疾走、そして……
狼は、自分の内側にある何かが気にならなくなっていた。走っているうちにその正体を知ろうとすることは無駄なことだとわかった。
内側にある何かは、初めからそこにあったのだ。狼が知るよりもずっと前から、存在して、ただそれに気づいていなかっただけだ。
どこまでも続く樹海を、狼は迷いなく突き進む。赤い頭巾の少女のにおいのする方へ。
近づいている実感があった。疲れてはいるが、全身に浴びる風が心地よい。
もう狼は迷わない。
吠える。
リズムを刻む四つの足に、自覚なき変化が訪れた。
前足が段々と浮いていき、宙を掻き始める。
後ろ足だけで地面を叩く。膝の関節の向きが変わる。大きな音を立てたにも拘らず、狼は意にも留めない。
目線の位置が高くなる。風に靡く体毛が、向かい風にも負けず頭部へと集まってゆく。
もう一度、吠える。
「に! に、に」
今までとは違う雄叫びが、森の中を木霊する。
四本足の指の数が増える。爪は平たく、指に吸い付くように密着した。
肉球が内側に吸い込まれ、毛のなくなった指先に渦のような指紋を描く。
前足の指が伸びていき、手の形へと変わった。
尻尾は縮み、そのまま消えてしまった。
牙は衰えたのか、平たい奥歯が口の中に生えた。
瞳は白と黒に、顔も平べったくなり、口と鼻もそれに引き寄せられた。
視界に、色がつき始めた。狼はそれを不思議だとは思わなかった。
森は、深い緑色をしていた。花はそれぞれ赤や黄色、桃色と違う色をしていた。
三度、吠える。
「に、にんげん! にんげんに――」
そのとき、太い木の根が足首に引っかかった。前方へ派手に転がり、何度か前転した後に樹木にぶつかって止まった。
「…………」
狼――狼であったはずの存在は、自分の両手を見た。紛れもない人間の手だった。綺麗な肌色をしている。視線を身体の下へと向けていくと、人間の素足が二本、自分の身体から生えていた。尻尾はなくなっていて、股間の器官も形が微妙に変わっていた。
「あ、あ」
身に起こった事態に、思わず声が出た。そしてそのことにまた驚かされる。とても自分の喉から出ているとは思えないほど、聞き覚えのない声音だった。
全身が震えてきたが、それが恐怖でないことだけはわかる。
変貌を遂げた狼――十歳半ばほどの少年は、歓喜を堪えきれずに吠えた。誰にでもなく、自分に向けた遠吠えだった。
森の中を駆け抜けているうちに、夜が訪れた。ふと彼が足を止めて上を見ると、葉の間から覗く空が暗くなっていた。紺色の中に、輝く幾つもの点が見えた。
――もう夜になっていたのか。
そう思うと、どっと疲れが押し寄せてきた。膝を折って、木の根を枕に仰向けに倒れる。激しい呼吸で、お腹の辺りが上下する。体中を汗が伝う。それがやけに気持ち悪い。
だが、森を流れる涼しい風を受けているうちにその汗も引いていった。快い気分になり、瞼は重くなっていった。
少年は、久しぶりの深い眠りの中に落ちていった。