老婆
少女に言いつけられたが、少年は老婆への好奇心を抑え切れなかった。結局少女に対しても、内側にある何かのうずきについて訊けていない。
つい先ほど、少女は新しい前掛けをつけて小屋を出ていった。少年は椅子に腰掛け、目の前に置かれたあの赤い木の実を見つめていた。「食べていいから」と言われたが、今は食欲がなかった。それよりも、もっと別の何かを食べたいと思った。
赤い実を、見下ろす。いざ獲物が手の届く位置にあると、狩りをするときの興奮は得られない。
「…………」
少年は、また独りぼっちになった。平原をさまよっていた時と少し違う気もするが、やはり、この瞬間は孤独だ。群れにいた頃は、ひと時も仲間とはぐれることなんてなかったのだ。
少女はいつ帰ってくるだろうか。じっと待っていることに彼は痺れを切らしていた。勢いよく立ち上がると、眩暈が襲ってきたが、なんとか持ちこたえる。持ちこたえて、亡者のように階段をゆっくりと上る。
先ほどと同じ部屋で、同じように、老婆は眠っていた。
少年は足元をふらつかせながら、老婆の眠るベッドに近づいていく。
ベッドの前に辿り着くと、ますます眩暈が激しくなった。鼓動が痛いほどに胸を打つ。自分の身に何が起こっているのか、考えることもなく、ゆっくりと老婆に顔を近づけていく。
そして大きく口を開けて、老婆の首筋に歯を立てた。前歯が皮膚に食い込み、突き破り、音を立てずに沈み込んでいく。歯の先から生暖かい感触が伝わった瞬間、心地良い音で沈黙を破り、食い千切った。血が口の中にも広がる。懐かしいにおいと共に、その肉を味わう。
一口目に長い時間をかけたが、その後は老婆の身体を無我夢中で貪った。久しく忘れていたような、狼としての自分が帰ってくる。老婆を覆う掛け布団を乱暴に剥ぎ取り、投げ捨てる。寝間着姿が露になる。
少年と狼は、独りではなくなっていた。
首から始まった食事は、腹に到達していた。肉の部分だけを食らっていき、内臓は口手で除けたり、口の中に入った場合は掛け布団の上に吐き捨てた。
――美味しい。
自分はずっとこうしたかったのだと、少年と狼は理解した。
肉を引き千切る度に、歯が鋭くなってゆく感覚。後ろめたさなど、始めから、無い。
生きるために、こうしてきたではないか。内側の何かから、記憶が沸々と蘇ってくる。血を啜る度に、肉を噛みしめる度に、懐かしいにおいと共に、思い出す。初めて他の動物を食らったときのことを。
ベッドの白いシーツが朱に染まる。口元を拭うと、手の甲が真っ赤になった。
それを見ると、少年は微笑んだ。狼は、それを見て鼻息を荒くした。
狼が肉を食い千切り、少年が咀嚼しながら喉に通す。
腹が満たされた頃には、老婆の面影は残すところ顔のみになっていた。ふと手を見やると血みどろになった人間の両手が赤い雫を滴らせていた。乱暴に引き裂かれた身体は、辛うじて老婆の頭と繋がっている
「…………」
すっかり赤くなってしまったベッドからは、やはり、なつかしいにおいがした。
だが、何かが違う気がする。ぐちゃぐちゃになった内臓を見て、少年は違和感を覚えた。
老婆の引き裂かれた体内に、顔を埋めてみた。今度は、歯を立てずに。
奇妙な温かさはあったが、少年は物足りなかった。
聞こえない。何も、聞こえてこない。
そこには静寂しかない。
自分の胸に手を当てる。とくとくと脈を打つ、内側にある何か。老婆には、それがなかった。既に自分がぐちゃぐちゃに潰してしまったということなど、知る由もない。
様々な疑問に駆られながら呆然としていると、物音が耳に飛び込んできた。
少年は我に返った。少女が帰ってきたのだろう。聞こえてきた音は紛れもなくドアを開けた音だ。
――自分は、とんでもない過ちを犯してしまったのではないか?
少女にこの場を見られたくないと思った直後、焦りに駆られた。
足音が聞こえる。速い。きっと走っている。
その足音が階段を踏む前に、少年は決断した。
床に投げ捨てた白い掛け布団――表の方は汚れていない――と、安らかな顔をしたままの、骨と僅かな肉のみで繋がっている老婆の生首。
少年は、隠れた。