弟八回
仕事が終わり、沙織は瀧蔵の部屋に向かいながら夕方届いたメールの内容を思い出していた。
『他にもメールしてる人がいるのかしら…』そう思いながら、沙織は深刻に考えないよう努めた。
インターホンを鳴らすが応答は無く、携帯にもメールは届いていない。時計は既に十時半を回っていたが、瀧蔵が帰って来る気配はなかった。沙織と約束がある日に瀧蔵が遅れるのは珍しい。沙織を待たせる時には必ず携帯電話に連絡をくれたが、今夜はそれすらなく、不信に思った沙織が
「今、マンションのロビーにいるんだけど、まだ帰れないの?」
メールをしてみた。しかし、返事はこない。沙織の胸に不安が広がった。落ち着かない気持ちで待ち続けると午前十二時を回ってようやく瀧蔵が現れた。
「お帰りなさい」
連絡もないまま遅い帰宅になった瀧蔵は、沙織を無視して無言のままエレベーターのボタンを押した。長い時間待たされた沙織はそんな瀧蔵の様子に腹が立った。
「どうしたの?」
声をかけると
「別に」
沙織を見ずに答えた。飲んできたのか少し酔っているようだ。
「メール送ったのよ」
「見てないよ」
瀧蔵は素っ気なくいうと玄関を開けた。沙織は後を追うように中に入った。
「見てないってどういうこと? 夕方もメールしたのに…届いてないの?」
沙織が訊くと
「知らない」
そう言いながらスーツとネクタイを一緒にソファーへ放り投げ、沙織と目も合わせずにバスルームへ入ってしまった。 これまで沙織は瀧蔵の最近の変化を気にしないよう努めてきたが、この時、今まで無関心を装おうとした事がかえっていけなかったのかもしれない…沙織はつらつらと考えた。
沙織が無造作に脱ぎ散らかされた衣服をソファーから取り上げ、ハンガーに掛けようとした時だった。上着の内ポケットから携帯電話が落ちてしまい、その瞬間、夕方のメールが頭をよぎったのだ。「絵に描いたような幸せなんてない」という怪訝な内容だったが、その事を今夜の瀧蔵から聞き出す事は難しいかもしれない。シャワーの音は止みそうになかった。誰とどんなやりとりをしていたのか気になった沙織は、メールを見たい衝動にかられながらも躊躇っていた。すると携帯電話の着信音が鳴った。まるで、沙織の企みを見透かしたような絶妙なタイミングに戸惑いながらディスプレイを見ると、メール着信のマークが表示されている。送り主や内容を確認しようとした沙織は悩んだ。瀧蔵の入浴中に無断で内容を見る事に躊躇したのだ。そのまましばらく携帯電話を見つめた後、沙織は迷いを振り切るように携帯電話を再びポケットにしまい、上着を元のようにソファーに置き直した。
その先を見て相手が分かったからといって、何も生まれない気がしたのだ。知る事が怖かったのかもしれない。そんな事より、瀧蔵自身がこの頃の変化や今夜の事を沙織が理解できるよう説明しない限り、理由がなんであれ、この関係は先が見えていると沙織は感じた。
シャワーを浴び終えたスウェット姿の瀧蔵が、タオルで頭を拭きながら冷蔵庫からビールを取り出していた。
「携帯、鳴ってたわよ」
沙織が言うと瀧蔵はその言葉には答えず沙織の前を横切ると、脱いだままだったスーツを手に取り寝室へ消えた。メールを読んでいるのか少し経ってから部屋に戻ると淡々とした表情で沙織を見た。
「座れば」
突っ立ている沙織に言った。沙織は感情的にならないよう注意しながら夕方のメールが届いていないか、改めて訊いた。
「サーバーの調子が悪いのかな。まだ見てないよ。明日確認する」
沈黙の後、瀧蔵が言った。
「…そう」
嘘か本当かは分からないが、瀧蔵がそう言うなら信じるしか無い。
「…ところで、夕方あなたから変なメールが届いたんだけど、あれ、何?」
『絵に描いたような幸せなんてないよ』という、沙織には全く心当たりのない返信がどうしても気になった。が、瀧蔵は 答えようとしない。沙織は自分の携帯を取り出し、夕方届いたメールを見せると、送り主である本人の瀧蔵は
「返事が早く届くのが絵に描いたような幸せではない、って言いたかったんじゃないかな」
それは夕方、沙織が適当に書き送った内容だった。瀧蔵のメールの意味が分からず、当てずっぽうに書いたものだ。その時の内容を瀧蔵は自分の返事として答えたのだ。それを聞き、夕方の沙織の返信を瀧蔵が読んでいる事を確信した。
「それって、さっき私が書いた言葉よね……本当に、読んでないの?」
沙織は探るように尋ねた。
「さっき、俺を待っている間にここからメール送ったんでしょ? それは届いてないよ。夕方のはそう言う意味だ」
瀧蔵は巧くかわした。沙織は正攻法ではダメだと感じた。これではいたちごっこに陥ってしまう。“何かある”にしても、瀧蔵は沙織にその事は言いたくないようだ。という事は、この関係を壊す気は無いのかもしれない…そう感じた。しかし、こんなすっきりしない状況が長引くのは我慢できない。そんな沙織の気持ちがわからないなら、瀧蔵を増々信用できなくなるだろう。そんな信頼できない関係が必要なのか、沙織は疑問だった。無理をして自分を納得させながら、信用出来ない瀧蔵を信じているフリをして付き合い続ける理由が見つからない。瀧蔵はそれで良くても、沙織はそんな状況が続く事は我慢できないだろう。
「…どうして、最近平日に誘わないの?」
「忙しいんだ」
ため息まじりに瀧蔵は答えるとソファーにどっかりと腰を下ろした。沙織は皮肉まじりに
「…忙しいって、便利な言葉よね。私も良く使うわ。…嫌いな人に誘われたり、面倒な事を任されそうになったりすると、忙しいので、って逃げるわ」
そう言うと
「沙織はそうなんだ。俺はそう言う事は言わないな」
瀧蔵はこれから沙織が言わんとしている事を察知したのか、憮然とした表情で言った。先手必勝とでも思っているのだろうか。『俺は忙しいを逃げ口上にしてない』と、沙織が何か言う前から予防線を張るところが憎らしく、沙織はムッとして思わずカマをかけた。
「私、この間あなたが女の人といるのを見たのよ」
瀧蔵は冷静に
「どこで?」
沙織は言葉に詰まった。
「そこの交差点」
苦し紛れに答えると
「そこって、バス通りの交差点? …それは違うな、人違いだよ」
瀧蔵はあっさり否定した。あまりに淡々としているので沙織は拍子抜けしながら
「そんなはず無いわ。私はあなたを見間違えたりしないもの。車だってあなたのだった」
でたらめを並べて食い下がった。
「ああ、そ。じゃあ、そう思ってれば?」
瀧蔵は薄笑いを浮かべながら余裕しゃくしゃくで言う。この辺に女を連れてきてないのかもしれない…こんなやり方ではラチが開かない、そう思った沙織はいずまいを正し、ストレートに訊いた。
「最近、あなたおかしいわ。私、あなたは他に付き合ってる女がいると思ってるの」
瀧蔵は顔色も変えずに
「どうしてそ思うのかな…飛躍してるよなぁ…」
瀧蔵は首を捻りながらビールのリングプルを開けた。
「俺が忙しいから?」
のんびりした口調で沙織に訊いた。沙織が頷くと
「沙織だって結構忙しいって言ってるぜ。でも俺はそんな風に思ってないよ」
瀧蔵は沙織の顔を見つめながら静かに言うと、正面の壁に視線を移しビールを一口飲んだ。
「……なんで疑われるのかな…」
独り言を呟きながら首を捻るが沙織が何も言わずに黙っていると
「…いいんじゃないかな、それで…」
何か考えたのか、瀧蔵はまた独り言のように呟いた。その言葉に他意はなさそうだった。が、沙織は何か引っかかった。問い返したいが言葉が見つからない。
「……いいのかな?…それで…」
沙織がおうむ返しすると、今度は瀧蔵が何も答えなかった。
瀧蔵の穏やかな様子や物言い、内容、どこをとっても確信は持てない。でも、沙織は何か引っかかっていた。瀧蔵は「他に女はいない」と否定をしないのだ。何故否定をしないのか…。
「他に誰かいるでしょ?」
沙織が訊くと瀧蔵はため息をつきながら
「…沙織は、なんて答えてほしいの?」
「なんてって……こういう場合、いなければいないって言うんじゃないの?」
沙織は少し呆れたように言った。
「じゃぁ、いない」
沙織はカチンときた。“じゃぁ”ってなんなんだろう…余計にモヤモヤしてしまう。
「俺は沙織みたいにキッチリしてないんだよ。『いますか?』『はい、いません。はい、います』みたいな…なんて言うか、そういう感じじゃないんだよ」
沙織はますます分からない。YESかNO、こんなシンプルな答えはない。それなのに、瀧蔵は妙にもってまわった感じなのだ。そしてやっぱり否定しない。のらくらのらくらして結局答えは曖昧なままだ。次第に疲れてきた沙織は苛立ちながら
「……じゃあ、いないの? いるの? どっち?」
詰問した。
「随分拘るな…」
瀧蔵もうんざりした様子で呟く。『要するに、いるのね』沙織は胸の中でそう結論づけた。沙織は瀧蔵のこういうところがどうしても理解出来ない。
「…なんで答えを曖昧にしておきたいのかが私には分からないわ。それは駆け引きのつもり? だったら逆効果よ。私は 今のあなたの態度で いるけど認めたくないからのらりくらりしてるんだ、としか受け取れませんでした」
付き合いきれない、沙織はどっと疲れが出てきた。時計を見ると既に二時を回っていた。YESかNOで済む事を何故この人はこうもまわりくどいのだろうか…沙織は、感性が違うと改めて思った。
「…そう思いたければ思えばいい」
面倒くさそうに瀧蔵は投げやりな口調で言った。
「そうですか。じゃあ、そう思う事にします。女の勘は鋭いんです。シラをきれると思ってそういう言い方をするなら、それは甘いわ。私をバカにしてるのよ」
沙織は怒っていた。女がいる、いないじゃない、瀧蔵のこういう態度がイライラするのだ、と沙織は思った。
「バカになんかしてないよ。なんでそういうことで怒るのか俺には分からないよ。取りたいようにとればいい」
怒る沙織とは対照的に瀧蔵は冷静だった。二人の会話が噛み合ない。
「あなたの私に対する気持ちがよく分かりました。どう取られてもいい、その程度の気持ちで私と付き合ってるという事ね」
それなら私ももういい、その時の沙織はそんな気持ちだった。
「……こんな話してて面白い?」
瀧蔵はシラケた顔で沙織に訊いた。沙織の怒りや思いは空回りしている。その事が一層悔しかった。
「ええ、面白いわよ! あなたが青くなったり赤くなったりするのが楽しいわ!」
沙織は、それは自分の方だと思い、言いながら落ち込んだ。
「どう答えれば沙織は納得するの?」
怒りが止まらない沙織の様子をなだめようと思ったのか、瀧蔵が穏やかな口調で訊いた。
「答え方の問題じゃないわっ。実際はどうなの?って訊いてるんだから、普通は『YESかNO』なんじゃない? それをくどくど言って、挙げ句、じゃあいない、とか、じゃあいるよ、とか…。私次第で答えを変えるなんて狡いわ。そう思っていい、というなら付き合う必要ないでしょ? 私、他に女がいるような男はイヤよ。騙してったことよね」
沙織は怒っていた。
「あなたと付き合ってると時間が無駄に流れていくわ。もうこんな時間よ…YESかNOならとっくに帰れてるのに」
沙織は疲れていて眠りたかった。これ以上、言葉遊びをする気力は無かった。
「沙織は最初から決めつけてるだろう?」
「だっておかしいもの。決めつけられていたとしてもそれが事実じゃないなら普通は尚更、否定するんじゃないの? それをしないのは他に女がいるから、としか考えられないわ。そんな人なら付き合うのは時間の無駄だと言ってるのよ。あなた分からないの?」
沙織ははっきりしない瀧蔵の態度に疲労と苛立ちが強まるのを感じるが、それを隠そうとしなかった。決めつければ『そんなことないっ』とはっきり否定するかと思ったが、瀧蔵は飽くまでも否定しようとしない。瀧蔵の言い分を聞いていたのでは沙織のモヤモヤした気持ちが増幅する一方だった。
「最近ずっと機嫌が悪いし、メール送っても返事来ないし…おかしいわ」
沙織は断言した。瀧蔵は黙ったままだ。
「誰ですか? どんな人? 訊く権利くらいはあると思うわ。私は怒ってるのよ? わかってる?」
沙織は瀧蔵をバカにしたように言った。とことん追いつめてやる、という攻撃的な気持ちが生まれていた。
「そう思えば、って言うなら、そう思いますから、キチンと説明して下さい。私を騙したんですか?」
沙織の憤る様を見て、瀧蔵は無言のまま俯いている。やっとため息まじりに
「…沙織は、なんでそうなのかな…」
瀧蔵は少し悲しそうな深刻な顔で呟いた。もし、本当に沙織の勘が外れているなら沙織の言ってる事は滅茶苦茶に映るだろう。が、瀧蔵の態度は沙織からみれば否定しているとは言い難かった。少し言い過ぎた、と思いながらも沙織は更に言葉を重ねた。
「あなたがはっきり言わないからよ。あなたが言わせてるのよ? あなたの話では私は納得出来ないわ」
沙織は毅然と言った。
「さっきのメールは誰なの?」
沙織は確信をついた。これ以上、押し問答をするのは無駄だと、沙織もようやく気づいた。瀧蔵は下を向いたまま答えない。
「今度は黙りなの? 卑怯よ」
沙織は譲るつもりはなかった。
「答えないなら携帯見せてもらうわ」
沙織が言いながら携帯を取りに行こうとすると
「やめてくれっ」
瀧蔵は強い口調で言うと寝室に向かう沙織を止めようとした。
「どうして止めるの? やましくないなら見せられるはずでしょう?」
この時沙織は曖昧な態度を続ける瀧蔵の答えが携帯の中にあると確信した。
「人の物を勝手に見るな!」
「未だ見てないわよ!」
「沙織には関係ないことなんだ」
瀧蔵は、気色ばんで言った。
「何が関係ないの? …やっぱり何かあるのね…」
瀧蔵は険しくなった表情を沙織から背けた。
「…どんな人なの? いつから? …私には関係あるわ」
沙織は冷静な口調で聞き返した。瀧蔵は制止した手を沙織から離すと、ゆっくりとした動きでソファーに座り込んで深いため息をついた。
「…どうしようもなかったんだ」
長い沈黙の後、地の底を這うような低い、震えた声で瀧蔵は言った。まるで、呻き声のようだった。沙織は一瞬、我が耳を疑った。何を言おうとしているのか瀧蔵の言葉を聞いた瞬間、理解出来ずその場に立ち尽くした。言葉の意味よりも、今まで聞いた事の無い瀧蔵の声にこれから起こる不吉な展開を予感し、軽い衝撃を受けていた。少し時間が経ってから、その声と言葉の意味を理解した沙織は、全身から力が抜けていくのを感じ、言葉を失った。何を言えばいいのか分からない。問いつめながらも、否定してほしいと思っていたのに、瀧蔵は白状してしまったのだ。
「……本当なの?」
長い沈黙の後、呆然としながら沙織は声をふり絞るように訊いた。瀧蔵は答えない。長い長い沈黙が続いた。どのくらいの時間が過ぎただろう、ようやく沙織は冷静さを取り戻した。先ほどとは違う、落ち着いた口調で
「…もう、そういう関係なの……?」
瀧蔵は前屈みの姿勢のままうなだれていた。
「……誰?」
瀧蔵はなかなか言おうとしない。ここまで来て引き下がれない沙織は瀧蔵の膝を揺すりながら
「ねぇ、教えてちょうだい」
瀧蔵を問いつめた。沙織の追求に負けた瀧蔵は
「………香子」
耳を澄まさなければ聞き取れないような低い声で言った。沙織はその名前に聞き覚えがあった。
瀧蔵が以前付き合っていた女だ。瀧蔵が本社での仕事に見切りをつけて今の会社に出向した頃、香子は別の男性と結婚したと聞いていた。以前瀧蔵がその事を沙織に打ち明けた時「自分から進んで子会社に赴くような男では将来性がないと思ったんじゃないかな」と自嘲気味に言っていた。
「……結婚したんじゃないの?」
沙織が問うと瀧蔵は重い口をゆっくりと開いた。これ以上、沙織を誤摩化しきれないと感じたのか、開き直ったような、観念したような口ぶりでため息まじりに答えた。
「まぁ、そうなんだけどね…」
「いつから? どうして?」
沙織は瀧蔵の前に座り込んで勢い込んで問いつめた。まだ信じられない気持ちだった。さっきまで沙織は瀧蔵を「他に女がいる」と決めつけていた。が、それは「違うよ、思い過ごしだよ」という否定の言葉を引き出す為だった。それが、本当にそうなるなんて、と沙織は途方に暮れた。
「…まさか、ずっと…? 私と付き合い出した時には香子さんとも、逢ってたの?」
恐る恐る尋ねると
「それは違う」
瀧蔵は沙織を見ながらきっぱりと否定した。
「……香子から連絡があったんだ。今更話す事も無いし、メルアドを教えた。…それから頻繁にメールがくるようになって…」
瀧蔵は途切れ途切れに言った。
「いつ?」
「…半年くらい前…」
瀧蔵はうつむきながら力なく白状した。瀧蔵の会社が移転した頃だ。ちょうどその頃、沙織は度々呼び出され、瀧蔵は逢うと必ず沙織の中で果ててしまい、度々妊娠の不安を感じた頃だった。
「…あなたが、よく私を呼び出していた頃ね」
瀧蔵は答えようとしなかった。
「じゃあ、半年前から逢ってるの?」
沙織が訊くと
「………いや…」
瀧蔵は口ごもった。
「じゃあ、いつから?」
確信に近づくにつれ、瀧蔵はまた黙りこんでしまった。ここまで聞かされた以上、もう知らぬフリは出来ない。後には引けない沙織が再び瀧蔵の膝を揺すりながら促した。
「言って! そこまで話したならちゃんと答えて!」
真直ぐに瀧蔵を見上げる沙織の瞳は真剣だった。瀧蔵は沙織の目を見つめると眩しそうに目を細めた。
「………逢ったのは二〜三ヶ月前だ」
「どうして逢ったりしたの?」
瀧蔵は目を閉じて静かな口調で
「どうにもならなかったんだ…」
絞り出すようにそういうと頭を垂れた。
「もう、そうなってるのね?」
「………」
沙織の問いかけに瀧蔵は何も答えようとしなかった。沙織はそれ以上は聞かなくても、瀧蔵と香子が再会した時に何が起こったのか、容易に想像出来た。
二人は沙織が知り合う前の恋人同士で、沙織と知り合った時には既に香子は別の男性に嫁いでいたのだ。本来なら聞くはずの無いその名前を、今になってなんの因果で沙織が聞かされなければならないのか…沙織はやるせない気持ちで声も出なかった。
本当に最近のことなのか、もしかしたらずっと騙されていたのではないか…沙織の胸には疑念が湧いた。が、その時の沙織はショックのあまり、それ以上問い詰める事が出来なかった。
そのまま沈黙が続き、ふと窓の外を見ると東の空が白んでいた。こんな朝を迎える事になるとは、昨夜、会社を出るまでの沙織は予想していなかった。とやかく言いながらも、いつもと同じ土曜を迎えると思っていたのに…と、沙織は瀧蔵の思わぬ告白によってもたらされた、いつもと違う金曜の夜をぼんやりと振り返った。
男と女はなんて呆気無く脆いものなのだろうと、沙織は寂寞とした思いで夜明けの空を見上げた。