第二十七回
一体、この数週間の瀧蔵はどうしてしまったのだろうか。正月明けに沙織が酔って電話を架けた時の瀧蔵はそれまでと大きな変化はなかった。しかしそれ以来、沙織が
「長崎へ行ったら逢える?」
瀧蔵に尋ねると
「……忙しいよ。俺に逢いにくるなら来ない方が良い」
素っ気なく言うようになったのだ。
「電話だけでは寂しいわ」
などと沙織が言っても
「それならもう、止めよう」
瀧蔵はそう言うと、今にも電話を切りそうになるのだった。
沙織はそんな瀧蔵の様子にとても傷ついていた。昔の瀧蔵だったらはこんな物言いはしない…と、つい過去を懐かしんでしまう。
昔の瀧蔵は沙織が「寂しい」と言えば真夜中でも逢いに来てくれた。それは今も同じで「話したい」とメールを送れば電話は架けてきてくれる。が、メールの返信は滞りがちだ。昔は遅くても一時間以内には返信をくれたものだった。喧嘩をして沙織が拗ねても瀧蔵は毎朝、毎晩のメールを欠かす事なく送ってくれたし、たとえ瀧蔵をなじっても黙って堪えてくれていた。
香子との関係が発覚した後も、沙織は瀧蔵と食事には出掛けていたが瀧蔵の求めには応じなかった。それでも瀧蔵は怒りもせず、沙織を家まで送り届けると
「またね」
そう言って帰って行ったのだ。
互いに忙しくスケジュールが合わない時でも、沙織が「逢いたい」と言えば必ず「何曜日は早く帰れるよ」や「何時だったら終るよ」など、フォローをしてくれた。
が、今の瀧蔵は、沙織が少し無理を言うと
「じゃあ、終わりにしよう」
決まり文句のように言うのだ。その度に沙織は見捨てられるような寂しさを覚えた。何故、最近、意地悪なのだろうか…沙織は瀧蔵の胸中を何度も想像してみた。体の関係がないからだろうか…沙織はそう考えてみたが、それならば沙織が「長崎へ行くわ」と言った時にもっと関心を示してくれても良さそうなものではないか? それとも、瀧蔵は沙織が長崎を訪ねて関係が深まってしまうと家族を裏切る事になる…と、罪悪感を覚えているのだろうか…。
沙織は考えるほどに分からなくなってしまう。いくら想像してみても無駄だと知りつつ、沙織は囚われたようにまたも瀧蔵の事ばかり考えてしまうのだった。
そんな瀧蔵への想いから離れ、ふと顔を上げると、目の前には黒い海原が広がっていた。水面をジッと見つめていた沙織は海の静けさが胸に迫り、不意に丸ごと飲み込まれそうな恐怖心に襲われた。
瀧蔵に思いを馳せ現実に戻った瞬間、突然目の前の海が魔物のように見えたのだ。怖くなった沙織は逃げるようにベンチを立つと、後ろから波が押し寄せてくるような妄想に駆られ『早く逃げなきゃ…』振り返るのも恐ろしく一目散に港近くのショッピングモールへ飛び込んだ。
昨日、長崎へ着いた直後に立ち寄った店だった。沙織は店内の明るさに我に返ると、海に飲み込まれる妄想から解放され、安堵のため息をついた。
一階のコーヒーショップで好物のキャラメルマキアートを買うと、灯に近い屋外の席に座り、煙草を取り出した。コーヒーを味わい、深く煙を吸い込むと沙織はやっと落ち着きを取り戻す事ができた。先の悪夢のような妄想を思い返し『思い詰めていたのかもしれない…』そう思った。
変わったのは瀧蔵だけではない、同様に自分も昔とは大分変わったようだ…瀧蔵への想いは二十代の頃よりも遥かに深くなっているという事に沙織は気が付いた。先の妄想は、深みにはまっていく自分の心の闇を投影したものだったのかもしれない…自身の心をそんな風に分析してみた。
携帯電話に目をやると時刻は七時半に近かった。この時間になっても瀧蔵からのメールはない。
沙織は煙草と携帯をバッグにしまうとタクシー拾い、ホテルへ戻った。
湯船にたっぷり張ったお湯に浸かっていると、港での考えが再び頭をもたげてきた。
『これ以上、彼に無理は言えない…嫌われたくない』昔の沙織がもし今と同じ態度を取られたなら、早々に瀧蔵を諦めて次の人を探そうと思った事だろう。しかし、今の沙織には瀧蔵の事しか考えられないのだ。
これまで生きてきて沙織なりに様々な男性を見てきたが、これ以上、好きになれる男には出会えない…沙織は日を追う事にそう感じるようになっていた。
昔優しかっただけに、瀧蔵への期待が募るのだろうと思う。昔はともかく今は違うのだ…何度自分に言い聞かせても、沙織の気持ちはそこから動けない。
瀧蔵はもう沙織を想っていないのかもしれない…そう思う一方で、優しく慰めてくれる時の様子や、電話を架けてきてくれる事についてはどう説明するのか…それはただの親切心なのだろうか?…最近の瀧蔵の様子には後から後から疑問が湧いてくるのだった。
瀧蔵自身、沙織との関係に迷いを感じているのかもしれない…あれこれ思い巡らしていると、今度は激しい飲酒欲求に見舞われた。考え疲れた頭を休めたくなったのだろうか。
無性に酒が欲しくなった沙織は風呂からあがると、自制心を無くしたようにホテル近くのコンビニで350mlのビールを買っていた。
ホテルへ戻ると正月以来初めてアルコールを口にした沙織は『断酒なんてどうでもいい』と、何もかもが面倒に思えていた。瀧蔵の事を考える事も、飲酒を我慢する事にも疲れを感じた。
半ば自棄気味にビールを口に運んだ沙織だったが、久しぶりのアルコールは心地いい酔いではなく激しい頭痛をもたらした。沙織は頭を抱えるようにベッドに倒れ込みながら尚も、瀧蔵に執着する自分を罰するようにビールを煽っていた。
ズキズキ痛む頭に悩まされながら、沙織は時計を凝視した。
このままではラチが空かない…何の為にここまできたの…でも、嫌われたくない…電話だけの繋がりでもいいから嫌われたくない……沙織は、軽い酔いの中で思い詰める自分を持て余していた。
いつからこんな女になったのだろうか…いや、ずっと前からそうだったのかもしれない…沙織は、この頃の自分の情念の深さに自身で手を焼いていたのだ。これまで忙しく働いていたせいで気が付かなかっただけなのかもしれないが、自分の中にある激しい感情に気が付くと、これを今の瀧蔵にぶつけたら嫌われるもではないか…と、沙織は恐れていたのだ。
瀧蔵の会社は長崎駅の近くだ。
ホテルからでも二〜三十分歩けば着ける場所に違いない。先のショッピングモールからはもっと近いはずだ。そこに瀧蔵がいるのに…そう思うと苦しかった。酔いのせいか、沙織は涙が止まらなかった。
時計が十一時を告げた。『今しかな』沙織はそう決心すると、瀧蔵の会社へ電話を架けることにした。
嫌われているとしたらもうとっくに嫌われているはず…福岡から戻るのはいつなのか、本当に逢えないのか、どうしても確かめたかった。ここまできて逢えないのは心残りだった。
「……はい」
留守電になっていたが架け直すと、二度目に瀧蔵本人が電話口に現れた。
「………もしもし」
すぐに沙織と分かったようだったが、瀧蔵は応答しない。
「……」
「…会社に架けてごめんなさい」
「…」
「メール、読んだ?…」
「…」
相槌すら打とうとしない瀧蔵を前に思わず沙織も黙り込むと、長い沈黙が続いた。
「…何?」
やっと、瀧蔵が口を開き、沙織に尋ねた。
「…話したくて」
思い詰めた低い声で沙織が言った。
「…疲れてるんだ」
瀧蔵の声は落ち着いていた。
「…いやよ」
沙織は真剣だった。
「…」
「…福岡、いつ?」
黙り込む瀧蔵にメールで尋ねた時と同じ質問をした。
「……なんで?」
瀧蔵の声は一段と低くなった。
「…教えて…」
「…」
この数週間、沙織が長崎へ行きたいと言うと決まって冷淡になる瀧蔵の真意を知りたかった。
「…迷惑なの?」
問いただそうとする沙織に瀧蔵が訊いた。
「…何が?」
沙織は約一年、瀧蔵の優しさに甘えてきた。が、瀧蔵は本当は迷惑だったのではないか…この頃そんな風に思っていた。
「…私…」
「…」
瀧蔵に最近思っていた事をぶつけてみた。
「最近、……長崎へ行こうかなって言うと不機嫌になるから…」
「……別に不機嫌じゃないよ」
この頃沙織を悩ませていた瀧蔵の様子について更に訊いてみた。
「でも、案内してって、言うとイヤそうだし…」
瀧蔵は同じ返事を繰り返すだけだ。
「忙しいんだ」
「分かってる、でも……」
沙織は、こんな風に「忙しい」一点張りの瀧蔵に何を言えばいいのか分からず、途方に暮れてしまった。昔はこうではなかった…沙織は、やるせない気持ちになる。
「…」
「…」
どちらとも黙り込んでしまうと
「でも、なに?」
瀧蔵が沙織を低い、くぐもった声で促した。
「………案内くらい…」
「…観光でしょ?」
瀧蔵は沙織の言葉を遮った。
「……」
「観光なら、ガイドブック見るとか、ガイドさんに案内してもらうとかすればいい」
黙り込む沙織に瀧蔵は乾いた声で言った。
「………だって…」
沙織が反論した。
「……俺に、どうしてほしいの?」
「…」
何と言えばいいのか分からず沙織が黙り込むと瀧蔵はため息をついた。長い沈黙の後、瀧蔵は
「用がないなら今日はこれで」
「…」
沙織は答える事が出来なかった。こんな話がしたのではない…そう思うが、何を言えば長崎まで訪ねてきた沙織の想いが伝わるのか分からない。沙織が押し黙ったままでいると瀧蔵が
「…今日…さっき、福岡から日帰りで帰って来たばかりで疲れてるんだ」
それを聞いた沙織は低い声で、先の瀧蔵の言葉を反芻した。
「……どうしてほしいって…」
「………」
瀧蔵は沙織の声に耳を澄ませている。
「…どうして欲しいって、訊いた?」
沙織の声は低く擦れていた。沙織は、散策に出掛けた今朝とは打って変わり、港で妄想に取り憑かれてからひどく思い詰めていた。
「…………ああ」
そんな沙織の真剣な様子に瀧蔵は耳を傾けていた。
「……逢いにきて」
沙織は絞り出すように言った。
「……」
「…お願い…逢いたいの…」
沙織の思い詰めた言葉に瀧蔵は黙り込んでいた。「長崎へ来れば…」そう言いかけて打ち消して以降、よそよそしくなった瀧蔵に、観光や他の目的で来たのではない事を分かってほしかった。
「………」
長い長い沈黙だった。沙織は息が詰まりそうになった。その時、
「……どこに泊まってるの?」
瀧蔵がくぐもった声で訊いた。
「大浦海岸の近く…」
沙織がホテルの名を告げた。
「…部屋は?」
「713」
沙織がホテルの名前とルームナンバーを告げると
「……今、行く」
瀧蔵はそう言って電話を切った。
沙織は切断された携帯電話を手にしたまま、本当に瀧蔵がここへ来るのか信じられない気分だった。
この数週間、瀧蔵と話す度に沙織は『私に逢いたくないのかも…』そう感じていたのだ。そんな瀧蔵が、こんな電話一本で本当に来るのだろうか…。最近の瀧蔵の不機嫌は何だったのか…沙織は嬉しさよりも戸惑いが先にたっていた。
しかし、ここへ来るとなればぼんやりもしていられない。沙織は慌てて鏡を覗いた。風呂上がりに飲んだビールは幾分抜けたのか、顔色はいつもとさほど変わらない。ただ、洗った髪は濡れたままで化粧もしていなかった。
バスローブを羽織っただけの姿を鏡に映し、着替えようかと思案した。本当に瀧蔵がここへ来るなら二人で逢うのは六年ぶりだ。沙織はだからこそ、昼間散歩でもしながら逢いたかったのに…そう思った。久しぶりに逢うのなら化粧くらいはしておきたかったのだ。沙織は既に三十三歳になっていた。
仕事を辞め、緊張感のない毎日の中で、自分はすっかり老け込んでしまったと感じていた。別れた頃にはなかった目尻の笑い皺も悩みの種だった。沙織はそんな自分を見られたくない、という気持ちと、それでも逢いたいという、相反する気持ちの中で揺れていた。
やはり、とりあえず着替えよう…そう思いながら時計を見ると十二時時十五分前だった。電話を切ってから既に二十分が経っている。車なら十分くらいの距離だと思うと、やはり来ないのではないか…沙織の心に不安が広がった。「今、行く」というのは、電話を切る為の口実だったのではないか…沙織は落ち着かない気分だった。もう1度瀧蔵の会社に電話を架けてみたが今度は誰も出ない。
本当にここへ向かっているのだろうか……沙織がそう思った時、ドアのチャイムが鳴った。その瞬間、沙織は心臓を掴まれたような痛みを感じた。
静かにドアの前に立ち、躊躇いながらレンズを覗くと、黒っぽいスーツとグレーのワイシャツにノーネクタイ姿の瀧蔵が立っていた。踏切で別れてから五年。久しぶりに見る懐かしい姿を信じられない気持ちでレンズ越しに見つめていた。
沙織は高鳴る胸を鎮めるように呼吸を整えると、ゆっくりとした動作でドアを開けた。