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祈り ―華やかな傘に守られ―  作者: 小路雪生
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第二十二回

 根気よく話し合いを行った結果、葛西の言い分が一方的である事はなんとか理解して貰えたようだった。葛西の思惑通りにならなかった事で、葛西はきっと悔しかった事だろうと沙織は思う。

 こうして辞めさせられずに済んだものの、沙織の異動先は同店内の売場だった。


 研修以来、催時以外で売場に立つ事の無かった沙織にとっては新たな試練となった。

 最初に配置されたのが、クレームの多い贈答品売場だ。各ブランドのギフトのみをまとめたコーナーを住宅関連売場に設けていたが、そこはフロアマネージャー加藤の息もかかっており、かつて沙織に袖にされた加藤は守屋と近い意見だったようで、この頃の沙織にはとにかく厳しく、マネキンもくせ者揃いだった。

 その後、沙織は子供服などへの異動を命じられたが、いずれの売場も何かと問題のある自社の社員や契約社員、マネキン、パートらが揃っており、社内でも屈指の悪名高い所ばかりを研修生さながらの様相で一、二ケ月ごとに異動させられた。

 当初から売場希望ではなかった事や、人間関係が難しい評判の悪い平場などへ肩書きはそのままで配属されたせいか、周囲からは煙たがられ、沙織は悩みどおしだった。

 ようやく一カ所の売場に慣れた頃に異動を言い渡される事態が繰り返され、沙織はこの頃ストレスから体重が激減してしまった。 

 こうして店内を晒し者のように盥回しにされる扱いに沙織は我慢出来なくなった。会社へ待遇の改善を申し入れたが、本来、転勤を拒めば退職が一般的と考えられていた社風だった事から、店内での見せしめのような扱いが見直される可能性は無く、場合によっては四国あたりに左遷させられるという話までまで匂わされた。

 売場のまま地方へ転勤となった場合、沙織が元職に復帰出来るのはいつになるか見当もつかない。一生そのまま、というか可能性だってあるだろう。

 このままでは葛西の仕掛けた罠に屈した事になってしまう。考えた末、最後の賭けに出ることにした。

 これまで伏せてあった葛西との一件を労働組合に訴え出る、というものだ。これは非常に危険な事だと沙織は思った。出来るならば穏便に済ませたいと耐えてきたが、会社側は沙織が非を被る事で事態は収束したと思っていたし、気に入らなければ辞めろ、と言わんばかりの措置だった。今のうちに思い切った手を打たなければ生き残る道は残されていなと判断したのだ。退職覚悟で反旗を翻した方が僅かではあるが可能性があるかもしれない。おとなしくしていればクビは繋がっていたが、それは沙織が希望した職種ではなかったし、売場勤務ならば丸藤に拘る理由はない。

 いずれにしても沙織が加害者扱いされている事実に変わりが無い以上、これ以上辛抱しても改善される見込みはなく、この状況に甘んじていても再起の可能性は低かった。ここは真実を話してみよう…半年近く考え抜いた沙織は遂に行動に出た。


 学生時代の友人に相談すると

「辞めないまま訴えたほうがいいよ。辞めてからだと絶対に戻れないし、とにかく、勤務は続けた方が良い」

 そうアドバイスをされた。

 沙織は売場へ勤務を続けたまま有給休暇を願い出て、労働組合に相談を持ちかけた。

「あなたの話を伺う限りでは、これは上司のセクハラによる会社ぐるみの退職強要になりますね。まず、経緯を書面にして下さい。あなたの訴えが客観的第三者が見ても理解出来るように内容をまとめて下さい」

 指示を出された。

 沙織は、ここまでの流れを時系列で書面にすると、葛西に誘われた日のスケジュールや仕事の状況などの過去のデータと共に提出した。

「あなたが希望されている元職への復帰については、ひょっとしたら認められないかもしれません。その場合、他の方法で決着をつけなければなりませんので、第二、第三くらいまでの希望をおっしゃって下さい」

 沙織は

「第二、第三なんてありません。とにかく、元の業務に戻してほしいんです」

その事だけが目的だった。それは、葛西を飛ばす、という意味も含んでいたからだ。

「お気持ちはわかります。しかし、相手のある事です。必ずしも全面的にこちらの言い分が通るわけではありません。このケースは、明らかにセクハラによる退職強要で、あなたから辞めるよう仕向けてるのです。しかし、世の中にはもっと悲惨なケースもあるんです」

 興味を感じた沙織が尋ねた。

「例えば?」

「あなたのように居づらくなるのを避けようと、上司の言うままになって何年も付き合った挙げ句、中絶したりして最終的に捨てられる、などです。この場合はもっと沢山の物的な証拠もありますから、こちらの言い分が全面的に認められる事もあります。ただ、今回の場合は、あなたはホテルへついて行かなかった。証言者もいません。相手の論理の矛盾点をついていくしか無いのです。幸い、大きな被害もない為に、会社がこのまま逃げ切る可能性は大きい。ですから、あなたの希望が通りにくいと思っていて下さい。しかし、これは立派なセクハラですし、退職強要である事には違いありません。ですから、出来る限りの事は致しますが、大きな期待はなさらないで下さい」

 釘を刺された沙織は、今ひとつすっきりしなかった。

「でも、それでは、葛西さんはまたどこかで同じ手口で部下の女性を食いものにするのではないでしょうか。こういう思いをさせられているのは、私だけではないと思います」

 沙織は堀田を思い出していた。

 他人事ではあるが、葛西のこの度のやり方を沙織自身が知り、葛西は今までにもこうして部下の女性をターゲットにしてきたのではないか、そのように感じたのだ。上司の権力を嵩にきては部下の女性を誘い、飽きて要らなくなると辞めさせて口を封じる…葛西のやり方は手慣れていた。とても初めてとは思えない。

 堀田の沙織への嫉妬心には閉口させられたが、恐らく、独り身の堀田は生活の為に葛西に冷遇されても耐えているに違いない、そうも感じていた。

 ここまでくると、これは沙織一人の問題ではなく、社会的な責任を担う企業として社内で自浄作用を作らない限り、また必ず同じ問題が起きるだろうと思った。もし、退職しなければならないなら、沙織は管理職の端くれとしてこれが最後の仕事だと思っていた。このような事が二度と起きない土壌を作り、残った人に託したいと思ったのだ。

「あなたのおっしゃるように、訴える方が増えれば男性の管理職ももう少し気をつけるようになるのでしょうが、やはり多くの場合は女性が泣き寝入りして終ってしまうものです。ですから、こうして団体交渉を通じて、そのような訴えかけされていくというのは、企業にも良い経験になると思いますよ」

 沙織は励まされた。


 この時の沙織は、心のどこかで退職も止むなしと覚悟を決めていた。

 望まない職場へ配置され、何十年も仕えるくらいなら、まだ若い今のうちに方向転換をしたほうが将来が開けてくるのではないか、そう考えていた。

 葛西のように己の欲の為に他を踏みつぶし、気に入らなければどんな嘘をついてでも思い通りにしようという独善性と、それを見過ごす企業の体質に楔を打ってやりたかった。それが出来るのは、今は自分しかいない、沙織はそう思っていた。

 葛西がこれ以上出世していくのは許せないと感じた沙織は、この時自らの肉を切っても相手の骨を絶とうとまでの決意で臨んでいたのだった。

 こうして団体交渉の手続きに入った沙織だったが、交渉が終るまでは丸藤側の人間との接触は禁止された。互いの情報が洩れないようにする為だ。この間、沙織は労働組合と足並みを揃えて対丸藤で抗戦しなければならなかった。


 自分は若かったのだろうと、瀧蔵と話しながら沙織は思った。とても、今の自分にはこんなエネルギーはないと、しみじみ思う。

 瀧蔵は時々

「その葛西って、無茶苦茶だな」

 呆れたように相槌を打ちながら沙織の話を聞いていた。


 半年近く続いた団体交渉では、沙織の証言通りの日付で葛西が利用したビジネスホテルの領収書が見つかった。

 この事で沙織の証言は裏付けられた。しかし、当初労組から言われたようにセクシャルハラスメントとしての被害が最小限であった事などから会社は示談を提示してきた。その示談金は僅かなものだった。

「辻さんが納得いかないお気持ちは理解できますが、今回の件では示談になるだけでも善しとして、後は休職するという条件で決着をつけたほうがいいと思います。とりあえず、休職中は生活も保障されますし、休職された後、丸藤に戻るならば辻さんの職場は用意するとの事です。ただし、示談された場合、今後この件については一切異論を申し立てないという条件はつきますが」

 沙織は、他にも闘える手段があるのかを知りたかった。

「示談しないとどうなるんですか?」

「裁判ですね」

 裁判と聞くとさすがに二の足を踏んでしまう。裁判には費用も時間もかかる上、必ずしもこちらの言い分が全面的に通る訳ではない。仮に裁判で勝ったとしても、何年先になるか分からない。その事に使う労力を考えれば、会社側の回答に納得した訳ではなかったが、丸藤の和解案を受け入れるのが妥当と思われた。労組の言うように幸い被害は少なかった。休職後は職場も用意するとの話だ。元職でない限り、復職するか否かはその時点では分からなかったが、転職するにしても休職出来るなら七割程度でも給料は支給されるのだ。その間に次の再就職先を見つける事も出来るだろう…こうして沙織は示談に応じることにした。この頃の沙織は既に体調の不良を感じていた事もあり、団交を悪戯に長引かせるだけの余力もなかった。


 この団体交渉の最後に、本部の人事部長から

「あなたを よくやったと 褒めてる方がいますよ」

 そう言われた。

 名前は聞かなかった。が、後に沙織が復職を打診した際、本社勤務を命じられた頃、本社事業本部には横浜で紳士のセールスマネージャーだった谷本が栄転しており、他に同じく横浜時代の店長が転勤していた。

 沙織の本社勤務と関係があるのか分からないが、団交と言う大それた事やってのけた沙織に対し、そんな褒め言葉を言ってくれるとしたらこの二人のうちのどちらかではないだろうか、と沙織は人事部長の話を聞いた時に思った。

 沙織が退社してからの丸藤は表向きには今まで変わりない。が、葛西は名古屋、守屋は札幌、堀田は退社と、その他の人員も含めて、沙織が長年勤めた横浜の人事は総入れ替えといっても過言ではない程の配置転換がなされていた。


 このあたりの事情をかいつまんで瀧蔵に話すと、交際当時、葛西や堀田の事を何度か話していたせいかその名前に聞き覚えがあったようだった。

「…ひどい話だな」

 沙織の話をここまで聞いた瀧蔵は、不機嫌な声でため息まじりに呟いた。

「多勢に無勢ですもんね…きつかったわ…」

 最後の力を振り絞って闘った沙織はこの後酒量のコントロールが利かなくなるのだが、仕事を失った喪失感を埋めようと、酒に頼ってしまったように思う。

「まぁ、でも、辞めさせられなくてよかったよ」

 瀧蔵はそんな感想をもらしたが、沙織も同感だった。

「ほんとね」

「守屋ってマネージャーから…糾弾されたの?」

 瀧蔵は納得出来ないような口調だった。

「そうよ。団交の時、本社がマーネジャー以上の人達に聞き取り調査したらしいんだけど、私への悪口が凄かったって」

「そうか…」

 瀧蔵は低い声で呟くと黙り込んでしまった。

 この時の沙織は、瀧蔵との別れの決定打となった告白をすっかり忘れていた。

「守屋さん、最悪」

 そんな沙織が憎々しげに呟くと

「………」

 瀧蔵は黙り込んだまま何も言おうとしない。

「で、今、働いてるの?」

 話題を変えるように明るい声で瀧蔵が訊いた。

「ううん。医者から今は働かないように言われてる」

「どこが悪いの」

「……肝臓」

 沙織はアルコールの事は知られたくなかった。口ごもるように答えると

「持病があった?」

 健康そのものだった事を知っている瀧蔵は不思議そうに尋ねた。

「ううん、…多分、過労」

「過労、か…」

 イマイチ腑に落ちない様子だったが、沙織も今はそれ以上言いにくく、積極的に答えようとしなかった。

「辞めた後、それまで忙しくて体を酷使していたから、すっかり弱っちゃてて」

 言い訳のように付け足すと

「入院は?」

「お医者には勧められたんだけど、イヤで…だから、自宅療養中」

 そこまで聞いた瀧蔵は

「大変だったな」

 沙織を気遣った。

「毎日家で何やってるの?」

「何も…掃除したり、洗濯したり…主婦みたいな生活よ」

 沙織が笑いながら言った。

「あなたは…お父様亡くなってから、どうしたの?」

「…うん?……連絡来た時にはもうオヤジが危篤で、急だったんだよ。そのまま俺がやるのが一番いいだろうと、周りに説得されてね…」

 最後は口ごもるような口調になった。当時を思い出したのか、その声はやや沈んでおり、瀧蔵の背負った責任の重さを物語るようだった。

「そうだったの。あなたも大変だったわね。今は、どう?」

「……まぁ、どうにかね。俺の話はいいよ」

 瀧蔵は自分の話に言及したくないようだ。沙織は思わず時計を見た。思いがけず長話になっており、夜中の十二時を回っていた。

「ごめんなさい、こんな時間まで。一人で話しちゃった」

 驚いた沙織が慌てて詫びた。

「いいよ」

「…また、話せる?」

 沙織は、おずおずと尋ねた。

「……」

 長い沈黙の後、

「…まぁ…毎日一人でつまらないんだろ? 聞くぐらいならね」

 瀧蔵は考え込んでから、ぼそぼそと答えた。

「ほんと?」

 嬉しいが、瀧蔵はそれでいいのだろうか。沙織は心配になった。

「ああ。たまにだけど」

 瀧蔵は淡々と言う。

「…でも」

 迷いながら、そんな瀧蔵を試すように声を掛けた。

「なに?」

「私、今無職だから、長距離って架けられないの…」

 働いておらず、失業保険の支給も既に無い。

「…いいよ、架けてあげるよ」

 瀧蔵は声を出さずに笑いながら言った。

 沙織は言った後、自分でも図々しいと思った。が、携帯にも会社にも沙織から架けられないなら瀧蔵から架けてもらうよりない。具体的な日時はともかく、次の約束をしたかった沙織は瀧蔵のその返事を聞き安心した。

 そんな瀧蔵と話していると、まるで昨日別れたような錯覚を覚えた。瀧蔵が結婚してしまったとはどうも実感が湧かない。昔と変わりない優しさに沙織はふと、怖くなった。このままでは増々離れらなくなりそうだと感じ、今後の瀧蔵との関係がどうなってしまうのか…新たな不安が生まれていた。

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