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頭巾の少女

 放浪は何日も続いた。狼は最初の狩り以来、失敗を重ねていた。怪我をしていない獲物達は想像以上に足が速く、持久力も兼ね備えていた。

 そろそろ空腹に身体が音を上げようかというとき、別の狼の群れに出会った。しかし、その群れは狼を受け入れてはくれなかった。配偶者を探すには若過ぎたし、群れは群れ以外の狼を好まない。いわば狩りの競争相手のようなものだからだ。

 一度、狩猟者にも遭遇した。群れで暮らしていた時も何度か襲われることはあったが、狼には共に逃げる仲間も家族もいない。鹿のように平原を大きく蛇行し弾をかわし続けていくしかなかった。狼自身、それを情けないと感じていが、狩猟者相手ではそうする以外に生き残る術がない。

 恐怖と冷たさで浅い眠りを繰り返すばかりの日々に足取りは重くなり、獲物を見つけてもそのまま無視してしまうことさえあった。ふと狩りに挑戦しても、近づく前に逃げられてしまうこともあった。

 それでも、狼は生き延びようとした。

 空腹を堪えながら、地平線を目指した。

 群れの仲間に会いたかった。

 家族に会いたかった。

 もう一度あのにおいを嗅ぎたかった。

 あの温もりに顔をうずめたかった。


 体力が限界に達する直前、平原の最果てに辿りついた。

 狼の前に、鬱蒼と木々や草花が生い茂る森林が広がる。狼は思わず後ずさりして、その森林を眺めた。平原にも時折木が伸びていたりするところもあったが、目の前の森は足の踏み場もないほどにそれが密集している。身の丈と同じくらいまで伸びている草花が、地面を覆っていた。

 しかし、狼が感じたのは恐怖ではなかった。

 自信はなかったが、森の奥からどこか懐かしいにおいを嗅ぎ取ったからだ。

 本能が、何かの気配を感じていた。

 目を凝らすと、ずっと先に奇妙な木が一本生えているのが見えた。平原では見たことのない木であったのもそうだが、どうやらその周囲だけ平たい地面になっているようだ。しかし一番狼の興味を引いたのは、幾つかの木の枝から、丸い物体がぶら下がっていることだった。見るからに瑞々しいそれは丁度口にくわえられそうで、獲物同様、不思議な魅力で狼の食欲を掻き立てた。狼には、それがどくどくと滴る血がが凝縮したもののように見えた。

 狼は草木を分けて、森の中へと入った。なんとか木の前まで辿り着くも、その物体は飛び上がっても寸でのところで届かない位置にぶら下がっていた。魅力を振りまくだけ振りまいて、決して触れさせない――他の獲物と同じく、赤い物体は狼を見下ろしていた。

 何度も跳躍しているうちに、木の根に足を取られてた。転倒した狼は自分のしていることの愚かしさに気づいているのかいないのか、それでも跳び続けた。

 どこか、懐かしいのだ。それが何であるのか、決めようにも狼は自信がない。そんな曖昧な希望が、どうしてか狼を動かすのだ。

 しばらくして、草の擦れる音がした。狼のものではない。こちらに近づいてくると悟った時、狼は音のする方と反対方向の草木の陰に身を隠した。

 息を潜めて様子を窺っていると、向こうから人間の少女が少女が現れた。年は十歳前後、フリルのついたブラウスに、白い前掛けを下ろした茶色のスカート。そして何よりも特徴的なのが、少女の頭をすっぽりと覆っている赤い頭巾だった。まだあどけない頭巾の少女は、手に身の丈以上の長い棒を持ち、木製の編みこまれた籠を肘に掛けていた。

 少女は、木の根を兎のように飛び越えて物体をぶら下げる木の前までやってきた。籠を根元に置こうと身を屈めた少女の頭部は、狼の位置からは頭巾しか見えなくなる。枝に実っている物体にそっくりだと、狼は感じた。

 少女は長い棒を両手に持ち替え、赤い物体に向けて伸ばした。バランスを取りながら、少女はもう棒の先端で物体を突き揺らす。叩く度にゆらゆら揺れて、棒を当てていくほどそれは大きくなった。そして、一回転しようかというところで物体が枝から離れた。重力に従って落下したそれを、少女は拾い上げて籠に入れる。それを何度か繰り返し、小さな籠が一杯になるまで彼女は採り続けた。

 一杯になった籠を見ると、少女は満足そうにその場を去ろうと元来た茂みの中へ入っていった。

 同時に、狼もまた動いた。足元にあった枝を踏みつけて、わざと大きな音を立てる。

 少女がはっとなって振り向く。視線が交差し、森の隙間を縫った風が、狼の毛並を、少女の茶色い前髪を揺らした。

 しばらく、葉の擦れ合う音だけが響いた。

 狼は、途端にどうするべきか迷った。今はとてつもなく空腹で、目の前にいる少女は肉だ。少女の持つ赤い物体は何だ? 食えるのか? 満たされるのか? どちらにしろ食べてみたい。

 赤い頭巾の少女は狼を見て驚いたようだったが、逃げようとはしなかった。むしろ、茂みの中から顔だけを出した狼に近づいていく。

 狼は狼狽したが、心臓が激しく脈を打つのに対して身体はぴくりとも動いてくれない。今自分を支配しているのは、少なくとも恐怖ではないはずなのに。

 得体の知れない、全身が総毛立つような何かが狼に自由を与えてはくれなかった。少なくとも、少女がいなければこんなことにはならなかっただろう。

 少女はしゃがんで、狼と目線の位置を合わせた。そして籠に積まれた物体を一つ取り出すとそれを狼の前に置いた。そして、にっこりと微笑んだ。

 狼にはそれが何を意味しているのか理解できなかった。息を荒くしながら、目の前に置かれた物体と少女の笑顔を交互に見やる。

 伸ばした舌から涎が垂れ落ちた。次の瞬間には、何のためらいもなくそれに齧りついた。肉よりも硬い食感で、血よりもずっと甘い汁が口の中に広がった。中には一際硬い部分もあって、食べられそうにない箇所もあったが、その部分を残してあっという間に平らげてしまった。

 少女は狼の食事を見届けると、今度こそ森の中へと消えていった。狼はそれを追いかけなかった。追いかけようとしたのだが、また身体が奇妙な感覚に支配されたのだ。これは懐かしさか、真新しさか、それとも別の何かなのか。

 狼は自らの内に芽生えた何かの正体がわからなかった。

 唯一、口の中の後味だけがはっきりと残っていた。

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