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祈り ―華やかな傘に守られ―  作者: 小路雪生
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第二十五回

 酔いで頭がふやけるような感覚に陥りながら、酒に無抵抗に溺れる自分を止めてくれる何かを求めている事に、沙織は気付いた。しかし、それが何なのかは分からない。

 やはり、本格的にアルコール依存症である事を認めて、その現実と向き合わない事には飲んでは止める…を繰り返す生活から逃れられないのではないか…沙織はそんな気がしていた。が、沙織の中では断酒を行う事と瀧蔵を想う気持ちが両立させられないのだ。

 これは断酒の会で刷り込まれた『異性関係とアルコールは似ている』という、迷信のような思い込みが原因なのか、それとも、実際に瀧蔵との関係が酔う事と同種のものなのか、沙織自身には判断が出来ない。瀧蔵が断酒の妨げになっていると考えたくない沙織にとって《仲間》が言う『迷信』は疎ましかった。

 悩んだ末、瀧蔵にこの話をしよう…そう思った。が、やはり知られたくない気持ちが勝ってしまう。

 沙織はふと、断酒の会で聞いた話を思い出した。


「教師をしていたのですが、アルコール依存症になってしまい辞めました。夫は銀行員です。アルコールの問題を打ち明けないまま結婚したのですが、後からバレてしまって…夫に詐欺って言われるんです。…みっともないって罵られるんです…それが、辛くて…」


 そう話す《仲間》がいた。

 沙織がアルコールの問題を打ち明けたら瀧蔵はどんな反応をするのだろうか…沙織は、瀧蔵が一緒なら断酒出来そうな気がしていた。そんな風に考える自分を「瀧蔵遼依存症」と沙織は思う。

 沙織はこれまで自分の事を自立している強い女のつもりでいたが、本当は人一倍弱くて甘えたがりで、寂しがり屋なんだと気付いていた。だからこそ、突っ張ってきたのだろう。自分の弱さを打ち消す為に丸藤では上司と伍して働いてきたが、そんな無理がたったに違いない…この頃はそう感じるようになっていた。

 所詮は女なのだから、本当は愛する人に守られて生きる方が無理なく過ごせる気がする。

 そんな本当の自分の欲求に気付きながら、頼れないと知りつつ瀧蔵と関わりを持ち続ける事は、再飲酒のきっかけになるのだろうか…沙織は考えると答えのない迷路に迷い込んだ気分になってしまうのだった。

 再就職をするにしてもせいぜい三十五歳くらいまでが限界ではか…そう考える沙織にとっては、まさに正念場、必死で断酒をすべき時と分かっていながら、実家で飲んだお屠蘇をきっかけに、次回の通院日までアルコールを飲む事を善しとする自分と決別出来ないでいた。


 あれこれと一人で堂々巡りのように考えているうちに、沙織は酔った勢いで十一時頃、正月明けの瀧蔵の会社に電話を架けた。

 既に社員は帰宅をしたのか、留守番電話になっていた。沙織は、録音された応答メッセージが流れるのを最後まで聞き、誰も出ない事を確認すると安心したように何回も電話を架けた。沙織は瀧蔵の声が聞きたかった。が、この時間では無理だと思った。底なし沼に落ちるような酔いと、頼りたい瀧蔵がいない…その寂しさから今夜は増々深酒をするのだろう…そう思っていると三、四回、架け直したところで受話器が外れる気配がした。沙織はその瞬間心臓が止まりそうになった。

「はい」

 男性の声だった。

 沙織は『まずい』と思った。深夜である上に、誰も出ない事を承知して何度も架けていたのだ。誰かが残っていたのは予想外でバツが悪い。なんと言って言い訳をしようか迷っていると電話の向こうから

「もしもし」

 重ねて問いかけがあった。その声は瀧蔵だった。

「……もしもし?」

 小声で沙織が声を発すると

「はい」

 瀧蔵は沙織と気付いたのか、柔らかな、安堵した声で答えた。

「……ごめんなさい、こんな時間に…」

 沙織は、悪さを見咎められたこどものような気分だった。酔いを悟られないよう口調に注意しながら詫びた。

「どうしたの?」

 瀧蔵は低い声で尋ねた。

「……なんとなく…話したくて…いないと思ったんだけど…」

 沙織は、何回も架けた事を恥ずかしく思いながら小声で言い訳のように言った。

「……」

 瀧蔵は無言だった。

「ごめんなさい。お仕事だった?」

 気まずい気持ちで沙織が尋ねると

「うん?……そろそろ帰ろうと思ってたんだけど」

「そう……」

 沙織はそれを聞いて少し、寂しくなった。

「帰らないで」

 ポツリと言うと

「……」

 瀧蔵はまた黙り込んだ。

「一人?」

 沙織が遠慮がちに尋ねた。

「……うん」

 その返事を聞き沙織は安心した。

「お正月は何してたの?」

「…まぁ、年始の挨拶回りとか、お客さんの接待とか…いろいろ…」

 沈黙の後、沙織がぼんやりと言った。

「…実家に帰ったの。二年ぶりに…」

 瀧蔵は沙織の家の事情は知ってるはずだ。付き合っていた頃に何度か話した事がある。

「そう」

 瀧蔵は相槌を打つと電話が長くなりそうだと思ったのか、姿勢を変えたような気配がした。どうやら聞く体勢に入ったようだ。それを感じて沙織は言葉を重ねた。

「私、居場所がないの…」

 呟いた。

「……」

 瀧蔵は何も言わない。

「なんだか、怖くて…」

 酔った頭で、今の心境を打ち明けた。

「なんで?」

「……私、今年、三十三なのよ……母が死んだのと同じ歳なの…」

 沙織は、そんな風に表現してみた。今の不安は、アルコールの問題や、今後の仕事の事など諸々だったが、沙織は三十を境に人生の流れが変化した事を感じていた。

 何故なのか、考えても分からない事だったが、ふと、母の死んだ歳を思い出すと、何やら関係があるのだろうか…そんな思いに捕われる事がこの頃しばしばあったのだ。漠然とし過ぎていて表現のしようもないが、考えてみると沙織には、三十三歳以降の人生のお手本が無い。これから自分がどの方向へ向かって何を目印に生きていけばいいのか分からず、戸惑っていた。

「今まで、考えた事もなかったんだけど、ずっと健康だったのに、この頃急に体壊したり、仕事も躓いたりして…ふっと、母は、この歳まで生きられなかったなって、思うと…私もこれから何かあるのかなって…不安で…」

 沙織の声は沈んでいた。酔っていたせいか、日頃なかなか顕在化しにくい母の死と自分の人生の繋がりを口にしていた。素面のときは『そんな事ない』と打ち消し考えないようにしているが、酔いと相手が瀧蔵という安心からか、日頃なかなか言葉にはしにくい死について言及していた。

「………」

 瀧蔵は耳を澄ませたまま何も答えようとしない。

「…こんな話でごめんね」

 沙織が暗い話題だと気付いて謝ると

「…いいよ。……飲んでる?」

 沙織に訊いた。

「分かった?」

「うん……なんとなくね…」

 それだけ言うと再び黙り込んだ。

「病院、行ってるの?」

 瀧蔵は思い出したように沙織に尋ねた。

「……うん…今年はまだだけど」

「…肝臓だっけ?」

「うん?……うん…」

 アルコール性と悟られた気がして口ごもった。瀧蔵にも正直に話そう、そう思うがいざとなるとなかなか言い出せない。

「ま、あんまり気にするなよ」

 黙り込む沙織を励ますように言った。

「…」

 沙織は、答える事が出来なかった。母の死を口にした途端、これまで意識の底にしまってあった不安が現実に起こりそうな気がして怯えていたのだ。

「……怖いわ」

 沙織の声は一段と低くなった。

「……」

 それを聞き、瀧蔵は黙り込んだ。

「……」

 沙織が何も言わず黙したままでいると、瀧蔵が受話器をどこかへ置いたような音がした。しばらくしてから電話口に戻った瀧蔵は相変わらず黙ったままだった。沙織が耳を澄ますと、受話器の向こうから微かにグラスと氷がぶつかる音が聞こえてきた。

「なに?」

 沙織が訊くと

「…うん?」

 瀧蔵は答えない。どうやら、何か飲み始めたようだ。

「…飲んでる?」

 沙織が訊くと

「うん」

 瀧蔵はそれだけ言った。沙織は酒だと気付いた。洋酒だろうか…焼酎だろうか…会社に酒があるという事は、深夜時々は飲みながら仕事をしているのだろうか。

「なに飲んでるの?」

「……」

 沙織は訊いたが瀧蔵はやはり答えない。だが、時折、氷の音がしていた。沙織は、声を立てずに笑った。沙織が飲んで沈んでいるので瀧蔵も合わせてくれているのだろう。沙織の心はくすぐったくなり、急に暖かな毛布に包まれているような気分になった。キーボードを叩く音と氷の音を聞きながら、沙織は深い安らぎを覚えていた。

 この頃一人で過ごす時間が多いせいか、こんな風に人のいる気配が妙に新鮮で懐かしい。他人といると気を遣ったり、女同士ではお喋りして間を繋ぐが、それが妙にしんどく感じるようになっていた。こんな風に言葉もなく、気兼ねもせずにただ側に居てくれる感じが心地よかった。

「…ありがとう」

 ふと、沙織が礼を言うと瀧蔵は

「…何が?」

 低い声で訊いた。

「…居てくれて…」

 そんな風に説明すると

「…うん…」

 低い声で相槌が返って来た。沙織は、これだけでいい、そう思った。これだけあれば生きていける気がした。

「…いなくならないでね」

 沙織が低い声で言うと、瀧蔵はフッと声を立てずに笑い

「俺は、ずっとここに居るよ」

 そう答えた。

「…ほんと?」

 沙織が確かめると

「ああ…ほんと。………どこへも行かない」

 低い声で囁くように言った。昔よく聞いた懐かしい声だった。

「……でも、帰るんでしょ?」

 沙織が意地悪な質問をすると

「………」

 瀧蔵は黙り込んだ。沙織が黙っているとしばらくしてから

「今日は………まだ、いいよ」

 瀧蔵は少し冷めた声で呟いた。

「……どうして?」

 沙織が尋ねると

「………」

 瀧蔵は再び黙り込んでしまった。長い沈黙の間、誰もいない深夜のオフィスの静寂の中で時折氷の音とキーボードを打つ乾いた音が聞こえた。沙織はずっと、その音を聞いていた。昔、仕事帰りに瀧蔵の部屋を訪ねると、こうして自宅のパソコンで持ち帰った仕事をしている姿を見ていた事を思い出していた。

「……この間ね」

 長い沈黙の後、沙織が口を開いた。

「…実家で、義母に『帰ってこないでちょうだい』って…言われたの」

 ポツリと沙織が呟くと瀧蔵はキーボードを打つ手を止めて沙織の言葉に耳を澄ませた。

「……体調も思わしくないし…ここへ帰ってこようかなって、言ったら…帰って来ないで!って、切り口上に言うのよ」

 沙織は、小さく笑いながら拗ねたように呟いた。電話の向こうからこれまでよりも大きく、氷とグラスのぶつかる音が聞こえた。瀧蔵は黙ったまま何も言おうとしない。沙織も黙り込んでしまった。やがて

「……沙織、お見合いしたら?」

 不意に瀧蔵が言った。

「え?」

 思いがけない言葉に沙織が訊き返すと、少し考えながら

「…沙織のお父さんとか、親戚の人とか、顔広いんじゃないかな。…誰か、お見合いでもいいから見つけて結婚した方がいいんじゃないか」

 低い真面目な声で呟いた。

「どうして?…いやよ」

 沙織は、瀧蔵の意外な言葉にムキになって抗った。

「……そうすれば、みんな安心するんじゃないかな」

 それを聞いた沙織はため息をついた。

「いやよ。お見合いなんて…」

 瀧蔵の気持ちが分からない。先ほどまで『ここに居る』と昔のように言っておきながら、突然見合いを勧める。沙織は酔いまで醒めるような心境だった。

「まぁ、今時って思うだろうけど…お見合いじゃなくてもいいけど、そのほうが確実だよ。…今のように一人でいるなら結婚したほうがいいと思う」

 瀧蔵は、低いがキッパリと確信を持った様子で言った。

「どうしてそんな事いうの?」

 沙織は、悲しかった。守屋との関係を知った時、瀧蔵は激しく動揺し「別れろ!」と詰め寄った。あれから六年…瀧蔵は沙織に「見合いをして結婚しろ」と言うようになった。

 沙織は急に肩から力が抜けてしまった。

「……そのほうが、沙織もいいと思う」

 瀧蔵はボソッと呟いた。

「…好きでもない人と暮らしたくない」

「いい人がいるかもしれないよ」

「…」

「もし、そういう人が出来たら、そうした方が良い」

 瀧蔵は、沙織を説き伏せるように言った。

「………」

 沙織は、瀧蔵の変化に戸惑ってしまう。思わず

「…お父さんみたいな事言うのね」

 皮肉を言ってしまう。それを受けて瀧蔵は

「…だって、お父さんだもん」

 ややおどけた口調で口ごもった。

 瀧蔵に子どもがいることは聞いていた。結婚した時、瀧蔵の妻が三十一歳目前だった事から早く子どもが欲しかったらしく、結婚してすぐに出来たと、以前に聞いていた。そろそろ二歳だろうか。

「いつも何時頃帰るの?」

 不意に沙織話題を変えるように訊いた。

「十時とか十一時とかその日によって違うな」

「もう十二時よ」

「……うん…」

「奥さん、心配しない?」

「……そのうちメールが来るかもね」

 瀧蔵が言った途端、電話の向こうで携帯の着信音が鳴った。

「何?」

 沙織が音に反応して尋ねると

「どこにいるの? だって」

 瀧蔵は妻からのメールの内容を沙織に告げた。

「なんて答えたの?」

「会社、って」

 瀧蔵は淡々と答える。

「…ふーん…早く帰れば?」

 沙織が試すように促すと

「…帰っていいの?」

「………」

 そう訊かれると沙織は答えようがない。思わず黙り込んでいると瀧蔵が

「寝られないんだよ、帰っても」

 伸びをしたような声で言った。飲み終わったのだろうか。いつの間にか氷の音が聞こえなくなっていた。

「寝られない?」

 沙織が訊き返すと

「……夜泣きがひどくて」

 言いにくそうにぼそぼそと答えた。

「………赤ちゃんいるの?」

 思わず声を潜めて尋ねると

「……ああ、生まれたんだ」

 くぐもった声で言った。

「何ヶ月?」

 沙織は初めて聞く話だったた。

「先々月」

 先々月も先月も話したが、その時は何も言っていなかった…沙織は瀧蔵がその事を黙っていたのが気になった。

「…そう。ふーん……なんで言わなかったの?」

「……別に、…いちいち言う事でもないだろ」

 沙織の追求を避けるうに素っ気なく答えた。先々月と聞き沙織は逆算してみたが、春に瀧蔵と話した時には既に妊娠していたようだ。結婚している以上、こどもが出来ても不思議はない。が、沙織はなんとなく複雑だった。

 こんな時、何故か香子の事を思い出してしまう。その後どうなったのかを訊こうと思いながら、いつも訊き出せない。 過去の事を下手に掘り返して今の関係に水を差したくないのだ。

 沙織はかつて香子の事で瀧蔵と別れる事になっていったが、今の自分はその頃の香子と同じ事をしているのではないだろうか、と思う。瀧蔵は妻には沙織の事を隠し、沙織には第2子の誕生を隠す。子どもまで居る今の瀧蔵が妻と別れるとは思えないが、あの頃の沙織なら瀧蔵の今の様子を「不実」となじった事だろう。しかし、今の沙織には瀧蔵の優しさが必要だったしその存在は大きく、放したくないと思う。

 置かれている立場や状況によって、かくも人は捉え方が変わるものかと沙織は我ながら苦笑いするのだった。


「隠す事でもないと思うけど…」

 小声で呟きながらも

「…でも、二人目か…」

 沙織がため息まじりに呟くと、瀧蔵は再びパソコンのキーボードを叩き始めた。知らぬ顔をしている瀧蔵に

「…もう、作らないで、二人もいれば充分よ」

 沙織がやんわりと釘を刺した。

「……」

 瀧蔵は無言のままだ。

「ね?」

 沙織が念を押すと

「え?」

 聞こえないフリなのか訊き返す。

「もう、こどもは要らないって言ってるの」

 沙織がふてくされて言うと瀧蔵はクックックと、面白そうに笑いながら

「沙織が産むんじゃないでしょ」

 瀧蔵は言った。

「そうだけど…」

 口ごもりながら、この期に及んで二人目とは、瀧蔵の妻もなかなか運が強い、と沙織は感心するのだった。そんな事を沙織が思っていると

「…昨夜、喧嘩が始まってさ…」

 瀧蔵がため息まじりに打ち明けた。

「喧嘩? …誰と?」

 沙織が訊き返した。

「…おふくろと奥さんと。…夜中の3時だぜ」

 やれやれ、と言った感じが伝わってくる。興味をそそられて沙織が

「まぁ……どうしたの?」

 相槌を打ちつつ尋ねると

「下の子が泣き止まないんだよ。奥さんは起きてやらないし……しょうがないから俺が起きてあやすんだけど、俺じゃ泣きやまないんだよな。奥さんは隣で寝たフリしてるし…階下のリビングで子ども抱いてあやしてたらお袋が起きてきちゃって…なんで起きてあげないの!…って夜中の三時に怒り出して……。やっと奥さんが起きてきたと思ったら、抱き癖がつくので構わないで下さい! とかお袋に向かって言い出して、赤ん坊が泣いてる横で二人で喧嘩だよ…」

 瀧蔵はため息をつきながら疲れ切ったように愚痴をこぼした。

「…大変ね」

 思わず沙織は同情してしまった。

「その後寝られなくてさ。…どうせ早く帰ったって今日も夜泣きするんだよ、どっちでもいいから、泣かすなよって…」

「…どっちって?」

「……抱き癖がつこうがつくまいが……。ようは起きるのが面倒なんだよな。昼間もずっとお守りで疲れてるんだろうけど、俺だって仕事してるんだよ。夜は俺に起きろって事みたいだけど、俺じゃ泣き止まないしさ…参るよな…」

 瀧蔵はほとほと困り果ててる様子だった。

「どうして、同居したの?」

 沙織は、結婚当初から母親との同居を望んだ点について尋ねた。

「……こっちへ帰って来た時、そのまま実家に住む事にしたし…結婚するからって母親だけ置いて出るのもどうかと…」

「奥さん、嫌がらなかったの?」

「…覚悟してたんじゃないかな。出来れば別々に暮らしたかったみたいだけど。俺も二十年近く離れて暮らしててやっと帰って来たのに、独居老人にするのもな…。そうじゃなくても、ずっと寂しい思いをしてきた人だし…」

 瀧蔵はそこまで言うと言葉を切って黙り込んだ。

 瀧蔵の家の事情は沙織も知っている。瀧蔵は、これまで一人で耐え忍んで来た母を哀れに思っているのかもしれない。 父亡き後、自分は母親を大切にしてあげたいと思っているのだろう。そこまで考えて、沙織は自分の存在が瀧蔵にとってどんなものだろう…そう考えるとそこから先を尋ねるのが怖くなった。沙織は話題を変えた。

「…昔、発達心理学の講義で聴いたんだけど、こどもって三歳までの接し方で成人後の人格が決まっちゃうんですって。3歳までの親との関係を一生引きずるって事よね」

「3歳か…」

「昔、子供の頃に、三つ子の魂百までっていうの聞いた事あるけど、あれって核心をついてたのよね」

 沙織がしみじみ言うと

「……あんなに泣いてるのに起きてやらないと、自分は愛されてないとか、大きくなったら思うのかな…」

 瀧蔵はぼんやりと呟いた。

「……かもね。なーんて…でも、あなた可哀相…うちへ来る?」

 沙織が瀧蔵に訊いた。

「…今から?」

 口ごもった感じで瀧蔵が訊いた。

「そう、今から」

 沙織が囁くと、少し考えてから

「…行こうかな」

 低い声で瀧蔵が呟いた。

「うん、来て」

 沙織が可愛く答えると

「十分で行くよ」

 慣れた感じで素早く答える。

「待ってるわ」

 興にのって沙織は応じるが、実際には長崎と横浜では来られるはずはない。

 が、昔はこんな風に言い合うと、十分も経たないうちに本当に瀧蔵は沙織の部屋へ現れたものだった。時間も距離も隔たれた今、こんなやりとりも、ただの冗談で終ってしまう関係になってしまったのだと、沙織は言いながら、寂しさが込み上げてきた。

 それは瀧蔵も同じようで、声を潜めて笑い合いながらも

「遠いわね…」

 沙織がしみじみ呟くと

「ああ」

 瀧蔵も夢から覚めたような声で相槌を返した。

「これって、デートかな?」

 沙織が訊くと

「………不倫だよ」

 瀧蔵は低い声で呟いた。

「電話よ」

「電話だけでも不倫だよ」

 瀧蔵はそう言うと黙り込んだ。不意に

「長崎へ来れば…」

 瀧蔵はそこまで言いかけて言葉を切った。

「…なんて言ったの?」

 言葉が最後まで聞き取れず、沙織が訊き返したが瀧蔵は何も言おうとしない。

「長崎へ…来れば?って言った…?」

 沙織が尋ねた。

「そうじゃなくて…」

 瀧蔵は否定をしながら

「…まぁね、だから……こういう電話だけでも不倫みたいなものだから、逢わない方がいい、って、そういう意味」

 瀧蔵は言葉に詰まりながら、苦し紛れのように言いかけた言葉を打ち消した。

 沙織は一瞬『来れば?』と言われたのかと思い、訊き返したが、瀧蔵はそんな沙織の思いをかき消すような事を言うと

「メール来たから…」

 沙織に妻から帰宅の催促が届いた事を告げた。時計を見ると一時だ。

 沙織もいつの間にか酔いが醒めていた。帰ろうとする男に

「恐妻家なのね」

 冷やかすと

「愛妻家、と言ってくれ」

 瀧蔵はパソコンの電源を落したのか、先ほどより静かになっていた。なんとなく引き止めたい沙織は

「…長崎へ行ってもいい?」

 囁いた。

「………来るのは自由だよ。観光地へ出掛けるのに俺に許可をとる必要はないよ」

 低い乾いた声で呟いた。沙織は観光、などと言ってない。にも関わらず沙織の言わんとする意味にわざと気付かないフリをしているのか、話を反らすように答えている感じだ。

「…案内、してくれる?」

 沙織が訊くと

「………仕事があるから」

 やんわりと断っているようだ。

「…昔は無制限で一緒に居てくれたのにね」

 知らずのうちに恨み言のような事を言ってしまう。

「…」

 黙り込む瀧蔵の背中を押すように

「また、ね」

 沙織はそう言うと、電話切った。

 結局、アルコールの事は言えないままだった。瀧蔵は「いい人が居たら結婚しろ」と言う。

 電話を切ると酔いの醒めた頭で、そんな男の胸中を推し量っていた。

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