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祈り ―華やかな傘に守られ―  作者: 小路雪生
16/30

第十六回

 葛西の事を思い出しかけた沙織は無性に飲みたくなった。

『飲んではいけない…』そう思いながら、深夜に近所のコンビニへ出掛けると、ビールを買込んでしまった。


 医師と約束した抗酒剤の服用も、最初の一ヶ月だけで沙織は勝手に飲むのを止めてしまっていた。体からは薬とアルコールがすっかり抜けており、久しぶりに飲んだビールで沙織の顔は真っ赤になってしまった。病院のアルコール教室では

「お酒を飲んで過剰に赤くなる方は、アルコールが体に合っていないんです。無理に飲まないようにしましょう」

 そう教わっていた。毎日飲酒していた頃は気付かなかったが、こうして久しぶりに飲んでみると、酔いが回るのも早い。『やっぱり、体質的に合わないのね』沙織は実感した。ふらつく足もとでベッドに横たわると、500ml缶を半分も飲み終わぬうちに、意識を失ったように眠ってしまった。

 こうして、沙織の最初の断酒は二ヶ月で挫折してしまった。

 医師にその事を報告すると

「今のうちにしっかり断酒をしたほうがいいと思いますよ」

 医師は、以前、沙織に免除した自助グループへの参加を促した。

 沙織はうんざりしながらも、自宅療養と申し渡されてる身では他にする事もない。

 悩んだ末、今回は医師の意見に従う事にした。少しでも軽度のうちに酒を絶ち、社会復帰を目指そう、そう思ったのだ。

 が、自助グループへ何度か足を運んだ沙織は、新入りの若い女というだけで男性の好奇の的になり易く、やはりどうしても気が進まない。

 医師とも相談し、女性だけが集う集会に週に一〜二回のペースで顔を出す事にした。


 そこでは、それぞれの【酒】にまつわる体験を、正直に話す事が目的だった。

 酒について、とはいっても、話す回数を重ねるごとに、生活の問題や経歴などにまで話が及ばざるを得ない。酒について繰り返し話しているうちに、自ずと自分の生き方や考え方などと向き合わなねばならない時期が訪れるのだった。

 通院と自助グループを組み合わせて週一〜二回、数ヶ月通い続けた頃、沙織は三十二歳になっていた。

 沙織は丸藤での仕事や、葛西から受けたセクハラの問題、そして瀧蔵の事ばかり話している自分に気づいた。そこが人生の分かれ道、この生活に入る曲がり角だったからだ。

 沙織には、どうしても、それらの出来事への拘りが捨てられなかった。


「上司からホテルに誘われたんです。それに応じなかった事で、辞めさせられそうになりました。なんとか、休職に持ち込んだのですが、結局は辞めることに…。あんな事さえ無ければ、私は今日も忙しく働いていたでしょう。そう思うと悔しいんです。休職中も酒量は増えるばかりで…。彼と別れてから、なかなか寝つけない日が続いて、毎晩寝酒を飲むようになったのも、こうなった理由かもしれませんね。仕事で挫折して、彼に裏切られたり裏切ったりしているうちに、お酒で気を紛らわすようになっていたみたいです…」


 沙織は、会へ参加する度に、当時の事を繰り返し話した。


「私には結婚願望が無かったんです。仕事の事しか興味ありませんでした。偶然、再会した時の彼の言葉が今でも忘れられないんです。あれはどういう意味だったのだろうって…。忘れようとしてきました。忙しさに紛れて考えないようにする事もできていたのに、この頃は、ずっとその事ばかり思い出してるんです。彼に最後に会ってからもう、四年経ちました。彼だって、もう忘れているかもしれません。でも、私は忘れられないんだなって…本当は、ずっと忘れていなかったんだなって。勤めている頃は、自分がこんな風になるなんて想像した事もないし、人生は永遠に続くような気がしていたんです。でも、最近、終わりが見えてきたというか…命って限りがあるんだなって、感じるんです。いつかは死ぬんだって、しみじみ思うんです。そうしたら、その前に彼に会いたいって…思ってしまって」


 この頃の沙織は、こんな内容を繰り返し話していた。


 その会では参加者を《仲間》と呼んでいた。ルールが幾つかあり、名前は匿名、ニックネームで呼び合うのが基本だ。

《言いっぱなしの聞きっぱなし、ここでの話は外には持って帰らない》というルールもあった。

 各々順番がくるとその日のテーマにそって自らの酒害体験について話すのだが、意見も質問もしない。各自持ち時間の五分〜十分の間で話す事を、皆で黙って聞くだけだった。


 沙織が話し終わり、次の《仲間》が自分の酒害について話し始めた。


「私たちって、飲んだら死んじゃうんですよね」

沙織には、その言葉が飛躍しているように聞こえた。が、彼女は


「社会に出てると、パワーゲームの連続ですよね。異性関係もそう。でも、そうすると、つい飲んじゃったりするんですよね。だから、仕掛けてきたり、絡んできたり挑発されたりしても、そういう人は相手にしないで『どうぞ、どうぞ』って譲ってあげて、今日一日飲まないっていうのを続けていくしかないんですよね。なるべく、こういう時は異性の事は考えないで、今日一日飲まないっていうのを体にしみ込ませて生きていくうちに、また、新しい出会いがあったりするんですよね」


 誰に向かって言いたいのか、彼女はそんな話をしていた。


 帰り道、沙織は先の《仲間》の話を思い出していた。沙織には、どうもしっくりこない。生きながらえて、新しい出会いがあったとしても、瀧蔵より好きになれない事を沙織は分かっていた。その出会いの為に飲まずに過ごす事の意味が分からないのだ。どこか、厭世的になっていたのかもしれない。


 沙織は、休職中に取引先の広告代理店の営業マンと半年くらい付き合っていた。

 今後の仕事の事などを相談するうちに、付き合う事になっていった。それもやがて自然消滅のようになってしまったが、それ以後、特別に逢いたいとも思わなかった。何度体を重ねても、沙織の心はいつもどこか冷めていた。どちらからともなく連絡を取り合わなくなったが、たまに思い出すだけで『久しぶりに連絡してみよう』とは、思わないのだった。

 そんな思い出も残らないような出会いの為に、寿命を延ばす意味などあるのだろうか…。

 沙織は、こんな時必ず、瀧蔵を思い出してしまう。

 瀧蔵に逢えるなら長生きする価値もあるかもしれない。が、そうでないなら「異性関係はダメ」と、ある程度断酒が継続するまで恋愛を禁止したり、呪文のように「今日一日」と唱えながらストイックに生きる必要があるのだろうか。

 どうせ人はいつか死ぬのだ…この頃の沙織は、拠り所だったものを全て失い、自暴自棄になっていた。そのせいか、どこか宗教的な雰囲気のその会は、沙織の目にはただの『グループ依存』にしか見えなかった。


 会から帰宅すると、断酒中の沙織はなんとなく手持ち無沙汰だった。そのせいか、瀧蔵の事を考えてしまうのだ。

 丸藤にいる頃の沙織は、毎日十一時頃の帰宅だった。帰るとすぐにビールを飲み干し、気絶するように眠っては、翌朝、慌ただしく出勤していた。瀧蔵の事を思い出す時間すらなかった。

 それが、自宅療養の日々になった途端、毎日のように瀧蔵が恋しい。沙織は自分でも『病んでるわ』そう思った。四年も経つのに、今になって急に…沙織は、自分が可笑しくてたまらなかった。自分はどこかズレていると思う。四年も経って急に『逢いたい』なんて…。が、本当は、ずっとそう思いながら、忘れたフリをしてきただけだと、この頃の沙織には分かっていた。

 本来ならば丸藤でそのまま忙しい日々を過ごし、定年した後に、こうしてゆっくり過去の恋愛を振り返っていたのかもしれない。それが、図らずもこんなに早い時期になってしまった…沙織は、予想より早く晩年期に入った気分だった。そんな思わぬ誤算が『人生は、思っていたほど長くない』と、感じるようになった理由なのかもしれない。


 そんな事をつらつら考えていた沙織は『やっぱり、今のうちになんとかしなきゃ』と、無性に瀧蔵に逢いたくなってきた。

 なんとなく、その気持ちに抑えが利かなくなっていたのだ。会で度々話した為だろうか。それとも、アルコールの影響だろうか。

 沙織は子機を取ると、瀧蔵の携帯の番号を押してみた。が、沙織はこの時も、番号を半ばまで押して途中で切ってしまうのだ。その動作を何度も繰り返しながら『今更ね…彼だって、きっと、もう誰かいるはずよ』そう思うのだ。

 しかし、人生は一度しかない、この頃の沙織はその事を痛感していた。

『一度しかない人生なら、恥なんてかき捨てでいいじゃない…どうせもう、何もかも失ってしまったのだから…』

 かつての沙織には、丸藤と言う大きなバックグラウンドがあった。が、丸藤を辞め、肩書きも失えば世間なんて冷たいものだ。

 今の沙織には体裁すらも何もない。『これ以上、失うものなんてない』沙織はどこか、腹が据わっていた。たとえ「今更、迷惑だ」と瀧蔵に言われてもしょうがない。『今更、逢えるわけじゃなし…ダメ元で架けてみようか…』逡巡を繰り返しながら沙織は意を決した。


 が、酒の影響か歳のせいか、どうも瀧蔵の電話番号があやふやになっていた。

 番号を書き記した古いアドレス帳を探して確かめると、やっぱり、“5” と “6” が逆だ。あんなに忘れるはずないと思っていたのに…沙織は歳月の流れを感じた。

深呼吸をして、アドレス帳に書かれた 〈 瀧蔵 遼 〉 の番号を間違えないようにゆっくりと押した。この時の沙織に迷いはなく、一度で繋がった。

『この電話番号は現在使われておりません。番号をお確かめになってもう一度おかけ直し下さい』

 その案内を聞いた瞬間、沙織は激しい衝撃を受けた。使われていないなどと考えた事もなかったのだ。沙織は何故か、瀧蔵は相変わらず以前と同じマンションの同じ部屋に住み、沙織の近所で生きているはず、電話だっていつでも繋がる、 いつでも会おうと思えば会える…そう、勝手に思い込んでいたのだ。

 意外な結果に呆然とし、立ち尽くしながらも、沙織は気を取り直そうと

「当然よねっ!」

 力強く自身に言い聞かせ、落ち込む気持ちをフォローしていた。

 ゆっくりした動作で子機を充電器に戻すと、沙織は心が空っぽになるのを感じた。

『…いつからだったんだろう…全然知らなかった…。もう、繋がっていなかったのね』

 沙織のこの数ヶ月間の『逢いたい』気持ちは急に行き場所を失い、途方に暮れてしまった。


 翌日は快晴だった。沙織は洗濯機を三回も回し、布団を干していた。

 休職中、朝から飲んでいた事もあったが、それに比べてなんて健康的だろう…沙織は、酒の力を借りずに過ごす爽快感をしみじみと噛み締めていた。

 洗濯日和を喜んでいると、かつて、瀧蔵の洗濯物を干した時の事が思い出された。



 瀧蔵は、沙織が家事をするのを嫌った。

「沙織、いいよ、自分でやるから」

 瀧蔵にそう言われると、『他に女がいるから家事をしてほしくないのかしら』沙織は疑いを抱いたものだった。

 そう思うと、増々家事をやらずにはいられなかった。そんな沙織に瀧蔵は

「さーおーりー」

 やれやれ…といった感じで言いつつも、制止を無視している沙織を諦めたように新聞を広げていた。

「ねぇ、ハンガーある?」

 量の多さに洗濯ハンガーが足りなくなった。沙織が訊くと、崩れかけている新聞と堆く積まれて埃まみれになっている 雑誌の裏から、迷わずハンガーを数本取り出した。

「よく見つかったわね」

 感心しながらも、妙なところにハンガーがあるものだと不思議に思った。

 沙織には散らかって見える部屋だったが、瀧蔵なりには片付いていたのかもしれない。

 だから、勝手にいじられるのがイヤだったのだろうか…沙織はそんな六〜七年も前の出来事を思い出しながら、自分の洗濯物を干していた。


 洗濯を終え掃除を済ませると、予定のない沙織は忽ち時間を持て余してしまう。

 すると、再び『逢いたい』という、長年閉じ込めてきた想いが、くすぶり出すのだ。

 沙織は、昨夜繋がらなかった携帯にもう一度架けてみた。

 やはり、現在は使われていない旨の案内が流れてくる。

 沙織は、ため息をついた。『暇だからいけないのかな』そうも思うが、働く目処もたたない今、差しあたって使う予定のない語学の勉強をしてもはかどらない。考えるとはなく考えていると『悶々と過ごすより、納得できるまで彼を追いかけたほうがいいのかもしれない』…沙織は、帽子を手に取って出掛ける仕度を始めた。


 天気が良かった事も、沙織には出掛ける勇気となったようだ。とりあえず、瀧蔵のマンションへ行く事にして、沙織は家を出た。同じ沿線の隣の駅近くに瀧蔵の住まいがあった。

 こうして久しぶりに訪ねてみると、こんなに近所にいながらよくも今日まで会わずに辛抱出来たな、と我ながら感心してしまう。

 沙織は自転車で二十分ほどの瀧蔵の部屋へ来るのは五年ぶりだ。マンションのエントランスに入ると、当時と何も変わらない。集合ポストに書かれた表札を見たが、そこに見慣れた文字はなく、瀧蔵の部屋のポストは既に見知らぬ人の名前に変わっていた。

 沙織はため息をついた。電話番号が変わっていると知った時、なんとなく予想はしていたものの、沙織は改めて、歳月の流れを感じてしまう。

 ポストの前に佇む沙織は、郵便物や新聞を取り出す際の瀧蔵の姿が甦り、目頭が熱くなるのを感じた。懐かしくてたまらなかった。

 沙織は別れたばかりの頃、教会で泣きながら瀧蔵の姿を探していた頃の自身の苦しさや恋しさを思い出し、切なさで胸が一杯になった。

「どこへ消えてしまったの…」

 呟きながら、沙織は挫けそうだった。『諦めろという事かもしれない…』そう思った。が、一度逢いたいと思いだすと、せめて消息ぐらいは知らなければ引き返せない、という気持ちになっていた。

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