第十五回
そんな鬼気迫る沙織の仕事ぶりが一年余り過ぎた頃、オープンしたばかりのパン屋が話題になっていると耳にした。場所は瀧蔵のマンションの近所だった。噂ではいつも行列ができており、二十分待ちも珍しくないという。
個人経営の店では丸藤にとって脅威にもならないのだが、新規店舗の導入時などに参考になるかもしれないと沙織は考えていた。
百貨店は高級品を扱うのはもちろんの事、地元の産業にも常に注目している。どんな店が流行り、どんな商品が好まれるのか、感度を鋭く保ち動向を見極めていかねばならない。直接的に影響はないとしても、客のニーズを知る事は重要だ。
その店の噂を聞いた沙織は、早速次の休みを利用して視察を兼ねて出向く事にした。
瀧蔵は土日休みの為、平日の昼間なら出くわす事もないだろう…沙織はそう思いながら、駅から続く緩い坂道を登っていた。
体がこの傾斜を覚えているのか、懐かしい思いで歩き慣れたその坂道をゆっくり歩いていると、この一年数ヶ月、片隅に追いやっていた瀧蔵の面影がふと甦った。一度思い出すとその面影は離れず、瀧蔵と腕を組んで歩いた日の事が昨日の事のように思い出された。ようやく沙織の心も痛みに慣れ、吹っ切れないまでも瀧蔵のいない生活のリズムが整ってきていた。
知り合って約三年、付き合っていたのが約二年、だから忘れるのも二〜三年、沙織はそんな風に見積もっていた。そう考えると、別れから一年少々だとまだ足りない。が、焦らずいこう、その頃の沙織はそんな風に自分を励ましていた。
感傷とも、思慕ともつかない気持ちを抱えたまま歩くと、通りに面したお目当ての店をすぐに見つける事ができた。
確かに、その日も行列が出来ていた。何故そうも繁盛するのか…と沙織は興味を感じながら列の最後尾に並んだ。
五種類の自家製酵母が人気の理由らしい。以前、天然酵母入りのパンを沙織が食べた時、その硬さが気になったのを覚えていたせいか『硬いパンが人気なの?』疑問を抱きつつ順番を待っていたが、職業柄か思わず店の造りなどが気になる。
個人経営の店だと思っていたが、そうとは思えないほど洒落ており、オープンカフェまである。レンガ風の外壁と良い、なかなかいい雰囲気だ。
十分くらいだろうか、予想よりも早く店に入れたが、店内はかなりの混雑だった。欲しい商品をトングで取ろうとするが、棚の前には人垣が出来ており、沙織は
「すいません」
声を掛けながら他の客をかき分け、バゲットや食パン、ブルーベリーのジャムをあしらったパンなど、数種類をトレーに乗せた。争奪戦さながらの空気から逃げ出そうと、沙織は早々に会計を済ませた。色も黒っぽく、硬そうな気がする。 あまり好みではなさそうだ、そう思いつつ外に出ると、相変わらず行列が出来ている。
この近所には古いパン屋しかなかった事を思い出し、それが人気の理由か、と考えながら、早く帰ってこのパンでランチにしよう、そう思い目を上げた瞬間だった。通りの向こうにすらりと背の高い男性が見えた。
沙織は我が目を疑った。瀧蔵に似ている。が、平日の昼間にそんな事があるだろうか…沙織は、見間違いかと目を凝らした。
その男性が渡ろうとしていた信号が青に変わり、こちらに向かって歩いてくる。その姿を見た瞬間、沙織ははっきりと瀧蔵だと気が付いた。 それとほぼ同時に、瀧蔵も沙織に気づいたようだ。
互いに目を見開き、見つめ合ってしまった。瀧蔵の歩みは速度を落とし急にゆっくりとした様子で、目を凝らして沙織を見ていた。どうやら瀧蔵も、沙織かどうかすぐに判断しかねているようだ。段々近づいてくる瀧蔵を見た沙織は、咄嗟に見なかったフリをした。瀧蔵とは反対方向に位置する駅に向かおうと、瀧蔵に背を向けて足早に歩き出したのだ。
まぎれも無く、昨年の正月明けに守屋との関係で激高した姿を見て以来の、瀧蔵だった。込み上げる懐かしさと同時に、その時の事が一瞬のうちに脳裏をかすめた。沙織は、思わず俯いて顔を隠しながら、早足になった。忘れかけていたあの頃の激しい痛みが、瀧蔵を見た瞬間甦ってきたのだ。
やはり瀧蔵も気づいたのか、小走りに駅へ向かう沙織を
「沙織!」
後ろから瀧蔵が呼び止めた。あれほど怒っていたのに何故呼び止めるのか…沙織は不思議に思いながら、追いつかれまいと、いつの間にか駆け足になっていた。
「沙織! 待ってくれ!」
大声で沙織を呼びながら追いかけて来る瀧蔵を振り切るように、今度は必死で走っていた。自分が逃げる理由はない、沙織はそう思いながらも体が勝手に駅へ向かって走ってしまう。気がつくと、遮断機が下りる寸前の踏切を夢中で渡っていた。
瀧蔵はもう追いつく事ができなかった。その時、一瞬だけ沙織は後ろを振り返った。遠ざかる沙織に
「待ってるよ!!」
瀧蔵は、人の行き交う駅の近くの踏みきりで、人目もはばからず絶叫していた。
久しぶりに見た瀧蔵の姿は以前と変らなかった。熱いものが込み上げながらその声を背に、沙織は駅の階段を駆け上がった。どうして逃げるの?…自分でも分からず戸惑うが、沙織は突然の事態に気が動転していたようだった。
発車寸前の電車に飛び乗った沙織は肩で大きく息をしていた。
かつて、リレーの選手だった駿足の沙織だが、久しぶりに全力疾走をしたせいか息が苦しい。
ドアの近くで呼吸を整えながら、まるで青春映画のような光景だとおかしくなった。瀧蔵の声が耳に残っていた。
「待ってるよ!」とは、どこで待っているのか…沙織は怪訝に思いながら、久しぶりに味わうエキサイティングな出来事に胸が躍った。瀧蔵が懸命に沙織を追いかけていたのだ。人が行き交う場所で大声で沙織を呼んでいた…ただでさえ目立つ人なのに、あんな事したら注目の的ではないか…吹き出しそうなおかしみと同時に、そんな瀧蔵の様子に胸が熱くなり、涙を堪えられない。
沙織はこの一年以上、携帯電話を替えておきながら、心のどこかでいつも瀧蔵からの連絡を待ち続けていた。
『何故もっと早くああして追いかけてくれなかったのだろう…』『偶然瀧蔵の住まいの近くに行った事を、沙織が逢いに行ったと誤解をしたのだろうか…』いろいろに思い巡らした。『待ってる…って、どういう意味なんだろう…』沙織は、最後の言葉がやけに引っかかる。
全力で走り、思いがけず瀧蔵に再会した興奮から覚め、その真剣な様子を思い出すと急に体から力が抜けてしまった。
次の停車駅で空いた近くの座席に崩れるように座り込むと、涙が止めようもないほど溢れてきた。周囲の客に気付かれぬよう隠そうと俯きながら、一年以上前の出来事がフラッシュバックのように甦るのだ。その時の苦しみや衝撃が、悲しみとなって襲ってくる。やっと塞がりかけた傷痕から一気に血が流れ出すような感覚だった。
嬉しさと、懐かしさの一方で、今更…と諦めに似た気持ちも湧いてくるのだ。
沙織は立ち上がれないほどの虚脱感に襲われていた。
そのまま家に帰れず、気が付くと、以前瀧蔵とよく散歩したみなとみらい地区に来ていた。
我知らず、自然と足が向かったようだった。沙織は、海辺りの芝生に座り込んで沖を眺めていると、瀧蔵とこうして過ごした日が懐かしく思い出された。涙が後から後からこぼれてくるが、沙織はそれを拭おうともしなかった。
携帯電話を替えて以降、この苦しい心に蓋をして生きてきた。パンドラの箱が不意に開いてしまった…沙織は今日の出来事を思い返してそう思った。瀧蔵の家の近くで買ったパンをかじりながら、味もわかぬまま虚ろな気持ちで海を眺めていた。
暗くなってから重い足取りでようやく家路についたものの、ひどく疲れを感じていた。
ふと見ると、固定電話の留守電のランプが点滅している。再生ボタンを押してみたが、その録音は無言のまま切れていた。ディスプレイ対応機種ではない為、誰からなのか分からなかった。着信の時刻は四時間前と一時間前の二件だ。不意に瀧蔵ではないか…そう思った沙織は慌てて携帯に架けようとした。が、新しい携帯には瀧蔵の番号は登録されていない。
沙織は、忘れるはずないのないその番号を、ひとつひとつ確認しながら緊張した様子で押していった。
しかし、いきなり過去に引き戻されて戸惑う沙織は、どうしても瀧蔵に連絡する勇気が持てない。繋がる前に切ってしまうのだ。三十分以上悩みながら、やっと接続音を聞いた沙織は、緊張で鼓動が早くなるのを感じた。
息を詰めた瞬間
「この電話は、電波の届かない地域にいるか、電源が入っていない為、架かりません」
女性の機械的なメッセージに、沙織は深いため息をついた。どっと疲れが出た感じだった。
自動応答の音声を聞きながら『やっぱり、別人だわ』留守電の相手は瀧蔵ではない、沙織はそう思った。
勇気を振り絞って架けてみたものの、瀧蔵は出なかった。沙織は、別れる直前、瀧蔵が沙織の電話に出なかった時の事を思い出し、苦笑いした。
そして、この日の出来事を忘れようとしたのだった。
結局、この街で瀧蔵を見たのはこの日が最後になった。
沙織は後になって、この時の光景を何度も思い出し、深い後悔と悲しみで胸が締め付けられるのだった。
『もし、あの時、逃げたりしないで瀧蔵の呼び止める声に応えていたら…』と。
「沙織! 待ってるよ!」
この声を沙織は生涯忘れないだろう。二人はこの瞬間、分岐点に立っていたのだ。
『もしかしたら、違う人生があったのではないだろうか…』そう振り返る度、沙織はこの日の自分の取った行動を苦々しく思うのだった。
が、後戻りの出来ない道を歩き始めていた事を、この時の沙織は知るはずもなかった。
瀧蔵と偶然に遭遇した出来事と前後するように、かねてからフロアマネージャーとして取引先の各ブランドやショップなどを統括・管理していた葛西が営業促進部の部長に昇進する事になった。
店長は
「おお、辻さん、ニュースや。葛西さんがあんたとこの部長になるんや」
意気揚々と伝えてきたのは正式な辞令が出る十日前だった。
この頃荒れ気味だった沙織を配慮し、店長が本部に掛け合ったのだろうか…と沙織は考えた。もし、そうであるなら店長は善かれと思って便宜を図ったのかもしれないが、沙織には歓迎できる人事ではなかった。