第十四回
思えば、沙織はこの頃から毎晩飲酒するようになったのだった。
瀧蔵のいない喪失感を埋める手だてが他にない上、守屋の存在も大きなストレスになっていた。油断して気安く接すると、また火種の元になりかねない。慎重に距離を計りつつ仕事をしなければならなかった。しかも、横浜の婦人を統括するセールスマネージャー守屋の存在は、沙織も無視することは出来ない。業務上やむ終えないと思いつつも、沙織の上司である高橋や、広報課のチーフに直接言えば済む内容でさえ、沙織に持ちかけるのだ。そんな時、沙織はどうしても苛立ってしまう。
「取材の件でしたら杉浦さんに訊いて下さい」
素っ気なく答えると
「俺は辻さんに訊いてるんだ!」
強い口調で言い募る。そんな守屋に沙織は手を焼いていた。仕方なく、パソコンで書類を作っている手を休め、守屋に向き直ると
「申し訳ないのですが、私が把握してる限りでは無理だと思いますので、守屋さんの要望をお聞きする事はできません。 その時期の催事は既に決まっていますし、テレビの取材も決まってるんです。急遽セールを打つのであれば、今から場所の確保もしなければなりませんが、その時期は一杯です。日程も迫っていますし、媒体の製作も難しいと思うんです。でも、どうしてもと、おっしゃるのなら、直接、高橋さんに言っていただけませんか?」
目を見つめ、諭すように言わねばならない。
「はいぃ、はいぃ」
ため息まじりに嫌味っぽく返答すると、守屋は売場へ消えていった。
守屋の態度は『俺を見ろ!』と言わんばかりのもので、先日社食ではっきりと関係を断ったつもりの沙織にはなるべく関わりたくない相手であり、頭痛の種だった。
マネージャー同士というのは、たとえ他部課であってもライバル意識があるようだ。男同士では通しにくい交渉事もあるようで、女性でアシスタントマネージャーの沙織を頼る上司も多かった。
しかし、守屋とは気まずい間柄なのだから、少しは気を遣って必要ない限り沙織を避け、それぞれのチーフやマネージャーに言いつけてくれても良さそうなものなのに…と、仕事にかこつけては沙織と接点を持とうとする守屋に対し、気が重くなるのだった。
どんなに好かれてもその時の沙織は瀧蔵以外の男性と付き合う気持ちになれなかったのだ。
どれほど瀧蔵に抱かれたか分からない。体の隅々にまでその感触が残っていた。これまでにないほど溺れた沙織は、自分の体を瀧蔵の好きなようにさせてきた。今更、他の男に抱かれても心が動きそうにない。今の沙織はもう未知の経験には出会えない気がするほど、その体は瀧蔵との行為で変えられていた。
守屋との夜もそうだった。
守屋は優しかったし沙織はそれなりに感じていた。我を忘れて守屋にしがみつき夢中で守屋の名前を呼んでいた。だからこそ、弱みを握られような気がして、守屋が疎ましいのかもしれない。が、その時の悦びも未知のではなかったのだ。
瀧蔵は、時に優しく、時に激しく、息も出来なほど容赦なく沙織を攻めたてた。休日や平日の逢瀬だけでは足りずに、互いの部屋に泊まった翌日でさえ、仮病を使って二人で会社を休んでは耽溺していた事もあった。食事をする以外は抱き合っているのが常だった。あんなに夢中で求め合える人もそういない気がする。死んでしまうかと思うほど意識が遠のき、このまま死んでも構わないと思うほどの悦びもあった。そうして、瀧蔵によって壊されてきた沙織は、もはや、身も心も抜け殻のようだった。
これから先、どんな男と出会い、何人に抱かれるのか分からないが、あれほどまでに狂おしく感じる事はもう、ないだろう…沙織はそう予感していた。
瀧蔵は、特別な男だったと沙織は思う。
そんな瀧蔵に焼き尽くされて灰のようになっている沙織の心には、どんな好意も響く事はなく、疎ましいだけだった。 この頃の沙織は、内にあった生の煌めきが失われ、生きる屍のようだった。
「だめだ」と呟いた瀧蔵の怒りをなんとか解こうと、それ以降も何度か電話を架けてみたがどうしても繋がらない。メールの返信もない日々の中瀧蔵に気を取られ、このままでは仕事に対する情熱まで失いかねないと沙織は思った。どこかで自分から区切りをつけよう…そう決めると、最後のつもりで瀧蔵のマンションを訪ねてみた。しかし、そんな悲壮な決意の沙織が何度訪問しても瀧蔵はいつも不在だった。
ある夜、ようやく帰宅後らしく瀧蔵がインターホン越しに応答した。が、沙織が嬉しさのあまり明るく名乗った瞬間、瀧蔵はくぐもった声で
「…逢えないので、帰って下さい」
突き放すように言った。沙織は何日もの間気を揉み、再三足を運んでいたが、その結果聞けたのはこの一言だけだった。瀧蔵の冷淡さもさることながら、男性からそのような扱いを受けた事のない沙織は、自分が惨めに思えて仕方がなかった。
しばらくマンションのエントランスに立ち尽くしていた沙織は、やがて重い足取りで家路についた。その道すがら、あれほど怒っていた瀧蔵だが「お互い様だと、許し合えないのだろうか」沙織はそんな事を思うと、瀧蔵の心が理解出来なくなってしまった。
もしかしたら、香子も含めて他に女がいるからかもしれない…今回の事は体のいい厄介払いなのではないか…沙織はそんな風に考えてみた。そうすると、瀧蔵の怒りも、沙織を拒む理由も説明がつくのだ。そう思う事で、ようやく沙織は瀧蔵と別れる決心を固めのだった。
思えば、瀧蔵に自分の苦しい気持ちを分かってほしい一心で、守屋との関係を告白してしまったように思う。が、それをこのような形でしか返してこないなら、この関係に未来はない。これで諦めよう、これ以上傷つきたくない…沙織は理性でこの局面を乗り切ろうと努めていた。
翌日、沙織は携帯電話を買い替えることにした。それは苦渋の決断だった。番号やメルアドが変更されると、仮に瀧蔵から連絡があっても繋がらなくなってしまう。それが何よりも怖かった。出来る事なら別れたくない、というのが本音だ。が、もし今後、瀧蔵の気持ちが戻ってくるとしたら、沙織の部屋を訪ねる事も出来るし、固定電話へ連絡する事もできるはずだ。最悪、店に訪ねてきてもいい。本気でよりを戻す気があるならば方法はある。沙織は自らにそう言い聞かせる事で、瀧蔵の真意を知ることが出来ると、自分を納得させようとしていた。そして何より、瀧蔵からのメールや電話を今か今かと待つ切ない想いを断ち切りたかったのだ。
そうは言っても、容易に吹っ切れるものではない。
瀧蔵と音信不通になってから、心なしか沙織は体調が優れない。激しすぎた情事の反動なのか、まるで半身がもぎ取られたように、毎日体が痛んだ。しかし、瀧蔵にしがみつくのもプライドが善しとしないのだ。
沙織は、いつかフランスへ研修に行きたいと思っていた。正式に希望を出した事はなかったが、実現すれば今後の大きなキャリアアップに繋がるはずだ。自分の体から瀧蔵の記憶が消えるまで、この痛みに耐えようと思った。マネージャーに昇進する事や、本部のマーチャンダイザーになるという目標を持っていた沙織にとって、男に躓いて今までの努力を水泡に帰するような真似だけはしたくなかったのだ。
今の苦しみもいつか来る輝かしい未来への過度期にすぎない…まだ二十代だった沙織には、未来が無限に開かれていると感じられていた。
しかし、瀧蔵という受け皿がなくなってから、沙織には安心して弱音を吐ける人もいなかった。いかに大志を抱こうと、今日という日が乗り切れなくては未来もない。
心身共に疲れきっていた沙織は、帰宅してからも直ぐに神経が休まるはずは無く、さりとて昂ったままでは入眠できない。ビールに手を伸ばし、それを一気に流し込むとたちまち酔いが全身に回り、気を失うように眠る事が出来るのだった。何も考えず、明日の為に睡眠をとる為に酒は格好の手段であり、仕事やストレスで緊張した心もほぐれ、寂しさも紛れるのだった。
沙織は瀧蔵との関係を断ち切ろうと必死だった。当時の働きぶりは、後に自身で振り返っても尋常ではなかったと思う。 それまでの遅れを取り戻す勢いで仕事に取り組んだ結果、売場からは
「怖ーい」
と恐れられ、上司にもくってかかり、口論すらも珍しくなかった。
五階のフロアマネージャーに異動になっていた加藤などからも
「店長、なんとかして下さいよ」
泣きが入るほど厳しく、沙織の有無を言わせぬ仕事ぶりに周囲は腫れものに触るようだった。経費を抑えて売場を作るには徹底的な指導しかない、沙織は非情とも思えるほど、ストイックな演出を各セールスマネージャーに求めた。
そんな沙織を、店長も見ないフリをしていた節がある。守屋は例によって居丈高な感じで沙織に意見を通そうとするが、沙織は一切聞こうとしない。それどころか、広告の掲載商品などの申請が一日でも遅れようものなら皆のいる前で
「守屋さん! 締め切りは守って下さい! 社内連絡はさせていただいてますよね? ご覧になってないんですか? 他の皆さんは締め日に合わせて下さってます。今回は婦人の枠を縮小して、紳士中心の企画に変更させて頂きます!」
タンカを切る。
「バイヤーからの連絡が遅れたんだ。文句は市原に言ってくれ」
反論する守屋に
「言い訳は結構です!」
切って捨てるような対応も珍しくなかった。厳しい制裁措置を断行する事も珍しくないこの頃の沙織のやり方も、当時の販売促進課マネージャー高橋は
「横浜の事は辻の方が詳しいから…」
などと譲るのが常だった。
こうなると、いかに強引な守屋でさえ、手も足も出せない。当時の直属の上司、高橋は着任して一年足らずという事もあり、面倒なことは全て沙織任せだった。沙織に忠言出来る者はいなかったのだ。
この頃の沙織は主に販売促進課の業務を担当しており、チーフとしての肩書きもついていた。
営業促進部には他に広報課や販売企画課、営業推進課などもあったが、沙織にはアシスタントマネージャーとしての職務もあった為、各課の仕事を把握していなければならない。
いつまでもメソメソしている余裕はなかった。
それからの沙織は飲酒に拍車がかかり、職場の仲間とはしゃぎながらこれまで以上にがむしゃらに働いた。
休日出勤もいとわず、毎晩帰宅は11時前後、連休はとらないという徹底ぶりだった。
とにかく、暇な時間を作ると瀧蔵の事を思い出してしまい、沙織は足もとから崩れそうになるのを感じていた。
そんな自分を支える為には、ワーカホリックになるより仕方無かったと思う。行き詰まっていた沙織を癒せるものは、酒と仕事しかないように思われた。
沙織の心は渇いていたのだろう。瀧蔵を失ってからの沙織は、まるで砂漠の中を独りで彷徨っているような心もとない毎日だった。その頃の姿は、ゆらゆら揺れる影のように見えていたかもしれない。
瀧蔵を愛してる、と日が経つにつれ感じていた。どれほど大きな存在になっていたかに気づいた時、瀧蔵は消えていた。その喪失感は深く、時に生きる気力さえ奪いそうなほど沙織を暗い闇の中に突き落とすのだ。
こんな時、間に合わせで他の男と付き合ってもその惨めさは深まる一方に違いない。例えば、守屋の好意を受け入れて仮に結婚、という事態になった場合、沙織は守屋への不満を募らせ、くすぶり続ける瀧蔵への想いを断ち切れずに、その憂さを不倫妻と化す事で誤摩化そうとする生き方をしてしまうかもしれない。そんな暮らしは、沙織には不幸にしか思えなかった。いろいろに先行きを考える度に、増々、他の男で満たす事など考えられなくなるのだった。
そんな毎日の中、唯一沙織が素になれる場所があった。
水曜の昼になる度に瀧蔵と出会った教会へ行き、ささくれ立つ自分の心を静かに見つめていたのだ。パイプオルガンの音色に浸りながら虚勢を張って働く苦しさを涙とともに洗い流した。
『どうしてこんな事になってしまったのだろう…本当に神がいるなら元に戻してほしい…』そう願いながら、離ればなれになっていく恋しい男の影を、気配を、その場所に探していた。
オルガンの音色は地響きのように会堂を包み込むと、全ての雑音をかき消すような音量でJ.S.BACHのトッカータとフーガ二短調を奏でていた。 些細なすすり泣きの声さえも、その音色が飲み込んで消し去ってくれる。沙織が安心して泣けるのはその場所しかなかった。
隠れ家のような思い出の場所から職場に戻ると、否応なく現実に引き戻されていまう。山積する仕事と、守屋の存在だ。
まるで、瀧蔵への恨みを晴らすかのように、守屋に対して鬱憤を発散させていたのだが、上司である守屋に対しこのような対応はまずい、とも思う。が 〈 いい加減な噂を流布する上司 〉 と周囲に印象づけなければ沙織と守屋が付き合っているという誤解を解く事もできない…沙織は、守屋の面目を潰すかのように振る舞う事を、自分の中で正当化していた。
婦人は百貨店の華だ。売り上げもいい。それをいい事に守屋は催時の企画・立案についても「婦人、婦人」とごり押しをするのが常だ。ただでさえ売り上げが伸び悩み、会議ではやり玉にあげられている紳士をのけ者にしようとする。
そんな守屋に対し腹にいちもつある沙織は、紳士の企画を施策しては
「売っていきましょう!!」
周囲にハッパをかけるのだった。
沙織の守屋への敵対心を知ってか知らずか、いつの間にかマネージャーに昇進し、いつの間にか結婚していた紳士の谷本は
「いつもありがとうございます」
などと、沙織には下手に出るようになっていた。
この頃の沙織は周りを圧倒するような勢いだった。髪を振り乱しなりふり構わず働きながら『女は捨てようと』と決心していた。髪をショートにし、パンツスタイルに変えてイメージチェンジをはかった。男性の多いバックでは、異性を感じさせないよう自分を作り変えようとしていたのだ。
店長もそんな沙織に異変を感じていたのか、以前のように軽口を叩く事もなくなっていた。
きっと、周囲は沙織を「腰掛けで辞めていく」…そう思っていたに違いない。それがいつの間にか男性の上司を上司とも思わない勢いで叱りつけ、時に罵声を浴びせるような激論を交わしては自分の意見を通すようになっていたのだ。まさに、沙織は死にもの狂いだった。
殺気にも似たその働きぶりを、葛西は面白そうに見ているのが常だった。