第十一回
沙織は酒席も酒も大好きで在職中は〈ザル〉と命名されていたほどだった。
が、さほど飲むわけではなく、せいぜいビール二〜三本が限界だった。にもかかわらず何故か沙織は酒豪に見えていたようで、飲み会には必ず招かれるのだった。
帰宅してからも神経が昂っていると寝つけない事があり、二十七〜二十八歳から寝酒を飲むのが習慣化していた。が、それでも350mlを一本飲めば充分だった。
休職中は無茶をしてワインのフルボトルを開けてしまう日もあり、最近どうしてこうお酒を欲するのか…と沙織自身怪訝に感じていたものの、それも今までのように忙しい日々に戻れば以前のペースを取り戻せると楽観していたのだ。そんな沙織にとって、この医師の言葉はこれから先の人生を諦めるよう促しているとしか聞こえない。
「肝臓を痛めるほど飲んだつもりはないんです。確かに、毎晩飲む癖はありましけど…それも二十代後半からでしたし……そう考えると、アルコールだけが原因とは…」
沙織はどうしても腑に落ちず医師に訴えた。実家の父も時折晩酌していたが、肝臓が悪いなどと聞いた事はない。
「体質もあるんです。特に、女性はアルコールへの耐性が弱いので飲んでいた期間や量がさほではなくてもこういう状態になる事は珍しくないんです」
水商売でもないのに…沙織は世間や親になんと説明すればいいのか、と暗澹たる気分になった。そんな沙織に追い打ちをかけるように医師は
「ペーパーテストの結果、アルコール依存症の可能性が高いんです。お酒はキッパリ止めてください。そうすれば、肝機能も完全とはいかないまでも、これ以上は悪化しませんから」
沙織は腰が抜けそうなほど驚いた。…アルコール依存症?…なんだ、それは!!
予想もしなかった診断結果に頭の中が真っ白になった。
「お言葉を返すようですが、そんなに飲んだつもりは無いんです。飲むのは主にビールでしたし、多くてもせいぜい二〜三本で…」
「ビールなら大丈夫、そう思ってる方多いんですが、ビールでも依存症になるんです。元々体にアルコールを分解する酵素が少ない人ほど、依存症になり易い。つまり、アルコールに負けてしまうんです。実際、分解酵素を持っている人は依存症にはなりにくいのです。量や期間、ビール云々ではありません」
沙織の必死の説明も徒労に終った。内科の医師から精神科のアルコール外来を受診するよう言われた沙織はショックのあまり言葉も出なくなっていた。
「自助グループへの参加を奨励しています。一度、見学に行かれてはいかがですか?」
アルコールの専門医は、断酒の為の自助グループに参加をするよう、沙織に強く勧めた。そんな医師の進言に沙織はなかなか応じようとせず、グループの見学は先延ばしになっていた。
『親になんといえばいいのか…こんなみっともないことになるなんて…口が裂けても誰にも言ってはならない』
悲壮なほど沙織はその結果を重く受け止めていた。
医師からの催促もあり、一ヶ月以上経ってからようやく自助グループへ脚を運んだ沙織は更に深く衝撃を受けるのだった。
自助グループとは、自らの酒害体験を同じアルコール依存症者の前で話す事によって経験を分かち合い、断酒していこうという趣旨の非営利組織である。
医師からは会について簡単な説明を受けただけの沙織は、訪れた場所で来た事を悔いたのだった。
そこに集う人は、酒焼けからか顔の黒い労働者風の中年男性や、強面でいかにもその筋の人といった風情の男性、水商売の女性など、人生に疲れ、酒に拠り所を求めながらそれに溺れ、人生の辛酸を舐めてきた者の吹きだまり、といった感じに映った。勿論、家庭の主婦や元々は幼稚園の教諭をしていた、という一見するとアルコールの問題を抱えているようには見えない女性もいた。が、話を聞くと摂食障害だったりとその内容は痛々しく、それまで沙織には無縁と感じられる体験談が次々に飛出す場だったのだ。そんな雰囲気に圧倒された沙織は、これまでの自分の人生とのギャップを感じ、目の前が真っ暗になってしまった。ただ、小さくなって会の終了時間を待つことしかできなかった。
これまでマスコミを通じてしか知らなかった社会の一端を垣間見た沙織は、目眩を感じながら逃げるようにその場を後にした。
帰る道すがらこれまでの人生を振り
『今まで自分はなんて恵まれていたのだろう…世の中にはなんていろいろな人がいるのだろう…自分があの人達の仲間だなんて…』
そう思った。沙織はショックのあまり心が塞いでしまい、歩く事も億劫に感じながら家路についたのだった。
「自助グループにはどうしても行きたくないんです」
沙織は自助グループでの様子を交えながら医師に訴えた。
「断酒は自助グループと通院と抗酒剤、この3本柱でやっと継続できると言われてるんです。自助グループに行って、酒害について話す事で断酒に繋げていくんですよ」
医師は自助グループの必要性を説くのだが、沙織にはどうしても馴染めなかった。
「わかってるんです。でも…こどもみたいでお恥ずかしいのですが、どうしても1人で通えそうにないんです」
沙織は不安だった。自分が落ちぶれたような気持ちになる事も、自助グループの人を仲間と呼ぶ事も、一切が怖かった。
「アルコール依存症は否認の病気なんです。まず、自分がアルコール依存症だという事をしっかり受け止めない事には断酒の継続に繋がらないのです」
いかに説得されようと、沙織に自助グループへ行く気はなかった。
頑な沙織の様子に医師は
「まぁ、辻さんの場合は重症という感じではないので…では、通院と抗酒剤で続けてみましょうか。その代わり、必ず薬は服用して下さい」
こどものように駄々をこねる沙織に苦笑いしながらも、医師は強く言い渡すと沙織は頷いた。
二週に一度の受診と病院が用意しているアルコールプログラムを半年間受ける事を約束し、沙織は自助グループへの参加を免除されたのだった。
安心と同時に、沙織の今後の計画はすっかり暗礁に乗り上げてしまった。
生活の事や再就職など、様々なことが思うとおりに運ばなくなってしまったのだ。
アルコールの事は誰にも言いたくない沙織にとって、相談相手もいなかった。
そんな生活の中、沙織は度々、瀧蔵を思い出していた。
こんな先の見えない不安な毎日でも、せめて瀧蔵が居てくれたなら…そう思う度に、五年近く前の出来事が脳裏を過ぎるのだった。
瀧蔵が、問いつめる沙織に香子との関係を告白した後、沙織は瀧蔵に不信を抱くようになっていた。そんな沙織の思いをよそに、瀧蔵は何事もなかったように明るく沙織に接しようとするのだが、香子と別れるとも別れないとも言わない瀧蔵の狡さと優柔不断さが沙織にはどうしても許せなかった。
その日以降、悩んだ末、沙織は瀧蔵と少し距離を取る事にした。それで壊れる関係ならばそれだけの縁だと諦めようと、その時の沙織は思っていたのだ。
ちょうどその頃、沙織の職場では年内で退社する女子社員の送別会があり、沙織はヤケ酒か、したたか酔った。終電がなくなり、予め自家用車で来ていた数名が同じ方向に帰る人を送る事になったのだ。
周りに言われるまま乗り込んだ車は守屋の車だった。乗った瞬間イヤな予感がしたが、沙織を含めて計五人で同乗していたこともあり、そのまま送ってもらう事にしたのだ。
途中で沙織は眠り込んだらしく守屋に起こされた時、車には沙織しかいなかった。しかも、ついた場所は守屋のアパートだった。
時計は午前二時に近かった。
「ここは…どこ?ですか」
酔いと今まで寝ていたぼんやりした頭で尋ねると、守屋は
「俺んち」
ひと言だけ答えて車を降りようとする。
「ちょっと待って下さい!」
車に置き去りにされても困る…戸惑いつつ守屋の後を追うと、階段を上がって直ぐのドアを開けるところだった。
「どこですか、ここ」
血相を変えて訊く沙織に守屋は淡々と
「だから、さっきから言ってるでしょ。俺んちだって」
そう言うが早いか、部屋の中へ入ってしまった。沙織も玄関まで入ったもののどうにもバツが悪い。
「他の人は?」
喘ぐように尋ねると
「みんな帰ったよ」
寝ていたせいか全く気づかなかったのだ。不覚だった、と沙織は成り行きとはいえ守屋の車に乗った事を悔いた。
「どうして起こしてくれなかったんですか?」
責めるようにと問いただすと
「近い人から順番に降ろしただけだよ。それに、俺は辻さんのマンションは出入り禁止でしょ」
嫌味っぽく言う。以前、突然尋ねてきた守屋をインターホン越しに素っ気なく帰した事があった。
「あれは…」
沙織が口ごもると
「そんな所に突っ立っていると落ち着かないよ。上がれば」
守屋は促した。守屋嫌いの沙織は一人暮らしの男の部屋、しかもしつこい守屋の部屋に一人で上がり込むのは抵抗があった。
「……一番近い駅はどこですか?」
電車はないが、駅まで行けばタクシーくらいはつかまるだろう。
「西横浜。歩くと二十分はかかるよ」
沙織はぎょっとした。誰かが
「この車、辻さんと方角同じだよ」
そう言われて乗り込んだはずだったのに、沙織の住まいとは逆方向だ。しかも、教えてくれた相手が誰だったのか思い出せない。沙織は罠にはめられたような気分だった。
丸藤は車通勤を認めないことになっていたのだが、守屋は会社の近くの駐車場を借り、車通勤していた。交通費は出るもの、それでは高くつくような気もするが、三十六歳独身にとってそのくらいの出費はどうという事もないのかもしれない。
故に、駅から多少遠くても駐車場がある部屋に住んでいる、と聞いた事があったが、守屋の住まいが西横浜とは知らなかった。
酔いのせいか沙織の頭はガンガンと痛んだ。車を降りる時に周りを見たが、暗く静かな場所だった。流しのタクシーが通るような場所ではなさそうだ。恐らく保土ヶ谷の駅もそう遠くないとは思うが、土地勘のない場所を一人で真夜中に歩くのも気が進まない。
沙織は途方に暮れたまま、その場に立ち尽くしていると
「飲む?」
守屋は冷蔵庫からビールを出し、玄関に立っている沙織に差し出した。
それを受け取ると、沙織は上がりかまちに無言で座りんだ。
「ずっとそこに居るの?」
守屋は黙ったままの沙織にそう言いながら上着を脱ぐとネクタイを外し、廊下の先にあるドアの奥へ消えてしまった。
間もなくシャワーの音が聞こえてきた時、沙織の胸は不安に高鳴った。
玄関のドアを開けて外を見るがやはり真っ暗だ。人の気配さえない。西横浜といっても繁華街から離れた住宅街のようだ。
ため息をつきながらタクシーを呼ぼうか思案していると、五分も経たないうちに風呂上がりのサッパリとした様子で守屋が戻ってきた。
「一晩中そこに居る気?」
季節は冬。寒くないはずはなく、沙織はカタカタと震えていた。
「嫌がる女性を押し倒す趣味はないから上がれば?」
守屋は呑気な様子でそう声をかけた。時計は午前二時半に近かった。
いくら守屋にそういわれても沙織はなんとなく信用ができない。好意のある酔った女性を深夜に連れて帰るのはやはり、魂胆があるような気がしてならない。
しかし、なんだかんだ言っても守屋は勤続十三年の上司だ。横浜が三店舗目の中堅で、転勤前の店でも女性に関する悪い噂はなかった。守屋の言うとおり、無理矢理何かする事もなかろう、何かあったら会社に言えばいい…沙織は決心して靴を脱いだ。