89.家族優先
89.家族優先
和美が退社した。新しく入ってもらった派遣社員は37歳、二人の子供の母親だった。和美との引継ぎは特に行わず、高田が大まかに業務の内容説明をした。彼女はそれらをすんなり把握してくれた。
羽田琴音。元々デザイナーとして設計事務所で働いていた。自身も一級建築士の資格を持っている。結婚して子供が出来た時点で育児休暇を申請していたが、立て続けにもう一人妊娠したため、退職して育児に専念していた。下の子が小学校に上がったことを機にまた働こうと考えたのだ。時間が不規則なデザイナーとしての実務ではなく、家庭に支障が出ない事務職として派遣会社に登録した。設計事務所のティーエムアーキテクトに採用されたのはたまたまだった。
「歓迎会ですか?家庭があるので時間外でのお付き合いは遠慮させてください」
琴音ははっきりとそう言った。
九段下と神保町の中間くらい。靖国通りから1本脇に入った通りにイタリアンレストランがオープンした。ファーストフード店のような店構えで学生やサラリーマンでも気軽に入れそうな感じの店だった。店の前に掲げられたランチメニューの値段もリーズナブルで開店初日から行列が出来ていた。その行列の中程に康祐は並んでいた。
「佐久間さーん!」
オーナーシェフの尾崎が佐久間の姿を目にして声を掛けた。
「席を用意してありますから、こちらへどうぞ」
「いや、こういう時は並んで食べてこそですよ」
康祐はそう言って、尾崎の申し出を断った。開店と同時に第1陣が店内に入って行く。第1陣は康祐の手前で満席となった。それから20分後、ようやく康祐は店内に入りカウンター席に着いた。
「シェフのおすすめランチを!」
尾崎が照れくさそうに笑って、頭を下げた。
設計事務所の内情が解っているだけあって、琴音はてきぱきと働いた。そして5時になると足早に事務所を後にした。
九段下から半蔵門線で11分。清澄白河で下車。赤札堂で簡単な買い物をして帰る。まだ真新しいマンションの7階にある4KDKの部屋が琴音の家だ。そこに、夫と二人の子供、夫の母親と同居している。琴音が外に出ているときは夫の母親が子供たちを見ていてくれる。琴音にとっては何よりも大切な家族だった。




