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祈り ―華やかな傘に守られ―  作者: 小路雪生
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第六回

「…すごく良かった」

 瀧蔵に寄り添いながら沙織は呟いた。

「…私、今まであんまり感じた事ないの。だから、だんだん苦痛になって…。触られるのもイヤだって…思うこともあったのよ」

 瀧蔵は沙織の話に耳を澄ませて聞いていた。

「でも、違ったわ。…初めてよ、こんな風になるなんて…思わなかった…」

 沙織は、目を閉じてうっとりしたように囁いた。

「沙織はいいよ」

 瀧蔵は体の向きを変え、沙織を抱きしめながら耳元で囁いた。

「感じない人はあんな声は出さないよ」

 そう言いながら自身の体を沙織の体に絡み付けるように押し付けながら

「…もっと聞きたい」

 熱気を帯び声で囁くと、瀧蔵は再び沙織の体に唇を這わせた。

 この日、金曜の夜から日曜の夜まで眠って食事をする以外、沙織は瀧蔵と抱き合っていた。日曜日は沙織は出勤する予定だったが、瀧蔵と離れ難くて仮病を使って休んだのだ。

 沙織は瀧蔵との関係を覚えて以降、朝も昼も夜も瀧蔵を想い、瀧蔵のいない生活など考えられなくなっていった。

 やがて、毎週金曜の夜から土曜の夜まで瀧蔵の部屋で過ごすのが約束事のようになった。沙織が日曜出勤ならば日曜の朝まで二人で過ごし、瀧蔵の部屋から出勤する事も珍しくなかった。

 沙織は、心も体も満たされ心から幸せを感じていた。その時やっと、自分が本当の女になれた気がしていたのだ。沙織には瀧蔵しか見えなくなっていた。


「逢いたいの…来て」

 台風の夜、激しい風の音や雷鳴に心細くなった沙織が瀧蔵に電話を架けると、午前三時近いにもかかわらず瀧蔵は車を飛ばして沙織の元にやってきた。

「嬉しいわ」

 沙織が抱きしめると瀧蔵はそれに応じながら

「沙織、俺が眠ったら五時半には起こしてくれよ」

 言った。

「…五時半?」

「明日、大阪まで日帰り出張なんだ。六時過ぎの新幹線に乗るから寝過ごすとまずいんだ」

 沙織は慌てて目覚まし時計や携帯電話のアラームをセットした。スウェット姿の瀧蔵の手を見ると、明日着ていくスーツやいつもの通勤鞄を持参している。沙織の部屋から出張に行く気のようだ。

「ごめんね…こんな時間に…」

 沙織は、瀧蔵が優しいのをいい事に、わがままになっているのを自分でも気づいていた。しかし、それを止める気にはなれなかった。瀧蔵が沙織の為に無理をすればするほど、何故か沙織は満たされるのだった。

「怖くて一人じゃ寝られないんだろ。一緒に寝てあげるから早く寝なさい」

 瀧蔵は子供をいさめるように言った。

 瀧蔵と付き合うようになると、一人で過ごす事が耐えられなくなり、真夜中に瀧蔵を呼び出す事がしばしばあった。沙 織に甘い瀧蔵はそれを拒んだりはしなかったし、沙織もそれが当然だと思うようになっていた。

 その日も、そんな夜だった。嵐が嫌いだった沙織は、風や雷の音に怯え、いつも布団を頭から被って丸くなりながら朝を迎えていたのだ。が、瀧蔵がそばにいると空が割れたかのように轟く雷も気にならなかった。


 瀧蔵との関係に溺れるにつれ、沙織は次第に仕事に身が入らなくなっていった。どんなに忙しくても瀧蔵に逢う為に休みをとったり、残業もそこそこ切り上げたり、一晩中夢中で愛し合った次の日などは遅刻することもあった。

 あれほど男に振り回されたくない、キャリアを積つみたいと思っていたのに…と自身の変化に戸惑った。それまでの沙織は、腰掛け程度に勤めては会社で結婚相手を探し、1〜2年で辞めていくOLを軽蔑していた。しかし、今の沙織もその類と大差ないほど会社にいても上の空だった。そんな自分に気づくと無性に苛立つのだが、沙織は瀧蔵に支配されてしまったように、そんな自分をどうすることも出来ない。

「このままではいけない」焦りを感じるが、瀧蔵に呼び出され、熱っぽい視線で体の隅々まで見つめられると沙織は瀧蔵が自分を欲しているのを痛いほど感じる。どうしても「今日は忙しいから無理なのよ」と言い出せない。瀧蔵に弱い自分が沙織には情けなく、また、自分の中にある女が瀧蔵を拒みたくない、と、せめぎあい、苦しく感じるのだった。


「来週、日曜日休みなの。どこか行かない?」

 日曜も勤務の多い沙織が瀧蔵を誘った。

「無理だよ。仕事があるんだ」

「日曜なのに?」

「そう」

 

 それでも沙織はなんとか気持ちの折り合いをつけて瀧蔵との関係を大切にしたいと、日曜も休みを取ろうとした。こうすれば一緒にいられる時間が長くなるからだ。しかし、沙織の苦悩をよそに、瀧蔵は休日になると無断で用事を作ってしまう。こんなやりとりが交わされるようになり、せっかく土曜・日曜と二日続けてのんびり過ごせるはずの休日も逢えるのは数えるほどだった。

 二人の関係が生活の一部になり、少しずつ冷静になるにつれ、沙織は瀧蔵に対して独占欲を抱くようになっていた。そして、自分のペースを瀧蔵に押し付け、それを受け入れてくれるのが愛だと、思うようになっていくのだった。そんな沙織にしてみれば「自分は仕事も犠牲にして無理しているのに…」と不満がくすぶり始め、沙織は次第に瀧蔵のペースに抗うようになっていくのだった。


 二人の関係が一年くらい経つと、沙織はわざと忙しいフリをするようになり、瀧蔵からの平日の誘いを二回に一回は断るようにしていた。故意にそうしていたつもりはなかったが、最初の頃は瀧倉から誘われると無理矢理仕事をやりくりして部屋を訪ねていた沙織は、すっかり生活のペースが乱れてしまっていた。そのせいか仕事もミスが増え、忙しい時期に限って「逢いたい」とお呼びがかかる事が次第にストレスになっていた。そのくせ休日にはなかなか逢おうとしない瀧蔵への意地悪な気持ちも働いていたのかもしれない。無理をしては関係も続かない、とばかりに、疲れを感じている時などは断るようになっていた。

 沙織自身は逢いたいと思うがタイミングが合わない…沙織は瀧蔵を想うほどにジレンマに陥るのだった。いっその事、結婚でもしてしまうとか、そこまでの約束が交わされたというのであれば思いきって仕事の手も抜けるが、そこまでには至っていない。責任感の強い沙織は仕事をするなら完璧にこなしたいという欲求と、瀧蔵との時間を何ものにも邪魔されたくない、という葛藤から逃れられずにすっきりしない日々が続いていた。

 

 当時の沙織は「愛しているならこんな気持ちも分かってくれるはず」とも思っていたが、それは瀧蔵に期待しすぎだったと、後に気づことになる。

 瀧蔵の会社、ワールドシネマはシネコンや劇場の運営を行っていた。商社に入社後の瀧蔵は本社のマーケット部門に在籍していたが、当時走りだったシネマコンプレックスを立ち上げる為のプロジェクトのメンバーに選ばれた。その成功と、当時日本では珍しかった複合映画館を国内に広めるという使命感に燃えていた瀧蔵は当然、イギリスやアメリカへの出張も自分の役目、と思っていた。ところが、瀧蔵の上司は瀧蔵の一年下の後輩を可愛がり、やりがいのある仕事には全てその後輩を抜擢していった。「この上司がいたのでは出世出来ない」と感じた瀧蔵は、アメリカの映画会社との共同出資で設立された合弁会社に自ら望んで出向したという。その後、ワールドシネマを瀧蔵の籍がある商社が子会社化していたのだ。

 いずれにせよ、沙織には瀧蔵の仕事は分からない。その当時ならともかく、こうも度々休日に予定が入るのを不自然に感じた。沙織のような会社なら日曜出勤も理解できるが、実際にチケットもぎをしているわけでもない瀧蔵が何故そうも忙しいのか解せなかった。瀧蔵は寡黙な男で仕事の事も自分からは積極的に話そうとしない。

 瀧蔵は沙織を気遣い、日曜日に仕事が入ると必ず「今からどこに行く」「今どこに着いた」「今終わったから何時には帰るよ」など、沙織に報告してくれるのだが、メールではどんな嘘でも書けるもではないか、と沙織は思っていた。たとえ、隣に女がいても仕事のフリくらいは出来るはずだ。沙織はそれが本当なのか疑うような気持ちになることもあった。 他に誰かいるのだろうか…沙織は不安になると、今度はそう想像するだけで狂おしいほどの嫉妬を覚えた。会社での瀧蔵を沙織が知る術はないのだ。仮に社内に彼女がいても沙織が気づく事はないだろう。

 沙織は、瀧蔵の全てが知りたかった。沙織の知らない世界を持つ瀧蔵という男を受け入れようと思うのだが、心が追いつかない。

 ある晩、いつものように真夜中に電話を架けた。が、珍しく瀧蔵は出なかった。眠っているのか…起こしたら可哀相…などと思いつつ、もしかしたら誰かを部屋に上げているのではないか…沙織はそう考えると、まんじりともしないまま朝を迎えた。

 最初は堪えていたが、二回続けて瀧蔵が電話に出なかった晩、沙織は広い通りでタクシーを拾うと、ワンメーターか、ツーメーターほどの距離にある瀧蔵の部屋を訪ねた。

 インターホンを何度か鳴らすと瀧蔵は眠そうなくぐもった声で応答した。

「……こんな時間にどうしたんだ」

 呆れたような顔をする瀧蔵を前に

「…だって、電話出ないんですもん」

 沙織が責めるように瀧蔵に訴えた。

「………」

 瀧蔵はため息をつきながら時計を見ると午前三時だった。くたびれたようにソファーに身を沈めると

「…沙織…俺は今、忙しいんだ。今度、金沢に新しいシネコンを立ち上げる準備に追われていて昨夜もロクに寝てないんだよ」

 沙織を見みつめながら力ない声で言った。

「…誰かと逢ってて寝てないだけなんじゃない」

 沙織は思わず嫌味を言った。


 沙織は、ある時瀧蔵に呼び出され会社帰りに部屋に寄ると、瀧蔵はひどく疲れた顔をしていた。近づいた沙織の腰を抱き寄せると、沙織の胸に顔を埋めるようにしたまま動こうとしない。

「どうしたの?」

 何かいつもと違う様子だった。心配になり髪を撫でながら尋ねると瀧蔵は腕に力をこめて一層沙織を強く抱きしめた。その頃、瀧蔵の様子が少し変だった事を沙織はずっと気になっていた。呼び出される機会も多く、逢ってみると荒々しく抱くだけで何も言おうとしない。そうかと思うとやたらに「忙しい」を連発するようになり、どこか素っ気ない。沙織は、気にしないよう努めていたが、沙織の真夜中の電話にも起きないところをみると、何か心境の変化でもあったとしか思えなかった。


「…そういう目で見てたのか?」

 真夜中に突然押し掛け嫌味を言う沙織を、瀧蔵はしげしげと見つめて言った。

「…前と違うわ、あなた」

 沙織が言うと

「忙しいんだよ」

 瀧蔵は苛立ったように言った。

「私だって忙しいのよ! だけど…最近あなた変だから…心配になったんじゃない!」

 沙織は腹が立ち、つっかかった。これまで仕事と瀧蔵のいたばさみで悩んでいた沙織には、瀧蔵がとても自分勝手に思えた。そんな沙織を煩わしそうに瀧蔵は顔を背け

「…いい加減にしてくれ。いいよ」

 そう言い捨てると、さっさと寝室に消えてしまった。


 土曜はどこへも出かけずに抱き合っているのが常だった。付き合いが長くなるにつれ、沙織の中には次第に「セックスだけの女なのだろうか…」と猜疑心が芽生えていった。

 特に、最近の瀧蔵のどこかよそよそしい感じは、いつも一緒にいたい、と瀧蔵の事しか考えられなくなっていた沙織には堪え難かった。メールもまめにくれるし、土曜は逢える、部屋に沙織以外の女が入った形跡はない。けれど、瀧蔵は何か悩んでいるようにも見えた。が、その原因が本当に仕事のことだけなのか、沙織にはどうしても理解できなかった。

「…ねぇ。どこか行きたいわ。…いつもこうしてるだけじゃない…」

 土曜の午後、ベッドの中で沙織は瀧蔵に言った。

「…どこかって、どこ?」

 瀧蔵は気の無い感じで姿勢を変えながら訊いてきた。

「…映画とか遊園地とか…」

「映画はいいよ…。…遊園地ねぇ…」

 瀧蔵は面倒くさそうに言いながら沙織を見た。

「例えば、よ。…でも、そういう健康的なデートもしたい」

 沙織が甘えて言うと

「いやだ」

 瀧蔵は素っ気ない。

「どうして?」

「健康的って…じゃあこうしてるのは不健康なの?」

「不健康よ。朝から晩まで一日中…。私、あなたと付き合うようになってから二人でいる時、服着てた事ないわ」

 沙織が不満を訴えた。

「よく言うよな……。疲れてるから寝たい、って言っても寝かさないのはどっちだよ」

 瀧蔵はため息まじりに言うと

「……出かけてもいいけど、今日はこれでおしまいだぞ」

 瀧蔵が言った。

「…明日は?」

「明日は予定がある」

「また?」

 沙織は驚いた。ほぼ毎週ではないか…。

「おかしいわ。毎週毎週…何やってるの?」

 沙織は疑いの目を向けた。

「仕事だよ」

 瀧蔵は冷静に答える。

「うちみたいな会社ならともかく、普通の今時の企業でそんなに毎週日曜出勤なんてあるの?」

 沙織が問いつめた。

「…さおり、俺には俺の事情があるんだ。仕方ないだろう。だから、こうして毎週逢ってるじゃないか。水曜だって顔くらいは見てるだろう。夜中だって、沙織が逢いたい時は逢いに行ってるだろう? 俺は何回夜中に叩き起こされてると思ってるんだ」

 瀧蔵は言外に 何が不満なんだ? と言いたげだった。

「…いつも、セックスする時だけじゃない…」

 沙織が口ごもると

「…イヤなの?」

 瀧蔵は沙織の目を見つめて訊いた。

「そうじゃないけど、そればっかりじゃないって言ってるのよ」

 沙織は目を伏せた。やがて、思いきったように

「…私って、体だけの女なの?」

 最近感じていた事をぶつけた。瀧蔵は困惑した様子で

「…違うよ。…そうじゃない」

 瀧蔵は真顔で否定した。が、沙織のひるまない瞳に負けたように

「…わかったよ、出かけよう」

 渋っていた瀧蔵は、そう言って起き上がった。


 桜木町のコスモワールドへ出かけると家族連れで賑わっていた。

 遊園地に来るのは大学の時の彼とのデート以来だった。その時は、遊園地に誘った当時の彼を子供っぽい…とバカにしていたが、今は沙織の方が子供っぽいようだ…と思いながらも、瀧蔵との関係を瀧蔵のペースにゆだねる事に不満を感じるようになっていた沙織は、瀧蔵が好みそうにない場所を敢えて選んだ。

「ジェットコースターに乗りましょうよ」

 瀧蔵の腕をとると

「俺はいいよ」

 沙織の腕をほどいて柵に腰かけると頑として動こうとしなかった。そんな瀧蔵を置き去りにして沙織はアトラクションに乗ると、はしゃぐ沙織を瀧蔵は腕組みして眺めていた。瀧蔵が何を考えているのか分からなかった。

 その時、沙織は瀧蔵をひどく遠い存在に感じた。

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