第三回
その数日後、沙織は里美とランチに出かけた。里美がキッチン用品を見たいというので、渋谷に新しく開店した流行りのインテリアショップに行ったのだ。
お玉やランチョンマットなど、カラフルな道具を次々買い込む里美に
「里ちゃん、そんなに買ってどうするの?」
沙織は、里美が持っているアルミ製のカゴを覗きながら尋ねた。
「…ん?…うん…結婚しようかな、みたいな…」
あまりのさりげない告白に、沙織はうっかり聞き逃しそうになりながら
「……え、結婚、って、言った?」
戸惑いながら訊き返した。
「どうも、食品行きは確実みたいなのよね」
里美は言いながら立ち止まった。
「辞令が出たの?」
沙織が尋ねると
「ううん、それはまだ。でも、この段階で断ったらうちの会社、即退職じゃない」
基本的に会社命令は絶対だ。これまで母親の介護を理由に転勤を拒んだ社員もいたが、最終的には退社を余儀なくされた。
「その後、契約社員にされるかどうかの瀬戸際みたい…なんか、イヤじゃない、そんなの。仮に残ってチーフとか言われても、食品なんて経験ないしさ…それに食品、冷えそ〜っ」
おどけてみせる里美は、既に何か決断したような口ぶりだった。
「相手は?」
沙織の問いかけに
「高橋君」
里美は意外にあっさり白状した。誰だろう…と必死に横浜の従業員の中から該当者を思いめぐらせていると
「知らない? うちの売場にいたのよ」
そういえば…学生風の若い男の子がいたような…と、沙織は精悍な顔立ちの青年をうっすらと思い出した。
「…あぁ…あの?」
あやふやに尋ねる沙織を里美は正面から見つめて
「そう、あの高橋君」
真顔で言った。少し前に里美に彼が出来た事は知っていた。が、沙織が尋ねてもどんな人物かは言おうとしなかった。てっきり、不倫でもしてるのかと沙織は思っていた。水臭いと思いながらも追求した事はなかったが…まさか、あのバイト君とは…と、意外性に富んだ展開に沙織は興味をそそられた。
「彼って、幾つなの?」
里美は、やや声をひそめながら
「二十三…」
打ち明けた。
「本当? それって、いいの?」
二人の歳の差を知っている沙織は驚いた。思わず声を張って言ってしまってから自分の声の高さに慌てると、里美は早口に
「だって、仲良くなっちゃったんだもん」
弁解するように早口に言い返した。沙織は軽く呼吸を整えながら
「いけないなんて言ってるんじゃないのよ。大丈夫なの、って訊いてるの。心配してるのよ。…結婚なんて、…だって、バイトでしょ?」
里美が沙織から逆セクハラと批判をされている、と、とられないよう慎重に言葉を選びながら遠慮がちに問うてみた。
「…うん…。…今年、卒業なのよ。就職先も決まってるわ。親元も離れるって言ってるし、一緒に暮らそうかと思うの…」
その時の少しはにかんだ里美の顔が、印象的だった。
里美の衝撃の告白と前後して、木野由美子という、同い年の売場の社員からもメールが届いていた。
「さおちゃん、御無沙汰です。その後元気にしてますか? 実は私、辞める事になりました。さおちゃんにはお世話になりました。一緒に遊んでくれてありがとう」
という内容だった。
木野由美子は高卒入社の為、沙織より四期先輩にあたる女性社員だった。由美子を筆頭に、婦人アンダーウェアや子供服、食品部門などから社員・契約社員ばかり、五人で徒党を組んでいるグループがいた。その五人組全員が辞めるとの事だった。
「私、結婚するんだぁ。裕ちゃんは妊娠四ヶ月だし、真希も田中さんと結婚するって。栗ちゃんは転職するって言ってるし、斉藤ちゃんは、皆辞めるって言ったら、じゃあ私も、って」
との事だった。
この頃、沙織が顔馴染みの職場の人達は、一斉に退職したり転勤することになった。女性に至っては、この時期にほぼ全員が結婚したといっても過言ではない。沙織だけが完全に行き遅れてしまったようだ。
由美子は以前、沙織の飲み仲間だった。婦人服の加奈も加え、三人で繰り出しては大騒ぎをしていたのだが、当時由美子と加奈の二人が真剣に交際相手を探していたことから、沙織の学生時代の仲間やそれぞれの友人・知人、仕事関係で知り合った男性を集めて合コンを行っていた。社内の人間関係だけでは世界が狭すぎる、と意見が一致したのだ。しかし、そんな合コンだけでは飽き足りなかったのか、当時、由美子と加奈は出会い系に夢中だった。そんな二人は沙織から見るとやや危なっかしく写っていた。
「えー!! 出会い系?」
沙織はその話を最初に聞いた時、眉をひそめた。が、由美子はあっけらかんとした様子で
「楽しいよぉ。さおちゃんも行こうよ」
平然と言う。そんな誘いに沙織は迷ったものの、何も知らずに批判するのはよろしくないと考え直し、二人に付きそう事になったのだ。
加奈と由美子が出会い系サイトで知り合った男性を呼び出し、待ち合わせ場所に近い柱の陰からそれらしき男性のルックスをチェックするのだが、二人が好みではないと意見が一致すると、沙織の出番だった。沙織は偽名を使い自己紹介をすると、嘘の経歴を並べ見知らぬ男達に飲食代やカラオケ代を奢らせては連絡を断つのだ。出会い系など沙織は感心出来なかったが、由美子の誘いを無下にも出来ず、下心満々の見知らぬ男性心理を逆手にとって騙して遊んでいたのだ。そんな沙織を頼もしがって、二人から時折
「今日、会う約束したんだけど、さおちゃん来てよ」
などと、用心棒役として呼び出されるのだった。その話を聞いた店長から沙織は
「辻さん、あんた、合コン行って男騙してるそうやないか」
訊かれた。
「はい」
沙織は素直に答えながら、おしゃべりな加奈に舌打ちした。そもそもは二人が言い出した事だ。
「……そーかー……。ま、ほどほどにな。男泣かせるなよ」
店長はきょろきょろしながら注意とも、世間話ともつかない様子で沙織に言った。その時、まだフロアマネージャーだった葛西は横で、
「お前、そんなことして遊んでるのか…」
コーヒーをすすりながら呆れ顔で呟いていた。
沙織は、自分が出会い系で遊んでる訳ではない!…と声を出して言いたかったが、それも見苦しく感じて特段言い訳もしなかった。
沙織は、当時を振り返ると楽しい職場だったと、笑いがこみ上げてくる。辞めるつもりなど全くなかった。それなのに…と、葛西の誘いを苦々しく思い出すのが常だった。葛西は沙織が遊んでいると誤解をしたからあんな風に誘ったのだろうか…沙織は当時を振り返りながらベランダに干してあった洗濯物を取り込むと、勢いよくカーテンを閉めた。
少し酔いが回ってきたのか、足もとがフラフラする。沙織の飲酒にはドクターストップがかかっていた。それでも、沙織は今でもこうして時々飲んでしまうのだった。
心のどこかで『なるようにしかならない』という、思い通りにならない人生への反抗心があるのかもしれない。
お風呂から上がり、就寝前にPCのメールソフトを開いてみると、ようやく瀧蔵からメールが送られてきた。
「今日も飲まないように。おやすみ」
瀧蔵からの一行だけのメールが、今の沙織にとっては唯一の灯だった。