少女の家
少女に連れられ森の奥へと進んでいくと、不自然に開けた場所に出た。平原のように背の低い雑草や花しかなく、木々の代わりに木造の小屋が一軒、ぽつんと建っていた。
「ここよ」
と、少女は木製のドアを開けた。少年は導かれるようにして小屋の中に足を踏み入れる。少女が彼の足の汚れに気づいたのは、そのすぐ後だった。
「あ、ちょっと!」
少年は気にも留めず、土色の足跡を残してゆく。少女は彼を追いながら、それを一つ一つ布で拭っていった。
少年は小屋に入ってすぐの広間ではたと足を止めた。長方形のテーブルの長い辺に沿って肘掛椅子が二つずつ並んでいる。奥の方にカウンターで仕切られている台所も見えるが、立ち止まった理由はそのいずれでもない。
においだ。懐かしいにおいがする。もう何日も嗅いでいなかったせいか、嗅いだことがあるという記憶しか残っていない。そのにおいの正体すら曖昧模糊として判断がつかない。においのする方へ顔を向けると、部屋の手前の隅から階段が伸びていた。二階へと続くものだ。近づこうとしたとき、誰かに手首を掴まれた。
振り返ると、少女が顔をしかめていた。もう片方の手にすっかり汚くなった布切れを持っていた。よく見ると、それはついさっきまで彼女の腰に巻かれていた前掛けだった。
「あなたの服を持ってくるから、これでちゃんと足を拭いて」
少年の手にその布を持たせて、彼を椅子に座らせる。そして「こうやって拭いて」と布をもった彼の手を足の裏に持ってきて、ごしごしと擦ってやった。少年はくすぐったかったが、少女の怒りを視線と気配で察し、おとなしく従うことにした。
彼女は先ほど彼が上ろうとした階段の向こうへ消えていった。少年が両足を拭き終える前に、彼女は丁寧に畳まれた服を両手で抱えて戻ってきた。白いワイシャツにこげ茶色の長ズボン、シンプルな無地の下着。奇麗に畳まれたそれらの上に、ズボンと同色の中折れ帽子が乗っかっている。
少女の助けを借りて――ほとんど着せられるようにして――少年はそれらを身にまとっていった。シャツもズボンもサイズが合わず袖が余ったが、帽子だけはやけに窮屈だった。きついので脱ごうとすると、少女が「絶対に駄目」だと言うので我慢せざるを得なかった。
その間もずっと、彼は懐かしいにおいに気を取られていた。
「においが、する」
「え?」
鼻をぴくぴくと動かし、少年は少女の制止を振り切って階段を駆け上がった。二階は短い廊下の壁に、左右一つずつドアがあるだけだった。少年は迷わず向って右のドアを開ける。においはそこからしていると確信していた。
開けた先は寝室のようで、小さな机と大きなベッドが部屋の奥に置かれていた。そのベッドの掛け布団から、老婆の顔が覗いている。ふんわりとした帽子を目深に被っているが、皺くちゃの顔は隠しきれていない。小さく開いた口から微かに呼吸の音が聞こえる。老婆は少年が入ってきたことに気づいたのか、重たそうに瞼を開けて、首をドアの方に向けた。
「…………」
少年はベッドの傍まで歩み寄り、老婆の表情を窺った。そのとき追いかけるようにして少女がやって来たのだが、少年は気づかなかった。
においは、老婆からのものだった。
「きみは、だれ?」
「……」
少年の問いに老婆は答えない。瞳は確かに少年を見ているのに、隙間風のような呼吸しかしない。
そんな老婆を見ていると、少年は自分の内側にある何かがうずくのを感じた。そっと老婆の頬に手を滑らせ――爪を立てる。
「……たし、は…………」
「?」
老婆が何かを呟いたので、咄嗟に少年は手を離した。
「……わ、たしは、あの子が」
「あのこって、だれ?」
「あの子が、生きて、くれていれば……」
「ねえ、あのこって――」
言い終える直前に、少女が少年の肩を叩いた。老婆はそれ以上何も言わなかった。
「私、また森に木の実を採ってくるから、下で待ってて」