第四回
沙織にとって瀧蔵の存在は灯台に似ている。漆黒の闇を貫くような鋭い青白い光。けれど、その光は遠く離れた丘の上にあるのだ。そんな風に感じる時、沙織は昔の瀧蔵の姿を思い出すのだった。
瀧蔵との出会いは十年近くも前に遡る。
瀧蔵と出会ったのは、沙織が二十四歳の時、入社してちょうど丸一年が過ぎた頃だった。沙織は大学の卒業を控え就職が決まった頃、それまで付き合っていた彼との関係を清算した。
学生の頃の沙織は、相手に好きだと言われると断りきれなかった。うっかり成り行きで付き合う事になってしまった結果、好きでもない男と体の関係を持つことがしばしばあり、気の無い男に尾け回されたりしたこともあった。それは沙織の寂しさが遠因にあったのかもしれない。しかし、そんな付き合いがいつしか苦痛になっていた。その頃の経験がトラウマのように、沙織の異性感に影響を与える事になっていく。以来、男性に対して潔癖で、慎重になりすぎる傾向が芽生えたのだ。
沙織は就職してしばらくたった頃から、紳士グループのアシスタントマネージャーの谷本や、婦人グループの守屋、外商の加藤などから度々誘われるようになった。いずれも先輩・上司だったこともあり無下にもできない。それなりに外見もよく、一応紳士的ではあった。寿退社を…と願う女性ならばお婿さん候補として適任揃いに映った事だろう。しかし、苦い経験を持つ沙織はキャリアを志し、男に左右されない人生を生きたいと思うようになっていた。それらの誘いはそんな沙織の足をひっぱるだけのようにしか当時は感じられなかったのだ。そんな誘いが突っ張って生きる沙織の心の隙間を埋めてくれるように感じた事もある。が、そんな自信の弱さが学生時代の失敗を招いたと自らを戒めると、知らずのうちに異性を寄せ付けないようになっていったのだった。
そんな沙織に守屋は「なんでいつも忙しいの!?」と、何度食事に誘ってもはぐらかす沙織に不快感を露わにしていた。 仕方なく沙織は売場の人を誘い、複数で守屋の誘いに応じるが、その後守屋が沙織のマンションまで訪ねてきたりすると学生時代の二の舞に感じられ、守屋に対しても嫌悪感を抱いてしまう。同じ職場であるだけに、問題を起こして業務に支障をきたしたくないと沙織は思うのだが、しつこい守屋は容易に諦めてくれず、気の重い存在だった。
沙織は今度こそ、本当に好きになった男性と本気の恋愛をしたいと思っていた。それまではどんなに辛くても寂しくても彼はいなくてもいい、男に頼って一時しのぎの遊びの恋で孤独を紛らわすのは辞めようと決めていた。二度と、消しゴムで消したくなるような関係だけは持ちたくなかった。結婚も、仕事で評価されるようになってからにしたいと考えていたのだ。
そんな頃だった。外でランチをとろうと、一人で会社から五分ほど歩いたオフィスビルが立ち並ぶ路地裏にある、こじんまりとした目立たない洋食屋へ赴いた。会社の前の国道を渡り、駅とは反対方向の喧噪から離れた静かな場所だった。 コンクリート打ちっぱなしのこじんまりとした洋食屋で、二階席まで入れて十二卓ほどでいっぱいになてしまう店だった。ランチはOLに人気があり、昼になった途端滑りこまないとすぐに満席になってしまう。沙織は席を確保しようと早足で向かった。
食事が終わり、散歩がてら路地裏を歩いて会社に戻ろうと、それまで入った事の無い小道を探検するような気分で歩いていた。すると、古い住宅が並ぶ一画に尖り屋根で石造り教会に行きあった。重厚なが建物で、以前からそこが教会だと雰囲気で知ってはいたが、いつもは裏手の路地を素通りをするだけだった。が、その時は正面玄関へ通じる道に出たようで、掲示板には『パイプオルガンコンサート・無料』と書かれていた。
沙織の実家は菩提寺もある北関東の古い家だったこともあり、大学の教養課程で聖書学をかじった程度だった。教会とは縁のない暮らしだった為、入る事に一瞬躊躇いを感じた。しかし、かつてピアノを習っていたこともある沙織は、パイプオルガンの演奏になんともいえない興味をそそられた。
入ろうかと迷いながら告知を読んでみると、週一回ランチタイムのみの催しであると記されていた。今日入らなければ来週まで聞けない…そう思った沙織が恐る恐る扉を開けると、澄んだ音色が聞こえてきた。思い切って御堂へ入ると、正面の壁一面にパイプが埋め込まれている巨大なパイプオルガンが設置されていた。コンサートホール並みだった。こんな所にこんな場所があったのか…と感激した沙織はその荘厳な音色に聴き入った。
その時、近くに座っていたのが瀧蔵だった。
非常に目立つ男だった。立ってみると180cmは越えるだろうというすらりとした長身で、顔は小さく九頭身くらいに見えた。切れ長の鋭い目がひどく東洋的で、ぞくりとするような色気があり、すっきり通った鼻筋の他に、顔のパーツがバランスよく配置された美しい顔立ちが印象的だった。東洋的でありながら、肌は垢抜けていて黄色人種とは思えない。とにかくオーラが放たれているかのように華やかで目立つのだった。沙織の目は知らずのうちに瀧蔵に吸い寄せられていた。
沙織はこれまで一瞬で自分を惹き付けるような男に出会った事がなかった。職業柄、売場にはいわゆるハンサムで目立つ男性もいたし、学生時代、夜遊びをしていた頃に知り合った男の中にはイケメンもいた。しかし、それは比較になるようなものではなく、瀧蔵の雰囲気は圧倒的で、神々しくさえ感じるほど沙織には輝いて見えたのだった。
以降、沙織は瀧蔵を忘れることが出来なくなった。
翌週からランチタイムにはパイプオルガンを聴きにいくのが沙織の習慣になり、その空間は沙織にとっては非日常であった。忙しい束の間、仕事を忘れる事が出来る数少ない時間となったのだ。
一方、瀧蔵も毎週のように一人で訪れ、いつも右側の前方の席に座っていた。沙織は扉に近い左側の後方に座る事が多く、遠くから眺めるだけの存在だったが、同じ空間でパイプオルガンの音色に包まれているだけで、沙織は心から幸せな気分に浸れた。
二ヶ月くらい経った頃その場所へ行くのが習慣化していた沙織は、いつもコンサートが始まる時刻に間に合うよう会社を飛び出していた。が、その日は朝から忙しく、演奏半ばあたりで駆け込んだ。息を弾ませたまま扉の一番近くに座った沙織は、隣に瀧蔵が座っているのに気づくと動揺した。こんなに間近で見るのは初めてだった。近くに寄ろうと思った事もすら無いほど、何故か遠い存在に感じていた男だった。沙織は慌てたように一瞬席を立ちかけたが、すぐに意識し過ぎだと気づいて座り直した。
左隣に居る瀧蔵の気配に緊張したのか、沙織は左肩が妙に凝ったのを感じながら演奏が終わり席を立った。その瞬間、留め金が外れたままになっていたバッグを床に落としてしまい、沙織は恥ずかしさのあまり、息が止まりそうになった。御堂は音が響くため、落とした時の音がひどく反響したのだ。沙織はどこか間の悪いところがあり、いい格好をしたい時ほどドジを踏んでしまうのだ。化粧道具や名札など、細かな物が椅子の下にまで入りこんでしまったようだ。慌ててかき集める沙織の横で、瀧蔵は無言のまま床に這いつくばると椅子の下にまで腕を伸ばし、拾うのを手伝ってくれていた。沙織は恥ずかしさと恐縮する気持ちとで瀧蔵の顔も満足に見ることもできないまま
「すみません…」
お礼もそこそこに、足早に会社へ戻ったのだった。
翌週、沙織はコンサートに行こうか迷っていた。瀧蔵に会うのが憂鬱だった。満足な挨拶も出来なかった上、そそっかしい所を見られてしまったことが、自意識の強い沙織を滅入らせていた。しかし、何週間も通っていると、行かないのも落ち着かない。考え過ぎ…沙織は自分に言い聞かせると
「お昼行ってきまーす」
店長らに声をかけながら外出した。
静かにドアを開けて入ると、先週と同じ席に瀧蔵が座っていた。数列先が沙織の指定席だった事から、その場を素通りしようか迷っていると沙織の視線を感じたように瀧蔵が振り向いた。
沙織を見ると微かに身を起こし、うなずくように会釈した。それにつられて沙織も会釈を返すと、ここへ来るまでの間の迷いが霧が晴れるように消えていった。
瀧蔵の隣に座ると
「この間はありがとうございました」
改めて礼を述べた。瀧蔵は
「いえ…。落し物はなかったですか?」
沙織を気遣う。
「はい、おかげさまで…」
お高い感じの男だと思っていたが、案外気さくな瀧蔵の様子に沙織の緊張はほぐれていた。
「よく見えるんですか?」
瀧倉は演奏中、声を潜めて沙織に訊いた。
「…はい、来られるときは来てます。会社が近いので」
沙織が答えると瀧蔵は急に黙り込んだ。何か言葉をのみこんだような瀧蔵の様子を怪訝に思い、顔を覗いてみると、考え事をしている表情をしていた。沙織が不思議そうな顔で見ている事に気がつくと、瀧蔵は取り繕うように微笑んで
「そうですか」
相槌を打った。
「よく、いらっしゃるんですか?」
沙織も尋ねてみた。
「そうですね…僕も来られるときは来ますね。会社、近いんですよ」
瀧蔵は答えた。
その翌週から何故か瀧蔵の姿を見かけなくなってしまった。沙織は少しがっかりしながら、こんなものよね…そう納得していた。沙織には、瀧蔵と親しくなろうという野心はなかった。
瀧蔵への印象は、女子高生がアイドルに憧れを抱くというのとは違っていた。瀧蔵という男は何か異次元の人のようで生活感をまるで感じない。沙織は、自分と同じ人間とは思えない不思議な印象を抱いた。魅力的だが謎めいていて、得体の知れないものを感じ取っていたからだ。
数週間後再び瀧蔵は現れた。しかし、沙織に気づかないのか沙織の横を素通りすると前方の席に腰を下ろした。沙織も敢えて声をかけようとはしないまま、コンサートが終わると余韻に浸る暇もなく、早々に教会を後にした。
午後の会議では夏のボーナス商戦を控え、マークダウンとその打ち出し方についての各部門ごとの具体的な詰めを行い、最終的な合意とらねばならなかった。昼前に販売企画課のパートに資料の印刷などを任せていた沙織は、戻り次第目を通し、各部門のマネージャーとアシスタントマネージャーに配布しなければならなかった。
沙織はコンサートから戻ると慌ただしい一日の終わりに、夜になってから店内を見回るべく売り場へ足を運んだ。一日に一度は全売り場を回り、演出のチェックなどを行うのが日課だった。
沙織は二階の服飾雑貨へ立ち寄ると、靴売り場の一角で瀧蔵を発見した。靴を選んでいる様子に驚きながら沙織が見つめていると、やがてそれに気づいた瀧蔵が笑顔で歩み寄ってきた。
「こちらにお勤めですか?」
瀧蔵は愛想よく声をかけた。沙織が頷くと瀧蔵は名刺を差し出し、沙織に手渡した。
それを受け、沙織も慌ててポケットから名刺を出すと、取引先の営業マンと顔合わせでもする時のように互いの名刺を交換し名乗った。沙織が受け取った名刺には、大手商社の系列企業の名が記されており、横浜支社のセクションマネージャーという肩書きの男が瀧蔵遼だった。
以後、何となくコンサートに出かけると二人はどちらからとも無く隣り合わせの席に並んで座るようになっていた。
それからしばらく経った頃、いつものようにコンサートで隣に座った沙織の耳に瀧蔵の携帯電話の着信音が聞こえてきた。
「携帯、持ってるんですか?」
沙織が尋ねた。
この当時、携帯電話はまだ珍しくDoCoMo、IDO共に黒い機種がメインで文字通り、電話機能のみだった。ポケベルでメール交換している人が多い時代だったが、沙織は発売されたばかりのメール対応機種を早々に購入していた。が、携帯を持っている人が少なく、メール出来る相手が居ないのが悩みである事を瀧蔵に打ち明けると
「よかったらここにメールして」
自分のアドレスをメモして沙織に渡した。沙織は瀧蔵のアドレスを受け取ったものの、躊躇いを覚えていた。
考え過ぎかもしれない…でも、深入りしない方がいいような気がする…沙織は、瀧蔵との距離の取り方に難しさを感じていたのだ。
瀧蔵はさっぱりとしていて意外に爽やかだった。思ったほど気取りも無く、偉ぶったところも無い。しかし、過去のトラウマなのか、戸惑う沙織をよそに瀧蔵は屈託無く近づいてくるのだった。沙織は未だよく知らない瀧蔵に警官心を抱きつつも惹かれていくのを感じていた。
夏が終わり、秋が来てコートが恋しく感じる頃、ようやく沙織は瀧蔵にメールを送ってみた。
「しつこい上司がいて困ってるんです」
守屋の事だった。営業室で仕事をしていると、自分の席でもないのに沙織の隣に座っては動こうとしないのだ。毎日毎日、沙織はうんざりしていた。
「売場に行かんかっっ!!」
店長にどやされても守屋はめげなかった。 ある時、沙織は店長から
「なぁ、辻さん。あんた、守屋さんと付き合ってみたらどうや?」
それを聞いた沙織は真っ青になった。
「イヤです!!」
「なんでや? …男と女は付き合ってみないと分からんぞ」
店長は父親が娘を諭すような口調で言った。
「気が重くて…」
事情をかいつまんで書き送ると、瀧蔵は
「放っておけば諦めるよ」
すぐに返事をくれた。
この頃の携帯電話は文字制限がある為長文の送受信は出来なかったが、何度もやりとりしているうちに瀧蔵が親身になってくれているのが伝わってきた。
コンサートで顔を合わせると
「この間、初めて携帯メール出来て楽しかった」
沙織は言った。が、瀧裏は無言のままだった。何か気を悪くしたのだろうか…沙織が気にして顔を覗き込むと
「その後、どうなった?」
沈黙の後、瀧蔵は守屋の事を訊いた。
「…相変わらずです」
沙織は表情を曇らせた。
「その人のどこ嫌いなの?」
瀧蔵は沙織に訊くが、沙織は答えようもなく黙り込んでしまった。トラウマ、仕事上の野心、守屋の性格…それらを的確に説明するのは困難だった。
「…うーん…そういう対象として見られないんです、その人の事…」
曖昧な返答をする沙織に瀧蔵は
「他に好きな人が居るとか?」
「いいえ、今はいません」
沙織はキッパリと答えた。
「…だから、店長は 付き合ってみたら ってすすめたのかな…。最も好きでもない男と無理に付き合う必要はないと思うけどね」
瀧蔵は苦笑いした。
「こんなに私に嫌われてるのに守屋さんはどうしてあんな風にしつこいんでしょう。そういうところがイヤんですよ、きっと」
沙織が分析すると
「……辻さんの事、本当に好きなんじゃないかな」
瀧蔵は前を向いたまま独り言のように呟いた。
それから半年以上もの間、瀧蔵と沙織はつかず離れずの付き合いが続いた。沙織のメールの内容は仕事の悩みや愚痴が主だった。社内では複雑な人間関係や派閥めいたものが存在する事から管理職の沙織としては周囲への影響を考えると、安易に打ち明け話を出来る相手がいないのだった。が、瀧蔵とは利害関係が無いという気安さがあったのだろう。年齢的には沙織の上司にあたる瀧蔵は仕事の話も理解が早く話しやすかった。業界も違った為、よほどの極秘事項を除けば悩みを話しても支障はない。
その間、瀧蔵は沙織がメールを送ると一時間以内には必ず返事をよこした。
休みの日には朝から晩までメールをしていたこともあるほどで、時に明け方までメール交換していることも珍しくなかった。
そんな瀧蔵の様子に沙織は、彼女はいないのだろうか?…休日なのに出かけないのかしら?…こんなことしてるなら直接会えばいいのに…などと、次第に瀧蔵の事ばかり考えるようになっていた。
「この間思ったんですけど…」
沙織はコンサートで会った日、隣に座る瀧蔵に話しかけた。
「ひと晩中メールしていながら、どうして私たち、直接会って話さないんでしょう」
瀧蔵は無言のままだった。
そのまま演奏が始まり、バッハのファンタジアに沙織が聴き入っていると不意に
「今夜、食事に行きませんか?」
瀧蔵が耳元で囁いた。その瞬間、沙織はぞくっ全身に鳥肌が立つような感覚を覚えた。何を言われたのか瞬時に理解出来ないほど、甘美な気分になった。
思えば、その日から二人は始まった。そして、不思議な縁だと瀧蔵との出会いを思い出す度、沙織は思う。それが今日まで続いているのがもっと不思議だった。
尤も、名刺交換の際、売り場で遭遇した経緯について、偶然などではかったと沙織は後から知った。バッグの中身が散らばった時に瀧蔵が沙織の名札を拾い、丸藤に勤めていると知り買い物に行ったのだと、付き合うようになってから瀧蔵が白状したのだ。
沙織に関心を抱いていたあの頃の瀧蔵は本当にまめだった、と沙織は懐かしく思い出すのだ。
今の沙織に対するつれなさは、馴れ合った男女はこんなものなのかもしれない…とも思う。が、最初の頃に感じたように、瀧蔵という男は元々遠い存在だったのかもしれない、と考えたりもするのだった。