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祈り ―華やかな傘に守られ―  作者: 小路雪生
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第二十九回

 沙織はため息をついた。

 再会を果たした日から瀧蔵は昔のように朝晩のメールをくれるようになっていた。それに加え、電話の回数も週一回に増え、それを欠かす事はなかった。

 しかし、沙織には常に瀧蔵が心変わりしてしまうのではないかという不安がつきまとっていたのだ。

 一度逢ってからの渇望感は逢う前の比較にはならない。瀧蔵が既に心変わりをしていたというならば諦めざるを得ないだろうし、もっと冷たい男なら沙織も捨てようと決心するだろう。が、瀧蔵に逢い、抱かれ、優しさに触れてしまうと想いは募る一方だった。瀧蔵のいない毎日はあまりにも味気なく、色褪せて感じられるほどだ。が、想うほどに得られぬ物足なさを埋めようと、恋しさがいつしか焦燥感に変わっていた。

 二十代の頃のように打ち込める仕事でもあれば沙織の気持ちも紛れるのだろうが、今の沙織にはそれがなかった。沙織は、しみじみ人生とは上手くいかないものだと思った。毎日忙しい頃は瀧蔵との約束の時間を作る事さえ苦心していたのに、暇になった途端、瀧蔵との関係もこの有様だ…沙織のため息は止みそうになかった。


「今度、いつ逢えるの?」

「……」

「逢う前より寂しいの」

 昔のように打ち込めるものがない沙織には瀧蔵の事が全てになっていた。

「………逢わない方が良かったかな…」

 そんな沙織を重たく感じるのか、やや持て余し気味にくぐもる声で瀧蔵は呟いた。

「そうじゃないわ…そうじゃないけど…」

「…」

「辛いの」

 沙織のそんな言葉を聞くと瀧蔵も困るに違いないと思う。しかし、沙織は瀧蔵への甘えなのか、求めても容易に叶わなぬ苦悩を訴え続けた。

「昔、あなたがいつも近くにいてくれて、それを当たり前だと思っていたの…」

「…」

「今になって、あの頃、どんなに幸せだったのか分かったわ…」

「…」

 身ぐるみ剥がされ何もかもを失った沙織はすっかり弱気になり、昔の自分が奢っていたように思えてならなかった。

「あなたがいない毎日なんて耐えられない…」

 沙織は嗚咽を漏らして泣いていた。瀧蔵はじっと訊いているが、言葉では慰められない事を知っているのか、そんな沙織に寄り添うようにただ静かに耳を傾けて聴きいた。

 この頃の沙織は仕事もしていないせいか、瀧蔵との共通の話題もなく、電話口で逢えない寂しさを訴えては泣いているばかりだった。

「来週、東京へ行く。その時、逢おう」

 瀧蔵は沙織に言い聞かせるように、ゆっくりと囁いた。


 瀧蔵の仕事は流動的で約束どおりに逢えない事もある。長崎から戻って以降、月に一〜二度、都内のホテルで逢っていたが、時には

「来週の出張はキャンセルになった」

 などとメールが届いた。

「今度はいつなの?」

 落胆した声で沙織が尋ねると

「取引先との絡みがあるからまだ分からない」

 こうなると沙織は忽ち、全てへの気力が萎えてしまうのだった。

 直前にならないと分からないと言われ、仕事だから仕方がないと思いつつ『本当は自分に逢いたくないのではなか…』と悩んでしまう。不安が拭い去れない沙織は苛立っていた。


 昔の瀧蔵は香子との関係を除けば沙織に誠実だった。そんな瀧蔵を知っている沙織は、仮に約束が取り消されても信じていられるはずだと思っていた。しかし、よく考えてみると当時から沙織には瀧蔵が休日に何をしているのか分からない事もあった。妻に出張と偽り、沙織が泊まっていた長崎のホテルで外泊する男だ。遠く離れた沙織に嘘をつく事など朝飯前ではないか…一人で過ごす沙織の胸はいつしかそんな猜疑心が芽生え、心を蝕んでいった。

 やっと瀧蔵と再会を果たしたものの、この数年間の拠り所の無い気持ちから解放される事はなかった。自由に逢えていた頃とは違い、現在の二人には様々な障害があった。どんなに優しい言葉も、たとえそれが真実だとしても、現実がそれを阻み、虚しく消えていきそうな心地に陥るばかりだった。長崎での逢瀬から日が経つにつれ、抱かれた事実も幻のように思える。


 瀧蔵との都内での約束がキャンセルにになった直後から、沙織は不安を打ち消すように酒を飲むようになっていた。酔っていると深刻な気分が薄れ、飲んで眠れば悩みも忘れる事が出来たのだ。

瀧蔵の肌の温もりを思い出すと片時も離れていられないほど恋しい…そんな心の隙間を埋める事が出来るのは酒しかないと、この時の沙織は思い込んでいた。

 起きるのと同時に酒に手を伸ばすとカーテンを開けるのも面倒に思える。食欲もない沙織は、毎日のように焼酎や洋酒をロックやストレートで煽っていた。一度こうなると自分で止める事は不可能だ。

「おかしい…立てない」

 沙織は、次の酒を買いに行こうと陽の高い昼間からフラフラと立ち上がった。が、脚に力が入らない。壁につかまりやっと立ってみるが、自力での歩行は困難だった。喉が異様に乾いた。水を飲むが、いくら飲んでも焼けるような乾きは癒えず、腹が膨れる一方だった。

「水、まずい…お酒じゃなきゃ…」

 沙織は酩酊しながら酒を煽るがどうしても上手く立つ事が出来ない。足もとがフラつき力が入らないのだ。沙織は崩れるようにキッチンの床に座り込むと、なおも酒を煽り、グラスの中身を飲み干す前にその場で意識を失ってしまった。

 その数時間後、やっと目を覚ました沙織は、気が付くやいなや酒を買いに行かねば…と財布を開いた。酒代に使い果たした財布の中身は乏しく、銀行へ行こうと立ち上がると、今度は歩く事もできた。

「なんだ…歩けるじゃない」

 千鳥足のである事を気にかけながら外へ出たが、自転車にも乗る事が出来た。

「なーんだ。別に飲んでたってどうって事ないじゃない」

 先ほどの歩行困難などすっかり忘れ、鼻歌まじりで銀行に着いた沙織はATMから金を引き出そうとした。が、暗証番号が合わずに何度も間違いを繰り返すとカードが使えなくなった。近くにいた係員にその事を告げると

「…では、窓口へいらして下さい。通帳と印鑑と身分証明書をお持ち下さい」

 そう言われた沙織は早速帰宅して再び銀行へ行こうとしたが通帳が見つからない。慌てて捜すものの、酔っているせいなのか見つからないのだ。沙織はイライラしながら窓口が閉まる時間に間に合うようにと、懸命に捜索したものの、この日、預金を引き出す事は出来なかった。ようやく翌日になってから通帳を見つけ、大急ぎで銀行へ行くと

「カードを作り直したいんです。それから払い戻しも…」

「では、印鑑お持ちですか?」

 窓口の行員に言われた。沙織は用意してきた印鑑をバッグの中で探したが、今度は印鑑が見当たらない。確かに入れたはず…と怪訝に思いながら部屋に帰ると、今度は印鑑を大捜索をした。が、前日の通帳と同様に、どうしても見つける事が出来ない。沙織は地団駄を踏みながら悔しがった。結局、この騒動は連日のように繰り返され、沙織が自分の口座から預金を引き出したのは一週間近くも経ってからだった。

 沙織には酔っている自覚はない。アルコール浸りの体と脳はすっかり感覚が鈍麻し、顔色もいつもと変わらない。自転車も乗れるし、会話も出来た。信号も識別できる。沙織は酔っていないと思い込んでいた。

 しかし、素面で銀行に行くと一度で預金を引き出す事が出来るのだから、窓口へ行く度に何かしら忘れ物をするというのは明らかに酒害なのだが、沙織はその事を認めようとしなかった。


 酒による失敗を認めようとしない沙織は、激しい嘔吐と焼け付くような胃の痛み、食欲不振と体中が痛む最中、気付くと、本格的に立つ事が出来なくなっており、体中に激痛を覚えるようになっていた。

「痛い…」

 部屋をのたうち回りながらも『飲めば痛くなくなる…』そう信じて更に酒を煽るのだった。息も出来ないほどに内蔵から四肢が痛むにも関わらず、自らの意志で酒を止められなくなっていた沙織は這うように部屋の外へ出ると、マンションの外廊下の壁をつたい歩きをしながら屋上に上がっていた。やめられない飲酒とその苦痛を、飛び降りる事で止めようとしていたのだ。

「落ちたら痛そう…」

 その場に座り込んだ沙織は、自分が何をしているのか分からなくなっていた。屋上で気でも失っていたのか、気が付くと沙織は再び部屋に戻り飲み続けていた。


 沙織は完全に酒に飲まれていた。自らの意志に関係なく酒に溺れる日々に突入し、朝から薄暗い部屋で飲みながら、ひたすら酒の残量だけを気にしていた。

 カーテンを開けると陽射しが眩しく、起き抜けから飲んでいる事に後ろめたさを感じたのだ。

 体のあちこちが痛んだが、瀧蔵の事を考えずに済む事が沙織には救いに思えた。とにかく、酒の事しか考えられない精神状態になっている為、それ以外の思い煩いからは解放されるのだ。

「次は何買おうかな…カナディアンクラブに、メーカーズマーク…ううん。バレンタインにしよー!!」

 沙織は一人で次に買う酒の銘柄を考えては陽気な気分になっていた。

「Mーy funnyー valentiーne ♪  Sweeーt comic Valentーine」

 酩酊しては大声で歌い、酒の事だけを考えていると瀧蔵との関係など微塵も思い出さずに過ごす事が出来た。沙織は酒の奴隷と化す事で心の安らぎを手に入れたように感じていた。


「だいだいさぁ、こーんなメールだけでさ、私がさぁ、私がさぁ、満足すると思ってるのかね〜  これだからあんたは駄目なんだ!! 瀧蔵遼のアホったれ!! ほら、こんなに飲んでたって気が付かないじゃーん!!  見えないもんね〜、嘘なんかつけるもんね〜。どうせ、あんらも嘘ついてるに決まってるんだー!!  嘘つき!!」


 瀧蔵から送られてきたメールに向かって罵声を浴びせては嬌声をあげて飲み続ける。


「あーんなに頑張って働いても結局、何も残ってないないじゃなーい…いいんだぁ、もう。…お酒くらい飲んで何が悪い!!  犯罪じゃなし、私が働いて貯めたお金よ!!  いーんだ、もう!  どうせ頑張っても無駄なんだ……頑張って酒止めてどうなるんだーーー!!!」


 一人、呂律の回らない口調で怒鳴って泣いては飲み続けた。

休職中末期の状態にすっかり逆戻りした上に、飲み方がその頃よりハイペースで食事もとらない。まるで自殺行為のような飲み方だったが、一人暮らしで誰にもアルコールの問題を打ち明けていなかった沙織には止める人もいなかった。


 定期の電話を架けてきた瀧蔵が

「…随分飲んでるな…」

 そんな沙織を咎めても

「そんなことないよ〜 きゃははははは!!」

 いたって陽気だ。

「…沙織…」

 瀧蔵はため息まじりに注意をするが、酔ってる沙織は電話口で脈絡なく歌い出したりと会話にならない。

「…もう、切るぞ。あんまり飲むなよ」

 瀧蔵が呆れたように言って電話を切ると

「ばーか!」

 切電された受話器に怒鳴るのだった。



「飲みすぎだよ」

 メールが届いても

「はいはーい!!  心にも無い事言っちゃって!! よ、色男!」

 などと、酔っている沙織は悪態で返すのが常だった。

 薄々沙織の異変に気付いていたであろう瀧蔵は「楽しい酒ならいいけどね」と口では言いながら、何か引っかかりを感じているようだった。


 沙織は、瀧蔵にアルコールの事を未だに話せずにいた。

 嫌われそうで怖かったのだろう。繰り返す飲酒の最中、まともに歩く事も出来なくなった沙織は、度々部屋で倒れていた。少しでもアルコールが切れると体中の筋肉が痛み、それを緩和する為にまた飲むのだ。体が痛むのは離脱症状の為で、飲めば更に悪化するのだが、沙織はそれを知りながら理性で飲酒を止める事も出来ず、なす術もなくなっていた。抗酒剤の恐ろしさを知っていた沙織は、薬の服用も中止し、病院へも行かずに連日強い酒を飲み続けた。二十四時間、カーテンを閉めきった薄暗い部屋で、過去への激しい後悔と、輝いてた二十代への郷愁、仕事もないまま再就職さえ危うい年齢になる事への恐れや絶望、そして何よりも、求めても逢う事すら容易に叶わない瀧蔵への想いを消し去りたかったのかもしれない。

 幼い日に母を亡くし、予想もしていなかった丸藤退職…人生はある日突然に壊れてしまう、という虚しさをイヤというほど味わった沙織は、今日あったものが明日には消え失せてしまうのではないか…という不安を抱えるようになっていた。遠く離れた瀧蔵との関係の危うさを思う時、沙織の心は一層激しく動揺するのだ。瀧蔵が一瞬のうちに心変わりするのではないか…そう考えただけでも沙織は平常心が保てないほど苦しんでいた。

 とことん飲んでやる…自暴自棄になっていた沙織は、激痛と嘔吐を繰り返しながらも意地になって飲酒を続けた。美味いと感じる感覚はとうになく、体にアルコールを入れる事だけが目的だった。

 そんな生活を続けられるほど沙織の体は健康ではなくなっていた。遂に、抗酒剤を飲んでいないにも関わらず、呼吸も出来ぬ程の激しい動悸と頭痛が襲ってきた。沙織は痛みと苦痛で呻きながら朦朧とする意識のまま、這って外へ出ようとしていた。救急車を呼ぶ事すら出来なくなっていたが、外へ出れば誰かに見つけてもらえると、薄れゆく意識の中で思ったのだ。が、玄関で力尽き、這う事すら出来なくなると『今度こそ死ぬかもしれない』と、迫り来る死の恐怖を感じた。 沙織は『死ぬ前にどうしても声を聞きたい』と、辛うじて動く指先で携帯に登録してあった瀧蔵の番号を押した。

「はい」

 瀧蔵の声を聞いても声が出なかった。

「……もしもし…」

 瀧蔵は、応答の無い電話を不審そう再度、問いかける。

 沙織の息は荒く、聞き取る事もできないほどだ。振り絞るように一言だけ発するとそのままを意識を失いかけていた。

「……もし、もし…」

 その声を聞いた瀧蔵は、誰なのか判別できないのか戸惑うように

「もしもし?……もしもし!?」

 遠くなる意識の中で、瀧蔵が何度も呼ぶ声が聞こえた。

「……沙織!!…どうしたんだっ 沙織!」

 既に意識を失った沙織が答える事はなかった。


 どのくらいの時間が経ったのか沙織には分からない。玄関で倒れているとインターホンがけたたましく鳴り続け、玄関のドアを何度も叩く音がした。

「大丈夫ですか?  辻さん?」 

『ドンドン!!』

 沙織はやっと目を覚ますと腹這いでドアノブに手をかけた。そこには警官2名とマンションの管理人が心配そうな顔で立っていた。

「大丈夫ですか?  辻沙織さんですね?」

 警官は氏名を確認するが沙織には答える事さえ出来ない。そのまま再び床に倒れ込むと

「開けて下さい!!  辻さん!!!」

 再び遠のきかける意識の中で、今度は救急隊員が姿を現していた。やっと玄関のロックを外すと

「……酔ってますか?」

 救急隊員は息も絶え絶えの沙織を介抱しながら病名を尋ねた。

「アルコール依存症です…」

 消え入るような声で答えると警官は

「長崎の瀧蔵さんという方から辻さんの様子がおかしいので直ぐに見入って欲しいと連絡が入ったんです」

 訪問の理由を告げた。救急隊員と警官は原因が分かり他に異常がない事を確認すると、幾分落ちついた沙織に

「今日は飲まずに、明日、かかりつけの病院を受診して下さい」

 そう念を押して帰っていった。


 その日の夜、過度の飲酒による体の激痛と、警官が現れた驚きからすっかり飲む気力を失っていた沙織がベッドで横になっていると、瀧蔵から電話が架かってきた。

「一体、どうしたんだ?」

 その声はやや気色ばんでいた。

「……」

 余りの失態に沙織は言葉もなかった。

「死ぬかと思ったぞ…」

 瀧蔵は沙織の無事を知り、心底安堵してるようだった。

「………アルコールが原因って、警察から聞いたけど…酔ってたの?」

 瀧蔵の声は深刻だった。躊躇いがちに警官聞いた内容を述べるとそのまま沈黙した。

「…ごめんなさい。心配かけて…」

 バツの悪い沙織は消え入るような声で詫びた。

「…何があったんだ…」

 真剣に問いただす瀧蔵を前に沙織は観念し、自分がアルコール依存症である事を言葉少なに打ち明けた。

「…アルコール依存症?」

 瀧蔵は信じられない、と言った様子で呟くと再び黙り込んでしまった。

「…休職中から酒量をコントロール出来なくなったの。辞表を出して間もなく電車で倒れかかって、その日の夜、救急車で運ばれたの。検査したら肝臓が悪かったんだけど……原因は、アルコールで、依存症だと……肝機能障害の末期でこのまま飲み続けると肝硬変になるって言われたわ…」

 ようやく、自分がアルコールの問題を抱えている事を告げ、断酒の会に通っている事や、もう酒量をコントロールして飲む事が出来ない事などを伝えた。

「本当は、一滴も飲んじゃいけないんだけど…」

 沙織は口ごもりながら説明した。

「…どうして、あんな風になるほど飲むんだ?」

「…」

 沙織には一言で説明出来なかった。その理由はひとつではなかったし、瀧蔵の事も絡んでるとなると増々言い難い。

「普通じゃなかったぞ。本当に死ぬかと思ったんだ…」

 瀧蔵はため息をつくと、暗い声で言った。

「もう、飲んじゃ駄目だ」

 瀧蔵は少し怒っているようにも聞こえた。

「…わかってるけど………でも、苦しくなるとお酒を飲みたくなるのよ…」

 沙織は、心配する瀧蔵の様子を知って嬉しい気もしたが、丸藤を辞めた後の自分がこれほど落ちぶれ、まるで人生の落伍者のような姿を晒す事にいたたまれない思いだった。そして、それでも尚「飲まない」と約束出来ない自分が悲しくなり、沙織の声は弱々しくなるのだった。


 同じ日の深夜十二時頃、再び沙織の家の電話が鳴った

「飲んでるのか?」

 瀧蔵の声だった。

「飲んでないわ」

 数時間前に話したばかりだった沙織は、やや驚きながら答えた。

「もう、飲むなよ。何してるの?」

 瀧蔵の声は時々途切れがちだ。

「何も」

 車を運転している様子の瀧蔵に、沙織は戸惑いながら答えた。

「沙織、もう寝るんだ。灯を消してベッドに入れ」

 瀧蔵はこどもに命じるように沙織に言った。それを聞いた沙織は、まだ早いと思われる時間だったが、警察の件や、先ほど話したばかりにも関わらず心配して電話をくれた瀧蔵の心中を思うと反論も出来ない。言われるまま素直に従い

「寝たわ」

 戸締まりの確認と部屋の灯を消すと、ベッドに子機を持ち込みながら答えた。

「いい子だから、もうな飲まないでくれ」

 瀧蔵の声は穏やかだが、有無を言わさぬ強さがあった。

「………今、どこ?」

 すぐに寝つけるはずもなく、沙織は訊いた。

「帰るところだよ。もうすぐ家だ」

 瀧蔵は何かに気を取られている声で答えた。

「あ、運転しながら電話架けてるんだ。いけないんだ」

 思わず沙織が茶化した。

「しょうがないだろ。着いた」

 どうやら自宅に着いたらしく、バックで車庫に入れてるようだった。

「大変ね」

 深夜に帰宅し、電話を片手に車庫入れをする瀧蔵の様子に沙織は自分が手間をかけさせていると感じた。思わず言葉をかけると

「分かる?」

「うん」

「体がふたつ欲しいよな…」

 瀧蔵はそこまで言うとエンジンを止めた。特に怒っているような様子はない。

「帰らないの?」

 エンジンを切った後、動く気配のない瀧蔵に尋ねると

「帰ったら電話切らないといけないだろ。沙織が寝るまでここに居るよ」

 何言ってるんだ…と言いたげな様子で沙織に言う。

「……」

 それを聞いた沙織は何故か、目頭が熱くなるのを感じた。

「…行けないから警察呼んだけど……本当に、何かあったんじゃないかって…」

 瀧蔵は本当に心配だった様で、先の件を思い出したのか、その時の事を語る声は暗く、覇気がない。

「……ごめん」

 沙織は心から申し訳なく思った。

「…心配なんだ」

 瀧蔵の声は真剣だ。

「……うん」

 一段と低い声で、沙織に噛んで含めるように言った。

「このまま、今日はもう飲まないで寝るんだ」

「…はい」

 沙織は身を縮め、頷く事しか出来ない。何を言えばいいのか分からず沈黙していると

「……うちの会社、大変なんだ…」

 瀧蔵は仕事の話を始めた。

「…どうして?」

「先代が事業広げすぎたんだよ」

「……負債がどうとかって?」

 滝貿易は、曾祖父が小さな商店から始めた会社で、瀧蔵が四代目だ。長崎といっても今は貿易は盛んではないようで、海外との定期航路が豊富な博多港の方が便利だと聞いていた。

「ああ。昔は造船業が盛んでその関連での取引がメインだったんだけど、造船業が一時振るわない頃に、先代が新規の事業を始めたんだ。それが良くなかったんだな。…東京にも営業所があったんだけど、経費ばかりかかるんだ。古くからうちで働いてる人は残した方がいいって言うから一年間様子を見たんだけど、あんまり機能してなかったんだよな。活用しようと思ったんだけど出来れば長崎を拠点にしたかったし、いったん閉鎖したんだ」

「あなたの代になってから一年後に?」

 アルコールが抜け切らないぼんやりとしたした口調で沙織が尋ねた。

「…迷ったんだけどね。今はインターネットもあるし…一度ここだけでやってみて無理ならまた開設しようと思って…必要な時だけ東京へ行けばいいし。ここで手堅くやった方が建て直せると思ったんだけど、やっぱり厳しいよな」

「…営業は?」

 貿易の事は沙織には分からないが、何か手だてはないものか、と思った。

「地方だし、新規を開拓するにしても限界がある。取引先から紹介してもらったりしてるけど、なんとなくパッとしないんだ」

 瀧蔵は現状に満足出来ていないのかもしれない。

「不渡り出すとかではないんでしょ?」

「そこまでじゃないけど、自転車操業みたいなもんだ」

「…大変ね…」

「やっぱり長崎だけでは難しいのかな…」

 社長とはいえ入社五年の瀧蔵は元商社勤務ではあったが、途中から畑違いの業務に就いていた。自分の会社とはいえ、勝手の違う職場では一から学ばなければならない事も多かったに違いない。おまけに責任まで伴うとなれば、のんびり構えてもいられないのだろう。「社長と言っても中小企業だし、率先して働かないと示しがつかない」と以前言っていたのを思い出していた。

「難しいのかしらね…」

 沙織はぼんやりとおうむ返しした。

「いろいろ考えていかないとな…」

「東京来ても忙しそうだものね」

 東京出張の際、待ち合わせをして食事をするが、瀧蔵が忙しい時などは直接宿泊するホテルを訪ねる事もあった。そんな時の瀧蔵は疲れて見える。

「ああ…接待もあるし、お得意さんに挨拶回りして、余裕があれば営業もして……」

「……私に逢うのも大変?」

 思わず沙織が尋ねると

「それはいいんだ…俺が沙織に逢いたいんだ…」

 瀧蔵はくぐもった声で呟いた。

「今度いつ来るの?」

 沙織は瀧蔵を慰めてあげたい気持ちになって尋ねるが

「近いうちに行けると思うけど……今日明日には無理だ。…早くても来週の後半くらいかな…」

 瀧蔵は思い巡らす声で答えた。

「逢える?」

 少し間がある事を残念に思いながら訊くと

「ああ」

 瀧蔵ははっきりと言った。

「………早く来て…」

 沙織が甘えて言うと

「うん」

 瀧蔵は応じた。

「…………連絡してね」

「ああ」

「…もう、大丈夫よ。寝られそう…ありがとう」

 沙織は、アルコールの事を打ち明けたら軽蔑されるのではないかと思っていた。が、醜態を晒した沙織に呆れもせず、こうして気遣ってくれる瀧蔵を信じたいと思った。


 翌朝、沙織の携帯が鳴った。着信音で目覚めるとまだ六時を回ったばかりだった。

「飲んでないか?」

 開口一番、瀧蔵は沙織に尋ねた。

「寝てた」

 寝ぼけた声で沙織が答えると

「そうか……飲むなよ」

 瀧蔵はそれだけ言うと電話を切った。沙織は酒が残っていた事もあり怠かった。そのまま再び眠っていると再度の着信音で目覚めた。朝の九時だった。

「沙織、飲んでないか?」

 瀧蔵は快活な声で訊いた。

「…飲んでないよ〜……何してるの?」

 二度寝から起こされた沙織はあくびをしながら答え、尋ねた。

「移動中。税関に行くんだ」

 どうやら、昨夜のように車の中から沙織を案じて連絡をくれたようだった。


 昼の十二時になり、アルコールが抜けないままぼんやりしている沙織の元に三度みたび、電話が鳴った。

「飲んでるか?」

 瀧蔵はいたって元気だ。

「飲んでないっ」

 朝から既に三回目だ。さすがに沙織も驚いた。

「飲むなよ」

 瀧蔵は念を押した。

「飲まない。…どこにいるの?」

 瀧蔵の断固とした口調に苦笑いをしながら沙織が訊くと

「車の中だよ。会社に戻るところ」

 また運転しながらだ…沙織は思ったが言うのは止めた。

「お昼は?」

 瀧蔵の空腹具合を尋ねると

「済ませた。沙織もちゃんと食べて、散歩でもしてこいよ」

 まるで保護者のようだ…と沙織は思いながら

「分かりました」

 殊勝な様子で答えた。

「また架けるから」

 そう言うと、瀧蔵は電話を切った。


 その後も午後三時、六時、九時、そして深夜十二時と同じ内容の電話が架かってきた。

「飲んでないな?」

 家路につく途中で昨夜と同じように電話を架けてきた瀧蔵は尋ねた。沙織は、一日中電話を架けてきては「飲むな!」と釘を刺す瀧蔵の様子にやや押され気味だった。

「はい、飲んでません」

「今日はいい子だった。飲まないで寝るんだぞ」

 瀧蔵の声は明るかった。この二〜三週間、無茶飲みしていた沙織だったが、瀧蔵の思いがけない電話攻勢に度肝を抜かれたのか、しゃっくりが止まるように飲酒が止んでいた。

「はい。あなたもお疲れさまでした」

 沙織は苦笑いしながら労をねぎらった。本当に瀧蔵と言う男は沙織が思いもかけない事をやってのけるのだった。そもそも飲酒が再発し、ここまで乱暴な飲み方にエスカレートしたのは瀧蔵との事がきっかけだった。沙織は、離れている男の心変わりに気を揉み、逢えない寂しさを紛らわせたくてひたすら飲んでいたのだった。が、その張本人が、一日に七回も電話を架けてきては沙織を監督しているのだ。沙織の寂しさは癒え、不信も拭われていた。むしろ、こんな瀧蔵の様子が意外過ぎて沙織が戸惑うほどだった。

「飲むなよ!」

 更に念を押すと「おやすみ」と沙織に切電を促した。沙織は電話を切ると、瀧蔵という男の新しい一面を見たような気がしていた。


 結局、二週間以上も毎日のように瀧蔵は一日に五〜十回沙織に電話を架けてきた。その中で断酒の会について話すと、瀧蔵は

「毎日行けよ、沙織。もう飲んじゃ駄目だ。とにかく止めるんだ」

 強く言うのだった。

 瀧蔵の熱心さに頭が下がる思いだった沙織は『こんなに心配してくれる人が私にもいるのなら…』と、断酒に本腰を入れようと決意したのだった。

 断酒の会を嫌い、抗酒剤も飲もうとしない沙織に何とか酒を止めさせようとする瀧蔵の粘り強い説得は連日続き、沙織も根負けするほどだった。沙織が意識を失いかけながら架けた時の電話の声に、瀧蔵はただならぬものを感じ、肝を潰したのだろう。

 沙織は瀧蔵に勧められるまま、毎日、断酒の会に顔を出すようになっていた。女性の集会で顔見知りになった《仲間》が沙織を囲み、沙織が苦手とする男性の《仲間》は沙織に近づく事が出来なかった。


『丸藤のアシスタントマネージャー』から脱皮出来ないまま、休職から四年近い歳月を過ごしてきた。が、そろそろ、その看板を外さなければならないのだ…沙織は断酒の会へ行き、酒について語るうちに現在の自分と向き合うようになっていた。

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