第二十三回
それからの沙織は、週に一、二回通う断酒の会と、通院、そして瀧蔵の電話を待つ日々が始まった。
「話したい」
沙織がメールを送ると、月に二、三回瀧蔵の都合が合う時に電話をくれるようになった。
付き合っていた頃は近所に住んでおり、互いに独り身だった。自由に連絡を取る事が出来たし、頻繁に逢う事もできた。が、その頃とは大分状況が変わってしまった。今や長崎の地に住む妻帯者となった瀧蔵との関係は、連絡を取る回数も手段も限られていた。しかも沙織から電話を架ける事は出来ない。メールの返事も気まぐれ程度に届くくらいで、そんな関係の変化が沙織にはややストレスになっていた。
「メール送ってるのに返事来ないわね」
「…」
瀧蔵は答えない。
「ねぇ、いつ結婚したの?」
最初に結婚したと聞いた時から気になっていた。
「……こっちへ戻って一年半くらいだったかな」
瀧蔵は淡々と答える。
「私が休職した頃ね…そっか…」
踏切で別れた年の冬、沙織は葛西からホテルに誘われた。翌年、相次ぐ異動の後、沙織は団交に踏み切った。和解する頃には、踏切の別れからおよそ一年半が経過していた。
沙織が精も根も尽き果てて休職した頃、瀧蔵は結婚していたことになる。その後全てを失った沙織に対し、瀧蔵は今や全てを手に入れたように見えた。それを思うと沙織の胸中は複雑だった。
「…」
そんな沙織の気落ちした声に耳を澄ませるように、瀧蔵は黙っていた。
「なんだか、皮肉ね。あなたと付き合ってる頃なら葛西さんの事も相談もできたのに…。あなたの事だって、何か力になれたかもしれないのに…」
踏切で隔たれた時に、二人の人生は別々の方向へ大きく舵を切ったのだと思わされる。
「奥さんって、どんな人?」
沙織はかねてから知りたかった瀧蔵の妻について、この日初めて尋ねてみた。
「どんなって?」
質問が漠然とし過ぎたのだろうか、沙織は
「…地元の人でしょ? 前から知ってたの?」
具体的に訊いてみた。
「…いや…帰ってきてから知り合った」
訊けば答えるが、瀧蔵は妻についてあまり話したくない様子で心なしか口が重たい。
「どこで?」
妻の存在など認めたくない沙織も、現実は直視しなければならない。瀧蔵の気持ちは無視して尋ねた。
「………会社で」
ぼそぼそと聞き取れない小さな声で呟く。
「え? …会社って自分の会社?」
やや声を高めにして訊き直した。
「…うん」
瀧蔵は渋々答える。
「部下に手をつけたのね」
茶化すように沙織が言うと
「手を付けたって言うか………まぁ、いいけどね」
瀧蔵は何か言いかけて止めてしまった。
「…で、すぐに結婚したの?」
沙織は次々質問するが、瀧蔵は奥歯に何か挟まってる感じだ。
「……すぐっていうか…喪中だったから、明けるのを待って籍を入れたんだ」
それを聞いた沙織は、軽い衝撃を受けた。沙織とは二年付き合っていたが結婚のけの字も出た事はない。沙織は、自分が瀧蔵にとって何だったのか今更ながら尋ねたい衝動にかられた。
「…じゃぁ、短いでしょ、付き合ってたの…」
「そうかな…帰って来て一年くらいかな…」
あやふやな感じで瀧蔵は答えた。
「……ねぇ、わたしたち、二年くらい付き合ってたよね。私は、あなたのなんだったの?」
思いがけない問いかけに瀧蔵は黙り込んでいる。
「知り合った次の年に結婚するくらいだから、素敵な人なんでしょうね、奥さんて」
イヤミなのか…と自分でも呆れるが、他に何と言えばいいのか分からない。結婚願望は無かったが、しかし一年くらいの交際で結婚したと聞くと、穏やかな気持ちにはなれなかった。
「……別に、普通だよ」
気の無い感じで答える。
「……」
今度は沙織が黙り込む番だった。やはり、今更連絡をとったのは間違いだったのかもしれない、そう感じた。
四年前の言葉も、五年前の情熱も、今の瀧蔵からは感じない。電話はくれるが、それも沙織が落ちぶれてしまい可哀相だから、全く知らない仲でもないので暇な時だけ話相手になってる、というだけなのかもしれない…そう考えると、沙織は惨めになるだけのような気がした。そんな事を考えながら黙り込む沙織を気遣ったのか
「…いろいろ、訳があるんだ」
瀧蔵は言い訳のよう言いった。まるで諭そうとしているようだ。
「いろいろって?」
「…」
沙織が拗ねたように訊いたが、そのまま二人の会話は途切れてしまった。
「…沙織は、俺と結婚したかったの?」
黙り込んだままの雰囲気に居心地が悪くなったのか、瀧蔵が尋ねた。
「…」
が、なんと答えていいか分からない。結婚願望は無かった。あの頃の沙織はまだ若かったし、結婚なんて慌ててしなくてもいつでも出来ると思っていた。
それよりも、瀧蔵と仲良くしていられるのが嬉しい、そんな無邪気な気持ちしか無かったように思う。当時は仕事も忙しく、未来も希望に輝いていた。
そんな当時の沙織には結婚よりも楽しい暮らしがあるように思えていたのだ。
が、今回瀧蔵は知り合って間もなく結婚したと言う。そうなると、当時の自分は瀧蔵にとってどんな存在だっただろうか…? という疑問が湧いてくる。当時、あれほど優しかったのは嘘だったのだろうか…沙織は、それらの気持ちをどうぶつけていいのか分からずに沈黙していた。付き合っていた頃も、時々似たような事で喧嘩したものだったが、そんな時、瀧蔵は沙織に「嘘なんかじゃない」と真剣に言ってくれた。その言葉を信じたのが間違いだったのだろうか…。
「あなたはどうだったの?」
長い沈黙を今後は沙織が破った。このままでは押し問答になりそうな雰囲気を察したのか、ため息まじりに瀧蔵が口を開いた。
「……俺は、沙織は結婚に興味がないと思ってた。泊まった日とか…一緒に暮らそうと言い出しそうになった事は何回かあったよ。でも、沙織は仕事も楽しそうだったし、結婚も、こどもも三十くらいでいいって言ってた。だから、沙織は結婚したくないんだと思っていたんだ」
瀧蔵の感じた事は間違っていない、と沙織も思う。しかし、瀧蔵にプロポーズされていたら喜んだに違いない。瀧蔵は沙織と結婚する気は無かったのだろうか…そう考えると、瀧蔵の気持ちを知りたい。
「私はあなたのなんだったの?」
沙織は先と同じ事を尋ねた。
「………何って、恋人だったんじゃないかな」
少し考えてから瀧蔵が答えた。
「…恋人だったの?」
沙織は、本当に自分が恋人だったのか分からなくなった。恋人だったのだろうか……。
「…まぁ、過去形だけど…」
「なんだか、悲しくなって来たわ」
沙織は気持ちが塞いでしまった。
「……悲しくなるのは困るから、やめようか」
それを聞いた瀧蔵が言った。
「何を?」
「……こういう、電話とかメールとか…」
瀧蔵は、悲しくなるなら終わりにしようと言うのだ。昔ならあり得ない展開だった。
「それはイヤよ!」
沙織は声を高くして言った。こんな言葉をかつての瀧蔵からは聞いた事がなかった。
仮に昔の瀧蔵ならば、抱きしめてくれたり、慰めてくれたり「俺がいるよ、悲しくないよ」とかなんとか言ってくれたように思う。
あの頃の関係は終ってしまったのだと沙織は感じた。涙がこぼれてくる。一体、自分は瀧蔵にとってどんな存在だったのか…恋人と瀧蔵はいうが、妻と沙織の差は何だろうか…そんな事を思うと知らずのうちに涙があふれてきた。
「本当に、恋人だったのかしらね…」
泣いてる事を悟られないよう、声のトーンに注意にしながら呟いた。
「俺はそう思ってたよ」
それを聞いても涙が止まらない。沙織は深いため息をついて、涙を誤摩化した。
「どうして、結婚したの?」
沙織の声は真剣だった。
「…」
瀧蔵は考えているのか何も言おうとしない。やがて
「…タイミングかな」
「タイミング?」
瀧蔵は考えながら答えた。
「…うん……結婚しようと思って付き合い出した訳ではないけど、いろいろ考えると…この辺が潮時っていうのかな……あんまり付き合いを長引かせてもしょうがないのかな、というか…。家も会社も継いだし、落ち着いてもいい頃だと思ったのかな…」
その口ぶりはまるで他人事のようだと沙織は思った。『別に結婚しなくても良かった』と言いたげに聞こえる。
「好きだったんでしょ? 奥さんのこと」
いまひとつ、瀧蔵の想いが伝わってこない。
「……嫌いだったら付き合わないだろうな」
照れ隠しなのだろうか…沙織には瀧蔵が結婚に積極的だったように聞こえなかった。
なんとなく瀧蔵の返事に引っかかりを感じながら、
「…なんてプロポーズしたの?」
沙織が尋ねると、瀧蔵はめんどくさそうに答えた。
「結婚したいって、言われたんです」
沙織の追求に疲れてきたのか、わざとかしこまった口調で答えた。
「奥さんから?」
「そうです」
澄ました感じで答えた。沙織は思わず黙り込んだ。すると瀧蔵が
「まぁ、だからね……俺も他に付き合ってる人はいなかったし、向こうからそう言われたら断る理由はないだろう」
「…」
「俺はセクハラで訴えられたくないしね」
瀧蔵は冗談めかして笑いながら言った。
「…そう」
なんとなく言葉を失ってる沙織に
「沙織は仕事が楽しそうだったけど、奥さんは仕事を辞めたくてしょうがなかったんだよ。でも、うちの会社はオヤジの代から勤めてくれている人が多いから、平均年齢高くて、社内にちょうどいい人がいなかったんだろうな。そこへ若い社長が現れたので嬉しかったみたいだよ」
笑いながら説明した。
「ふーん…」
「相手から好きって言われて、俺も他に付き合ってる人もいなかった。で、付き合い出して…その彼女は会社の人で、彼女のほうから結婚したい、って言われたら、断る理由はないだろ」
瀧蔵は沙織を諭すように言った。
沙織は何を言ったらいいのか分からない。長い沈黙の後
「でも、嫌いだったら付き合わないでしょ?」
沙織が訊くと
「…選り好みしてもしょうがないよ。好き嫌いというより、俺だって1人じゃ不便だし…まぁ、そういう、いろいろなタイミングが合ったんだろうな」
瀧蔵は結論づけた。また『しょうがない』と言う…沙織は思った。香子のときも『しょうがなかった』と言っていた、と沙織は当時の事を思い出していた。
「…私が結婚したいって言ったら結婚した?」
沙織は沈黙の後、訊いてみた。
「したよ」
「しょうがないから?」
沙織の問いかけに笑いながら
「沙織はこういう話好きだよな…」
困ったように呟くと
「俺は沙織に結婚しようって言おうとした事あったんだよ」
口ごもるように告白した。気付かなかった、思わず
「いつ?」
「………忘れたよ。昔の事だ。そうやって、いつ?とか訊いてるから別れる事になるんだよな…」
瀧蔵はぼやいた。『だったら言ってよ』と沙織はカチンとしながら訊いた。
「…あなた、ポリシーってないの?」
「なんの?」
「結婚してって言われたから結婚したって言うけど、女なら誰でもいいの?」
沙織は瀧蔵のあなた任せ的な受け答えが気に入らない。
「ポリシーね…もちろん、嫌いなら付き合わないよ。でも、…『こういう女性でなければ絶対結婚はしない』という頑な理想はないな。…沙織みたいに昔付き合ってて…沙織なんてうちの奥さんよりも長く付き合っててお互いの家にもあれほど行き来してたのに、結局別れてしまって…そういう人が、何年か経って、何か困って俺を頼ってきたら、出来る事はしてあげようというポリシーはあるよ」
瀧蔵は、神妙な口調で答えると更に続けた。
「それに、女の人と違って、俺には今の会社をどう運営していくかのほうが重要なんだ。無理をしたのか贅沢したのか知らないけど、先代の負債が多くて、それを解消する事の方が大事なんだ」
瀧蔵はキッパリと言った。それまでの優柔不断な受け答えと違い、真面目な口調で仕事の話をする瀧蔵の声を久しぶりに聞くと、沙織は惚れ直しそうになった。
ふと、香子の事を思い出した。そうだ…いつ別れたのだろう…そう思ったが、今日はこれ以上訊くのはやめよう、沙織は思った。
「また、話せる?」
沙織は瀧蔵に甘えたように訊いた。
「……こんな話でよければね……」
瀧蔵は、沙織が泣いていた事に気付いていないはずだ。けれど、その声は暖かく、まるで慰めるようだった。
時計を見てそろそろ切ろうと沙織は思うが、瀧蔵は自分からは電話を切ろうとしない。
きっと、沙織が先に切るのを待ってるのだろう。
「またね」
沙織が言うと
「ああ、また」
瀧蔵は優しい声で応えた。そんな優しさに後ろ髪を引かれながら電話を切ると、話している間堪えていた涙がとめどなく溢れてきた。何がそんなに悲しいのか自分でも分からない。
こんな時、昔の瀧蔵なら抱きしめてくれただろう…そう思うと、今の瀧蔵はとても遠くに感じられた。瀧蔵が優しいだけにそんな現実が辛いのかもしれない。こんな電話では物足りない…沙織は苦しかった。昔のように逢えない事が沙織の心をえぐるようだ。
話すほどに深まる渇望感を抑える術はなく、声をあげて泣き続けた。