第十三回
この二〜三ヶ月、瀧蔵に逢っても沙織は食事程度に留めていた。そんな事をすれば増々香子との関係が深まってしまうかもしれない…との恐れを抱きつつも、沙織の悲しみを瀧蔵が理解してくれる事を期待していたのかもしれなかった。
クリスマス以後、瀧蔵からはとりなしのメールも電話もなかった。
沙織はそんな瀧蔵の態度に無性に腹が立った。卑怯だと思った。自然消滅でも狙っているのか…そう考えると、沙織の悩みの大本は瀧蔵なのだと、怒りと悲しみがこみ上げて来る。あちらから何も連絡してこないならこのまま捨ててしまおう…そうも思うが、クリスマスの夜、瀧蔵が苦しそうな様子で帰っていった姿を思い出す度に、沙織は携帯がいつ鳴るかと気になって仕事も手に付かなくなってしまうのだった。そんな自分を情けないと沙織は思う。
年も明け、年末年始のセールや催時も一段落した頃、思いきって電話をかける事にした。
「はい」
低い静かな声だった。懐かしさがこみ上げてきた。感傷に浸るまいと呼吸を整え
「今日、逢えないかしら」
沙織が切り出すと
「…いいよ」
長い沈黙の後、瀧蔵が答えた。が、それ以上何も言おうとしない。しびれをきらした沙織が
「何時にどこ?」
尋ねると
「…今日は早く終わるから待ってるよ」
落ち着いた声で言った。
瀧蔵とはこれまで、沙織が忙しい時ほどお呼びがかかる事が多かった。反対に、沙織がスケジュールの調整がつく時には瀧蔵が忙しかったりと、すれ違いを覚える事があった。それが故意ではないと分かっていても、大袈裟に言うと運命に邪魔されているような気分になる事があったのだ。しかし、今日は沙織の誘いに瀧蔵も「早く終る」と応じる。沙織はなんとなく、皮肉な気持ちになった。“ 今頃タイミングが合っても遅いわ ” そう思いながら携帯をポケットにしまった。
瀧蔵の部屋を訪ねると、何事も無かったかのような優しい顔で沙織を迎えた。いつになく優しかった。
「喉、乾いてるよね」
そう言うと自らキッチンへ赴きビールを持ってきた。黙り込んでる沙織に
「ピザでもとろうか」
久しぶりに訪ねた沙織を気遣っているのか、瀧蔵は明るく声をかける。が、沙織は首を振った。この数ヶ月間、何も無かったように振る舞う瀧蔵を見ているといつまでも怒っているのが大人げないように思えてくる。しかし、瀧蔵は今日になっても香子と別れるとか、悪かった、など、反省や謝罪の言葉は一度も言わない。
なし崩しにして誤摩化すつもりなのだろうか…そう考えると、沙織は改めて沸々と怒りが込み上げてくるのを感じた。
あの日の沙織の衝撃や、裏切りによる絶望感、そこから芽生えた瀧蔵への不信、孤独や寂しさ…その空虚な気持ちを紛らすようにこれまで嫌ってきた守屋と関係を持ってしまった事など、沙織には、うやむやに済ますことの出来ない、数々の試練と葛藤をもたらした数ヶ月間だった。それを簡単になかった事にできるほど、沙織は寛容ではなかった。
あの日もこの部屋だった…と明け方まで口論していた日の事がよみがえる。香子が訪ねてきて部屋の片付けでもしたのではないか、と部屋を見回し勘ぐってしまうのだった。
そんな沙織の胸中を知らないのか、知っていながらとぼけているのか、瀧蔵は一切を忘れたように屈託がない。
それが一層、沙織には腹立たしく欺いていい気になっているようにしか見えない。
長い沈黙の後
「ご機嫌なのね」
沙織は皮肉な笑みを浮かべて意地悪を言った。
沙織の棘のある言葉に一瞬表情を固くしながらも瀧蔵は言葉を飲み込むと、無言のまま寂しそうな笑みを浮かべた。瀧蔵はそんな沙織に取り合おうとせず、帰宅の時に買ってきたのか、沙織の好きそうな総菜や地下街で買ったタルトなどを黙々とテーブルに並べていた。
悲しそうな瀧蔵の表情を見た沙織は胸が痛んだ。が、原因を作ったのは瀧蔵自身である。沙織は、そんな瀧蔵の顔を見ずに
「どんな気持ちで今日まで過ごしていたか分かってるの?」
瀧蔵を睨みつけ、低い怒気を含んだ声で静かに言った。
瀧蔵は疲れたようにうなだれながら買い物袋を丸めていたが、何も言おうとしない。飽くまでも謝る気はないのかもしれない。
「わたしが今日連絡しなければ、あなたどうするつもりだったの?」
沙織の声は冷たかった。死刑を申し渡す裁判官のような無慈悲で淡々とした声色だった。その言葉は相手の出方次第では一触即発の事態を招きそうなほど怒りを含んでいた。
ため息をつきながら
「………そうやってさ、どうするどうするって追いつめられてもね…」
瀧蔵は悲しそうな、やるせない顔をうつむけたまま呟く。
「追いつめてるつもりなんてないわ。今だって冷静に訊いてるでしょ。感情的になってるつもりはないわよ」
沙織の口調は静かだが、鋭く容赦のない感じだ。
「そうやって、急いで答えを求めてもね、あれはこうでした、そうれはこうなんですって、説明出来るものじゃないだろ」
瀧蔵の口調は弱々しくどこか投げやりな感じだ。
「私が黙ってるとあなたは済んだ事のような顔をしてるわよね。説明できないのはどうして?」
苛立った口調で鋭い言葉を投げつけながら、沙織は自分がしつこいと思った。が、沙織にはどうしても曖昧なままやり過ごす事ができないのだ。
相変わらずはっきりしない瀧蔵の言葉を聞いた瞬間、また誤摩化すつもりか…そう感じた沙織は、抑えていた怒りが沸点を越え、どうなってもいい、そう思った。
「守屋さんと寝たわ!」
気がつくと、思わず口走っていた。
瀧蔵は、はたっと沙織を見据えると言葉が理解出来ないのか沙織の顔に目を当てながら
「……寝た?」
一瞬黙り込んでから、問い返した。
「そうよ。去年、車で送ってもらった時…」
なんとなく、瀧蔵の顔を正視出来なかったものの、勝ち誇ったような気分にはなれた。ふと、瀧蔵の顔を見ると瞬く間に顔色が変わった。
「寝たって…どういう事なんだ!」
一転して、沙織に激しく詰寄りだした。
瀧蔵の動揺の激しさにやや気圧されながら
「…だから、…寝たのよ。あなたとも散々してきたでしょ。そういう事よ」
沙織は開き直った口調で瀧蔵を見つめながら言い放った。
瀧蔵は明らかに取り乱していた。唖然とした表情で
「……どんな付き合いをしてるんだ…」
沙織の目をジッと見つめると、信じられないと言った表情で喘ぐように呟いた。
「どんな付き合いをしてるんだ!!」
激昂し、鬼のような形相で沙織を再び問い詰める。うろたえる瀧蔵の姿を見た沙織は、深い後悔と同時に、打ちのめしてっやたという勝利感に満たされた。これまでの憂さが一気に晴れたように胸がすくのを覚えた。
「別れろ!! 別れた方が良いいいよっ!!」
それでも、今にも泣き出しそうな瀧蔵を見た沙織は、あまりの剣幕に言葉を失ってしまったのだった。
守屋との関係をぶちまけて大喧嘩になってから、瀧蔵からの連絡が本格的に途絶えてしまった。
メールを送っても返信がない。
沙織は瀧蔵の狼狽ぶりを思い出すと、どれほど瀧蔵を傷つけたのかがわかった。
何度も何度も
「どういう付き合いなんだ!?」
目を見開いて必死に問いただしながら動揺していた。その姿は心なしか震えているようにも見えた。ただならぬ怒りと、壊れそうなほどの逆上ぶりを目の当たりにして、沙織は瀧蔵と初めてデートした夜に感じた、畏怖を覚えた。
冷静でサッパリとしたいつもの様子の裏側に潜む、深く激しい情念が妖気のように瀧蔵を満たし、その苦しみに瀧蔵自身が飲み込まれているような…言いようの無い苦しそうな感じ。
あんなに怒った瀧蔵を見たのは初めてだった。どうやら、本気で瀧蔵を怒らせてしまったようだ。
数日後、やっと瀧蔵は沙織の電話に出たが、沙織の話は一切聞こうとしなかった。
「もしもし」
沙織が繋がった途端言葉を発すると、瀧蔵は
「だめだ」
低く冷たい声で一言だけ言い、一方的に電話を切ってしまった。それ以降何回架けても瀧蔵が電話に出る事はなかった。
仕事に逃げようとも思うが、こちらも憂鬱な状況だった。沙織がどれほど冷たくあしらっても、守屋は彼氏面なのか以前にも増して馴れ馴れしい。周りに触れ回ったのか、はたまた、守屋の様子を見た周囲が何かあったと感じ取ったのか、どうも周りの反応からは沙織と守屋が付き合ってる…と疑っているのが伝わってくるのだった。
同じ営業開発部の広報課係長、杉浦などは沙織と歳が近いという気安さからか
「守屋さんと、仲いいんでしょ?」
などと、ずけずけと訊いてきたり何気なく冷やかしたりするのだった。
それが沙織には居心地悪く、会社に行っても針のむしろだった。沙織は以前にも増して厳しい態度で守屋に接するのだが、守屋は意に介してる様子はなく、逆に意地になっているように見えるほどだった。
沙織は、そんな周囲の様子を収める為にも、守屋本人にもう一度、分かってもらう必要があるような気がしていた。
そんな折り、残業の合間に十階の社員休憩室へ沙織が足を運んだ時の事だった。
時間は夜の十時を過ぎる頃だった。既に閉店し、バックに残る社員も少ない時間帯だ。息抜きに入ったその場所に、守屋が一人でポツンと座っていた。夕方までは社食でごった返してる休憩室も、この時間になると他に人影すらない。
給湯器からお茶を汲みたいのだが、目の前に守屋が陣取っていた。避けるのも不自然だと思った沙織はなるべく自然な明るさを心がけながら
「お疲れさまです」
声をかけた。食器カゴの中にある湯飲みを取り出すと
「おう」
気の無い返事が返ってきた。守屋は沙織を見ようともしなかった。
そのまま通り過ぎようと思ったが、言うなら今だ。改めて話しておいた方がいいかもしれない…そう思った。
ふとテーブルを見ると、守屋の前に丸藤の買い物袋が置かれていた。深刻なムードは避けたい沙織が
「それ、夜食ですか?」
話しかけてみた。守屋は無言のまま、地下食品売場の営業中に買込んできたと思われる寿司と韮饅頭を取り出した。
「わー! おいしそう〜」
沙織はそう言うと守屋の目の前に座り
「お腹空いた」
無邪気な感じで言ってみた。守屋は、沙織が言い終わらないうちに容器の蓋を開けると、寿司一貫一貫に少しずつ丁寧にお醤油をかけてくれる。そんな仕草を見た沙織は吹き出しそうになった。
なんて甲斐甲斐しいのだろう…と。箸もおしぼりも、沙織の前にきちんと並べ「さぁ、食べなさい」という感じだ。
沙織は、守屋に愛されると骨抜きにされそうだ、と思った。とにかく、その辺の若い女の子以上に気がつくのだから。
一緒に暮らしたら疲れそうだな…などと思いながら、沙織は寿司を頬張った。
「守屋さんは?」
「俺はいいよ」
全部沙織にくれる気らしい。沙織は半分も食べないうちに箸を置くと、守屋のこうして尽くしてくれる優しさを愛してあげられない自分が後ろめたくなった。
「ごちそうさまでした」
肝心な事が言い出せないまま立ち上がると、守屋が
「一緒に帰ろう」
淡々と言った。沙織は、少し甘い顔するとすぐにこうなる守屋だから、困ってしまう…そう感じながら
「…守屋さん。私、お付き合い出来ないんです。…ごめんなさい」
頭を下げた。
守屋は男前だと思う。外見だけでは女にモテない理由がわからない。現に、三年前、守屋が神戸から転勤してきた時も沙織の第一印象は良かったのだ。男前で、婦人のセールスマネージャーで独身で理知的で、好感度は高かった。
それが、守屋を知るほどにその歯に衣着せない毒舌の傾向や、旺盛な批判精神、周りを寄せつけないような強引さで婦人一番、唯我独尊を貫くやり方に沙織は疲れてしまった。
そうかと思うと、沙織とこうして二人になると実によく尽くしてくれるのだ。その落差に沙織は心がくすぐられてしまう。その気遣いは瀧蔵には一生真似出来ないだろうと思う。けれど、沙織が好きなのはやっぱり瀧蔵だった。これからどうなっていくのか見当もつかない。別れる事になるのかもしれない。それでも沙織は納得できるまでその想いを噛み締めたいと思っていた。誰か、他の男性で寂しさを紛らわすのではなく、仕事に励んで、やがてまた、新しい局面が見えてきたらその時、また考えたい、そんな風に思っていた。
守屋は、沙織の言葉を聞いても顔色ひとつ変えなかった。きっと、誘っても断るだろう、と予想していたのだろう。
それでも、言わずにはいられない気持ちだったのだろう、と沙織は感じた。フラれる事を気にするよりも、そう言いたかった守屋の気持ちが伝わってきたのだ。瀧蔵はフラれるのが我慢できない、という気位の高さと傷つきやすさがあった。その点も、守屋の方が図太そうだ。この人ならきっと、可愛い女性が見つかるに違いない、そう感じた沙織は、胸の中で『それを拒むような女なんです…守屋さんが執着する価値なんてないのです…』そう呟きながら、もう一度
「ごめんなさい」
心から詫びて休憩室を出た。沙織の、精一杯の誠意だった。