では外へ出よう。
「今日は雲が多いですね」
放課後にいつもの場所でいつものように、わたしは志岐くんと並んで空を見上げていた。透き通った青い空には白い雲がいくつも並んでいて、雲というよりも膜というような雲が空を包んでいる。それでも風が膜を吹き流して、空の青はわたしたちを見下ろしている。わたしはこの青がどうしようもなく好きで、放課後は決まって学校の裏の小高い丘で空を見上げている。この広い空の向こうには何があるのだろう――そんなことをたまに考えながら、わたしは空を見上げる。
夏の太陽はその雲のおかげで、少しだけその勢いをそがれている。木陰に寝転ぶわたしたちは、なでるように吹く風を感じながら、それとは対照的に耳をつんざくセミの声を楽しんだ。
「雲は秒速一センチメートルで落下しているらしいですよ」
「そうなの?」
雲は浮いているものだと思っていた。風に吹かれて流されて、やがてきえていくものだと。志岐くんは「らしいですよ」とうなずいた。志岐くんもあんまり自信はないみたいだ。
「最近読んだ小説に書いてたんですよ」
「なんていう本?」
その本はわたしも名前だけは知っていた。たしかアニメ映画だったはずだけど、いつの間にか書籍化していたみたいだ。内容は見ていないからはっきりとは知らないけれど、とても切ない話だとは聞いている。
「そのアニメを作った人が小説で物語を補完したんですよ」
「そうなんだ」
志岐くんはいつも本を読んでいるけれど、そういう本も読んでいるのが意外だった。前に教室で話した時に読んでいた本はミステリだったから、そういう方面をよく読むのかと思っていた。確かに志岐くんの部屋にはジャンルを問わずいろんな本があったけれど。あんまり愛とか恋とか、好きとか嫌いとかそういうものは読まないと勝手に思っていた。思っていたからそのまま言うと、志岐くんはあいまいにうなずいた。
「否定はしませんけどね。一応これでも雑食系ですよ」
「ちまたでは草食系男子が増加中って言われてるけど」
「それとこれとは別問題です」
やれやれ、と志岐くんは嘆息した。
そしてわたしたちはまた無言になって、思い思いに空を見る。雲の流れ、空の色、雲の形が何かに似てるだとか、風が強いだとか、そんなことをたまに言い合いながら。わたしたちの放課後はいつもこんな感じで消費されて、なんとも言えない満足感を持って帰路につく。
そんな毎日。
卒業するまでは、きっとこの生活を続けるのだろうという漠然とした思いがある。そして何よりそうであってほしい。
「新しい会員、増えませんね」
「増えてほしい?」
わたしは別に増えてほしいとは思わない。
一年生の時はひとりだった。ひとりで「部活なんだよ」と主張し続けた。
二年生になって志岐くんが入会した。ふたりになったから「部活だ」なんて強情になるんじゃなくて、素直に「同好会だよ」と訂正した。
そして今。明日から夏休みが始まる終業式の日。今年は勉強の年だ。大学受験、就職試験、もしかしたら海外へ出て行く人もいるのかもしれない。どうであれ、今年がこの高校生活で一番がんばらなくちゃいけない年なのだった。
そんな中で、志岐くんとふたりで話せる時間は、わたしにとってとても大切な時間だった。できることならずっとふたりだけの同好会でありたいと思ってしまうほどに。
「あんまりそうは思いませんね」
志岐くんは首を振った。鞄からボトルタイプの水筒を取り出して、のどを潤してから彼は続けた。
「ぼくは静かに空を見たいだけで、わいわいやりたいとは思ってませんから。伊空先輩はどうですか?」
「わたしも志岐くんと同じだよ。ひとりの時はちょっと寂しい時もあったけど、今は志岐くんがいるからね」
「卒業したらひとりですね。寂しくて泣かないでくださいよ、伊空先輩」
「こっちのセリフだよ。この学校にはわたしがいたっていう思い出があるんだから」
言い終わって、自分が言ったことが恥ずかしくなった。すこしというか、かなり気取った言い方になってしまった。
「言っていて恥ずかしくないですか?」
「言わないで」
どうして志岐くんはわたしが考えていることを読み取ったようなことばっかり言うのだろう。今に始まったことではないけれど、それこそ初めて会った時からそうだったけれど、不思議だといえば不思議だ。あの春――志岐くんに誘われて桜を見に行ったあの時から、それはより顕著になっている。
そういえばお互いの家をちょっと行き来することはあったけれど、デートということはしてないんじゃないだろうか。付き合い始めてもう三ヶ月くらい経っているのに。
「え? あ……そういえばそうですね。毎日会ってるので、全くそういうことを意識していませんでした」
今まで思い至らなかったわたしもわたしだけれど、志岐くんも志岐くんでひどかった。こういうところを見ていると、お互いが恋愛初心者だと思い知らされる。わたしも志岐くんもべったりするタイプの人間じゃない、というのが一番の理由なのだろうけれど。聞くところによると、毎日メールしているカップルもいるのだとか。わたしにしてみれば、どうして毎日そんなにメールして話題が尽きないのかと思ってしまう。
「まあいいじゃないですか。こうやってふたりでいること自体、デートと言って差し支えないんじゃないですか? えっと……放課後デートってやつです」
「そんなものなのかな?」
「そんなものでしょう。ぼくは誰かと付き合うのは始めてなのでよくわかりませんが」
「わたしだってわかんない」
ふたり向き合ってため息をついて、やれやれだねと肩をすくめた。
夏休み初日は雨が降った。窓を開けて寝ていたわたしの鼻に、雨のにおいが舞い込んできて、起きたときすぐに雨が降っているとわかった。音よりもにおいに先に反応した。雨は外出を控えさせるほどの勢いではないけれど、なんとなく外出を億劫にさせるくらいには降っている。時刻は六時半。いつも起きている時間よりも早い。もしかしたら雨のにおいに先に気づいたようでいて、雨の音で目が覚めたのかもしれない。勢いこそあまり強くないけれど、雨の音はそれなりに大きい。
台所まで行って、ふだんはあまり食べないトーストと目覚ましのコーヒーを準備した。ジャムは使わずにマーガリンだけをトーストにぬった。朝ごはんにはあまり時間をかけず、すぐに二階に上がって歯磨きをして、長くなって身勝手にはねやすくなった髪を梳かした。髪はもう肩よりも少し下まで伸びていた。いつから伸ばしていたのか思い出そうとしたけれど、うまく思い出せなかった。
「ちょっと重いなぁ」
髪が伸びればやっぱり頭が重くなる。近々短く切ってもらうことにしよう。
七時半になって雨はやまず、仕方なく雨のやむのを待たずに志岐くんの携帯に電話をかけた。コール音が何度も鳴り、そろそろ案内メッセージが流されるころになって、ようやく志岐くんが電話に出た。
「なんですか、伊空先輩。ぼくは夏休み初日の怠惰な生活を満喫したいんですが」
志岐くんの声はまだ眠たそうな声で、わたしの電話によって目が覚めたのは聞くまでもないことだった。ちょっと悪いことしたかなーとは思いつつ、
「散歩に行きましょう」
志岐くんを早朝デートに誘った。志岐くんは呆れたとばかりにため息をついた。
「さすが伊空先輩ですね」
「怒ってる?」
さすがのわたしもすこし不安になった。
「そりゃまあため息をつきたくなる程度には。それで、何時にどこへ行けばいいんですか?」
「えっと八時に校門でいいかな?」
「別にいいですけど、その時間は部活動で学校にいる生徒もいますよ?」
「……? 何か問題ある?」
何でそんな当たり前のことを確認するんだろう。何か都合が悪いことでもあるのかな?
「いえ、特に。ではその時間に校門で」
そして電話は切れ、わたしは揚々とした気分で準備を始めた。
八時が過ぎても雨はやまず、どうやらわたしの予想は外れていなかったのだと安堵した。雨がアスファルトをぬらしてその黒をさらに濃くしている。さすがに外を歩く人はほとんどいなくて、代わりにわたしの隣を車が何台も通り過ぎていく。車のタイヤが巻き上げた水が危うくかかりそうになったけれど、幸いにして事なきを得た。
わたしが校門に到着したのは八時十分で、志岐くんが茶色の傘をさして待っていた。その傘はふつうの傘よりも骨が多くて、和傘のような形をしている。謝りながら声をかけると、志岐くんは露骨なため息をついた。
「ぼくが遅れるならまだしも、どうして伊空先輩が遅れてるんですか」
「ごめんね。家を出る時にお母さんに捕まっちゃって、少し出るのが遅れちゃったんだよ」
「そうですか。それなら仕方ないですね」
「ホント、ごめんね」
もう一度謝ると、志岐くんは「いいですよ」と首を振って笑った。
「おはようございます、伊空先輩。今日は何をするんですか?」
「おはよう、志岐くん。今日は雨の散歩をしましょう」
「散歩ですか」
志岐くんは少し意外そうな顔をした。
「うん。晴れた日の散歩も良いけど、雨の日の散歩もなかなか良いものだよ」
雨が地面をたたく音、建物をたたく音、傘をたたく音――それらを聞きながら、雨のにおいを感じながら、晴れた日とはちょっと違った表情を見せる道を歩く。雨の日の散歩は音に満ち溢れている。夏は虫の声でにぎやかだけど、雨の音だって聞いてみればきれいなものなんだ。
「そうですか。では、行きましょうか」
わたしと志岐くんはどちらともなく歩き出した。横断歩道も信号もない道路を横断して、本道をそれて裏通りへ。人の姿も車通りも少なくなって、心なしか建物自体も古そうな雰囲気をかもしている。ふだん使わない道を歩くのは新鮮な気分で、となりに志岐くんに志岐くんがいるのも相まって、わたしの胸は高鳴った。志岐くんはどうなのかなと思って、志岐くんの顔をうかがうと、志岐くんは「ぼくの顔に何かついていますか?」と、わたしの視線にすぐに気づいた。
「ううん。なんにもついてないよ」
「今日の伊空先輩はなんだか変ですね。何かありましたか?」
志岐くんは心配そうな顔をしている。どうやら本当に心配されているのだとわかって、申し訳なくなった。
「まあ、思うことがあるわけですよ。わたしにも」
能天気に生活できればどれだけ楽だろう。けれどそれを許してくれないのが現実で、その先に待っているのが社会だ。学校だってやっぱり社会なのだとわたしは思うのだけれど、その『小さな社会』を社会と認めてくれる人は案外少ない。その『小さな社会』から次のステージに進むこのなんとも言えない気持ちが、わたしを苛むのだった。受験が嫌だとか、働きたくないとかではなくて、ただ親しんだ空間からその外へ強制的に出されてしまうのがわたしをなんとも言えない気持ちにさせる。
「思春期ってやつじゃないですか?」
「そうなのかなあ?」
「だと思いますけどね。意識してるかどうかは別として、他人が敷いたレールの上を走るのが嫌だとか、自分はもっとすごいことができるはずだとか、そういう気持ちがあるのかもしれませんよ。ふつうとは違う道を進みたいとか。往々にしてそういうふうに思ってしまうものなんじゃないですか?」
志岐くんは知った風なことを言う。
「もしかして経験ある?」
「いえ、ありません。ぼくはこれでも自分の身の程はわきまえているつもりですよ。できることもできないことも理解しているつもりです」
「なんでわたしといっこしか違わないのに、そんな達観したようなこと言うかなぁ」
「よく言われます。ぼくからはなんていうか、若々しさというものがあんまり感じられないみたいです」
大きなお世話ですよね、と志岐くんは続けた。わたしにも少なからず似たような経験があったから、「そうだね」とうなずいた。人は人のことをわかっている風に評価して、時にはその人の力となり、時にはその人を傷つける。評した人は忘れてしまっていても、評された側はそれを覚えている。下された評価は、ずっと心のどこかには残り続ける。
車が珍しく一台通り過ぎて、水しぶきがわたしたちのニメートルほど前で派手にとんだ。あまり広い道でもないのに、通り慣れた人はこんな場所でもそこそこの速度で通り過ぎていくから少し怖い。雨の日は走行音が聞き取りやすいけれど、晴れた日に電気自動車が通った日には気づかないかもしれない。
「雨の日くらいは速度を落としてほしいですよね」
「そうだね」
離れていく途中でも車は何度かしぶきを上げて、電柱や塀を濡らした。ふと空を見上げてみると、雲はやっぱり厚く空を覆って、これからも雨を降らせることをわたしたちに見せつけている。それでも雨の勢いが強くならないのは、もしかしたらわたしたちの散歩の心配をしてくれているのかもしれない。志岐くんも静かに空を見上げて、すっと目を細めた。あの雲の向こうに何かを見ているのだろうか。
「伊空先輩」
「なあに?」
志岐くんは空を見上げたままわたしを呼んだ。
「伊空先輩は大学に行くんですよね?」
志岐くんが大きな水たまりを避けて、わたしに手を伸ばす。その手をとって水たまりを飛び越えた。着地した時に足元で水音がして、水がすこしはねた。
「そうだよ」
「どこの大学へ行くんですか?」
「実はまだ、ここだ!って思える場所が見つからないんだ」
オープンキャンパスにも行ってみたけれど、だからといって大学の何がわかるかと言われれば、それは些細なものでしかない。結局入ってみなければどんな場所かはわからないわけだし、どんな学年になるかもわからない。そういう意味ではどこに入っても同じなんじゃないかとも思う。学部と学科で選ぶ――のがわたしの考え方なのだけど、そもそも選択肢があまりなかった。
「夏休み始まってますけど、そういうものなんですか?」
「有名私立だとか、国公立だとか狙っている人ならもう決まってると思うよ。でもわたしはそういうんじゃないから」
もしかしたら学力がそれに達していない負け惜しみだなんて、そんなことを思われるかもしれないけれど、わたしは学歴にあまり重きを置いていない。必死に勉強して良い学校に行くのはきっと良いことだけど、わたしは自分の身の丈に合った学校で十分だと思っている。背伸びはしないのだ。努力したくないとかじゃなくて。
「でも突然どうしたの?」
今まで進路の話をしたことはあったけれど、具体的にどこの大学へ行くかを聞かれたのは初めてだ。あまりそういうことには興味がないのだと思っていた。
「いえ。遠くに行くなら、あまり会えなくなってしまうのかもしれないと思いまして」
「ああ」
「だからってじゃあ近場にしようか、というのはナシですよ。行きたいところへ行ってください」
正直な話、わたしは今、考えていたことを見事に言い当てられたのだ。県内には一校だけだけど狙っている学科があって、志岐くんと会う機会が減るくらいならそこに決めてもいいかと思った。だから志岐くんに「行きたいところへ行ってください」と言われて、少し焦った。わたしは自分が行きたいところがわからない。わからないから特定の志望校がないんだ。
わたしをせき立てるように風が吹いて、横から降りこむ雨が服を濡らした。志岐くんはショルダーバックからタオルを取り出して、自分よりも先にわたしの服をぽんぽんと叩くように拭いてくれた。
「たぶんまた濡れちゃうよ?」
「それでも今濡れていますから」
さすがに足元はキリがないですけど、と志岐くんは笑う。
「なんだか志岐くんって、わたしよりも女の子っぽいよね」
「伊空先輩がガサツなのでは?」
「ガサツっていうほどかなあ?」
「……そこまでじゃないですね」
せめて大雑把だと言ってほしい。あまり細かいことに頓着しないのは事実だから、そこまでは否定しない。というよりもできない。
「でも『らしさ』って考えれば考えるほどわからなくなりますよね」
「どういうこと?」
「ぼくはまだ男だからあんまり気にしませんが、伊空先輩ならわかるんじゃないですか? 学生らしくしろっていうのはぼくもよく言われますけれど、伊空先輩なら女らしくしろって言われたりするんじゃないですか?」
「まあ、そんなことを言われることもあるかなあ?」
例えば地面に寝転ぶとか、時間もわきまえず男の子を遊びに誘うだとか、そういうことを注意されることがある。そしてその際に、女の子らしく――そんなことを言われることもないとは言えない。
「じゃあ自分らしさっていうのはどのくらい大切なんでしょう? 自分らしさを表に出せば、他のらしさを要求されてしまいます。けれどそのらしさを求めると、今度は自分らしさを要求されます。その中間をとるようなことができれば、あるいは良いのかもしれません。けれどそれって結局のところ、ただ中途半端なだけのような気もします」
中途半端。
それはきっと、今のわたしにぴったりの言葉なのだと思う。わたしはそれなりの語彙力があると思っているけれど、そのわたしの中にある全ての言葉の中で、もっともわたしという人物を如実に表す言葉というのは、きっとこの言葉だ。決められずに先延ばしにして、そしてそのまま答えを保留している。そして限界まで時間を稼ごうとしている――まさに今のわたしだ。
雨が少し強くなったような気がした。実際にはそうではなくて、わたしが呆けていて雨の音で現実に戻ってきたというだけの話だった。
「どうかしましたか?」
志岐くんがわたしの顔をのぞきこむ。「ううん」と首を振って「考え過ぎじゃないかなあ」と、努めて冷静に答えた。そうしないと志岐くんにわたしの迷いを見透かされてしまう、そんな気がしたから。あるいは志岐くんのことだから、もう気づいているのかもしれない。志岐くんはそういうことをきっと見逃さない。
「そうかもしれませんね。でもそのそういう価値観っていうか、言ってしまえばある種の偏見に影響されざるを得ないぼくたちっていうのは、もしかしたら昔からあまり進歩していないのかもしれませんよ」
「それこそ考え過ぎだよ。偏見もあるけれど、変わっている部分だってたくさんあると思う」
いつか志岐くんと話したことがある。
無常観。
移ろわないものなどなく、いつもめまぐるしく変化する世界。それがこの世界で、だから進歩がないなんてことは決してないのだ。良しにしても悪しきにしても、必ず変化している。
「そんな話もしましたね」
志岐くんは懐かしそうに目を細めた。それは去年の秋のこと、わたしが志岐くんと打ち解けようと躍起になっていた頃の話だ。今もあの頃もやっていることは変わらないけれど、わたしたちの距離感はやっぱり変わっている。もしかしたらわたしが気づいていないだけで、もっともっと変わったことはあるのかもしれない。決してあの頃には戻れない。
戻りたい。
そんなふうに思ったことはないけれど、あの頃のわたしが今のわたしを見たらどう思うのだろう。
「ぼくはあの頃に戻りたい、そんなふうに思う時があります」
「そうなの?」
「はい。こんなことを言うと笑われるかもしれませんが……あの頃は怖いものなんてありませんでした」
志岐くんは歩調を速めた。わたしも志岐くんに合わせて、けれどちょっと距離は離れて、彼の二歩くらい後ろについて歩いた。
「学校の生活は自分だけで完結していました。自分ひとりで勉強して、自分ひとりでご飯を食べて、自分ひとりで休み時間を消費して、たまにクラスメイトと話をして、そして放課後に空を見ていました」
友達がいないわけではないのをわたしは知っている。けれどいつも一緒に誰かといるような人でもないのも知っている。広く浅く、志岐くんは個人的に深く誰かと付き合うようなことをしない――そんな人だ。
車が一台、わたしたちの横を通り過ぎる。
「漫画なんかではよくある話なんですけど、まさか自分がそんなふうに思ってるなんて思いもしませんでした」
それはまるで独白のようで、懺悔のようで、わたしは相槌さえ打てなかった。志岐くんはたまに、こんな雰囲気を漂わせる。こういう雰囲気の時の志岐くんは、目の前にいるのにとても遠い存在のように感じる。手を伸ばしたら届く距離なのに、まるで水面に映った何かのように触れられないように感じるのだ。わたしはこの感覚がいつの間にか怖くなっていた。彼がどこか遠くへ行ってしまう――そんな錯覚を覚えるから。錯覚が錯覚ではなくなるように感じるから。
「ねえ伊空先輩」
「うん?」
しかし志岐くんは何も言わなかった。お互い無言のまましばらく歩いて、細い旧道を抜けて本道に交わる交差点へと出た。その道では車がまばらだけれど行きかい、田舎の朝を告げている。本道とはいえそれでも細い道、いつもなら小学生や中学生がいて車も面倒な道だけど、夏休みの今はその心配もなく車も伸び伸びと走っている。時間はすでに登校時間を過ぎているけれど、そういう雰囲気はたしかにあった。あるいは、夏休み早々からどこかへ遊びに出ているのかもしれない。旧道から本道に出たわたしは、行きかう車が楽しげなものに見えた。
「雨、やみましたね」
志岐くんが傘を閉じながら言う。そう言われて初めて、雨がやんでいることに気づいた。雨上がりの空は雲間から太陽が指し込み、その明るさを取り戻そうとしていた。降り注ぐ光が木々の葉についた水滴を光らせ、電線やガードにぶら下がる水滴を幻想的に見せた。そこは別世界のような美しさで、いつもこの町で生活しているはずなのに、まるで知らない世界に迷い込んだかのように感じた。
傘を閉じたわたしたちは、陽の光に目を細めて、横にならんで歩きだした。さっきまで志岐くんを遠くに感じていたけれど、今はとても近く感じた。さっきまでのが嘘のように、彼のとなりが心地良い。
「濡れていませんか?」
「ううん、大丈夫だよ――わっ」
舗装されていない道を歩いていたわたしは、ぬかるんだ土に足をとられてバランスを崩した。けれど、となりを歩いていた志岐くんがわたしの腕をとって、転ばないように支えてくれた。
「ありがとう」
「いえ、転んで怪我でもしたら大変ですから」
そんなことを言う志岐くんに、私は思わず笑ってしまった。志岐くんは「どうしました?」と、怪訝そうにわたしを見る。
「前にもこんなことがあったなと思って」
「ありましたっけ?」
「覚えてない? その時はね、その日一日手を繋いだままだったんだよ」
「……覚えてないです」
「そっか。あの時、わたし結構ときめいたんだけどなあ」
「そうなんですか。伊空先輩でもときめく瞬間ってあるんですね」
「ちょっと、それどういう意味?」
聞き捨てならないセリフを志岐くんが吐いて、わたしは志岐くんの手の甲を軽くつねった。志岐くんは手をさすりながら、「伊空先輩はガサツって話ですよ」といたずらっぽく笑う。志岐くんの頬は、なぜか少しだけ赤くなっていた。
「それとこれとは関係ないでしょ!」
「ははは。すいません、あのなんとか君ってアイスおごりますから許して下さい」
「名前くらい覚えてるやつで提案してよ……」
大げさにため息をついて、志岐くんからぷいっと顔をそらす。笑顔になるのが抑えられなくて、それを見られるのがなんとなく恥ずかしかった。
「伊空先輩?」
「モナカ」
「はい?」
「モナカにしなさい。命令です」
志岐くんは一瞬ぽかんとして、それから「はい」とほほえんだ。
もしかしたらわたしたちの行く道は、いつか別のものとなるのかもしれない。同じであるものがないこの世界なら、そうなってもそれはきっと自然なことで、気づく前にそうなるのだろうと思う。
秒速一センチで落下する雲が、やがて雨や雪となって地上に降り注ぎ、やがてその姿を消してしまうように、徐々に徐々に、わたしたちの世界は移ろうのだろう。けれどその移ろいの中で見える一瞬がわたしたちの心を打つなら、どんな結果になってしまっても、精いっぱいに歩いた道はきっときれいなのだろう。大切なものとなるのだろう。
「志岐くん」
「ひとつですよ」
「ケチ」
「後輩にたからないでください」
「おごるって言ったの志岐くんじゃない……じゃなくて、志岐くん」
「なんですか?」
「これからもよろしくね」
「なんですか、改まって。それはぼくのセリフですよ。ぼくはまだまだ伊空先輩から教わりたいことがあります。ぼくのほうこそよろしくお願いします」
だから少し立ち止まってみるのも、それはきっと良いことで。
その度に、今の自分を見つめ直すのだ。