少女と老婆と少年
木の実を採っているときも、少女は終始落ち着かなかった。あの少年を一人にするべきではなかったと、今になって後悔している。採集を早めに切り上げて小屋へ戻ると、ドアを開けた瞬間から異様なにおいが漂ってきた。
少女はすぐさま階段を駆け上り、廊下の壁にある向かって右側のドアを開け放つ。
そこには、ベッドの上で眠りについている老婆の姿があった。だが、異様なにおいを放っているのはこの部屋だ。
老婆の掛け布団に覆われた身体は、不自然に膨らんでいる。小刻みに震えているのは、仲に誰かが入っているからに違いない。
「どうして?」
返事は、来ない。
「どうしてそんなところにいるの?」
布団の中にいる人物にも、聞こえているはずだった。
「なぜ隠れているの?」
少女はベッドの傍まで駆け寄ると、掛け布団を掴み、床へと投げ捨てた。
「ねえ、答えて」
掛け布団が奪われ、老婆の死体の上にうずくまる少年の姿が露になる。頭を抱えながら震えていた血塗れの少年は、取り払われた掛け布団を求めて四つん這いで動き始めた。老婆の無惨な姿に少女は目を見開いたが、すぐに逃げようとする彼の前に立ちはだかった
行き場をなくした彼は、上目遣いで、泣きじゃくった顔で、少女を見上げた。怒っていない代わりに、とても悲しい表情をしていた。むしろ泣きたいのは自分の方だとでも言いたげで、それなのに強がって唇を震わせていた。
少年はそんな彼女を見ていられなくなって俯いた。
「なつかしかった、から」
消え入りそうな声でそう呟くまでに、それほど時間はかからなかった。
「なつかしい、においがしたから。においが……」
「においって、どんなにおい?」
「それは――」
少年が思い出そうとすると、すぐにあるものが浮かんだ。考えてみれば、それはひどく身近だった存在だった。
直面した真実は、彼の背筋を這い上がり頭に達した瞬間、冷や汗になって流れていった。言葉の先を続けるどころではない。罪の意識だけが、静かに積み上がっていく。
「でも、え、なんで……」
勝手に狼狽し、怯え始める少年を不審に思った彼女はしゃがみこむと、両手を床についたままの少年と目線を合わせた。
少年は、初めて彼女と出会ったときのことを思い出さずにはいられなかった。
「なんでって?」
「あの、あのにんげんは、おれ、おれの……」
「あなたの――もしかして、お母さん?」
「なっ……」
少年は思わず後ずさりした。少女がさも当然のようにその結論に至ったのが、不思議でならなかった。
明らかに不審な態度を取る少年に、少女もまた異変に気がついた。
「あなた、もしかしてまだ気づいてないの?」
血のにおいが充満する部屋で、少女は被っていた赤い頭巾を脱ぎ捨てた。隠れていた頭頂部の左右から、両耳が飛び出した。ずっと横になっていた耳をいたわるように撫でるのを見て、少年は対に開いた口が塞がらなくなった。
「み、耳」
辛うじて出た声は完全に裏返っていた。少女の切りそろえられた茶色い髪が頭部を覆っている。その頭部から左右斜めに生えている耳――狼の耳が、ぴくぴくと動いていた。様々な疑問が頭の中を渦巻いた。
呆けている隙に、少女は彼の帽子も取り去った。そして、同じように隠れていた彼の耳にそっと触れた。
「わっ!?」
その瞬間、自分の耳もまた、狼のままであったと彼は気がついた。帽子を被ったとき窮屈だった理由がようやくわかった。
「私も、狼なのよ」
少女は大切そうに呟いた。同じ狼としての静かな気配が、彼女に重なっていた。少年は、どうして彼女に惹かれたのか、ようやく理解した。
「それに、あのおばあさんもね」
亡き老婆の帽子も取ると、そこにはやはり、狼の耳が隠れていた。
少年の悪寒が、確信に変わる。計り知れない罪の意識に、自分が内側から崩れていくようだった。
「このおばあさんも、あの赤い木の実を食べて人間の姿になったのよ。その時からもう、瀕死の怪我を負っていたけど」
少女は老婆の屍を見つめていた。
「……どうして、にんげんになったの?」
「人間の姿なら、人間に襲われなくて済むでしょ? 時々此処にも本物の人間が来るけど、この姿なら、ばれないから」
寂しげな問いかけに、悲しげな答が返ってきた。
少年の内側にある何かが、揺れた。
「…………」
「おばあさんは、あなたと私が出会う少し前に、この小屋に来たの。怪我をしてたから私が手当てをして、木の実を食べさせてからここでずっと寝かせてたんだけど、その間何度も同じことを言ってた」
少年は、老婆の言葉を思い出した。
「――私は、あの子が生きてくれていたら」
そして、口にした。
少女が頷く。
「そう、それ。あなたも聞いたのね。いつも言ってた。でも、それだけしか言わなかった。多分、どこかの群れの母親だったのかもね。人間のせいで、離れ離れになったんだわ」
「ははおや……」
記憶を遡っていく。平原をさまよっていたときよりも、ずっと過去に。母親の体にもたれて眠っていた、あの頃。その時感じていた温かさ。
つい先ほどまでそれを感じていた。
老婆の引き裂かれた身体に、顔をうずめたとき。
掛け布団を被ってうずくまって、老婆の屍に全身を押し当てていたとき。
いや、老婆に噛み付いたとき。
その直前の眩暈から、本当は、身体が覚えていたのに。
「おかあさん……」
「え?」
少年の泣き声に、少女は振り返った。
ただ、泣きたくて、泣きたくて、彼は彼女の足にしがみついた。どうしよもなくて、誰かの温かさが欲しかった。