最終話:狼の赤い寄り道
少年の慟哭は、夜まで続いた。窓から差し込む弱々しい月光は、二人ではなく、老婆の亡骸を照らしていた。
彼は泣きじゃくりながら、少女に自分のことを全て話した。最初は群れで暮らしていて、気がついたら独りぼっちになっていて、宛もなくさまよって、森に辿りついて――
「それで、きみとであった」
「そうだったのね……」
彼女は慈しむように少年の頭を撫でながら、
「私も、あなたと同じように群れと離れ離れになったのよ」
「…………」
しかし突然、少女は表情を歪めた。
「人間の仕業よ。きっとあなたの群れも襲われたんだわ」
彼女の憎しみに駆られた顔を、彼は初めて目にし、驚愕した。
「私の群れはある日突然人間に襲われた。銃を持った奴らに、父さんも母さんも撃たれた。他の仲間や兄弟とは離れ離れになったまま。此処に辿り着いたのは偶然」
自らの境遇を語るうちに、表情は次第に安らいでいった。だが、少年は彼女の心の裏を垣間見たような気がして、ほんの少しだけ怖かった。彼自身、人間に襲われたことがあるとはいえ、憎んでいはなかったからだ。
「この家にも、最初は人間が住んでいた。私は此処で、初めて人間を襲った。仕返ししたの。それが初めての狩りだった。それから、あの木の実を食べたの。そうしたら……」
「にんげんに、なってたの?」
少女は黙って頷く。
「でも、耳だけは変わらなかった。それに気づいたのは、初めて此処に人間がやってきたときだった。その時も逆に食い殺した。でも、私が襲った人間は皆銃を持っていなかったわ」
少年も、銃の恐ろしさを知っている。見えない何かが大きな音と共に迫り来る恐怖は、ぶつかってしまったら最期だ。
「あなたのお母さんもここに来た時既に怪我をしてたじゃない。銃で撃たれたに決まってる……」
少女は自分の肩を抱いた。辛い思い出は、銃では届かないところに傷を負わせる。少年は老婆の真実を知った時、それを思い知らされた。
「怖かった。だから、人間のふりをして此処に住もうって決めたの。あの木の実を食べ続けていれば、ずっと人間のままでいられるから」
少年の内側にある何かが、激しく脈打つ。彼女を助けてやりたいと、強く思った。
「……おれも、にんげんになりたかったんだ。きみのおかげ」
「やっぱり、人間が怖いから?」
「そうじゃない。そうじゃないよ。おれは、ただ……」
四つん這いのまま、少年は少女へ近寄った。互いの肩に顔を乗せ合い、床についていた手と手を重ねる。少女は戸惑ったが、すぐに少年に身を委ねた。
「ただ、何?」
少女に促されても、少年は言葉を知らない。今まで自分が感じたことのない衝動の、名前がわからなかった。ただ、その後に来るものは知っている。熱いものがある一点に集まっていくこの感覚を、以前も少女に対して得たことがある。
「ただ、きみに、興奮してるから」
「…………」
今もまた、少年の股間からは鋼のように固く張り詰めたものがそそり立っていたのであった。
しかし、少女は沈黙したかと思えば、どっと笑い出した。
「あはははは! それ、つまり私のことが好きっていう意味?」
「すき……そう、好きだ! きみのことが」
互いに笑い合ってはいるものの、少年は素直に、少女は単に面白がっているだけだ。
「それで、人間になりたかったってこと?」
「うん。でも、きみが狼なら、おれはきみといっしょに狼にもどりたい。そして、狼として生きたい」
「――どうして?」
少女の顔が急に強張った。緩んでいた緊張がぴんと張り詰める。
「だって、おれときみは狼だから」
「人間に殺されてもいいの?」
「おれたちは生きのびたじゃないか」
「それでも、いつかきっと殺される!」
少女は立ち上がって激昂した。まるで人間と偽ることを望むかのように。
「私たちの狩りと同じよ。人間がする狩りも、いつかは成功するに決まってる。怯えながら生きるのは、もうたくさんなの! 人間としているのが安全よ」
「にんげんになったって、きみは怖がってるじゃないか」
「っ――でも、あなたのお母さんだって人間になったからここまで生きてこれたのよ。あなたが殺しちゃったけどね!」
怒りに任せた言葉を失言だと気づいたのは、少年が顔を俯けた後だった。
少女はなんとしても、人間として生きたかった。その方が、誰にも殺されず、生きていけるから。少年よりも幼かった頃に群れから離れた彼女は、狩りを学ぶこともなければ、狩りの必要性すら考えようともしなかった。人間を食い殺したのは、狩りではなくただの捕食だ。そこに技術はなく、人間に対する恨みと肉食獣としての本能しかない。彼女はそんな肉食としての自覚を持つ前に、人間として生き始めてしまっていた。
「…………ごめんなさい」
「いいんだ。ほんとうのことだから」
互いに傷つき合い、二人はしばらくの沈黙とと共に、罪の意識をゆっくりと消化させていった。
月は傾き、ようやく二人を照らし始めた。二人は向かい合って床に座り込んで、互いに互いの言葉を待っていた。
先に口を開いたのは、少年の方だ。
「おかあさんが、言ってた。あの子が生きてくれていたら、って。おかあさんはきっと、おれに生きてほしかったんだ。狼として」
「狼として? そんなこと、一言も言ってなかったわ」
「わかるんだ」
「どうして?」
「おれのなかに、おかあさんがいるから」
確信しかなかった。少年は一縷として迷いのない目で、少女を見つめた。
「おれは、おれとおかあさんは、狼だ」
そう言うと、突然少年は立ち上がって服を脱ぎ捨て始めた。もはや必要ではないと、むりやり引き千切る。
またしても少年の全裸を見させられたわけだが、不思議と少女は目を背けることができなかった。むしろ、その姿こそが正しいとまで思えた。
「…………」
「おれは、きみといっしょに、狼として生きたい。きみが好きだから。ひとりはもう、いやだから」
「人間が、怖くないの?」
少女は立てなかった。人間のことを考えるだけで、足が竦む。銃声を思い出すだけで、自分の心を撃ち抜かれたと錯覚する。
少年は彼女に目線を合わせた。四つん這いで、それこそが本来の姿であるかのように。
「こわい、かもしれない。でも、おれたちは狼だから」
その瞬間、少年の身体は、あっという間に狼へと戻っていった。しかし、少女が初めて目にしたときよりも、ずっと澄んだ目になっていた。
狼が吠える。
それが何を意味するのか、少女にはわかった。彼女はそれ以上何も言わずに、服を脱ぎ始めた。だが、途中で面倒になり少年と同じように引き裂き、破り捨てた。
狼として生きる覚悟を決めたとき、彼女もまた、人間から狼へと姿を変えた。他の動物を食らい、人間に襲われる存在となったことに、悲観する要素など一つもなかった。
そこに、二匹の耳に一階のドアを叩く音が聞こえてきた。
「おい! 森で迷っちまったんだ! 一日でいいから泊めてくれ!」
乱暴なノックと共に、人間の声も聞こえてくる。
少年と少女――二匹の狼は、言葉も交わさずに頷き合った。
その夜、森の中に二匹の狼の遠吠えが木霊した。
翌日、太陽は小屋の前に倒れている狩人の死体を照らした。
二匹の狼は、長い長い寄り道を終えて、広大な平原へと帰っていった。
これにて無事完結です。短い作品で、しかも以前書いたものの手直しですが、予想以上に修正に時間がかかってしまいました;
ここまで読んで下さった方、本当にありがとうございました。欲を言えば、何か感想などをいただけるととても嬉しいです。