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祈り ―華やかな傘に守られ―  作者: 小路雪生
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第二十六回

 沙織が宿泊することになった長崎市内のホテルの窓からは海が見えた。予約をする際に「海の見える部屋」とオーダーしたところ、ダブルの部屋に通された。シングルで予約をしたがホテルで気を利かせてくれたのか、広々した部屋を用意してくれたようだ。

 一人では広い気もするが快適だ。水平線に沈む夕日が見える部屋で、自宅とは違う眺めに旅へ出た事を実感した。


 今朝、羽田を出発してから夜になるまで殆ど歩き通しだった。ソファーに疲れた脚を投げ出すと、ホッとした。が、心の中は先の瀧蔵とのやりとりで一杯だった。久しぶりの旅行を楽しむには瀧蔵の事を忘れない限り無理そうだ。が、沙織は鳴らない携帯を握りしめ、芯から休めるような心地ではなかった。

「福岡、か…いつ行くんだろう…」

 先の瀧蔵の返信には福岡出張の日取りが書かれていなかった事に気付いた。

 もう一度尋ねてみようか…とも思うが、メールでは返信が来ないかもしれない。

 約一年前から瀧蔵と電話で連絡を取るようになっていたが、メールの返信はきたり来なかったりだった。沙織が送ると一応、目は通しているようで、電話で話しをするとメールに書いた内容を把握していた。

 福岡行きについて尋ねればきっと読むのだろうが、それが明日なのか明後日なのかは分からないし、すぐに返事が来るとも思えない。そこまで考えた沙織は電話を架けようか、と思うが、先の返信の様子からでは架けにくい。



 瀧蔵は、正月明けの電話で「長崎へ来れば…」そう言いかけると忽ちその言葉を撤回するような事を言い始めた。

 以降、沙織が「長崎へ行こうかな」や「行ってもいい?」などと訊くと瀧蔵は急に素っ気ない態度を取るようになった。

 長崎へ来る直前の電話でも

「長崎の美味しいお店ってどこ?」

 沙織が尋ねると

「知らない。長崎よりそっちの方がお店はたくさんあるよ。美味しいものを食べるならわざわざここへ来る必要はない」

 沙織の気分を削ぐような事を言った。

「…だって、地元の人しか知らないお店だってあるでしょ?」

 沙織は情報誌などには載らない穴場などを知りたかったのだが、瀧蔵は黙り込むと

「明日、早いんだ。今日は帰るよ」

 早々に電話を切ってしまった。また別の時には、沙織が昔付き合っていた頃の話題を持ち出すと

「そんな事は覚えてないな」

 突き放すように冷たく言うのだった。

 そんな瀧蔵の様子に沙織は戸惑った。電話で連絡を取るようになって約一年、瀧蔵は優しかった。それがこの数週間、沙織が長崎行きを匂わせただけで妙によそよそしくなるのだ。そんな瀧蔵の様子に沙織が拗ねると

「じゃあ、もう、こういうのはやめよう」

 などと言い出す。

 沙織はすっかり振り回されているようだ。瀧蔵の中に何らかの葛藤が芽生えているような気がするが、沙織に取り除く事は出来ないようで、強いて言えば、旅行の話題に触れない事くらいしか方法はなかった。

 そんな瀧蔵の様子に一喜一憂している自分が悲しくなり苛立ちを覚えると、つい酒に手が伸びそうになる。

 昔は、喩え喧嘩しても日々のが忙しさに紛れていつの間にか時が経ち、自然と仲直りをしていた。当時は瀧蔵のほうから歩み寄ることも多かったのだ。が、今はそんな瀧蔵に沙織が近づこうとすると刃を向けられ突き放されてしまう。度々襲う飲酒欲求とともに、沙織には悩みとなりつつあった。

 そんな状況に居ても立ってもいられなくなった沙織は、瀧蔵に相談せずに滞在の日程も正確に伝えないまま長崎を訪れたのだった。


 沙織は地図を広げ、明日はどこへ行こう…滞在二日目の計画を立てることにした。

 が、やはり瀧蔵の事が気になって仕方ない。沙織は

「福岡にはいつ行くの?」

 メールを書き送った。

 スーツケースの中から出した衣類をハンガーに掛け、今日着た衣類の整理などをしながら返事を待つが、予想通り返事は来ない。

 諦めて沙織は部屋の灯を消しベッドに入った。疲れのせいか、はたまた瀧蔵からの返事が気になっているのか、その晩はまんじりともしなかった。


 翌日沙織はホテルを出ると、オランダ坂を登り東山手町から散策する事にした。

 快晴で、海風が心地いい。

 昨夜、沙織が床につく前に送ったメールの返事は今朝になっても来ない。沙織は携帯電話を気にしながらも、せっかく 長崎へ来たのだから、と楽しむ事にした。

 この元外国人居留地に点在する洋館の中には、ロシア人の住居だったことから涼をとり易くする為の工夫が施された住宅がある。床を地面より高めに張る事で、地熱を避け風通しを良くするのだそうだ。沙織は当時の知恵や工夫に感心しながら、案内係の説明に聴き入った。庭も広く眺めもいい。当時の日本人は西洋の文化を目の当たりにし、さぞや憧れを抱いただろうと感じる。

 長崎は横浜ととても似ている。どちらも、かつて日本の貿易港として栄えた町である事を偲ばせる異国の文化が点在しており、ハイカラという表現がピッタリの風情がある。

 横浜に比べると全体的に規模は小さく、洋館の数も少ないようだが、横浜に住んでいると洋館巡りをする事など滅多にない。この頃家に閉じこもりがちな沙織は、空気のきれいな長崎でのんびり散歩をしているうちに、いつの間にか明るい気分になっていた。

 のんびりと散歩をしていた沙織は、昔、瀧蔵と横浜の山手にある公園や洋館の数々、元町へ買い物へ行った時の事などを思い出していた。

 港の見える丘公園へ買い物帰りに立ち寄ると、夜だったせいか右も左もカップルだらけで、芋を洗うような光景だった。ああもカップルが密集しているとムードの欠片もない。まるで覗きをしているような気分になり、気恥ずかしくなった沙織をよそに瀧蔵は

「カップルばっかりだね」

 平然とその様子を眺めていた。沙織が

「こういうのを見に来たんじゃないから…帰ろう」

 瀧蔵を促したが、

「いいんじゃない? なんで帰るの?」

 のんびり言って帰ろうとしない。沙織はそんな瀧蔵の手を引き、早々に退散したものだった。そんな事を思い出すと沙織は笑いが込み上げてくる。


 オランダ坂を下ってグラバー邸へ向かう途中、両手に買い物袋を持ったご婦人がエレベーターに乗り込んで来た。グラバー邸は高台にある為、頂に向かってエレベーターが設置されている。

 沙織が目的地のグラバー邸で降りようとしたが、そのご婦人は降りる気配がなかった。旅の解放感からか思わず沙織が声をかけると、ご婦人は更に上まで上がると言う。訊けば

「長崎は平地が少ないから珍しくないんですよ」

 平然と言うと更に頂上へと登っていったが、毎日エレベーターを使って山を下り、日常の買い物などをするのはさぞかし大変な事に違いない。沙織はそんな暮らしぶりに感心する事しきりだ。

 そんなグラバー邸に足を踏み入れると、庭先からの眺めは見事だった。眼下には長崎港の入り江が広がり海が一望できる。贅沢で優雅な暮らしぶりを伺わせる邸宅の庭を一人歩いていると、周りは家族連れやカップルばかりで、見た限り女一人で来園しているのは沙織くらいなものだ。

 瀧蔵が「一人では不便だ…」と、結婚した理由を述べていたが、沙織はこんな時に「不便」を感じるのだった。

 庭園に設置されたベンチに腰掛け、携帯電話を見てみたが、やはり瀧蔵からの返事はこない。沙織はため息をつきながら「よしっ」掛け声を掛けると、大浦天主堂の近くでランチをとる事にして、グラバー邸を後にした。

 食事を済ませると南山手辺りを散策していた、沙織は疲れを覚えた。歩き疲れたというより、気分が乗らないと言った方が近いかもしれない。南山手の散歩を早々に切り上げ、旧香港上海銀行長崎支店記念館などを巡りつつ、ホテルへ戻ることにした。

 夕暮れには少し早かったが、ふと「観光でしょ」という瀧蔵の言葉を思い出していたのだ。

 きっと、その言葉は『俺に逢いに来たのではなく、観光なんでしょ? 観光は一人でして下さい』という意味だと沙織は思った。もっと言うと『俺に逢いにくるの? 観光に来るの?』という意味なのではなかろうか。

 今更、お散歩デートでもないだろう、ということなのかもしれない。沙織は瀧蔵の言葉をそんな風に理解すると、今回の旅の目的がなんだったのか分からなくなった。

 沙織は瀧蔵に逢いたかった。が、瀧蔵に長崎へ行きたい旨を告げると急によそよそしくなる為、沙織は迷惑なのだと解釈した。逢うのが迷惑ならば一人で観光をして帰ろう…そう思っていたのだが、本当にそれでいいのだろうか…南山手を散策しながらそんな自分に疑問を感じたのだ。

 一人で見知らぬ町を歩いてもさほど楽しい訳でもない。なのに、自分は楽しんでるフリをしている…そう感じた途端に一気に疲れを覚えたのだった。


 沙織は、夕暮れまでの二〜三時間をホテルの部屋で過ごすと、日が暮れる前に繁華街へ出る事にした。

 中華街で夕食を済ませると既に日没をむかえ辺りは暗く、どこからともなく磯の香りがした。沙織は湿気を含んだ潮風に誘われるように築町電停から路面電車に乗った。ひと駅先の出島で下車し港をそぞろ歩いていると、真っ暗な海に吸い込まれそうだった。

 港に面したレストランの灯や居酒屋からの嬌声は静まりかえる暗い海とは対照的だ。沙織はその前をぼんやり歩きながら、長崎へ何をしたくて来たのかを考えていた。

 こんな風に夜の港を一人で散歩する為だろうか? それなら横浜でもいいではないか…昼間、グラバー邸や南山手を歩きながら沙織は絶えず『こんな事をする為に来たんじゃない』という自分の声が聞こえていた。しかし、そうでもしなければ時間を潰す事が出来ない。わざわざ飛行機に乗ってここまで来たのだから何かしなければ…そう自分に言い聞かせて朝から観光名所を歩き回っていたのだ。行きたい訳ではなく、観たい訳でもなかった。

 港の空いてるベンチに腰を掛けると隣はカップルで、沙織はなんとなく居心地の悪さを覚えた。旅の目的をつらつら考えていると、心の底からしみじみと寂しさが込み上げ涙が溢れそうになるのだった。

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