第十回
葛西からのセクハラを受けた沙織は団交を経て休職に入ったが、結局そのまま退社する事になった。
地方の慢性的な赤字が続く店舗を閉鎖して黒字の優良店のみを残し、他社との合併を行うなど、沙織の不在の間に会社の様相は一変していた。
復職を打診したところ、沙織は本社の総務部転勤と降格を申し渡された。本社といえば聞こえはいいが、要は見張り易い環境なのだろうと沙織は思った。しかも、一般職で転勤させられた上、課長代理の肩書きも外されるとなれば、今後社内では要注意人物として監視下におかれる事になるに違いない。窮屈な思いをしながら働くのならこの会社に残ったところで未来はない…悩んだ末、沙織は自己都合退社を選んだのだった。
何の為の団交だったのか…考える度に虚しい気持ちになった。が、同期も散り散りになり、親しかった仲間も概ね退社していた。
これまでのキャリアを潰された今「店は自分が動かしている」といったかつての自負心でさえ、風前の灯だ。もはや丸藤に未練はなかった。
退職金や積立金、これまでの預貯金や失業保険でしばらく食いつなぐ事にして、休職期限の一年半で辞表を提出した。
休職期間を省いて約七年在籍した会社だった。
気がつけば、沙織は三十一歳になっていた。
仕事を辞め、今後について考えようと思うのだが、この頃の沙織は体調が思わしくなかった。
疲れ易く体が重い。休職中の沙織は酒量が増す一方だった事から心身共になまっている、と感じた。すっかりだらけてしまった生活を勤めている頃のペースに戻そうと決意し、心機一転、これまでのキャリアを活かせる仕事を求めて再就職先を捜し歩いていた。その帰り道だった。
沙織は突然、電車の中で生まれて初めて意識が遠のくような激痛を腹部に感じたのだ。立っているのもやっとの痛みだったが、帰宅ラッシュの車内で席を譲ってくれそうな人など居ない。手すりに掴まりながら辛うじて立っていたが、油汗がにじむような痛みで周りの音も耳に入らないほどだ。自宅に戻った途端、床にうずくまると唸り声をあげていた。一刻の猶予もない痛みだった。視界が遮られていき、意識が朦朧としてくる。『死ぬかもしれない』不安にかられ、救急車を呼ぶと、沙織は電気やエアコンをつけたまま、着の身着のまま搬送された。
夜通し行われた検査の結果
「緊急入院してください」
明け方、医師からそう申し渡された。
「入院……」
沙織は言葉を失った。
「どこが悪いんですか?」
病院に着いてから点滴を受けていたせいか、痛みはすっかり引いていた。これで帰れると安心していたところでの医師の言葉に、沙織は戸惑いを隠せない。
「精密検査をしないとなんとも言えませんが…肝臓に問題がありますね」
沙織はにわかに信じられない。今まで風邪をひいても気力で治してきたし、インフルエンザでさえもワクチンや点滴を打って仕事をしてきた。体力には自信があったし、大病の経験もない。健康だけが取り柄、と自慢するほど元気だった。 それが急に何故…沙織は何を尋ねればいいのかさえ分からなかった。
「肝臓、ですか……あの、入院って…どうして?」
医師の言葉を紡ぎながら訊くと、
「原因については調べる必要がありますね。ですから、このまま入院していただきたいのです」
医師は沙織の目を見ながら静かに言った。
「困ります」
沙織は即座に答えた。
仕事を辞め、これからどう生きるのか大事な時に入院などしていられない。金もかかるだろうし、仕事も決まっていない。ブラッシュアップに資格の取得でも、と考えていたところなのだ。とにかく今、体を壊すのはなんとも困る感じだった。しかもこの日このまま入院しても、部屋はエアコンもつけたままだ。帰らない訳にはいかない。
そんな事情も話したが医師は
「とにかく、今日帰る事は反対です。腹部は外から見えませんから、今日のように突然容態が変わる事もあるんです。帰宅中に万一の事があっては責任がもてません。今日だけでも、このまま入院して、検査を受けて下さい」
医師は譲らなかった。それでも沙織が
「着替えなど取りに行ってくれる家族もおりませんし…とにかく、いったんは帰して下さい」
沙織は医師に頭を下げた。が、医師は2人掛かりで沙織の帰宅を止めようとする。その時、沙織は事の重大さに気がついた。
結局、沙織は無理を言ってその日、明け方にタクシーで帰宅をしたものの、渋々帰宅を認めた医師は気の進まぬ面持ちで
「何かあったらすぐに病院へ連絡を下さい」
真面目な顔で沙織に念を押した。やっと帰る事は許されたが、週明けにでも検査を受けるよう言われた沙織は暗い気持ちで週末を過ごした。
『こんな時、誰かに頼りたい…』
親元を離れて以降、ここまで体の不調を覚えた事はなかった。休職中の沙織は、それまでの激務から久しぶりにのんびりと日々を過ごしていた。社会勉強を兼ねてアルバイトをしてみたり、学生時代専攻していたフランス語を復習したりと、とにかく疲れをとることに終止していたのだ。すっかり英気を養ったつもりでいた分、その衝撃は大きい。
「恐らく、アルコールが原因でしょう」
沙織の肝臓の疾患はアルコールによるものと、後日医師は見解を伝えた。
「アルコール・・・」
沙織には意外だった。
確かに、休職以降、酒量が増え、時に予定がないのをいいことにランチをとりながら飲む事もあった。そんな自堕落な毎日も、これから再就職を果たし、元のペースに戻そうと考えていただけにショックだった。
「しかも、肝機能障害の末期です」
医師はやや難しい顔で沙織に告げた。が、沙織には今ひとつ事態が飲み込めない。
「末期といいますと…」
おずおずと沙織が尋ねると
「このままいくと、肝硬変ですね」
カンコウヘン…沙織は、医師の言葉を頭の中で反芻した。
「肝硬変の次は肝臓癌です」
「癌!!」
ここまできてようやく沙織は事の重大さを認識した。
尤も、今日明日癌になるという話ではなさそうだが、このまま飲み続ければそうなるだろう、ということのようである。しかし、沙織には寝耳に水と言った感じでなんとも解せない。
「あの…そんなに悪いんでしょうか?」
沙織が医師の診断に疑いを覚え慎重に尋ねてみると、医師は毅然とした口調で
「悪いですね。進行が早いのかもしれませんが…女性の方はアルコールで体を壊し易いんです。今後はお酒は一切止めたほうがいいですね」
非情な宣告に聞こえた。