第七回
最初の頃の情熱が過ぎて落ち着きを取り戻すと、それまで気づかなかったところが見えてくる。瀧蔵は寡黙で優しいが、それは単に面倒なだけなのではないか、とか、セックスすれば男は優しくなるものであって瀧蔵の優しさは特別な事ではないのかもしれない、とか、プライドが高く女に対する理想も高い、等々。瀧蔵という男は沙織が最初思っていたほどクールではないし、強くもない事に沙織は気づいていた。
そんな思いは瀧蔵も同じだったようで、この頃の瀧蔵は沙織が夜中に電話を架けても出ないこともあり、メールを送っても「後で連絡する」「忙しい」などと、沙織から距離を置こうとしているように感じられた。沙織の気のせいかもしれないが、この二〜三ヶ月、平日も誘われなくなった。それが沙織には寂しかったし、瀧蔵の変化の原因もわからない。
瀧蔵の会社は半年くらい前にクイーンズタワーに移転していた。その為、水曜のランチデートも出来なくなった沙織は、募る寂しさを仕事にぶつける事で紛らわそうとしていた。
沙織の上司は一年前後で替わっていく。長くても約二年で、短い人では半年で転勤していく場合もある。販売企画課は事実上、沙織が管理しているといっても過言ではなかった。
折しも季節は秋、社内では人事異動や、ちらほらと年末年始の話題がのぼる頃だった。
「なぁ、辻さん、もう少し売上げを伸ばす為に何かないか?」
「はい…」
沙織は営業室でパソコンに向かっていると急に店長から話しかけられた。
「……大幅な店内改装をして客層を広げるとか、他店で扱っていない商品を世界中から探してくるとか、食品などで値ごろ感を出してもらうとか…」
沙織が思いつく限りの事を言ってみた。いずれも本社のGOサインが出なければ実行出来そうも無い…と思いながら沙織が意見を述べた。
「販売企画の経費、多すぎると思わんか?」
「そうですね…」
バブルがはじけて以降、経済は低迷を続け、業界もそのあおりを受ける形で売り上げが伸び悩んでいた。老舗とはいえ例外ではなく、社内では地方の赤字を抱える店舗を閉鎖するという噂がまことしやかにささやかれていた。
「細かい事ですけど、販促物の外注を減らすとか…売場にあるL管やPOPに気を配るとか…そんなところで対処しないといけませんね…」
「あんまり華美な事したらあかんぞ」
「…はい…」
当時の沙織の上司は「高級感を売り物にしているのだ。こういう時代だからこそ華やかに」という考えだった。両者の言い分は理解出来るが、経費削減が叫ばれる中、ややバブリーな考えが時流に削ぐわない感じも抱いていた沙織は店長の考えに共感した。
「ただ、演出に手を抜くとチープな感じになってしまいますし…お客様がまた来たい、ここで買い物をしてよかった、という付加価値をどういう風に打ち出していくのか…ですね」
沙織はいつも考えていた。思いつく事は大抵行っていたし、人減らしでもしない限り劇的な経費削減は難しい。
「外注減らしてもこれ以上人は雇えん」
プレッシャーをかけられるとなんとも言いようが無い。
その時ふと、沙織は店内を改装し、屋内庭園のようなものを作ってクラシックの無料コンサートを開けたらいいのに…という思いが過ぎった。プロアマは問わない、いざとなれば音大生でも構わない。目新しい事を打ち出していかなければ移り気な客の心をとらえる事は難しい。
「祝日とか、土日ごとに来場無料のミニコンサートを店内で開けるといいですね。優雅で贅沢な感じがしませんか? 店内だったらそれほど経費もかからないと思いますし…」
店長に提案してみると
「そんな場所うちの店にあるか?」
問われると沙織も答えに詰まってしまう。何しろ、店の造りが古すぎる。催事場ではなんとなく絵にならない。やはり、大幅な店内改装か新規店舗で設計段階から計画を練らないと、沙織の構想は実現しそうになかった。
この頃になると瀧蔵との関係も頭打ちという感じが否めなかった。二人の関係が落ち着いてきただけなのか、沙織が瀧蔵に理想を求めすぎるから物足りなく感じるのか、それとも瀧蔵に何か隠し事があるのか…原因がはっきりしないが、付き合いだした頃に比べると熱も冷め、盛り上がりに欠ける観がった。
瀧蔵も沙織も結婚を考えてもいい年齢だ。が、二人にその気配はなく最近の瀧蔵の変化に沙織は戸惑い、この関係に疲れを覚えていた。
沙織には結婚願望はなかった。それでも瀧蔵がいない生活を考えると堪え難い。しかし、瀧蔵との関係はまだ一年半経つか経たないか、というところだ。仮に別れたとしても瀧蔵のいなかった人生のほうが長かったと考えれば、瀧蔵がいなければ生きていけない、というわけでもなさそうだ。
しかし沙織にとって今や瀧蔵はいるのが当たり前の存在になっており、別れることなど考えられなかった。その瀧蔵の様子に変化があるにせよ、二人の関係が壊れる事を想像しても現実味はない。きっとこれからも瀧蔵は沙織の暮らしに存在し続ける、そう沙織は楽観していた。
土曜の夜、ランドマークタワーに行くと既にクリスマスイルミネーションが灯っていた。それを眺めながら五階のイタリアンレストランに入ると、みなとみらい21地区の夜景を眺めながら食事をする事ができた。
沙織が
「今度はどこに行こうか?」
一時期、話題になっていた世田谷の青龍門WESTへ行きたいと言うと、黙っていた瀧蔵が
「…沙織は遊園地や青龍門に行きたいの?」
無表情のまま淡々と尋ねた。
「…?…行きたいわ」
沙織は改まったように尋ねる瀧蔵を不思議に思いながら答えると、少し間を置いて
「…じゃあ、行けばいい」
まるで『勝手に行けよ』と言いたげな瀧蔵の口ぶりに沙織はややムッとした。
「…行きましょうよっ。面白いらしいわよ」
沙織が誘っても瀧蔵は黙々とパスタを食べていた。
会話らしい会話もないまま食事を終え、駐車場に向かう途中
「駐車券貰い忘れた」
ポケットを探しながら言うと店まで引き返そうとする瀧蔵に
「私も行くわ」
思わず沙織が声をかけた。
「いちいち着いて来なくていいよっ!」
突然、もの凄い剣幕で言い放つと沙織を置き去りにして一人でエレベーターに乗ってしまった。沙織は突然の豹変ぶりに呆気にとられながらも車の近くで待つことにした。十五分は待っただろうか、ようやく戻ってきた瀧蔵に
「遅かったわね」
沙織が先ほどの剣幕を忘れようと明るく声をかけたにも関わらず、瀧蔵は何も答えようとしない。むしろ、かえって苛立った様子で車に乗り込むとその帰り道、瀧蔵は一言も話さないまま沙織を送り届けると、部屋に上がろうともせずに帰って行った。
沙織にしてみれば、水曜の昼は逢えなくなり週末の逢瀬だけになってしまった事が寂しく感じられていたし、以前と比べると瀧蔵はかなり淡白な感じに映った。
思い返すと半年ほど前、コスモワールドへ行った前後から瀧蔵の様子は少し変だったように思う。
その頃瀧蔵のオフィスが引っ越した事もあり、環境の変化が原因かと思っていたがそれだけでもないのだと、長引く瀧蔵の不機嫌を見ていて思わされた。
移転する前後、週に二〜四回呼び出されていたが、沙織は半分くらい断っていた。毎日では体がもたないし、仕事にも差し障る。沙織自身、瀧蔵との関係に慣れ、少し甘えていたのかもしれない。そんな時期がしばらく続いたと思ったら今度はピタリ、と、沙織を呼び出さなくなった。この半年、特にこの二〜三ヶ月の瀧蔵は変わったように思えた。
沙織は、瀧蔵に何かあったのだ、という事は感じは抱いていたが、詮索しても答えようとしない瀧蔵を扱いかねてしまうのだった。
半年くらい前の瀧蔵は、週末の逢瀬でも沙織の中で果て、沙織がそのことに不安を覚えると
「心配しなくていいよ」
そう言うだけだった。何故心配しなくてもいいのか沙織には理解出来ず、瀧蔵が無責任に思えたものだった。
他にもいつになく、瀧蔵は沙織を相手にふざた事もあった。
沙織が朝食に果物を切り分けた。それを瀧蔵が口移しで食べるよう沙織に求める。
「普通に食べたい」
沙織が言っても聞こうとしない。仕方なく沙織が受け入れ食べ始めると、羽織っていたガウンの衿をはだけさせたりする。情事の最中ならばともかく、平常心の沙織は恥じらいを感じた。怒るわけにもいかず、素早く衿を合わせ胸元を整えるとまた、衿を開く。面倒になった沙織が開き直ったようにそのままにしておくと、今度は瀧蔵が
「食べさせて」
いつになく子供っぽいことを言った。沙織が果物を手で持ち
「あーん」
瀧蔵の口まで運ぶと
「手じゃダメ」
まるで駄々っ子のような事を言う。やむなく口移しで食べさせると沙織の体を触りながら今度は瀧蔵の唇から果物を取るように求めて譲らない。
「食べる時はふざけないで」
思わずたしなめた。沙織はそんな風にいつまでもしつこくじゃれつく瀧蔵は初めてだった。胸を開ける様子なども悪戯っ子そのものだ。
「ふざけてないよ」
そう言いながらキスをしたりするのでなかなか食べ終わらない。
赤ちゃん返りしてるような瀧蔵の様子に沙織は、疲れているのかもしれない…と母のような気持ちでされるがままになりながら、軽い朝食を済ませた。
そんなこともあるのかな…と沙織は瀧蔵の異変について気にとめずにいたものの、まるで、朝から酔っているのかと思うくらい甘えた様子に、いつもとは違う瀧蔵の胸の内を思いめぐらせていた。
その二〜三ヶ月後から平日の誘いがなくなったのだ。
この間に何かあったとしか思えないが、沙織の側に心あたりはない。とすれば、瀧蔵の側に何かあったとしか考えようが無いのだが、何をどうすればいいのか、沙織には見当もつかない。
「今夜はいつもと同じでいい?」
土曜日、沙織が瀧蔵に約束の確認メールを送った。すると、三十分待っても返事が来ない。
夕方五時を過ぎていた。仕事のキリが悪いのか…と思った沙織は思い返信を待っていたが六時過ぎてもメールがこない。しびれを切らした沙織が再度
「最近、返事が遅いわね。とりあえず行くわ」
訪ねる旨を伝えると
「そんなに絵に描いたような幸せなんてあるわけないよ」
意味不明の返事が届いた。沙織にはその内容が理解出来ない。不思議に思い
「絵に描いたような幸せって、何? …返事が遅いと、絵に描いたような幸せじゃないの?」
沙織は当てずっぽうに書き送ると、そのメールの返事が送られてくる事はなかった。
最初は楽観的だった沙織も、次第に落ち着かない気分で過ごす事が増えていた。
この頃の沙織は、放っておけば断ち切れてしまいそうな儚い縁である事を、感じ取っていたのかもしれない。