最終回
断酒の会から帰宅した沙織は、長崎で見た夜景を思い出していた。
「今日も飲まないように おやすみ」
瀧蔵から届く一行だけのメールが唯一の拠り所だ。
長崎から戻り瀧蔵との関係が再び始まった頃、嵐のような再飲酒に陥った沙織だったが瀧蔵の説得もあって、毎日断酒の会に通うようになっていた。抗酒剤も真面目に服用すると、それまでの壮絶な飲酒から抜け出す事が出来たのだった。しかし沙織の飲酒が落ち着いてくると、それに合わせたように瀧蔵からの連絡は減りつつあった。断酒が半年を経過する頃までは、二〜三日に一度は電話をくれていたのだが、最近は週一度のペースに戻っていた。東京での逢瀬もせいぜい月に二度だ。沙織は相変わらず、そんな瀧蔵との関係に物足りさを覚えていた。
カーテンを閉めると瀧蔵からのメールを眺めて
「ま、いつもの事よね」
少し酔った沙織は、諦めたような様子で独り言を呟いた。
「最近、健康ってありがたいな、と思うんです。飲まないと体が軽く感じるんです。ラクですよね…銀行に行っても一度で預金を下ろせるんです」
沙織の話に《仲間》が笑う。
「今まで当たり前と思っていた事ですが、こんな風になって初めて、過度の飲酒による弊害を知ったんです。懲りた、というか…。健康って本当にいい、生きてるってありがたい…心からそう思うんです。生きてるというよりも、生かされてるんだと感じるんです…。命あるものはいつか必ず、死ぬ時が来るんですよね。死に急がなくても、いつか生かされなくなる時まで、出来る限り飲まずに過ごしたい…そう思うようになりました」
内蔵疾患を患った沙織は、二十代の頃や休職中よりも、飲酒による体の不調を感じるようになっていた。一旦悪化した肝臓などの機能は酒を断っても元に戻る事はない。よって、飲まずにいる時でさえ以前より疲れ易く、痛みを感じない臓器と伝われている肝臓も、時折疼くような痛みを覚えた。その度に、人生には限りがある…そう感じるようになった沙織は、一日でも長く瀧蔵との関係を保ちたいと、酒を断つ事の意義を感じるのだった。
「本当に、生かされてるな、って思いますよね。…部屋に閉じこもって飲んでる時なんて、お酒の事しか考えられないのに、こうして飲まない生活をしていると、買い物にも行けるしケーキも美味しく感じるし、散歩してても気持ちいいって思えるんですよね。そういう生活を取り戻すと、寝てる時以外はお酒の事ばかり考えて、お酒に支配されていたんだなって…酒中心の生活から解放されると自由なんだな、って思います」
《仲間》は言った。
会の帰りに《仲間》から
「バーベーキューやるんだけど、来ない?」
沙織は誘われた。
「…うーん…」
会以外での交流に抵抗がある沙織は、そんな誘いに躊躇った。
このグループにどっぷり浸かれば飲酒率が高くなる事は分かっていたが「アルコール」の問題を除けば、それまで沙織が関わってきた人達とは毛色の違う人が多く、独身の沙織に隙あらば近づこうとする男性の《仲間》との接触も気が重かった。丸藤に勤めていた頃、好きでもない上司に想いを寄せられ、最終的には退社という憂目にあった記憶が生々しく残る沙織には、好ましくない人物に好かれる事ほど迷惑に思える事はない。そんな危惧から《仲間》と距離を詰めたくない沙織にとって、会以外での交流はストレスになりかねず「行きたくないから飲んじゃえ」と飲酒を誘発するきっかけになりかねない。
沙織はあれこれと思い巡らしながら、完全とは言えないまでも断酒が続いている事を理由に
「せっかくなんですけど、もっと慣れてきたらまた誘って下さい」
断る事にした。
「そっかぁ。…私も、最初は抵抗あったんだけど行けば楽しいよ」
《仲間》は残念そうに言った。
元OLで水商売歴無しの《仲間》は、会に馴染めない沙織に共感してくれる一人だった。
「私、ここへきて、ようやくホッとしたの…。就職してからも心を開ける人がいなかったし、短大の時も周りの人達と付き合うのが苦痛で、友達っていなかったんだ。でも、ここへ来るとそんな話も正直に出来るし、ラクなの。…こうやってバーベキューとか他のグループとの交流会に参加して、色々な仲間に出会うのって楽しいよ」
その《仲間》は屈託なく言った。
「また、声かけるね。今度は一緒に行こう!」
《仲間》は、会に消極的な沙織を明るく誘った。
「……ええ。また」
沙織はそんな思いに笑顔で答えるが、やはり、またの機会も断るような気がしていた。
女性だけの集会は昼間開催されていたが、それ以外の会合は夕方から夜にかけて行われる。これは「酒が飲みたくなるのは夜。だから夜、仲間と会って飲まないようにするんだ」という事らしい。
会が終わると帰宅するのは九時〜十時頃だった。沙織は、断酒が継続し気が緩んだのか、この頃は抗酒剤をサボリ、丸藤の頃の習慣で帰宅途中にコンビニへ吸い寄せられるように立ち寄ると、時々ビールを買ってしまうのだった。が、何ヶ月も断酒をしているせいか、酒を不味く感じるのだった。
沙織は飲みきれなかった350mlの残りをフラつく足もとでシンクに流しながら
「明日この事を会で話そう……また、明日から抗酒剤飲まなきゃ…」
気まずい気分になるのだ。
このままではまたぶり返す…恐れを感じた沙織は一口とはいえ飲酒をする度に、瀧蔵に報告をするのが癖になっていた。
飲酒した、と話すと瀧蔵は考え込むように黙り込み
「抗酒剤は必ず飲めよ」
沙織に進言するのだった。
営業促進部から外され、休職をした後の沙織の喪失感は埋めようがなかった。毎日十四〜五時間も会社で過ごし、忙しく働いていた時間がぽっかり空いたのだ。考えてみると幼稚園に入る前以来だと、沙織は思った。一日中予定もなく、しかもそれほど長い時間、社会との接点も持たずに独りで過ごした事などなかった沙織は、これといった趣味もない。人に会う予定もない孤独と、空いた時間何をして過ごせばいいのか分からない…そんな頼りなさからくる心の穴を埋めるように酒に拠り所を求めていったのだ。しかし、そんな暮らしからやっと解放され、毎日通う断酒の会すら億劫に感じるほど、丸藤退社以降、すっかり怠惰な暮らしに慣れた沙織は、独りの時間をそれなりに過ごせるようになっていた。
「これって進歩? それとも…退歩?」
独り言を呟いてみるが、今日が元気であればそれでいい…そう思えるほど、飲まずに過ごせる事を喜べるようになっているのも事実だ。
そんな当たり前の事さえ忘れ、しゃかりきになって働いていた丸藤当時の自分がどれほどのプレッシャーを感じていたのか、また、それに押しつぶされまいと突っ張り、無理をしていたのか、この頃になってようやく気が付いたのだった。
心を見失うほどに忙殺されていたかつての沙織は、やっと自分を取り戻したようだ。のんびりと過ごす事にも慣れ、暇な暮らしも案外合っているのかも…そう思うゆとりさえ生まれていた。丸藤の女性管理職として肩で風を切っていた頃の沙織とは少しずつ変わり始めていた。
そんな沙織は、近頃、電車内の人々の様子を眺めていると生気のない人が多いように感じる。
充実した毎日を最期まで送るような恵まれた人生を選べた者、或は、退屈な人生しかないと感じている者…いろいろな人が電車には乗り合わせているのだろうと感じた。が『健やかに生きていけるだけでも幸せ…それを知った私は少しだけ他の人より幸せなのかもしれない…』そんな風に思うのだ。
そうはいっても、心血を注ぐほどに打ち込めるものがないのがこの頃の沙織の悩みだった。そんな心の隙間にふとした瞬間『頑張って断酒するなんて意味が無い』と、飲酒への欲求が入り込んでくる。調節しながら飲めればどうという事の無い酒も、今の沙織には蟻地獄のような再飲酒へのきっかけになりかねない。飲酒と断酒の葛藤に疲れてしまい、時々、無性に飲みたくなる苛立が沙織を悩ませていた。
そんな葛藤を消し去るような、ひた向きに取り組める【何か】を捜していたが、丸藤在職当時のように刺激的で目の回るような忙しさを知っている沙織には容易に見つからなかった。
「逢いたくても逢えないから飲んじゃうのよ…」
そんな飲酒への葛藤を瀧蔵のせいにし、一言だけ届いたメールの本文を眺めながら愚痴をぶつけた。そこへ、再び瀧蔵からメールが届いた。沙織がメールを開いてみると
「来週、東京へ行く」
それを見た沙織は嬉しさの余り
「待ってるわ」
素早く返事を書き送った。来ると知った瞬間から沙織は待ち遠しくて仕方ない。こんな時、心の空きが埋まるような感覚を覚えるが、自由に逢えない関係が沙織の寂しさを募らせていた。
瀧蔵の泊まる都内のホテルで逢うと、二人は決まり事のように抱き合った。情事の後ひと心地着いた頃に沙織が
「マッサージしてあげるわ」
瀧蔵に腹這いになるよう言うと
「いいよ」
しばし沙織を見上げていたが、やがて諦めたようにうつ伏せになると、沙織は瀧蔵の腰のあたりにまたがり、首から肩、背や腰を指圧した。
「…帰るのが面倒臭いんだよな…」
うつ伏せの瀧蔵がぼそぼそと言った。聞き取れない沙織が
「何?」
訊き返すと
「帰るのが、面倒臭い」
今度は明瞭な声で言った。
「なんで?」
「………沙織とこんな事してると、家に帰ったり、仕事したり………そういのがイヤになるんだよ」
気だるく呟く瀧蔵の胸の内を聞いた沙織は思わず声をあげて笑った。
「堕落してるよな…」
瀧蔵は、やや落ち込んだ声で呟いた。それを受けて沙織が
「英気を養ってるのよ」
励ますように優しく言うと
「いいな…そこ」
ツボにあったたのか、気持ちよさそうな声で呟いた。沙織は腰の辺りを瀧蔵の呼吸に合わせゆっくり親指で押した。
「沙織が酒に溺れてる時ってこんな感じなのかな…」
ぼんやりとした声で呟いた。
「………似てるかしらね…」
断酒の会では異性関係と飲酒は似ているというが、沙織は似ているところもあるし、似ていないところもあるような気がしていた。
「……溺れてるんだよな…」
気持ちがいいのか、瀧蔵は滑舌が曖昧だった。
「溺れてる?………何に?」
沙織は指圧しながら訊き返した。
「……沙織に…」
それを聞いた沙織はまたも可笑しくなり、声を立てずに笑った。
「そーお? そうは見えないな…」
沙織が茶化すように言い返すと
「溺れてるんだよ」
瀧蔵はムッとしたように言い返した。沙織は可笑しさが込み上げてくるが、どうやら瀧蔵は本気でそう思い込んでるようだと感じ、これ以上笑わないよう、努めて真面目に指圧を続けた。不意に
「………この間、分骨してきたんだ」
相変わらずボンヤリとした、今にも寝てしまいそうな声で瀧蔵が呟いた。
「分骨?」
沙織は聞き慣れない言葉にやや手の力を弱めながら尋ねる。
「……オヤジの遺骨……………浦上に、分けてきた…」
瀧蔵の言葉に耳を澄ませ思い巡らした。
瀧蔵の亡き父には昔でいう妾がいた。
瀧蔵の父は妻、即ち瀧蔵の母が住まう本宅と、妾が暮らす別宅を行き来する暮らしをしていた。その為、瀧蔵は少年時代、父との交流が薄いまま成長していった。多感な時期にさしかかるとそんな父を嫌悪した瀧蔵は東京に進学を決め、実家に寄り付かなくなったのだ。会社を継ぐ事に抵抗があったのも、そんな父親への反発心からだという事に沙織は気付いていた。
「浦上?」
「……別宅が浦上なんだ」
どうやら、地名で呼んでいるのだと気付くと、沙織はそれ以上訊くのを控えた。
「…オヤジは、浦上で倒れたんだ。…葬式の時から分骨してほしいって言われてたんだけど、お袋が反対したんだ………むこうは葬式にも出られなかったし……」
「………どうして、今なの?」
沙織は静かな口調で尋ねた。
「………お袋も分骨の事はすっかり忘れてるみたいだし…三回忌もとうに済んでる……」
沙織は黙って聞いていた。瀧蔵が何を言わんとしているのか沙織には分からない。
ゆっくりと瀧蔵の背を指圧しながら、瀧蔵の心境に何らかの変化が起こっているのを感じた。
「……そう……じゃあ、お母様は知らないの?……」
沙織は静かな声で尋ねた。
「…言ったら大変だよ……住職に事情を話して……お袋には一生言えないよな…」
瀧蔵はぽつぽつと続ける。
「……相手の人…その、浦上の人…何か言ってた?」
瀧蔵が父を嫌っていた原因は、浦上に住むという妾の存在があったからだ。その人に今になって突然、分骨を申し出るなど、一体何を考えているのか、沙織は気になって尋ねた。
「………」
瀧蔵は長い沈黙の後、
「………ありがとうございますって……何度も頭下げられた……本当にありがとうございますって……諦めてたんです、って……」
瀧蔵は沙織に訊かれるまま、その時の様子を低いくぐもった声で淡々と話した。
「…そう……」
「オヤジは殆ど浦上に居て……お袋のところへたまに帰ってくるだけだったんだ……だから、そのほうがオヤジも喜ぶんじゃないかな……」
沙織は神妙な面持ちでその話を聞いていた。
浦上、と呼ばれる女性との間にはこどもがいたはずだった。瀧蔵はその関係もあって「俺が継がなくてもいいだろう」と、言っていたのだ。その瀧蔵が後継者になったところを見ると、折り合いは着いているようだ。父の死後、瀧蔵は様々な問題を片付け、乗り越えねばならなかったのだと思う。沙織は今更ながら、そんな瀧蔵のそばにいてあげられなかった事が悲しく思えた。分骨をして、瀧蔵は肩の荷が降りた思いなのだろうか、それとも、母に言えない秘密を抱えた事を苦痛に感じていているのだろうか…沙織は気になり声をかけた。
「ねぇ……」
そんな沙織の思いをよそに、既に瀧蔵は寝息を立てていた。眠った瀧蔵の横顔を見た沙織は、瀧蔵の父へのわだかまりが解けたのかもしれない…そう感じていた。
翌朝、先に起きていた瀧蔵の気配で沙織が目を覚ますと、ノートパソコンを広げ資料の整理をしていのが目に入った。
「もう、起きたの?」
眠そうな声で沙織が訊くと
「ああ、まだ寝てていいよ」
既に帰り仕度をせた様子の瀧蔵が言った。
「…飛行機、何時?」
沙織がうつ伏せのまま尋ねると
「五時過ぎかな…」
ディスプレイを見ながら答えた。
「もう帰っちゃうのね」
ゆっくり出来ない事が名残惜しかった。そんな沙織の気持ちを察したのか
「むこうに着いたら夜だ。…また来るよ」
こどもを諭すように優しく言った。沙織はなかなか起き上がる気分になれずそのまま横になっていると、瀧蔵がカーテンを開けた。東向きらしく朝陽が眩しい。この辺りはビルが多いが、この部屋は採光が遮られていないようだ。
「いい天気だな」
瀧蔵は快活な声で言うと少し窓を開けた。その途端、淀んでいた部屋の空気が入れ替わるようで心地いい。沙織がベッドの中でまどろんでいると不意に
「なぁ、沙織」
「…なぁに?」
まだ眠い沙織は、目を閉じたままのんびりした口調で返事をした。
「……うちで働かないか?」
沙織はその言葉で一気に目が覚めた。目を開けると、ベッドに向かって配置されているソファーに腰かけている瀧蔵を見て呟いた。
「何? それ…」
瀧蔵は沙織を見ながら
「もし、働く気があるなら、だけどね。…ま、長崎だけど」
そういうと、小さく笑みを浮かべて再びパソコンに目をやると、何かを打ち込み始めた。
沙織はやっと体を起こすと瀧蔵をぼんやりみつめ今の言葉を確かめるように
「…ねぇ」
「うん?」
沙織はいずまいを正し
「それってどういう意味なの?」
真面目な顔で尋ねた。
「どう、って……そのままの意味だよ」
パソコンを打つ手を休めると沙織を見た。
「…あなたの所で雇ってくれるの?」
「沙織にその気があればね」
瀧蔵は淡々と、事も無げに言った。
「…長崎へ?」
沙織が訊くと、瀧蔵は
「横浜からの通勤代は出せないな」
笑いながら言った。
「…何するの?」
「何がしたい?」
沙織の顔に視線を向けると沙織の希望を訊いた。
「何って…」
沙織は戸惑いを隠せなかった。
「アルコールの事だってあるし…」
「止まってるんだろ?」
「今はね…でも、一年も経たないし、いつ、ぶり返すかわからないわ」
沙織には永久に断酒を続ける自信はなかった。再び飲み始めたら、到底出勤など出来る状態ではなくなるのだ。
「そんな事言ってたら何もできないよ。…まぁ、沙織がそれでいいならいいけど…」
瀧蔵は、沙織の壮絶な飲酒の実態を自身の目で見た事はない。今も時々飲んでしまう事を瀧蔵は知っているはずだ。それでいながらそんな提案をするのは、楽観的すぎるように沙織には思えた。しかし、沙織が今後の就職の事で悩んでいるのも瀧蔵は知っているのだ。瀧蔵の好意は嬉しいが、様々な不安や問題を抱えた今の沙織には正直、自信がない。
「…でも、ブランクもあるし…」
休職期間も入れると五年近く働いていない計算になる。
「沙織は、丸藤で七年近く働いてただろう。管理職の経験もある。大抵の事は出来ると思うよ」
「……」
沙織は言葉に詰まった。
「俺も、酒は止めるよ」
「……接待はどうするの?」
瀧蔵はキッパリと言うが、現実的ではない気がした。
「多少は飲むだろうけど、沙織の前では飲まないし、普段も付き合い以外は飲まないようにする」
瀧蔵はそう言うと立ち上がってコーヒーを入れた。
瀧蔵は体質的に酒に強いらしく、飲んでも顔色が変わらない。本人は「酔ってるよ」と言うが、瀧蔵が酒に飲まれているのを沙織は見た事がなかった。沙織はかねてから瀧蔵は、アルコール依存にはなりにくいタイプだと感じていた。
「でも…もう、丸藤を辞めてから五年くらい、まともに働いてないわ。ブランクがあると、仕事の勘も取り戻すのも大変だし……それに、最近前ほど記憶力もないから、新しい仕事、覚えられないかも…」
瀧蔵はコーヒーを注いだカップを沙織に手渡すと
「俺だってそうだよ。この歳で中学生と同じじゃマズいだろ」
明るい声でそう言うとまた笑った。沙織も思わず笑ってしまったが、正直、新しい環境で新しい仕事をするというのは怠惰な暮らしになれた今、辛い。
「…丸藤の事しか知らないし…」
「無理にとは言わないよ。やる気があれば、だよ。なっ」
煮え切らない沙織を励ますように言うと微笑んだ。
「あなたは、それでいいの?」
瀧蔵の申し出は嬉しいが、そうなれば当然この関係も続いていくだろう。しかも今まで以上に密接な関係になると思われた。沙織には嬉しい話だったが今の瀧蔵には家庭がある。嫌っていた亡き父の生き方を踏襲する事に抵抗はないのだろうか…沙織は気になった。
「いいよ。真面目に働いてくれれば。俺はいい」
が、瀧蔵の答えに迷いは無かった。どうやら瀧蔵はこの話を予め決めていたようだ。昨夜、突然浦上の話を持ち出したのは、沙織との関係を次のステップへ進めていく為の区切りだったのかもしれない…この時、沙織はそう感じた。
「本気?」
瀧蔵の真意を計るように目を見つめて尋ねた。
「本気だよ」
覚悟を決めている様子の瀧蔵を見ると、沙織は不思議な気分だった。新しい局面に向かっているのを感じ、恐る恐る沙織が
「……私、何すればいいの?」
尋ねると
「……輸出入でもいいし…秘書とか」
瀧蔵は考えるように曖昧に答えた。
「秘書なんて、今居るの?」
「居ないよ」
沙織は秘書の経験は無かったし、現在設けていないポストで働く事など出来るのだろうか…沙織はまた、言葉に詰まった。
「…」
「俺が必要だ、って言えばいいんだよ」
そんな沙織の心配をよそに瀧蔵はあっけらかんと答えた。沙織はそんな瀧蔵の言葉を嬉しいと思うが同時に不安も過る。
「まぁ…体の事も仕事の事も、やってみてダメならその時また考えよう。始める前から心配してもしょうがないよ」
沙織の迷いを振り払うように瀧蔵は言った。
午前中に瀧蔵と別れ買い物を済ませた沙織は、度々瀧蔵と訪れたみなとみらいの海辺で、暮れなずむ水平線を眺めていた。
瀧蔵は夕方の便で長崎へ帰る。空港まで見送る事もあったが、この日は瀧蔵からの申し出をゆっくり考えたくて早めの昼食を瀧蔵と済ませた後、空港へは寄らずに帰る事にしたのだ。
「少し、考えてもいい?」
沙織が訊くと
「いいよ」
「その話はいつまで有効なの?」
「沙織がやる気がある限りは有効だよ…そうは言っても何年も先では困るけど」
瀧蔵は笑った。
「二〜三日、考えるわ」
「うん。…待ってるよ」
沙織の目を見つめながら言った。
思えば瀧蔵とは随分長い付き合いだ。いろいろあったが、沙織が知る限り瀧蔵から沙織を見捨てた事はなかった。強いて言えば、守屋の時だけだろう。それも双方からの誤解が重なった上での事だった。そう考えると「うちで働かないか」と言う提案も、思いつきではないようだ。
しかし、瀧蔵と今になって上司と部下という関係になるのもどうしたものか…しかも長崎に引っ越す事になるのだ。そんな事を周囲は認めるのだろうか…沙織は気がかりだった。
瀧蔵は
「沙織一人くらいなんとかなるよ。俺がいいって言えば、いいんだよ」
そう言っていた。
「上手くいかなかったら、その時また考えよう」
とも言った。確かに、周囲の反応など今考えても分かるはずはなかったし、沙織の体調も予測は不可能だ。丸藤を辞めた時のように予想外の事態は起こり得る。
沙織は、微かに光が射したように感じた。しかし、仮に瀧蔵の申し出を受けたとしても瀧蔵には家庭がある。
沙織は何度も考えながら、答えを出しあぐねていた。
空を見上げると空港から飛び立ち、西へ向かう白い飛行機が見えた。
「これかな…」
沙織は、観覧車の電光掲示板の時刻に目を向けながら呟いた。瀧蔵を乗せた飛行機が離陸した頃だ。
沙織と瀧蔵は行き先の無い航海をしているのだ…沙織は、目的地不明の船に乗った気分だった。たとえ、雇われ同じ職場で働いたとしても、そこには明白な約束などない。
そんな不安定な関係など、以前の沙織なら耐えられなかったはずだ。それなのに今は半ば諦めのように、その事を受け入れられるようになっている自分に気が付いた。結局、人生なんてどんなに計画しても思う通りに運ばない…それならば、こんな私を今だに抱き、受け入れてくれる男がいるなら、それだけを見つめて明日も共に在るように願いつつ生きるしかないのだろう…瀧蔵が言うように「やってから考える」しかないのかもしれない…沙織は薄暮の中で芝生に腰を下ろし、対岸で煌めく観覧車のイルミネーションを見つめながら思った。
その時、遠くで
『ボーッ』
汽笛が鳴った。
長崎の港で聞いた汽笛と同じ音に聞こえた瞬間、瀧蔵はこの時、何を思っているのだろうか…と、沙織は空の上にいる瀧蔵と、最果てにある地へ思いを馳せた。 〈 了 〉
ご愛読、感謝致します。
やっと、最終回を迎える事が出来ました。
最終回については、昨年十月に連載を開始した頃から既に書き上げておりましたが、今回、華蓋の姉妹作『びーどろの団欒』を発表するにあたり、最終回の掲載を見合わせておりました。楽しみにしていて下さった方には本当に申し訳なく思っています。最後の数回分は一話ごとが長くなり、読み難かったかもしれませんね。途中、多忙の為に連載が滞っていた時期もありましたが、無事、終える事が出来たのも、多くの方が読んで下さったおかげと思っております。
この物語を通して私がお伝えしたかった事が皆さんに上手く伝わったか分かりませんが、何かを感じ取って頂ければ幸いです。
本来三十話が最終回となる「華蓋」は、当初の予定通りここで完結とさせていただきますのでご了承下さい。
その理由は、ここを最終回にすることを目指しての構成になっており、ここへ書き加える事は予定外だった為です。
思いがけず多くの方にご覧いただいた事から、急遽追加しました三十一話と三十二話については続編等の形で改めて発表させていただきたいと思っております。
最終回までお付き合い下さいましたこと、心より御礼申し上げます。
*次回作「びーどろの団欒」では「華蓋」のその後をお楽しみ頂けます。あわせてご覧下さい*
この小説は某大賞へ応募した作品です。著作者は小路であり、無断で転載・コピーする事を禁じます。
8/28後書き修正
小路 雪生