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祈り ―華やかな傘に守られ―  作者: 小路雪生
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第二回

 沙織は、自宅近くの駅で九時過ぎに電車を降りると、駅ビル一階のスーパーで買い物を済ませた。駅から自宅マンション迄は自転車で五分とかからない。六階の自室に入ると蹴るように靴を脱ぎ、缶ビールのリングプルを引きちぎるように開けた。一気に流し込むと五臓六腑に染み渡る。

「はぁー…」

 深いため息をつきながらベッドに座り込んだ。最近は350mlを一缶飲みきる事が出来ない。このごろ、ビールを美味しいと感じなくなっていて、まるで体が悲鳴を上げているようだった。

携帯を見るが、瀧蔵からは今日もメールが来ない。帰宅して真っ先にPCを立ち上げるのが習慣になっているが、こちらにもメールは届いていなかった。

「…まぁ、いつもの事よね。今更がっかりもしないけど…」

 独り言を呟きながらカーテンを開けると、目の下に街の灯が広がっていた。

 沙織は長崎で観た夜景を思い出していた。


「長崎って夜景が綺麗ね。山の頂きに向かって家が点在してるのね。裏山が大きなクリスマスツリーみたいに見えるわ」

 ホテルの一室から瀧蔵にメールを送ってみたが、返事はなかった。

 こうして一人でいると、その時の寂しさを思い出してしまうのだった。

 この部屋から見える夜景は長崎のそれとは違う。平野の為、家々や車の灯が無造作に散らばって見えるだけだ。  

 何故、こんな風になってしまったのだろうか…沙織はやるせない思いで窓の外を見つめていた。




 四年前の事だった。

 今夜のように部屋で飲んでいると携帯電話が鳴った。里美からだった。少し疲れを感じながら出ると

「さおちゃん? 元気?」

 のんびりした声が聞こえて来た。

 沙織はその一年半前、葛西という直属の上司からのセクハラにあい、退職強要されるという異常事態の渦中にあった。会社側と話し合いを重ねた結果、辛うじて会社に残る事は出来た。が、葛西と人事が口裏合わせでもしたのか、一〜二ケ月ごとにそれまでとは畑違いの部署への異動を言い渡されるという有様だった。その間に沙織は体を壊し、休職を余儀なくされた。その際、会社から暗に退職を促された沙織は、それまで伏せていた葛西の経緯も含め、元の職への復帰を求めて労働組合に訴え出た。しかし、芳しい結果はのぞめず、葛西の件では少額で示談せざるをえなかった上、そこまで揉めると会社に残っても冷遇されるのは明らかだった。一連の心労からか、はたまたそれまでの激務による反動からか、沙織の体調は悪化の一途を辿り、以前のように精力的に働けるか見通しが立たなくなってしまったのだ。また、このような経過の後会社に戻っても、以前のように店の販売戦略を担う課長代理として、店の中枢に戻る事は不可能だろう。沙織は、遠くない将来、自分が営業企画部のマネージャーになれると考えていたのだ。が、その営業促進部には既に沙織の席は無く、それ以外の職であれば今の会社にこだわる必要など無い。休職や団交という方法で何とか会社に籍を残す事はできたものの、同僚や先輩、後輩も、その一件が発覚してから沙織には距離を置くようになり、あんなにチヤホヤしていた連中が今では見向きもしなくなっていた。

 そんな中、時々探りの電話をかけてきたのが里美だ。里美は沙織の同期だった。短大卒で一つ歳上、同業他社からの転職組で、売場のスタッフだった。同じ会社でありながら、バックスタッフとして勤務していた沙織とは異なり、朝から晩まで来る日来る日も売場に立ち続けていた。物腰柔らかで、いつも沙織をたてている里美だった。

 二人が、入社六年目の時に葛西の一件が起こった。当初、会社に居にくくなるのを避ける為、沙織は葛西の事は一切口外せずにいたが、一ヶ月ごとに異動させられるている最中、精神的に追いつめられ、里美にだけ葛西とのいきさつを打ち明けたのだった。里美は朝まで泣き明かしてこれまでの経緯を話す沙織に

「さおちゃん、大変だったね…。…私も、前に似たような事があったんだよ」

 六年前の転職のいきさつを話してくれた。

「上司と恋愛みたいになちゃって…。でも、付き合い出したら相手が冷たくなって私の事ストーカーみたいに言うようになったの。売場の人が間に入ってくれて、一応会社には残ったんだけど、居づらくて…。で、丸藤に転職したんだ」

 沙織は初めて聞く話だった。

 そんな里美でさえ、出世コースから外れ、休職や団体交渉を通じてなんとか活路を拓こうとする沙織に対し、以前よりもよそよそしくなっていたのだった。


「谷本さん本社に栄転だって。さおちゃん、今、どうしてるの?」

 尋ねるその声は、沙織の心配というより、何か情報を聞き出そうとしている気配を感じた。

「体調はいかが?…。社内も随分人が入れ替わってね、私たちなんて食品に異動だって…」

 チーフとして服飾雑貨の売場を束ねていた里美がぼやいた。大手の百貨店だったが、業界再編の流れにのって、人事がめまぐるしく変わり、三十前後の女性社員は人員整理のターゲットになっていた。降格も珍しくなく、役職から外される男性社員や、肩書きの無い女性社員などは契約社員にさせられる人もいたほどで、ボーナスカットは当たり前、会社は倒産寸前の瀕死の状態だった。そんな中、上司を拒み疎んじられた結果、団交をした女子社員など戻れる場所はない。

「葛西さんはどうしてるの?」

 沙織をホテルに誘ったあげく、それに従わなかった腹いせからか人事課とつるみ沙織を一〜二ヶ月ごとに異動させた張本人について尋ねた。すると里美は、一瞬沈黙してから歯切れの悪い口調で

「ああ……。…名古屋に転勤したって聞いたけど…」

 言いにくそうに口ごもった。沙織は驚いて

「辞めたんじゃないの?」

 素っ頓狂な声で尋ねると

「…辞められないんじゃないかな…家族もいるし…」

 里美は、まるで葛西を気遣うような口調になった。内心沙織は腹立たしかった。じゃあ、独身女だったら何をしてもいいのか?  家族がいようがいまいが、働いて生活していかなければならない事情は同じだろう、と…沙織の憤りは留まるところを知らなかった。そんな男を沙織と年齢もほぼ同じ、似たような境遇の里美がかばうのが一層悔しい。

「葛西さんのことはもう解決したんでしょ?  それより、さおちゃん具合はどう? もし、まだ勤めを続ける気があるなら、なるべく早く復職した方がいいと思うよ」

 里美は淡々とした口調で言った。

 最近のニュースで沙織の会社、丸藤屋は、セゾンという若者層を中心に急速に売り上げを伸ばしている新進の百貨店と業務提携をする事になったと報じられていた。

「ここに至るまで、自主退社も含めてリストラもあったし、横浜も本当にやりにくくなったのよ。…経営陣がセゾン側から来るとか噂もあるし…提携後はどこまでうちの暖簾を守れるか、というので上(上層部)では結構揉めてるみたいよ」

 ニュースでは簡単に報じられている内容だったが、舞台裏では様々な折衝が繰り広げられているに違いなかった。表向きは業務提携でも、実際には競合他社との差別化を図る両社が不得意とする分野を補い合って生き残っていきましょう、という事だ。少しでも自社の勢力を拡大しようと、吸収合併するかされるかで競いあってるに違いない。

 そんな企業の内情など、今の沙織にはどこか他人事のように聞こえてしまうのだった。以前なら血相変えて出社するような一大事のはずだったが。

沙織は、この時既に休職して一年を越えていた。社内規定では、休職は一年半と定められており、沙織もその事が気がかりだった。だが、団交からは未だ七ヶ月しか経っておらず、葛西も転勤した事からようやくほとぼりが冷めたばかりなのではないか。しかも、この業務提携によって経営体制など、大幅に刷新される可能性もある。この社内規定が何処まで有効なのか、果たして、沙織が再起できる可能性はあるのか…その時の沙織にとっては死活問題だったが、考える事が億劫になっていた。

 黙り込む沙織をよそに里美は更に

「さおちゃん、生活どうしてるの?」

 訊いた。里美は友達だが、カツカツで大変よ、などと惨めな話はしたくなかった。

「まぁ、なんとかやってるわ」

 沙織は軽く受け流すと

「…エラいよね、さおちゃんは。私なんて実家だからいいけど、さおちゃんは一人暮らしじゃない。一応、休職中は保証されてるんだろうけど…。どうするの? これから…」

 最近、沙織が答えを出せずにいた事をスパッと訊いてきた。

「里ちゃんこそ、食品に行って何するの?」

 答えに詰まった沙織が切り返すと

「…うーん…スタッフに降格されてレジとかじゃないかな…。でも、それも今更、ね…もしかしたら、その後契約社員にさせられるかもしれないし…」

「えっ! 里ちゃんが?」

 沙織は絶句した。

 レジが良い悪いではない。それを束ねる人材以外はほとんどがバイトやパート等でまかなっているのが現状だ。そこへ入社七年になる中堅を配属し立て直すならともかく、後々契約社員にするなんてえげつない。あまりの待遇の悪さに沙織は言葉を失った。

「私みたいにいざこざしたならともかく、なんで里ちゃんが…」

 呆然としながら沙織が呟くと

「…まぁ。こんな感じよ、今の丸藤は。倒産だけは免れたくて必死なのよ。だから、さおちゃんも大変かなって、これからどうするのかな、って思ってさ…」

 里美は何かをふっきったように明るく言った。

「…なにも決まってないわ…。こんな状況で葛西さんが居残ってるっていうのが理解出来ないわね」

 沙織は呆れたように呟いた。

「こんな会社だからここまで売り上げが落ち込むのよ」

 悔し紛れに沙織が罵ると、里美は笑いながら

「まぁ、男性社員っていうのは、いざとなると結構会社が大目に見ちゃうからね。まだまだ男社会だから」

 里美はあっけらかんと言う。

「…だから、さおちゃんもさ、もっと巧く立ち回れば良かったのよ…」

 口ごもりながら低い声で里美は言った。これが里美の本音らしかった

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