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祈り ―華やかな傘に守られ―  作者: 小路雪生
24/30

第二十四回

 瀧蔵の連絡が来るのを待ちながら過ごすようになって半年以上が経っていた。

 この頃の沙織には、勤めていた頃のように暮らしのコアになる活動がない。

 断酒は沙織にとって大切ではあったが、断酒の会に馴染めない事もあり、楽しみと言えば瀧蔵の声を聞く事くらいだった。

 将来のあてもなく、時間だけが無駄に過ぎる毎日に沙織は嫌気がさしていた。気を紛らわそうとしても一人では限界がある。友達と言っても三十を越えると大抵は家庭があるか、働き盛りで忙しく、療養中の沙織と遊べる人はいない。

子どもがいる友人とは話が合わないし、アルコールの事もできれば伏せておきたい。そう思うと、この頃はどうしても一人で過ごさざるを得ない。外出も近所のスーパーで食料品を買ったり、断酒の会や病院へ行くくらいなものだった。


 家に閉じこもる生活に飽き飽きしていた沙織は、三度目の断酒が一年近く続いてる事もあり、医者に今後の仕事の事などを相談してみた。

「お仕事はしてもいいんですか?」

「急いで働く事はないと思いますが、体調がいいようなら特に制限はありませんよ」

 医師は無理や焦りはは禁物と念を押したが、働く事自体には反対をしなかった。

 退社後、沙織がアルコール依存症と診断をされてから一年半近くが経っていた。

 この間沙織は二度、再飲酒をしている。時間を持て余してイライラする日々の中、やりきれなくてつい、酒に手を伸ばす事があった。数ヶ月断酒していると、久しぶりのアルコールは微量でもよく効いて酔いも早い。

 ところが、一度飲んでしまうと、どうしても次が欲しくなる。軽い気持ちで飲んだ一杯が毎晩の晩酌に繋がって、その生活を続けていると瞬く間に連続飲酒へと移行するのだ。連続飲酒とは、朝から晩まで毎日起きてる間中、酒を飲まなければいられなる状態の事で、こうなると意志の力では飲酒を止められなくなる。アルコール依存症は、量を調節して飲めなくなる病気だが、これは生涯治らない。その為に断酒をしたら一滴たりとも飲んではならないと教わるのだ。

沙織は瀧蔵にまだその事を話していなかった。



「寂しくなると、お酒が飲みたくなるんです。昔の彼が時々連絡をくれるのですが、月に数えるほどなんですね。そうすると、結婚してしまったのでこちらからは連絡も出来ないし…いろいろ考えると、酔いたくなって…今のところお酒はなんとか堪えていますけど、衝動的に飲んでしまおうか、と思う事は度々あるんです」


 沙織は、女性だけの集会でそんな事を話した。


「異性関係ってストレスになりますよね。思い通りにならないし…。だから、ある程度飲まない生活が身に付くまでは恋愛はちょっと我慢して、飲まないっていうのを続けるしかないんですよね。お酒って寂しいとつい飲んじゃうけど、こうやって仲間といると寂しさも分かち合えるし、ここへ来て良かったって思ってます」


《仲間》は言った。


 沙織は、会へ来ても寂しさは紛れない。他の人は心からそう思っているのか疑問だが、断酒の為と割り切るより無いのだろうか。



 集会へ行き、時々瀧蔵と話し、通院をする生活が続く中、三十三歳になる年の正月を向かえようとしていた。沙織は久しぶりに帰郷する事にした。アルコール依存症と診断されてからは初めての里帰りだった。

 沙織の実家は、横浜から特急で二時間弱、在来線でも二時間半あれば帰る事ができた。

 この暮らしになってから、墓参りだけ済ませて実家に寄らずに横浜へ帰る事はあったが、家族と顔を合わせるのは二年ぶりだ。

 元旦に帰省した沙織は正月ということもあり、縮緬の黒の地色に南天と雪が描かれた訪問着を着て実家へ向かった。この着物はこの日、袖を通すまで躾がついたままの新品で、以前から何かの機会に降ろそうと決めていた特別な着物だった。

 小学生の頃に亡くなった母が作ったものだったが、沙織の母はこの着物に一度も袖を通す事なく他界した。その後、沙織が形見として譲り受けたものだったが、それを沙織はこの年、遂に降ろす事にした。


「おめでとうございます」

 沙織は二年ぶりに実家へ戻ると、お正月の挨拶をしながら部屋へ上がった。

 家族と久しぶりの対面ををすると、早々に年賀に訪れた親戚に挨拶などを交わし、初詣に出向くなどしながら元日を過ごした。

 沙織の実家は、かつて地元では名士と言われていた家だ。沙織の曾祖父はかつてこの地域の郵便事業に貢献した人物で石碑も建立されている。親戚筋からは市議・県議を代々輩出していたが、世代交代も進む時世にあって一族の関心は「次は誰が地盤を引き継ぐか?」という事だった。実家は元は地主でもあった事から広大な土地や山林も所有していたが、この頃は相続税などの関係で土地も大分手放していた。幼い頃沙織が駆け回っていた畑は住宅地に姿を変え、新しい家々が並び、久しぶりに帰省をする度に変化していく風景に驚かされた。

 そんな家を継いだ沙織の父は市の職員だったが間もなく定年を迎える。


 年始の内輪の行事も終え、沙織は後片付けをしていた。

 久しぶりの帰省で和気あいあいとしていたが、台所でふと漏らした言葉から沙織と義母は軽く衝突をした。

「あなたにそんな事を言われる覚えはないわっ」

 沙織は義母の言葉に怒りと悲しみを覚えタンカを切ると、祖母の部屋へ行き、たった今のいきさつを話した。

「ここへ帰って来ようかな…って言ったら、この家には帰って来ないでって言われたの」

 祖母は

「そんな事を言うん!」

 一応驚いてはくれるが、昔ほど嫁を悪く言う気配はない。最近は祖母も高齢のせいか、昔ほど沙織の肩を持ってくれない。そんな時、この家も変わった…と沙織は感じるのだ。沙織は段々と自分の居場所が失われていくように感じ、寂しさを覚えた。

 沙織の母亡き後、中学二年の多感な時期に義母は後妻としてこの家に嫁いできた。

 その後妹が生まれ、それまで長女で末っ子だった事からチヤホヤされていた沙織だったが、義母の産んだ妹が一気にこの家の人気者になってしまった。沙織は寂しさと疎外感から「早く自立したい」と願い、東京の大学に入るまでは、とこの家の変化に辛抱してきた。生さぬ中の義母と沙織は折り合いが悪く、しばしば対立しては父を悩ませていたが、そんな時、必ず祖母は沙織の味方になってくれた。が、沙織もこの家を出て十四年になる。早いもので妹も高校生だ。沙織の立場は今やすっかり妹に奪われた観がある。

「どうしてあの人はああいう事を言うの?」

 沙織は今度は父に悲しみをぶつけたが、父は無言のまま何も言おうとしない。

「体を壊して働けないのよ。『今の住まいを引き払ってしばらくここで休もうかしら』って言ったら、実の母親は『帰ってきたら?』とか『体の具合はどうなの?』とか、心配するものでしょう? それを何気なく『帰ってこようかしら』と言った途端『帰って来ないで頂戴っ』って……あんな言い方ってあるの?」

 沙織は父に畳み掛けるように言い募った。

「みんなが居る前では『本当に沙織ちゃんは着物がよく似合うわ。私や綾なんてがっちりしてるから着こなせないけど、 沙織ちゃんは綺麗だし、女の子らしくていいわね〜』とか、おべんちゃら言うくせに。せっかく気を利かせて後片付けを手伝ってるのに、二人になった途端、切り口上にそう言うんだものっ。…根性悪いわよ」

 沙織は情けなくなった。今は祖母も父も健在だからこうして帰省もするが、父や祖母に万一のことがあったら沙織はこの家に帰る事さえなくなってしまうかもしれない…そう思うと、生家を乗っ取られたような悔しさが消えないのだった。

「お父さんが死んだら、私、この家の敷居もまたがせてもらえなくなるかもしれないわ。財産だって全部あの人が牛耳る気なのよ」

 沙織はキツい口調で義母を罵った。

「沙織」

 父は沙織をいさめるように声をかけるが沙織は無視していた。

 土地は昔に比べると大分少なくなったものの、それでもアパートやビル、駐車場などを所有しており、家賃収入と公務員をしている父の給料で生計を立てていた。経済的には恵まれており、一家の暮らしぶりは安定している。沙織の父は間もなく定年を迎えるものの、まだ若い事もあり、恐らく定年後も嘱託として勤務する事になるだろう。

 沙織は、実家の資産をあてにしている訳ではないが、ここは自分の生家、という思い入れはある。義母が後妻として嫁いで来るずっと前からここで生まれて育ってきたのだ。そんな沙織をないがしろにするという事は、亡き母をも軽んじているようにしか思えない。

 父にその事を訴えると

「墓参りも法要もしてる。沙織よりもそういう事はちゃんとしてるぞ」

 皮肉にも聞こえるような事を言った。

 結局、男なんて妻の尻に敷かれてしまうものなのだろうか…そう思うと、亡くなった母が忘れられていくようで沙織は母が不憫でならない。父に男としての不実さを感じ『父は冷たい』、沙織はそう思ってしまうのだ。

「お父さんだって、死んだ母さんを忘れた訳じゃない、沙織と同じように寂しい。でも、沙織みたいにいつまでも お母さん、お母さんって言ってたら、お母さんだって成仏できないぞ」

 諭すようにしみじみ言った後、父は仏壇に向かってこれ見よがしに

「なぁー」

 亡き母に同意を求めるようにわざとらしく声を掛けた。つられて沙織も仏壇を見るが、当然ながら無言のままだ。

沙織は父に鋭い視線を向け

「あの人、この家の財産を思う通りにする気なんだわ。だから私が邪魔なのよ」

 沙織は父ににじり寄ると、キッパリと言った。

 それを聞いた父は俯き、沙織から視線を外すと深いため息を何度もついた。睨みつける沙織に負けたのか、長い沈黙の後

「……俺もばあちゃんも毎年遺言を書いてる」

「え?」 

 初めて聞く話に沙織は驚いた。

「本当?……なんて書いてあるの?」

 興味津々の沙織が声を潜めてめて尋ねると、父は

「ばか、そんな事教えられないよ。遺言だぞ、遺言」

 たしなめるように言った。

「だから、沙織はそんな事心配するな。まぁ、沙織が納得する内容かどうかはわからないが……」

 やや口ごもると

「沙織も、今大変だもんな。あいつも言い方がよくないんだろう。この頃、綾ともしょっちゅう喧嘩してるよ。…けどな、沙織も昔は結構辛くあたってたぞ。いい加減、お母さんを認めてやってくれ」

 父は、沙織の立場も分かっていると言いたいのかもしれない。

 丸藤を辞めた事やそのいきさつ、最近体を壊して働けない事などは伝えてあったが、アルコールが原因であるとは話していなかった。

 そんな沙織のやるせない気持ちまでは父も分かっていないと沙織は思う。

 こんな時、沙織にも家族がいれば…と思うのだ。夫や子供、嫁ぎ先など新たな自分の家があったなら、実家に拘る事もないだろう。この歳まで独身で過ごし、丸藤と言うバックグラウンドを失った現在の沙織はどこにも帰属しておらず、歳だけとっていく現状に苛立や不安を感じていたのだ。社会との交流もなくなれば新しい出会いも少なくなり、増々縁遠くなる一方だ。アルコールが原因となれば、幾つになっても酒を飲む事は出来ない。が、酒はどこででも手軽に入手出来る代物で、断酒もいつまで続くのか、沙織には自信がなかった。飲み出せば悪化するのは明らかだった。自分1人で再起できない場合、最後に頼れるのは今のところ、父や実家しかなかった。先の見通しが立たない場合、この実家へ戻り、支援を受けて自分で事業でも始めるしか無い…そんな風に考えていた沙織は、義母に水を差されたようで不愉快で仕方ない。今後に希望すら見いだせない怜悧な言葉に怒りや悲しみを禁じえなかった。

 そんな沙織の複雑な心境や事情まではとても父には話せそうになかった。こんな時、沙織は心底母に元気でいてほしかった、そう思うのだ。

「ねぇ、お父さん、この着物覚えてる?」

 気分を変えようと明るく言ってみたが、父は首を捻る。

「お母さんが亡くなる前に作った着物よ。躾が付いたままだったの。いつか結婚でもしたらお正月に着ようと思ってずっとしまってあったんだけど…まぁ、縁がないので…」

 沙織は苦笑いしながら言うと、父の前に立って一回転して見せた。父は着物の事など疎いらしく

「そーかー」

 気の無い返事だったが、沙織の母親の事を思い出しのか、一瞬遠い目をして畳に目を落した。


 昔、祖母が沙織に言った事があった。

「死に別れた人のところへ後妻に入るのは止めたほうがいい、って、昔おばあちゃん達が言ってたね」

「なんで?」

 中学生の沙織は、死に別れた場合は後々面倒が起こらずに済むのではないか、と思った。その点、生き別れは後からよりを戻すなど、何かとややこしい問題が起こる気がする。不思議に思い、その事を祖母に尋ねると

「死に別れって言うのは好きで別れるんじゃないからね…旦那さんになる人も死んだ奥さんに想いが残ってるもんなんだよ。嫌いで離縁するとかね…そういう事情のほうがいいやぁねぇ。死んだら思い出しか残らないよ。思い出には勝てないからね…」

 祖母はポツリと呟いていた事があったな…と沙織は思い出した。


 父は

「さてっ」

 気を引き立てるように言いながら立ち上がると

「沙織は1人だし、いろいろ困る事もあるだろう。何かあったらお父さんに言いなさい。まぁ、沢山は無理だけどなっ」

 笑いながら優しく沙織に言うと、夕方訪ねてきた兄夫婦やその子供、祖母らがテレビを観ている居間へ消えた。

 沙織が住んでいる横浜のマンションは、就職を機に引っ越して以来、十年になる。

 今の住まいは実家の所有で、分譲マンションの一部屋を賃貸していたが、丸藤に近かった事から沙織が借りる事になったのだ。住み始めてから長年に渡って毎月家賃を払っていたが、収入が無くなった沙織はしばしば家賃を滞納していた。 その事情を父に話したところ父は了承し、催促もせず住まわせてくれている。沙織は父に感謝をするのだが、いつまでこうして暮らす事ができるのか、と、ふと心細くなるのだった。

 沙織の母親は沙織が小五の頃、三十三歳で他界した。先の父の表情を思い出しながら、父の前で亡くなった母を思い出させるような言動は控えた方がいいのかもしれない…沙織はそう感じた。



 沙織は一泊だけすると、翌日には横浜の住まいに戻っていた。

 実家でお屠蘇を飲んでしまい、三度目の再飲酒をしてしまった事が、年明け早々沙織には気の重い材料となった。

 横浜の自室へ戻ると、沙織は次回の通院日まで飲み倒してしまだろう、そう思った。ふと「飲酒欲求は巧妙」と言っていた《仲間》の言葉を思い出す。

 今回の断酒は十一ヶ月続いた。もう少しで一年だったのに…と無念でならなかった。

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