第十八回
五年は長過ぎた…電話が繋がるのを待ちながら、沙織はため息をついた。
その瞬間
「滝貿易でございます」
年配の女性の声だった。その声を聞いた沙織はこのまま切ろうかと思った。社長になった瀧蔵を呼び出すなど社員の手前いかがなものか…と、沙織は瀧蔵を慮ったのだ。が、相手が沙織を知るはずはない。ここで切ったら却って今後、架けにくくなる気がした。逡巡する沙織が言葉を発せずにいると
「…滝貿易でございますが…」
五十代だろうか、年配の女性は何も言わない沙織に不審を感じたのか、探るような声で再度名乗った。
「恐れ入ります…」
その声を聞いた沙織は我に返るとやっと口を開いた。しっかりしなければ…そう自らを励まし呼吸を整えると、受話器の向こうから安堵したような声で
「はい」
相槌が返ってきた。
「瀧蔵さんは、いらしゃいますでしょうか」
恐る恐る尋ねたが、沙織は敢えて名乗らなかった。
「…社長でしょうか? …失礼ですが、どちら様でしょうか」
沙織は迷った。名乗っていいのだろうか…もし、瀧蔵の心が変わっていたら、名前を聞いて避けられるかもしれない… そう考えるとどうすれば良いのか瞬時に判断が出来ない。
はやる気持ちを抑えながら、何故か沙織は
「丸藤と申します」
そう名乗っていた。何故丸藤と名乗ったのか自分でも分からなかった。しかし、何故か「辻」と名乗ってはいけない気がした。丸藤とは取引がないのか電話口の女性は
「丸藤様ですね お待ち下さい」
淡々と応じ、電話を保留にした。どうやら本人が居るようだ。沙織の心拍数が一気に上がった。
『いいのだろか…いいのだろうか…今更…こんな電話架けても…』この数日間、逢いたい一心で瀧蔵を捜した。しかし、見つけたところで五年の歳月が隔てた二人を結ぶ事など出来るはずないと、思い込んでる節もあった。心のどこかで『今更会えるはずない』と感じていたのだ。それがこうして、電話とはいえ本人と対面出来るとなると、絵空事だった再会が現実感を伴ってきた。その時を前にして、沙織の頭はのぼせたようにぼんやりしていた。
「お電話替わりました。瀧蔵です」
懐かしい声を聞いた瞬間、全身の緊張が解けるのを感じた。
「ああ…」
思わずため息とも返答ともつかない声を漏らしていた。
瀧蔵が耳をそばたてているのを感じた。
「突然、すみません…瀧蔵、遼さんですか?」
沙織は慎重な口調で確かめた。
「…はい」
誰か分からず警戒しているのだろうか、瀧蔵は一瞬の間を置いてから低い声で答えた。
「…覚えてますか? 辻です」
沙織が躊躇いがちにゆっくりと丁寧に名乗ると、すぐに沙織と分からなかったのだろうか、しばし考えるような間があった。その後、今度は電話の向こうから、やはりため息とも相槌ともつかない驚きのこもった声が伝わってきた。
「ああ……はい」
瀧蔵はそのまま黙り込んでしまった。急な事で戸惑いを隠せないようだった。そんな瀧蔵の声を聞き、沙織は懐かしさが一気に込み上げてきた。
「…お元気ですか?」
用意していた言葉をすっかり忘れ、言葉を探しながら喜びの滲む声で尋ねた。
「はい。おかげさまで」
ようやく事態を飲み込んだのか、瀧蔵は屈託のない明るい声で答えた。その様子を聞いて沙織は安心した。沙織だと分かった瞬間、別れる直前のように電話を切られてしまうのではないか…そう危惧していただけに、嬉しさはひとしおだった。
沙織はそれまでの不安が吹き飛んで、つられるように明るい声になっていた。
「そんなところに居たのね」
やや弾むような声で言うと
「…いろいろあって…」
瀧蔵は少し、かしこまった声で応じた。沙織はその訳を知りたくて、思わず尋ねそうになりながら言葉を飲み込んだ。五年ぶりに話す相手に根掘り葉掘り訊くのは気がひけた。
「そう…急に、ごめんなさいね」
沙織は静かに相槌を打つと、踏切で別れてからの四年間、長いような短いような歳月の中で、互いの人生が大きく転換していたことを思った。しかし、声を聞くと当時の記憶が鮮やかに甦り、最後の別れから四年も経ったようには思えない。
そんな沙織の言葉に瀧蔵は答えず、耳を澄まし、沙織の声に聴き入ってるのが分かった。
「懐かしいわ」
悩み多きこの歳月を思い出し、しんみりした口調で呟いた。
「…うん」
瀧蔵も何か思い出しているのかもしれない。
「携帯に架けたら繋がらなくて…」
沙織が遠慮がちに言うと、瀧蔵は黙ったまま何も言おうとしなかった。沈黙の後
「…今、どこにいるの?」
瀧蔵は、低い静かな声で確かめるように沙織に訊いた。その瞬間、沙織ははっとした。
『近くにいるの』そう答えそうになったのだ。が、実際は自分の部屋だ。近くに居るの…そう答えたい、と思いながら
「…家に…」
沙織は口ごもった。
「あ、…そう」
それを聞いた瀧蔵は、急にがっかりした声に変わった。それを受けて沙織は、長崎に行ってから電話を架ければ良かったと、後悔した。
瀧蔵は急に現実に引き戻されたようなそわそわした声になり
「ごめん、今、忙しいんだ」
上の空で言った。
「ごめんなさい。急に」
慌てて詫びると
「うん」
誰かが近く居るのだろうか、瀧蔵は今にも切ろうとした。
「ねぇ、メール、してもいい?」
ここで切ったら二度と話せなくなるような気がした。まだ何も訊いていないし、言ってない。沙織は引き止めるように尋ねた。
突然、昔別れた女から連絡を受け、戸惑っているのかもしれないが、沙織はまだ瀧蔵の本当の声を聞いていない気がした。すると、瀧蔵は考え込むような声で
「…ちょっと、難しいかな…」
沙織は、壁を感じた。
「どうして?」
どうしても訊いてみたい事があった。瀧蔵が今、誰と居るのかだ。
「…」
思案しているのか、瀧蔵は黙ったまま答えようとしない。少しの間の後、深呼吸をすると思い切ったように声を張って
「結婚したんだ」
宣誓のような口調で言った。
「結婚!?」
沙織は、素っ頓狂な声で言った。『それはそうだろう』沙織の心の声が聞こえた。
予想はしていた。が、心の片隅で『まだ、独りだったらいいのに』そう期待している沙織も居たのだ。当然だろう、別れて五年も経っている上、瀧蔵も既に三十九歳だ。沙織は頭では理解してるつもりだったが、本人からその事実を聞かされると、やはりショックだった。
先ほどまでの嬉しさが吹き飛び、急速に心が萎えていくのを感じた。
黙り込む沙織を気遣っているのか、瀧蔵は電話を切ろうとしない。
「……誰と?」
長い沈黙の後、沙織は低い声でその相手を尋ねた。ひょっとしたら香子なのではないか…そう思ったら、訊かずにはいられなかった。沙織はずっと香子との関係を気にかけながら、遂に結果を訊けないまま別れてしまった。
瀧蔵の返事を待つ間、沙織の心があの日の苦しみを思い出し、ざわざわと波立つのを感じた。
「…長崎の人」
瀧蔵はぶっきらぼうに答えた。
「長崎の人?」
沙織は増々驚いた。『香子はどうしたんだ、香子は…』その思いが走馬灯のように沙織の心を駆け巡る。瀧蔵との別れの原因となった、顔も知らぬ女だ。
「うん…」
少し照れたような、遠慮がちの声だった。
「長崎の人って…長崎の、誰?」
予想もしない瀧蔵の答えに、どんな女性か沙織はイメージすら湧かない。尋ねてから言葉を失う沙織を励ますように
「…沙織の知らない人だよ。まぁ、そういう訳だから…メールは、ちょっと。…携帯見られるんだ」
瀧蔵は昔のように『沙織』と呼んだ。その後の言葉を言いにくそうに続けると、口ごもった。
「見るのぉ!?」
またも沙織は素っ頓狂な声を出した。瀧蔵は有るか無きかの声で
「……んー」
唸るような歯切れの悪い相槌を打つ。
思わず沙織は
「へえー、見るんだぁ…携帯…」
沙織は再び言葉を失ってしまった。侮蔑のこもった大袈裟な口調だった。
沙織は約二年間の瀧蔵との付き合いの中で、瀧蔵の携帯電話を無断で見た事など一度もなかった。瀧蔵は見ても怒らなかったと思うが、沙織はそれが礼儀だと思った。それに、瀧蔵は沙織が「見せて」と言うと見せてもくれた。わざわざ盗み見する必要などなかったのだ。
香子との関係で朝まで瀧蔵と問答をしていた時でさえ、沙織はそれをしなかった。にも関わらず、瀧蔵の妻はそれをするという。妻とはそういうものだろうか…それに甘んじてる瀧蔵が沙織には悲しかった。
「ふーん、そーなんだぁ…」
沙織は瀧蔵を皮肉るような調子だった。そんな沙織の声を聞いた瀧蔵は、耳を澄ませて次の言葉を待ってるようだった。
思わず沙織は深いため息をついた。瀧蔵がそういう女が良かったという事も、そういう女と結婚したという現実にも、沙織はがっかりした。『あなたって、そんな人だったのね』と、瀧蔵という男が極めて平凡で退屈な男に思えてきた。
これほど逢いたいと想いを募らせた男が「妻に携帯電話を見られるから」と、臆面もなく言い訳をする。
恋愛中は相手を過大評価していたのだろうか、沙織は急速に熱が冷めていくのを感じた。
そんな沙織の様子に何かを感じたのか、瀧蔵はくぐもった声で
「……まぁ、だから」
その声を聞いた沙織は、大きな瀧蔵が肩をすくめ、体を丸めて俯いている様子が目に浮かんできた。なんとなく居心地悪そうだ。
「そう」
沙織は適当な返事をしながら、携帯電話を見るという瀧蔵の妻に対してふと、燃え上がるものを感じたようだ。
「ねぇ、また電話しても良い?」
甘えたような口調で訊いていた。
「…会社は、ちょっと…」
さっきまで切ろうとしていた瀧蔵だったが、結婚した事を告げてすっきりしたのか、妙に落ち着いた声に変わっていた。
「じゃあ、携帯教えて」
沙織は、淡々と訊いた。瀧蔵は何か考えたのか少し考え込むと低い声で
「小文字のtaki…」
アドレスを一文字ずつ、読み上げた。沙織は素早くメモをとり復唱した。
「これ、会社の? …他の人も見るんじゃない?」
心配になった沙織が尋ねると
「それは俺しか見ないよ」
少し声を潜めながら歯切れよく答えた。その一言は、昔の瀧蔵を彷彿とさせた。事の後、瀧蔵はリラックスすると低い声で歯切れのいい物言いをしていた。それは、心を開いた者へ本音を打ち明ける時の声だった。
それを訊いた瞬間、沙織の心は忽ち時を越えていた。
「じゃ」
低い、迷いの振り払われた声で素早く言うと、瀧蔵は電話を切った。
沙織はやっと、素の瀧蔵と話せた気がした。
思いがけず打ち解けられた様子に電話を架ける前の杞憂などすっかり忘れ、沙織は久しぶりに晴れやかな気分だった。