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祈り ―華やかな傘に守られ―  作者: 小路雪生
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第十九回

 瀧蔵と久しぶりに話せた沙織は嬉々としていた。しかし、瀧蔵が新しい人生を歩み始めていると知り、予想していたとはいえ、やはりショックだった。その時、沙織は自分が何を期待していたのかを知った。

 仕事を失い健康を害したこの頃になって、沙織はようやく『独りでは生きられない』と思い知ったのだ。そうなった時、共に歩みたいと真っ先に想ったのは瀧蔵だったが、既に家庭を持っていたというのは皮肉な事だった。今になってムシがいいと分かっていながら、瀧蔵が別れた頃と同じ気持ちでいてくれる事を願っていたのかもしれない。

瀧蔵の現在の暮らしを聞いてしまうと、それまでのように単純に『逢いたい』と言えそうになかった。だからと言って、諦めきれそうにもない。

 そんなやり場のない想いを沙織は持て余していた。


「今日は突然にごめんなさい。話せて嬉しかったわ」


 電話を切った後、瀧蔵が教えてくれたアドレスに短い礼を書き送ったが、返信はなかった。そうなると、沙織もそれ以後はメールが送りにくくなってしまう。

 離れていた時間と距離を埋める事は難しい。沙織と瀧蔵を再び結びつける事は容易ではなさそうだと、沙織は改めて感じていた。

 瀧蔵との会話では、地元の女性と結婚したという事のようだが、一体、瀧蔵はいつ長崎へ戻ったのだろうか。四年の間に生まれ故郷へ帰り、妻となる女性と知り合い、結婚したのだろうか。それとも元同級生など、以前からの知り合いなのだろうか…興味はあるが、それ以上、訊けなかった沙織は、すんなり話せた喜びと同時に、事の顛末だけを知り、毎日気が抜けたような気分で過ごしていたのだ。



 気分を変えようと、久しぶりに里美に連絡をしてみると、里美は沙織の知らぬ間に出産していた。

「いつの間に?」

 沙織は自分の体調の事を里美に知らせたくなかった事もあり、辞表を提出した後は疎遠になっていた。そんな里美へ電話をしてみると

「先月だよぉ。もー、痛くてさぁ、お産。死ぬかと思ったよ」

 笑いながら話す里美の傍らには赤ん坊がいるらしく、むずがる声が聞こえていた。

 里美の彼は、就職後間もなく会社を辞めたいと漏らしていた。一緒に暮らし始めた途端、里美はそんな悩みを抱えていたがようだが、今は真面目に勤めているとの事だった。

 それを聞いた沙織は安心した。が、悩みを打ち明けられた当初は、大学出たての八歳も年下の男の子と結婚するから苦労するのだ、と思ったものだ。そう思っても口にする事ははばかられ、意見は控えた。沙織は他人の事をとやかく言える状況ではなかったし、元バイト君の人となりも知らない。沙織が偉そうな事を言えるはずもなく、ただ聞く事しか出来なかった。

 そんな里美は沙織より1つ年上で、なるべく早く子どもを産みたかったようだ。初産の苦しみを語りながらも、里美は幸せそうだった。

 こうなると沙織は増々、自分の事など話せない。

「最近、どう?  さおちゃんは」

 里美のそんな言葉にさえ

「まぁ、それなりに」

 沙織は曖昧に答える。

「仕事は? 決まったの?」

 こういう質問が一番困る…そう思いながら、

「…体壊して、ドクターストップがかかってるのよ」

 アルコールの問題は伏せた。里美は口は固いが、今や普通の専業主婦だ。

 木野由美子など、複数の退職組とも連絡を取り合ってる様子なので、迂闊に話そうものなら他に漏れる可能性がないとは言えない。どこでどんな繋がりがあるのか分からないこの世の中、わざわざ自分の恥部をさらす必要はない、と沙織は思う。

「どこが悪いの?」

 その途端、里美は声を潜めて心配そうな声色になった。

「…肝臓だって」

 内科の病名だけ告げると

「あ、お酒でしょ、さおちゃん」

 沙織はドキッとしながら

「かもしれないわね」

 言葉少なにぼやかした。

「さおちゃん…お酒は止めたほうが良いよ。ほどほどにしないと…」

 里美は心から心配しているようだった。

 沙織は礼を言うと、適当な返事を返し、電話を切った。



 沙織の人生計画は大幅に狂ってしまった。三十代半ばには結婚くらいし、こどもも一人くらいは産んでいるだろう…そう思っていたのだ。が、この時には新しい出会いすらない暮らしになっていた。出会いを探そうにもこの時の沙織はそんな悠長な事を考えているような状況ではない。

 女が三十路を過ぎてあてもなく暮らすのは何とも惨めだ。かといって、沙織はこんな形で挫折するとは思っていなかった訳で、間に合わせの相手で適当な結婚をする気など毛頭無かった事を考えると、葛西との件が沙織の人生に大きな影を作った事は明らかだった。

 こうなると最後に頼れるのは実家しかない、そんな気になるのだが、沙織はそれも気が進まなかった。

 葛西の事さえなければ…と、為す術もなかった当時の事が、沙織は返す返すも悔しかった。

 そんなやるせない思いを瀧蔵に分かってほしかったのだろうか。拠り所なく、先の見通しも立たない心地で過ごす毎日に疲れを覚えていた沙織は、昔のように瀧蔵に甘えたかったのかもしれない。

 当時は『もっといい出会いがあるかもしれない』と思えた。仕事をしていると、毎日は忙しく過ぎ去り、寂しさを感じる暇さえなかった。そうして過ごすうちに、また恋をするだろう、沙織はそう高を括っていたのだ。

 こんな事になるなんて…この当時の沙織には将来の展望さえ見えなかった。


 そんな気持ちから目を反らすように、沙織は、電話を架けてから十日あまり経った時期を見計らって、瀧蔵に再びメールを送ってみた。



「 あなたと別れてから随分経っているのに、急に、連絡してごめんなさいね。


 別れてから本当にいろんな事があり過ぎて、何から話せばいいのか分からないくらいです。

 あなたも同じみたいね。お互い、随分変わってしまって…。


 丸藤を辞めました。休職期間も含めると二年以上も前になります。

 その後、体を壊し現在は自宅療養の毎日です。お医者からは働く事も禁止されています。


 四年前、踏切で別れたのが最後でしたね。覚えてますか?

 あの時はごめんなさい。私、びっくりしちゃって…。

 あの頃は、自分がこんな風になるなんて思ってもいなかったわ。


 きっと、あの後、結婚したのね。おめでとうございます。驚いたけど、でも、当然よね。

 私はまだ独身ですけど…(笑)


 どんな四年間でしたか?

 あなたと話したいわ。よかったら、返事下さい。


 アドレス ××××××      TEL ×××-××-××  」



 沙織は瀧蔵からの返事を二週間待っていたが、メールは届かなかった。

 電話で話した時は不意打ちだったこともあり自然な雰囲気で話せたが、やはり、冷静になってしまうと沙織に応えるのは難しいと、感じているのかもしれない。

 以前のように返事をくれないのも、関係が変わってしまったという証拠なのだろう。そんなところにも歳月の流れを感じざるを得ない。沙織は、寂しい気持ちで滝貿易のホームページを開いた。すると、ホームページのデザインが以前見た時と変わっている事に気が付いた。よく見ると、新しくなった背景の色やデザインに、沙織は見覚えがあった。


 付き合っていた頃、瀧蔵の部屋のリビングのカーテンを新調する事になった。沙織は、明るいイメージにしたくて白とグリーンのグラデーションがプリントされた、爽やかな雰囲気のカーテンを選んだのだ。

 ホームページの背景色は、その時のカーテンと非常に似ており、当時を思い出させた。『そういえば、あのカーテン、どうしたのかしら…』そんな事を考えながら滝貿易のホームページを眺めていたが、瀧蔵がその事を覚えていてくれたのだと思うと、胸に迫るものがある。どんな形であれ、こうして応えてくれる男の心が嬉しかった。



「  ホームページ見ました。あのカーテン、覚えていてくれてのね、嬉しいわ。


 本当に時間が経つのは早いものですね。

 あなたと付き合っていた頃はこんな風になるなんて考えた事もなかったの。あなたとの事も、それ以外の事も全て、何も変わらずにずっと続いていくと思っていたのに…。


 でも、どんな命も人生も、終る時がくるんだなって、最近そう感じるようになったんです。なんとなく終わりが見えてきたというか…。そうしたら、無性にあなたに逢いたくなったの。訊きたい事も訊けないまま、言いたい事も言えないまま、何もかも中途半端なまま別れたような気がして…。あなたの迷惑を考えずに連絡してみたんです。


 結婚したと知って少し寂しいけど、だからといって私はあなたを嫌いになったりしないわ。

お願い、連絡を下さい  」



 そんな切ない気持ちが瀧蔵にどこまで届くのか沙織には分からなかった。

 が、書かずにはいられなかった。瀧蔵からの電話を待ってみたが、やはり電話もメールもこないまま、その日も暮れていった。さすがに、これ以上書くのはしつこい、沙織はそう思うと、他に方法はないものかと考えた。いっその事、もう一度会社に架けてみようか、それとも長崎へ会いに行こうか…諦めきれない沙織は思い悩んでいた。

 そんな鬱々とした気分で過ごしていると、夜になってから沙織の家の電話が鳴った。

 時計は十時を回っている。こんな時間に珍しい…そう思いながら、買い替えて間もない固定電話のディスプレイを見ると、九州の市外局番だった。沙織は『もしかしたら…』と慌てて受話器を取った。


「もしもし」

 その声を聞いた瞬間、嬉しさのあまり、言葉を失った。

「…はいっ…」

 なんとか答えるが、瀧蔵が架けてくれるとはにわかには信じられない。

「メール、読みました」

 その声は、少しぎこちない。

「……すみません、わざわざ…」

 沙織は胸が一杯になった。しかし、どうすれば離れていた時間を埋められるのか、沙織には分からなかった。

 二人とも押し黙ったまま長い沈黙が続き、沙織から

「びっくりしちゃって……嬉しいわ…電話くれて…」 

 礼を言うと、瀧蔵は静かな低い声で尋ねた。

「…辞めたの? 会社」

「うん」

 沙織が返事をすると、瀧蔵は何かを思い巡らすような声で相槌を打った。

「…そう…」

「……辞表出したのは去年なんだけど、一年半休職してたから、もう、二年以上…三年近く経つかしら…」

 沙織は、団体交渉の時期を思い出しながら答えた。

「そんなに…」

 瀧蔵は沙織が丸藤を辞めたと知り、かなり驚いてるようだった。

「……よくわかったね、ここ」

 先日、沙織が長崎へ連絡した事を改めて瀧蔵は尋ねた。

「先月、あなたのマンションに行ったの。引っ越したみたいだったし、携帯も繋がらなくて…会社も辞めたって聞いて。びっくりしてネットでちょっと検索してみたの。そしたら、あなたの名前が出てたから…」

 沙織は、事の経緯をかいつまんで話した。

「そっちへは、いつ?」

 躊躇いがちに瀧蔵へ尋ねると

「…うん…大分経つよ……丸四年かな」

 踏切の別れは四年前だった

「…最後に会った時の事、覚えてる?」

「…」

 瀧蔵は答えようとしない。

「あの時は、ごめんなさい…」

「…」

 沙織がそれとなく踏切の別れに触れても、瀧蔵は押し黙ったままだ。

「あの後?」

 仕方なく、沙織が長崎へ行った時期などを尋ねると

「…オヤジが亡くなったんだ、四年前の春に」

 瀧蔵は別れの出来事には触れずに答えた。四年前の春と言えば、まさに、踏切の別れの頃だ。沙織は、なんと答えればいいのか分からなかった。

「……何も知らなくて」

 その事が沙織には悲しかった。その頃、その事実を知っていたなら、何か出来たかもしれない…沙織は自分の間の悪さが悔しかった。しばしの沈黙が続いた。ひょっとしたら、あの時瀧蔵は長崎へ帰る事が決まっていたのかもしれない、沙織はそう思った。が、瀧蔵は、踏切での別れについて答えを避けている節がある。沙織もその事には触れぬよう、尋ねた。

「じゃあ、今の仕事になってから、そのくらい経つのかしら?」

「そうだね」

「…慣れた?…」

「…まぁ、今はなんとか」

 瀧蔵は淡々と答える。昔から、沙織が黙っていると何も言わないようなところがあった。

「…あなたが長崎に帰った頃かしらね…葛西さんってマネージャーがいたんだけど、その人からのセクハラとその後、退職強要で、もう大変…」

 沙織が冗談めかして言うと

「セクハラで退職強要?」

 このくだりに瀧蔵が強く反応した。

「…四年前の春、あなたのマンションの近くで偶然再会した頃、葛西さんが営業促進部の部長になったの。その後…」

 沙織は、踏切で別れた後の出来事を話し始めた。

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