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祈り ―華やかな傘に守られ―  作者: 小路雪生
28/30

第二十八回

 深呼吸をして静かにドアを開けると、そこにはこの数年間焦がれた男が立っていた。

 しばらく見つめ合ったまま立ち尽くしていると

「入っていいかな」

 瀧蔵は、低い声で沙織の目を見つめたまま尋ねた。

 瀧蔵の言葉で入り口を塞いでいた事に気付いた沙織は、頷きながら体を傾け道を開けた。瀧蔵は素早い動作でドアをすり抜け中へ入ると、沙織を見つめたまま扉を閉めた。懐かしい姿だった。颯爽とした身のこなしも、すらりとした姿も何年経っても変わらない。

 沙織はテレビを観ていると、俳優でさえ瀧蔵のように顔やスタイルも良く洗練された男はいないものだ、と常々思っていた。こうして久しぶりに逢ってもやはりそれは錯覚ではなかったと、沙織は自らの審美眼に自信を感じた。付き合っていた当時に比べると幾分落ち着いて見えるが、一見しただけでは昔と大きく変わった様子はない。

 そんな瀧蔵を前に沙織は言葉を失っていた。現実に起きている事とは信じられなかった。沙織が瀧蔵の顔を見上げていると、瀧蔵は背をかがめて沙織の顔に触れそうな距離まで自分の顔を近づけた。そのまま至近距離で見つめ合い、沙織が唇に触れようと顔を近づけたその瞬間、瀧蔵は沙織を抱きすくめると、沙織よりも素早い動作でキスをした。懐かしい感触に触れた沙織はしがみつくように瀧蔵を抱きしめていた。時が立つのも忘れるほど深いキスの中で思考はぼんやりとかすみ、何も考えられなくなっていたが、力強い瀧蔵の腕にしっかりと、抱きしめられているのを感じていた。離れていた時間を埋めようとするかのように、何度も見つめ合っては舌を絡め合わせる。瀧蔵は沙織の腰やヒップをまさぐり、次第に沙織の首筋へ口づけると、その手は胸を探りあてていた。沙織はそれだけで体中が痺れ、瀧蔵の胸元に顔を埋めながら吐息を漏らしていた。

 そんな沙織を促すように抱き合ったまま部屋へ移動すると、部屋の入口にあるベッドにもつれるように倒れ込んだ。瀧蔵は沙織が羽織っていたバスローブをはだけると、愛撫をしながら自分も服を脱ぎ始めた。沙織も夢中で瀧蔵のワイシャツのボタンを外すが、それさえももどかしい。五年半ぶりの感触を確かめるように肌を重ね合わせると、瀧蔵の唇は沙織の胸から下腹部へと移動していく。沙織はそんな動きに応えるように瀧蔵の髪を指に絡め頭を撫でながら、脚を開いた。沙織は一秒たりとも待てないほどの高まりを覚えていた。瀧蔵の唇が首筋に戻ってくると沙織は堪えきれずに瀧蔵の下半身に触れ

「お願い…きて」

 擦れた声で囁いていた。

 瀧蔵が迷わず沙織の中へ入ると、沙織は思わず体を反らせた。その瞬間、吐息を漏らしながら、懐かしい感触に酔いしれていた。

 それは、沙織が尤も愛し、一番欲していた瀧蔵の姿だった。やっと瀧蔵が戻ってきた…沙織は体の奥で感じると、感激で胸が一杯になるのを感じていた。沙織の体に馴染んだその存在感が、傷ついた心をも埋めていくようだ。感激に浸る間もなく、沙織の呼吸は荒くなっていった。思わず漏れるすすり泣くような声を抑えようと、沙織は知らずのうちに枕に顔を埋めたが、瀧蔵は枕を取り上げ沙織の目を見つめると、その喘ぎ声を塞ぐようにキスをした。沙織は苦しさと悦びの中で激しくなっていく瀧蔵の動きによって、頭の中が壊れたように真っ白になっていく。やがて中央に一本の筋が見えてきた。頭の中をかき混ぜられているような忘我の境地に至った沙織は、一気に上り詰めた。


 久しぶりに逢い、言葉も交わさないまま気が付くと、沙織は瀧蔵の胸に頭を預け心臓の鼓動を聞いていた。瀧蔵がこの部屋へ来てから三十分も経っていない。ここに至るまでの歳月の長さに比べると、あっけないほど短い時間だったが、激しく一気に達っしていく感覚は時間を忘れさせさていた。その間の出来事が夢のように思えるほど、現実とは違う異次元から戻ってきたような気分だった。

 沙織の感覚は、遠い世界を彷徨うようなぼんやりとした心地のまま、醒める事なく体の奥が疼くのを覚えた。沙織がそのまま瀧蔵の上に重なりキスをすると瀧蔵はそんな沙織をいさめるように体の位置を変え、今度はゆっくりと、味わうように沙織の体に唇を這わせた。

 やがて、沙織が潜り込むように瀧蔵に奉仕をすると、二度目はじっくり沙織を攻め、沙織の敏感な位置にあたるよう瀧蔵は僅かに姿勢を変えた。

 何年経っていても体が覚えた感覚は忘れないのだろうか、瀧蔵は沙織が何も言わなくてもどうすれば沙織が感じるかを沙織以上に知っていた。


「やっぱりあなたがいいわ」

 擦れた声で囁いた。瀧蔵は沙織の体を抱いたまま不意に

「……守屋は?」

 沙織に尋ねた。その瞬間、沙織は急に現実に引き戻されたように瀧蔵を見た。

「…守屋さん?…………丸藤の?」

 沙織は守屋を思い出すまでに少し時間を要した。この数年来守屋の事などすっかり忘れていたのだ。やっと再会を果たした今、思いがけずその名前を聞き、沙織は戸惑った。情事の余韻でぼんやりとした意識を懸命に働かせながら、瀧蔵が未だにその事に引っかかっていたのだと思い至った。

 沙織はゆっくり体を起こすと瀧蔵を見た。瀧蔵は醒めた表情で沙織を見上げていた。沙織はそんな瀧蔵に寄り添いながら

「…守屋さんとは、飲み会の帰りに車で送ってもらっただけよ。…本当はイヤだったけど、誰かがこの車、私と方向が同じだって、教えてくれたし、他に三人も一緒だったから…」

「それで?」

 瀧蔵は淡々と訊いた。六年も経っているのに、こんな時にその名前を聞くとは思っていなかった。瀧蔵はこれまで一度もその事を沙織に尋ねた事は無く、忘れているのか、と思うほどだった。戸惑いつつ、記憶を手繰り寄せながらたどたどしく続けた。

「…途中で寝ちゃったみたいで…気がついたら守屋さん家で二人きり…酔ってたし、そのまま泊まる事になって……。でも、私、付き合えないって断ったの。…なのに、あの後も守屋さんしつこくて…でも、その後は二人で逢う事なんて一度もなかったわ…」

 問われるままにそこまで話すと深いため息をついた。瀧蔵は体の向きを変えて沙織を見ると

「…それで?」

 沙織の顔にじっと視線を当てたまま、信じられないといような、探るような表情で沙織を見つめ尋ねた。

「…それで、って…」

 思わず沙織が言葉に詰まった。そのまま見つめ合っていると、瀧蔵は急に視線を外し再び仰向けになると、天井を見つめたまま今度は何も言おうとしない。

 微動だにせずに、物思いにふけってる様子の瀧蔵を気にかけた沙織が、姿勢を変えながら

「ねぇ…どうして今頃、守屋さん、なの?」

 瀧蔵に覆いかぶるように顔を覗きこんで尋ねた。天井への視線を遮られた瀧蔵は沙織の顔に目をあてたまま

「…付き合ってたんじゃないの?………」

 瀧蔵が訊いた。

「付き合ってないわよ!」

 そのまま二人は見つめ合い何も言えなくなってしまった。

 今度は沙織が瀧蔵から視線を外す番だった。沙織は、瀧蔵が未だに気にしていたとは考えてもみなかったのだ。

 かつて、守屋との関係を告白した後、沙織と瀧蔵は具体的な話は一切しないまま別れてしまっていた。誤解があるなら解きたいと、沙織は瀧蔵の部屋を訪ね、電話も架けたが、瀧蔵は一切それを受け入れようとしなかった。

 一方当時の沙織は香子との関係を疑っており、その事もはっきりしない状態に嫌気が差した事から、別れを決めたのだった。

 当時の事を思い出すと言葉にならない。ただ今になって思うと、瀧蔵に誤解を抱かせ、結果としてそれがこんなに尾を引いていたのかと沙織は驚かされた。

「……ごめんなさいね…」

 沙織は思わず謝っていた。戻る事の出来ない貴重な時間の長さを思うと、今更詫びたところでどうなる事ではなかったが、互いに不信感を拭えないまま生きてきたのだと知って、自然にその言葉が口をついて出てきた。

 瀧蔵は何も言わずにそんな沙織を眺めていた。やがて、じっと瀧蔵を見つめ続ける沙織の肩を慰めるように撫でると

「…うん…」

 優しい声で頷いた。沙織は思わず瀧蔵に抱きつくと深いため息をついた。ひどく疲れを感じた。ボタンを掛け違えた事への後悔と、しかし、その時はそうしか出来なかった、という思いとが複雑に入り乱れていた。

 しばらくしてから瀧蔵がぽつんと小声で

「…ごめん」

 呟いた。

「何が?」

 沙織は横から瀧蔵の顔を見つめて尋ねた。瀧蔵はそのまま沙織を抱きしめ、沙織の体を自分の下に回転させながら姿勢を変えると、沙織の耳元で

「……悪かった」

 低い、けれど、はっきりとした口調で詫びた。

 瀧蔵は沙織の髪に顔を埋めるような姿勢だった為、沙織からは瀧蔵の表情を読む事が出来ない。が、その声は、沙織には本心からの謝罪だと感じられた。

 瀧蔵の髪を撫でながら

「…何?…守屋さんとつきあってたって誤解してた事?……それとも…」

 瀧蔵の耳に唇を寄せながら囁き声で尋ねると瀧蔵は微かな声で

「ごめん」

 もう一度繰り返した。

 どうも、瀧蔵は沙織に顔を見られたくないようで、沙織を強く抱きしめ顔を埋めたまま動こうとしない。沙織はその言葉が何に対する謝罪なのか分からなかった。香子の事だろうか、それとも結婚したことなのだろうか…。

「…香子さんとはどうなったの?」

 瀧蔵に守屋の事を持ち出されると、香子の事を訊かずにいられなかった。長年、沙織もその事に引っかかりながら、訊けずにここまで来たのだ。ここを先途と

「…ねぇ…」

 沙織が促すと

「昔の事だよ」

 くぐもった声で言った。

「…ずるい…あなただって守屋さんの事訊いたじゃない」

 拗ねたように責めると

「………香子は沙織とは違うんだ」

 渋々という感じで口を開いた。

「…違うって?」

「……」

 口の重い瀧蔵を誘導するように訊いた。

「…別れたの?」

「ああ…」

「いつ?」

 沙織は尚も尋ねた。

「………昔、沙織が怒っただろ。あの後」

 瀧蔵は力なく答えた。

「何も言わなかったじゃない」

 沙織が小言を言うように呟いた。

「…言わなくても分かると思った」

 瀧蔵は諦めたように答える。

「……好きだったんじゃないの?」

 こうなると沙織の質問は止まらない。長年訊きたくて訊けなかった決定的な真実についてやっと本人から訊ける時がきたのだ。

「…付き合ってた頃はね」

 観念したのか、瀧蔵はぼそぼそとした口調だが素直に応じるようになっていた。

「あの時は?…好きだったんじゃないの?」

 沙織は少し、意地悪な感じで訊いた。

「あの時は、しょうがなかったんだ」

「何が?」

「………」

「何が?」

 言葉に詰まる瀧蔵を促した。

「……結婚生活に悩んでて、会って話したいって言われたんだ。食事だけして帰るつもりで駅へ向かった。香子が……駅で別れ際にいきなり泣き出して…どうにもならない感じだったんだ…」

 瀧蔵は一気にそこまで説明すると言葉を切った。

「どうにもならない?」

「…帰るに帰れなくなった」

 どうも要領を得ない。更に核心部に沙織は踏み込んだ。

「泣いて抱きつかれた、とか?」

 瀧蔵の『しょうがない』や『どうにもならない』という曖昧な表現は、何がどうしょうがないのか沙織には分からない。

「………帰りたくないって、ね…」

 瀧蔵の返答は、そんな沙織の問いかけを肯定していたようだった。そこまで訊いた沙織は

 今の自分も大差ない、そんな風に思った。

「でも、好きだったから会ったんでしょ?」

 そう思いつつ、気を取り直して更に尋ねた。

「…そうじゃないよ。香子は沙織とは違うんだ」

「どう違うの?」

 瀧蔵は、追求に疲れたのか言葉を淀ませながら

「……もっとさ…なんて言うか……すごいんだよ。……俺を好きとかそう言うのじゃなくて………要するに、結婚はしたけど、退屈だったんじゃないかな」

 言葉を選んでいるようだ。

「…ふーん……」

 相槌を打ってみるが、今ひとつ分からない。すると

「…香子は、俺と付き合う前に派手に遊んでたみたいで……最初に職場で会った時、綺麗だし、大学も出てるし、清楚な感じでいいと思ったよ。でも…付き合ってみると普通の女の子じゃないと思った。…相当遊んでるな、と。…俺も若かったからそれでいいと思っていたけど……今思えば香子じゃなくて良かったと思う。香子は、愛と金を等価交換できるタイプなんだよ」

「…」

「出世しそうなのに乗り換えて結婚してみたけど、物足りなかったんじゃないかな…」

 何に物足りなかったのか沙織には分からないが、嫌いな男に連絡などしてこないのではないだろうか…そう言いつつ逢ってしまう瀧蔵の心情はどうだったのか、沙織は腑に落ちない。

「今は?」

「今って?」

「…連絡」

 互いに拘りはないのだろうか…沙織は尋ねた。

「取ってないよ。こっちへ来る時には連絡先も教えなかったし、香子は沙織みたいに探してまで逢いにくるような女じゃない」

 それはどういう意味なのだろうか…沙織はぼんやり考えていた。あれは遊びだったと言うのだろうか…先の瀧蔵の謝罪が何に対するものなのか…沙織は考えていた。

「遊びって言う事?」

「遊びと言うか……香子には遊びだったんじゃないかな」

「あなたは?」

「…俺は、沙織と付き合ってただろ。……香子が困ってるみたいだったから話してただけだよ」

 状況だけ聞いてしまうと今の沙織と瀧蔵の関係と似ているような気がした。

「…なんだか似てる…」

 沙織が呟くと瀧蔵が訊いた。

「…何が?」

 沙織は口ごもりながら訊き返した。

「…今の私達と…似てない?」

「………違うよ」

「どこが?」

 香子との関係が遊びなら今も遊びという事になりかねないし、香子の事が好きだったと言われても複雑な気持ちだった。藪蛇かしら…沙織はそんな思いで尋ねた。

「…沙織は香子と違うよ…俺もあの時とは違う…」

 どう違うのか沙織は気になったがこれ以上追求しても納得できる答えは出ない気がした。

想いがどうあれ、既に六年以上も前の事で現在は連絡を取っていないなら許してあげよう…沙織はそんな気持ちになっていた。

「…ねぇ、どうして、あの頃、今みたいに言ってくれなかったの?」

 気分を変えて沙織が訊いた。

「訊かなかっただろ?」

「…」

「…あの頃の沙織は、香子の事で怒ってた。俺に逢っても『触らないでっ』って…。俺から言い出せる話でもないし、沙織も訊かなかった……」

 沙織は当時、香子の問題に触れたくなかった。瀧蔵から「悪かった」と言ってくれるのを待っていたが、沙織から謝罪を催促するのも癪に感じていたのだ。そのうちに守屋の事が起こり、二人は別れる事になったのだ。

「触らないでっ!て…沙織、いつも怒ってたよな……食事に行っても込み入った話が出来る雰囲気じゃなかったよ」

 瀧蔵はポツリと寂しそうに言った。当時の自分の剣幕を思い出した沙織は、瀧蔵に頬ずりをしながら

「ごめんね」

 囁いた。多くの誤解が二人を隔てていたのだ。瀧蔵を愛するが故の怒りだったが、そんな潔癖さと心の狭さは、愛という感情からはかけ離れたものだったという事に沙織は今更ながら気付かされていた。

 沙織が愛についてつらつら考えていると、不意に、最近の瀧蔵の様子が思い浮かんだ。沙織と恋人のような会話を度々重ねていながら、距離が近づきかけるとつれなくなった。そんな瀧蔵に翻弄されていた沙織は、ころころ変わるこの頃の瀧蔵の態度が愛情から派生しているものなのか、それとも、別の気持ちからなのか…この際、確かめておこうと思った。

「ねぇ…そういえば、最近、私が長崎に来るって言うと、あなた、イヤそうだったでしょ…」

 沙織は瀧蔵の本心を見極めようと慎重に尋ねた。が、瀧蔵は即座に否定した。

「イヤじゃないよ」

「でも『俺に逢いに来るな止めたほうがいい』とか、言ってたじゃない…」

 沙織は弱々しく反論した。

「………俺から沙織に 来い とは言えない。……いきさつはどうであれ、俺には…もう家族がいるんだ……」

「…」

「…それを分かっていながら、俺から沙織を呼ぶ訳にはいかないだろ…」

 瀧蔵は低い声で憮然と言った。

「…じゃぁ、私が勝手に来るのはいいの?」

 沙織は淡々と尋ねた。

「…………どうぞ」

 そんな沙織に飲まれたように返答をした。

「…気の無い返事ね……じゃ、去る者は追わないのね?」

「………………そうでありたいね……」

 瀧蔵は感情のこもらない調子で答えた。そんな風に言ってしまう瀧蔵だから信用できない…そう思いながら、口で言うほどクールでない事を沙織は知っていた。瀧蔵はそこまで割り切れるような器用な男ではない。地下で蠢くマグマのようなものを煮えたぎらせ、時にそれを爆発させるような激しさでとことん愛し抜くような、底知れない感情を女にぶつける男だ。だからこそ、そうでありたい、と願望を言うのだと沙織は感じていた。

「…それより…」

 瀧蔵が声をかけた。

「…何?」

 不意に沙織に尋ねた。

「…飲んだろ?」

「……」

 思わず沙織が黙り込むと

「肝臓悪いんじゃないの? …あんまり飲むなよ」

眠気でくぐもる声で思い出したようにアルコールについて注意をされた沙織は、一瞬勘づかれたかと思い、ひやっとした。アルコール依存症と打ち明けられずにいるが、瀧蔵に見透かされたようで居心地が悪くなりそのまま黙り込むと、いつの間にか、どちらからともなく眠りについていた。


 翌日の朝、沙織が泊まった事を案じると

「福岡に泊まったと思っているよ」

 瀧蔵はうそぶいた。

「最近は家じゃ熟睡出来ないから、出張先で一泊する事にしてるんだ」

 福岡に泊まる理由をそう説明した。

「…明日、帰るの…今夜も逢える?」

 沙織が、部屋を出て行く男に尋ねると、

「……今日は泊まれないよ」

 少し俯いて答えた。

「いいわ…待ってる」

 沙織に応じきれない事を気にしている様子の瀧蔵を気遣い、沙織は心のこもった声でそう言うとドアまで瀧蔵に寄り添った。沙織を抱きしめるとそのまま会社へ行くと言い残し、瀧蔵は部屋を出て行った。


 その日、沙織はフェリーに乗ると、一人で海上散歩をしようと海へ出ることにした。潮風を浴びながら水面を見たが、太陽の降り注ぐ午後の海は穏やかで、飲み込まれる恐怖など微塵も感じなかった。

遥かに続く海を見ながらゆったりと波に揺られていると、瀧蔵に抱かれ包み込まれているように安らいだ気持ちになれた。

 沙織と瀧蔵は昔と力関係が変わったように思う。昔は瀧蔵のほうが沙織に惚れていたようだ。それを昔の沙織は当然と思っていたし甘えてもいた。が、今は瀧蔵に家庭ができたせいか、沙織が瀧蔵を追い気味なのかもしれない。瀧蔵はそんな状況を楽しんでいるのではないか…沙織はそう感じていた。

照れなのか、瀧蔵は今や自分から沙織を誘う事に抵抗を感じているのかもしれない。しかし、それは沙織を嫌いなのではなく、どこまでを責任を果たせるか…そんな風に考えているからではないだろうか…沙織は真面目な瀧蔵の心を分析していた。


 その日、夜九時を回ると瀧蔵は再び姿を現した。

 沙織の背中をなぞるように愛撫をすると、後ろから沙織の乳房を揉みしだき耳元で

「もっと早く来ればいいのに」

 囁いた。

「…だって…誘ってくれないから…」

 沙織は吐息まじりに上ずった声で途切れがちに言った。

「……俺からは、言えない…」

 瀧蔵は低く甘い声で囁いた。

 沙織は、瀧蔵がかつて父を嫌っていた事を思い出していた。

 瀧蔵が実家に寄り付かず、家業を嫌っていた原因が亡き父にあった事を沙織は知っている。だからこそ、瀧蔵は沙織との関係が深みにはまる事を恐れているのではないか…沙織はそんな風に感じていた。

 沙織が一年近く瀧蔵に逢いに来なかったのは、そんな瀧蔵の心を思うと沙織から押し掛けるのは遠慮があったからだった。瀧蔵に誘われれば長崎へ行こう…そう考えていた矢先「長崎へ来れば…」と言われ『やっと誘ってくれた』と、喜んだのも束の間で、瀧蔵のその後の態度で真意が分からなくなったのだった。瀧蔵の葛藤が解決されるのを待っていたら時間は過ぎる一方だ。沙織は自分の人生が後どのくらい残っているのか分からないが、三十三歳という節目の歳になり、これ以上待てない気持ちになっていた。見切り発車ではあったが、沙織なりにやっと長崎へ来る決心を固めて訪ねたのだった。

 こうして抱かれていると、沙織も瀧蔵もその直前で足踏みをしていたのだと思い知らせたようだった。

 ゆっくりと確かめるように愛し合った後、間もなく帰ろうとする男に寄り添いながら沙織は呟いた。

「もう、逢えないのかしら…」

 言った途端、沙織の目から涙が溢れてきた。

 瀧蔵は沙織を抱きしめると

「逢えるよ」

 そう言って慰めた。けれど、沙織は不安でたまらなかった。ひと晩経ち、思わず悲しみを露にする沙織を鎮めるように瀧蔵は目を見つめると

「愛してる…愛してるんだ…」

 言い聞かせるように繰り返した。

「…でも、本当は迷惑なんじゃない?…」

 昨日、納得したつもりだったが、また当分逢えないと思うと沙織の心はグラついていた。思わず、泣きながら蒸し返すと

「違うんだ」

 瀧蔵はキッパリと否定した。

「…何が違うの…」

 分かっているつもりだが、昔とは状況が違う。離れていても本当に心変わりしないのか…この頃、不意に冷たくなる瀧蔵が心配だった。

「また来ればいい…仕事で東京に行くから、その時逢おう、連絡する」

 瀧蔵は泣き止まない沙織に優しく言い、力をこめて抱きしめると

「……一緒に帰りたいけど……ごめん…」

 苦しそうに呟き、沙織が泣き止み落ち着くまでこどもをあやすように肩や背中をさすりキスをした。


 瀧蔵は、帰っていった。愛し合った後の気だるさが残る体を沙織は持て余していた。

 昔なら、きっと今夜も一緒に過ごせただろう…いや、もう逢えないのではないか、などという不安は感じなかったはず…そんな事を考えると、沙織は逢う前よりも深い悲しみに苛まれていた。

 失った年月と、その間解く事の出来なかった誤解の数々を憂い、何故もっと早く歩み寄ろうとしなかったのか…と、沙織は自分を責め続けていたのだ。

「どうして、こんな風になる前に連絡しなかったんだろう…どうして、携帯を替えてしまったんだろう…どうして、断られてもいいから、あの時もっと、瀧蔵を訪ねて謝らなかったんだろう…どうして香子との事にあれほど拘ったのだろう…どうして、触らせてあげなかったのだろう…」

 沙織は独り言を呟いた。

 心の中には幾つもの想いが交差していた。取り返せない人生を悔いる気持ちや言い尽くせない悲しみ…あまりに変わってしまった二人の人生…瀧蔵に抱かれて嬉しかったからこその、新しい苦しみが芽生えていた。

「どうしても、あの人から離れられない…」

 沙織は、瀧蔵の匂い残るシーツに体を埋め、うわごとのように呟いていた。

「もう、逢えないのかしら…」

 そう呟いた途端、沙織の目から涙がこぼれた。そんな沙織を愛しそうに抱きしめる瀧蔵を思い出し、沙織は男の体温が残るシーツを抱きしめると、体を丸めて夜明けまで泣き続けた。瀧蔵を知ってしまうと、沙織はもう一人で眠る事は出来ない。残り香の中で瀧蔵を呼び続けていると朝が訪れ、今日がここで過ごす最後の日である事を知らせていた。


 翌日の夕方、そんな沙織を見かねたのか「時間がない」と言いながらも、瀧蔵は仕事を抜け出し、沙織を空港まで送ってくれた。瀧蔵の献身的な優しは昔と変わらなかった。こんなにいい男がこんなに優しいなんて…と知り合ったばかりの頃は瀧蔵を警戒していた事を思い出し、沙織は懐かしい気分になった。そんな沙織の気持ちを知らない瀧蔵は、空港に向かう高速でアクセルを踏み込んでいた。

 長崎へ着いた時の頼りない気持ちとは雲泥の差だったが、次はいつ逢えるのか…そう考えると、沙織の心は降り立った時よりも沈んでいた。

「連絡する」

 瀧蔵は約束をすると、今来た道を慌ただしく帰っていった。


 そんな瀧蔵を見送り、沙織が搭乗する頃には辺りは暗く、夜の気配に変わっていた。宝石を散りばめたような長崎の街を眼下に飛行機は飛び立ち、煌めく地上の営みの中に瀧蔵を残して去るのかと思うと、沙織は胸が痛んだ。

 まだ、高速だろうか…沙織は送ってくれた瀧蔵の帰り道を案じながら、闇に消えて行く長崎の灯をその目に焼き付けるように窓にしがみついた。涙で曇った瞳を凝らすと、遠くなる景色をいつまでも見つめていた。

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