第二十一回
翌日はセールの初日だった。沙織は準備の為にいつもより一時間早く出勤したが、その前の晩、葛西からホテルへ誘われた事などすっかり忘れていた。沙織が会社へ着くと既に出社していた葛西に向かっていつもどおりに
「おはようございまーす」
挨拶をしながら入ると
「お前はさっさと準備しろ!!!」
葛西はいきなり怒鳴りつけた。
沙織は驚きながらも『今日は珍しく機嫌が悪い』と思う程度で、さほど気にも留めていなかった。
ところが、その日は夜になっても葛西の機嫌が直らなかったのだ。
「今、売場見て来たんですけど…」
沙織が声をかけても無視して通り過ぎてしまう。年内のスケージュルを作成して渡しても見ようともせず、仕事の話をしても聞こうとしない。とにかく取りつくしまがない上に、そんな葛西の様子を見たのは初めてだった。最初は機嫌が悪いだけ、と思っていた沙織だったが、その様子が連日となるとさすがに気のせい、や、今日は不機嫌、では済まされないと感じるようになった。
沙織に思い当たる事といえば、セール前夜の葛西の「ホテル取ってあるんだぜ」くらいだ。それまでは何も変わった様子はなかったのだ。どうやらその一言は世間話などではなく、誘い文句だったのだと沙織は思い至った。
万が一、拒んだと思われては角が立つ…あの晩沙織はそう思い、ホテルへ向かおうとする葛西を刺激しないよう、いつもと同じ様子で別れたつもりだった。
その翌日には沙織はその言葉をすっかり忘れていた事から、葛西がその晩自らが言った言葉を取り立てて気にしていなければ「あれは勘違いだった」と、沙織も忘れてしまうような些細な出来事だったはずだ。
しかし、その晩の発言に葛西は負い目を感じたのだろうか。それが誘い文句であったなら、葛西から見ればフラれた格好になった訳で、その夜の出来事は相当に不快だったと考えられる。
以降、沙織はアシスタントマネージャーでありながら、葛西からは業務についての指示も連絡も貰えず、その日を境に掌を返したように沙織に辛く当り出したのだ。
そんな葛西が次に目をつけたのが、入社二年目の新入社員である女性社員の井上だ。葛西は突然井上を可愛がり出し、それはまるで沙織への当てつけのようだった。葛西直々の指導で営業促進部内の業務に井上を起用していくと、沙織に鼻もかけなくなっていき、その葛西の変わりように沙織は戸惑うのだった。
入社して六年目、これまで何事においても「辻」と重宝がられ、目をかけらてきただけに、セール前夜の葛西からのたった一言で、ここまで極端に冷遇さてしまうと、沙織は怒りよりも呆気にとられるという感じだった。
この二年以上、連休も取らず働きずめだった沙織は、疲れがピークに達してた。
この頃、朝の目覚めが悪く、毎晩飲む寝酒も不味い。体が重く怠い。通勤をしんどく感じる日が続いていた。
この際、思い切ってまとまった休みを取ろう…沙織は思った。冷却期間を置けば葛西の様子も元に戻るかもしれない。 そうでなくても、これで婦人の守屋から解放される可能性もある。いっその事、葛西と井上の信頼関係が強化されれば沙織も気兼ねなく仕事が出来る…沙織はそんな風に考えた。幸い、年内のセールは既に全て決まっており、セール前が忙しい販促業務は、一度セールが始まってしまえば後は人任せでも事は足りる。
高橋に一週間の休暇を願い出たのは、葛西の露骨な嫌がらせが数日間続いた後だった。気に病んでも仕方ない。しばらく離れ、後輩スタッフを葛西にあてがってしまえ、という気持ちもあった。
休暇が明けて以降も同じ状況が続くようなら、その時改めて考えよう…沙織はそう思っていた。
ところが、問題はその後だった。
有給と冬休みを組み合わせた一週間余りという、やや長めの休みを取った後、その休み明けに沙織が出勤すると、何故か沙織が丸藤を退社する事なっていた。
沙織を見た途端、営業事務室内の空気が変わったのだ。沙織が不思議に思っていると
「…辻、今日出勤か? …辞めるんじゃないのか?」
販売促進課マネージャー高橋に声をかけられた。沙織は高橋の言葉の意味が理解出来ずに
「え? 辞めませんよ。なんですか、出し抜けに」
訊いてみると、沙織が休暇に入った翌日、葛西から
「辻から連絡があって、このまま退職したいそうだ、手続きに入ってくれ」
そう言われたとの事だった。
「私、そんな事言ってません!」
驚いて否定をしたが、既にこの話は事業本部にも届いているという。
沙織は慌ててデマである事を強調したが、店の人事などは既に沙織が辞める方向で動いていた。
本人不在でそんな事があり得るのか、と沙織はその事が引っかかるが、周囲は入社当時から沙織を葛西の秘蔵っ子と見ていたらしく、沙織と葛西はツーカーと思い込んでいた。その葛西が尤もらしく言うのだからそうに違いない、という見解だったらしい。いかなる理由があろうとも、本人になんの確認も取らないまま退職の手続きに入る会社側もいかがなものか。臨時雇用ならいざ知らず、仮にも管理職だ。
沙織は、自分の知らないところで進退が決められるのは余りに理不尽だと思った。
事の経緯を知ろうと高橋に更に尋ねると
「…辻が葛西さんに…フラれて傷心のあまり休暇を願い出た。そのまま辞めさせて頂きたいと、葛西さんに直々に連絡が入った。意思も固かったので受理した…って。やはり同じ職場で働くのは辛い。このまま辞めさせてほしい。出来れば今後出勤したくないので退職の手続きをお願いしたい、と、言われた、と、葛西さんは言ってたな」
高橋は言いにくそうに沙織に告げた。
「何言ってるんですか、高橋さん、あり得ませんよ、そんな事! それ、信じたんですか?」
沙織は、唖然とした。そんな子ども騙しを鵜呑みにするのか…呆れて二の句が告げない。
高橋の要約した話だけでは余りに陳腐な話だったが、どうやら部長になった腹黒い葛西が口八丁手八丁で嘘を並べたようだ。それを誰も疑わなかったという事に沙織はまたも愕然とする。
葛西は
「自分は女性社員をそのような目で見た事もなく、辻の好意は受け入れらない」
そんな事を深刻な思い詰めた顔で言い、自分としても辻が辞めたいならばそのほうがいいと思う、と周囲に語ったと言う。
根も葉もない話に沙織は卒倒しそうだった。早速葛西に真偽を確かめねば、と沙織が葛西の館内ピッチへ連絡をしようとした時だった。沙織が出勤したと知った店の人事マネージャーが現れ
「辻さん、これ退職の書類ですから。目を通して記入して下さい。なるべく早く出して下さい」
書類一式を差し出した。
「なんですか。これ…」
沙織は言葉を失った。
「辞めるって聞いたので…はい」
書類一式を沙織に突き出した。
「私、辞めるなんて言ってません。こんなもの、受け取るわけにはいきません」
「…いや…でも…一応、葛西さんからそのように言われたんで」
書類を引っ込めようとしない。沙織は人事マネージャーの目を睨みつけると
「受け取れません。辞めるつもりはありません! どうぞ、お持ち帰り下さい」
沙織は頑として受けとろうとしない。
「……まぁ…とにかく、私はそう聞いてますから…」
やや戸惑いを見せつつも書類を沙織が受け取るよう、更に突き出す。
「持って帰って下さい! 私にはこんなもの必要ありませんから!」
しばしの間押し問答が続いたが、人事マネージャーもしぶとく、なかなか引き下がらない。やむなく沙織はそれを受け取りながら
「私は辞めません。葛西さんに事情を訊いてみます。この書類は出しません」
そう言って受け取った。
人事マネージャーは
「私は葛西さんから訊いた事を行ってるだけですので」
そう言うと、事務所に姿を消した。
「高橋さん、これはどういう事なんですか…」
高橋も当惑気味で
「…葛西さんが言った事だから…」
それだけを言い訳のように言うと口ごもってしまった。
このままではラチが開かない…沙織は居ても立ってもいられずに席を立つと、直々に話そうと、葛西を売場へ探しに行った。
沙織は血相を変えて営業事務室を出ると、バックヤードのエレベーターのボタンを押しながら
『なんて事になったの…』突然落とし穴に落ちたような気分で、理解が出来なかった。
沙織はこれまで1度たりとも丸藤を辞めようと思った事は無く、久しぶりの休暇中も仕事の事ばかり考えていた。お土産片手に出勤し、葛西の機嫌を伺おうと来てみればこの有様だ…晴天の霹靂とはまさにこの事だった。
全く身に覚えの無い話を沙織が言った事になっていて、しかも、周りはそれを信じ込んでいた。あまりの事態に沙織はうろたえながらも、噂を流布した本人に問い正せねば、と必死な思いでエレベーターを待っていた。そこへ扉が開き、葛西が現れた。沙織を見ると一瞬目を丸くしたが、そのまま無視して通り過ぎようとした。
「葛西さん、どういうことなんですか? 説明して下さい」
沙織が逃げようとする葛西に詰め寄った。
「何の事だよ」
太々しい表情で言うと沙織を振り切るように早足になった。
「待って下さい!! 私は辞めるつもりなんてありません!! いい加減な事言わないで下さい!!」
廊下の一番奥にある営業事務室へ逃げようとする葛西に、沙織は辺り一面響き渡るような大声で言った。
顔色を変えた葛西は沙織を一瞥すると、目の前の商談室へ沙織の腕を掴んで連れ込んだ。
「俺はお前が辞めると言ってしまったんだ。今更お前が辞めないなんて俺は言えない。俺の立場はどうなる! お前は辞めろ! クビだ!」
沙織を怒鳴りつけた。
「何言ってるんですか? あなたにそんな権限はありません! 勝手なこと言わないで下さい!」
沙織が言い返すと
「うるさい! 俺に逆らうのか? お前は辞めるんだよ! そういう話になってる! 辞めろ! 辞めろ!! 分かったな!」
一方的に沙織を怒鳴りつけ威圧すると沙織の言い分を聞かずに外へ出た。
「辞めませんよ! 絶対に!!」
沙織は営業事務室の店長にまで聞こえる声で、葛西の背に向かって宣言した。
しかし沙織は、店と本部の双方の人事から進退を翻したとして非難され、事の真偽について追求をされる事となった。辞める気持ちの無かった沙織は葛西のホテルの件は伏せた。後になると、この時話せば良かったと後悔したものの「ホテルに行こう」と具体的に誘われたのではなかったし、証人もいない。下手な事を言えば、「辻はいい加減な事を言っている」と一笑に付され、更に働きにくくなりかねない、とこの時の沙織は判断したのだ。
「何かいき違いがあったに違いありません。全て誤解なんです」
とにかく辞める気がない事と、葛西の言ってる事は事実無根である事を訴えたが、結論が出るまでは自宅謹慎との扱いを受けた上、連日の話し合いは二週間にも及んだ。
が、最終的には事態を収拾する為に、沙織が騒動を起こしたとして店内での異動を命じられる形での決着が図られた。沙織は自分が責任を取るのは不服とし、営業促進部へ戻れるよう申し入れたが、葛西が陣頭指揮をとる部署には戻せないとの回答だった。
葛西を据えた店長は、その間、いつも俯き加減で沙織を見ようともしなかった。基本的に店長は中立だった。
葛西を営業促進部長に任命するよう本部に働きかけたのも、守屋一派と沙織の険悪な雰囲気を緩和するのが目的だったのだろう。この頃、沙織は守屋からの風当たりが強く、守屋は他の売場を巻き込んで沙織に敵対するようになっていた。葛西を据えればこの事態も収まると判断したからに違いない。葛西に白羽の矢を立てた店長は、葛西の勝手な思い込みによる暴走と女癖の悪さがこのような結果をもたらすとは予測していなかった事だろう。
沙織の最初の危惧は的中したのだった。
店長は、沙織を見かけると体を小さくしていた。立場上、どちらの味方も出来ず、苦悩していたに違いないと、沙織は感じていた。