ハクメンは自分の年齢を忘れている。日本誕生以前から存在していたかどうかは、自分でも分からない。
「でもですね、難を言うならもうちょっとだけケレン味が欲しかったですね」
しかし、続いてあかねが発した言葉は、何とハクメンに対する駄目出しだった。
『外連味だと?』
「ええ。どうせならもっと長くて、もっと難しい台詞とかいっぱい使って、もっと擬古文っぽい言葉にして、呪文の詠唱みたいにしたらよかったんじゃないでしょうか」
あろうことか、あかねが勧めてきたのはより芝居がかった台詞にした方がいいというものだった。あっけにとられて無言のハクメンを、自分の提案を肯定しているものと勘違いしたらしきあかねは、さらに要求を跳ね上げていく。
「あ、もしよかったら作ってあげますよ、私が。ハクメン様の名乗りを」
『ほう。お前の頭の容量と中身でか?』
「できますよ。こう見えても私、れっきとした中学生なんですから。古文とか勉強中です!」
得意そうに胸を張るあかねを、ハクメンは冷たい目で見下ろす。この根拠のない自信がどこから湧いてくるのか。それは数百年を、あるいは千年以上を生きてきた大蛇でさえも分からない神秘だった。低級の神秘ではあるが。
「で、どうです? 私、やる気ありますから」
期待に満ちたあかねの目に、ハクメンは自分の目を合わせる。
『未熟者め。私の代作をしたいのであればせめてこれくらい日ノ本の物言いは覚えておくのだな』
視線を通じて、ハクメンはあかねの脳と精神と魂とその他諸々を掌握する。
大口を叩く割りに恐ろしくお粗末なその頭の中に、ハクメンは自分が蓄えてきた知識のごくわずかをそっと挿入する。プールの水の中に、海水を一滴スポイトで入れるようなものだ。ハクメンを大海にたとえるならば、あかねの頭の中はプール程度の大きさである。変化は即時だった。あかねの五体が急に突っ張る。
「あッ! ああッ! あああッ! なにこれなにこれなにこれ頭頭頭の中になんか言葉がいっぱい増えてる! 増えてる! 増えすぎてる!? すごいすごいすごいちょっとこれやめてえええなにそれ平家物語に和泉式部に世間胸算用に古今和歌集それよく分かんない分かんないからやめてやめてやめて頭が壊れる壊れる壊れるもう無理無理無理無理っ!」
知識を直接脳に刻まれるという得難い体験に、あかねは一瞬で音を上げて頭を抱える。強制的に頭を良くされるのはさすがに辛かったらしい。ハクメンはすぐさまその知識を取り出し、あかねに対するすべての支配権を手放す。張り詰めた弓のように突っ張っていたあかねの体が、たちまち脱力してハクメンの胴体にもたれかかる。
「ひどいですよお、ハクメン様……。本当に、壊れるかと思いました…………」
目に少し涙をたたえて、あかねはハクメンに訴える。さすがに少しやり過ぎたかもしれない。もっとも、たとえ壊れたとしても自分ならばすぐに元通りにできる。しかし、次の瞬間ハクメンは思った。たとえ簡単に治せるとしても、この小さな人間を決して壊したくはない、と。
奇妙な感覚だ。元通りにできるはずなのに、それを壊したくない、とは。あかねといると、そんな奇妙な感覚ばかりが増えていくのだ。ハクメンは内心の複雑な思いを気取られるよう、努めて平静な声で言う。
『自分が不勉強なのが分かったか、あかね。代作うんぬんより、まずは中学生としてふさわしいくらいの学力くらいは身につけておくことだな』
「はい。そりゃもうすごく…………」
あかねはぐったりとしつつも、安心しきった様子でハクメンに身を預けていた。もうじき十分経つ。そうしたら休憩は終わりだ。ハクメンは動き出し、カゲフサとマサツナがそれを迎え撃つことになるだろう。あかねの整えた舞台で、ネコとヘビの化外がそれぞれ己の役割を演じようとしていた。
◆◇◆◇◆◇
「お、おしまいだあ。もうダメだ、無理に決まってる……」
「ハ、ハクメン様に勝てるわけないんじゃあ。絶対に、絶対に無理じゃあ……」
一方、新公園の入り口ではカゲフサとマサツナが絶望的な呻き声を絞り出していた。二人がそう思うのも無理はない。いきなり徒手空拳で山津波を止めてみせろと言われたのに等しいのだ。
「お前さえ意地を張らなきゃこんなことに……」
「お前さえ欲をかかなきゃこんなことに……」
この期に及んでなお身の不遇を託つ二人だったが、やがて互いの顔をじっと見つめると、深々と同時にため息をついた。
「いや、もうよそう」
「そうじゃな。ばかばかしくなった」
何もかも失って、ようやく吹っ切れることができたのだろう。
「俺さえ欲をかかなきゃ、こんなことにならなかった」
「わしさえ意地を張らなきゃ、こんなことにならなかった」
「悪かったな、マサツナ」
「すまんかったな、カゲフサ」
ついに。本当についに、である。やっとのことで、カゲフサとマサツナは己の非を認めて、頭を下げた。街角組合と駅前組合の親分が、和解の席に着いたのだ。
「いろいろあったが、お前とはマサムネさんのところで同じ釜の飯を食った仲だ。忘れんよ」
「まったくじゃ。親父に拾われる前は、一匹の魚を二人で分け合うこともした間柄じゃ」
かつてのマサムネの子分だった楽しい時を、野良猫だった辛い時を思い出した二人の目に生気が戻っていく。
「いつぞやの、野良犬を相手にしたみたいにやろうか」
「応よ。それしかほかに活路はないようじゃ」
「相手はハクメン様だ。二度は通用しないぜ。いや、一度だって通用するかは分からん」
「構わん。ここがわしらの晴れ舞台にして死に場所じゃ。最後に一花、お前と一緒に咲かせるんじゃ」
そうなると、二人は多くの子分たちを束ねるボス猫である。一度吹っ切れれば、後はもう簡単だ。顔の泥を拭い、二人は立ち上がった。失うもののない男の、自棄となった意地だけが二人の足を立たせ、燃え上がる力となっていく。しかしそれは、決して不快なものではない。むしろ二人の頭は冴え渡り、爽快ですらあった。
「いくぞ。本物のネコの喧嘩を見せてやるぜ」
「よっしゃあ。血がたぎってきたんじゃ」
二人は威勢のいい言葉を発することで、自分で自分に気合いを入れる。ちょうどその時、公園の奥からハクメンがこちらに向かって這ってくるのが見えた。十分が過ぎたようだ。守役のあかねは、さりげなくハクメンから遠ざかる。
「休息の時間は終わりだ。そろそろ、始めようか」
その言葉に、二人はぱっと居住まいを正す。
「本日はお越しくださり、まことにありがたく存じます」
「我らの下らぬ喧嘩にハクメン様が直々に足を運ぶ次第となり、慙愧の念に堪えません」
一度手を突いて深々と土下座をしてから、二人は立ち上がる。一世一代のあいさつの始まりだ。
「御免なすって。お控えなすって。手前、生まれも知らず親の顔も知らぬ、お天道様に顔向けできぬ生まれながらの野良猫でございます。卑しい生まれ故生国、親の名、言わぬ事なにとぞご容赦願います。覚えているのはきょうだいたちと寄り添いながら、それでも生きると胸に誓ったあの冬のこと。寒さもひもじさも苦しさも、来るなら来いとどんと来い。けれどもあるのはやるせなさ。何故自分は男になれぬのか。きょうだいたちは一人、また一人と身罷りまして、ついにこの身は天涯孤独。きょうだいたちの死に様に、明日は我が身と怯えつつ、お迎えが来るのは今日か明日かそれとも明後日か。その折に出会いましたのは隣にいますこの男、名をマサツナと言います」
「御免なすって。お控えなすって。手前、生まれは遠く西の本田町、床屋のおカネのところに生を受けまして、六人きょうだいの末っ子にございます。幼い時より生意気で、口から先に生まれたのかと馬鹿にされ、兄貴姉貴に足蹴にされ、それでも望みは一国一城の主。そんな時に目にしたのは、近くの組合にわらじを脱いだ一人の男前。顔には傷、腕には覚え、胸には男気。風の向くまま気の向くまま、賽の目に預けるその命、身も心も惚れ込みまして、自分も男になると息巻いて、親元を飛び出しまして町から町へ。半端物ゆえ男の生き様見ることかなわず知ることかなわず教わることかなわず。どこから見てもただの野良猫汚いネコ。そんな折に知り合ったのが、隣にいますこの男、名をカゲフサと言います」
「一匹の魚を二人で分け合い、やがて芽生える友の情。いつしか胸に抱くのは、一旗揚げて天下一。何より願うはこの三つ。男を上げたい、男を継ぎたい、男を育てたい。そんな願いを叶えて下さったのは、小田桐三代目を継ぎます一角屋根裏ノ守権之丞正宗でございます。縁あって一家の末席に加えてもらい、晴れて進むは男の花道荒道真の道」
「男の義理と人情を、皆様に叩き込んでいただき、やがて成りましたのは二人合わせてマサムネ配下の伝家の宝刀、いざというときの懐刀。懐に忍ばせるは匕首、胸に抱くは大和魂、心に刻むは親分の生き様。やがて市井の皆様の口の端にのぼる通り名、発せさせていただければ、鬼灯町の阿吽兄弟と言います」
「改めて名乗らせていただきます。姓名名乗ります。失礼にございます。手前は石上八代目を継ぎます。数は五葉です。守りは縁ノ下にございます。姓は石上、名は五郎左衛門。通称景房。今日はお見知りおかれまして恐縮千万、恐悦至極、今後ともよろしくお頼み申し上げます」
「改めて名乗らせていただきます。姓名名乗ります。失礼にございます。手前は服部十代目を継ぎます。数は六車です。守りは台所にございます。姓は服部、名は彦兵衛。通称正綱。今日はお見知りおかれまして恐縮千万、恐悦至極、今後ともよろしくお頼み申し上げます」
長い長い口上が終わった。それは二人の生まれと育ちを述べたものだ。カゲフサは生まれついての野良猫。マサツナは飼い猫の元を飛び出した野良猫だ。野良猫時代に肩を寄せ合って生きていた二匹は、やがて鬼灯町にたどり着き、マサムネに拾われて化外となった。鬼灯町の阿吽兄弟は、自分の組合を持つ親分にまで成長したのだ。
あいさつを述べつつ、二人は思う。自分たちがどうやってここまで大きくなっていったのかを。そこにはいつも、カゲフサがいて、マサツナがいた。まさに阿吽という言葉にふさわしく、カゲフサとマサツナは二人で一人だったのだ。それなのにいつの間にか、下らないプライドにかかずらって喧嘩ばかりしていた。本当に自分たちは馬鹿だった。
「では、行こうか」
完璧にあいさつを終えた二人に、ハクメンがそう述べるとゆっくりと上体を起こす。山が動くかのような圧迫感が押し寄せてくるが、それでもカゲフサとマサツナは退かない。今の二人は、完全に鬼灯町の阿吽兄弟だった頃に戻っている。
「合点!」
「仕る!」
次の瞬間、濃い煙がもうもうと二人の足元から立ちのぼる。
その煙の中から姿を現したのは、服を着た人間サイズのネコではない。それはネコの親分としての、化外の本来の姿だ。鯖猫と虎猫という毛皮の色は同じだが、その大きさが違う。あかねが見たら身がすくむほどの大きさだ。虎やライオンよりもさらに大きい。二匹に戻った二人は、背中の毛を逆立てて獰猛な唸り声を発する。それが開始のゴングだった。