一匹の狼
童話の赤ずきんから着想を得た完全オリジナルの短編小説です。
非常に短い作品ですが連載と言う形を取らせていただきますが、本当にあっという間の作品ですので暇なときにパパーッと読んでいただければ幸いです。
一匹の狼が平原を宛もなくさまよっている。灰色の毛並みを持つ、大きいとはいえない体躯の狼。
狼は、配偶者を見つけるために群れを出て行ったわけではない。目覚めたら群れからはぐれていて、だだっ広い平原に一匹で横たわっていたのだ。
平原は、群れで暮らしていたときより一層大きく感じた。群れの仲間や家族を探そうとしたが、自分の鼻が感じ取るにおいの判別に自信がなかった。
狼はまだ生まれてから二年ほどしか経っていないため、見た目こそ成熟しているが、狩りをした経験もない。
暗くなり始めた空に向かって、生まれたときから覚えている遠吠えを何度も繰り返したが、返事は来なかった。時間だけが過ぎていき、やがて狼は眠りに落ちた。雑草の枕は、母親の腹とは違って冷たかった。毛並みの様に生えているのに、そこには体温がない。
次の日は、銃声の音で目が覚めた。飛び退くように身を起こして首を左右に振ると、少し遠くの方に鹿が一頭、それも全速力で走っている。
そのすぐ後ろに、人間がいた。狩猟者だ。今しがた発砲した銃に弾を装填している最中だった。狼の存在には、まだ気づいていないようだった。狼は慎重な足取りで人間から距離を取っていき、一瞬で踵を返した。体力のことも考えず、四本の足を全力で動かす。そうして走っているうちに狩猟者に対する恐怖は消え、気分も晴れやかになってきた。心なしか空に浮かぶ太陽が祝福しているようだった。群れで暮らしていたときは、こんな爽快な気分を味わったことなどなかった。
狼は知らず知らずのうちに、走ることの喜びを覚えた。地面を叩く四本の足、風を受けて横一線になる体毛、己の内側から疾走を鼓舞するかのように脈打つ心臓。全身が一つの塊になって、駆けてゆく。何処までも、何処までも。
そんな喜びの最中、狼は無意識のうちに獲物を探していた。首を動かし、過ぎ去っていく風景の中に腹を満たす餌を求めながら、走っていた。そして、両目が遠くで草を食べている鹿を捉えた瞬間、自然と動きを止め、姿勢を低くして身構えた。
見覚えのある鹿だ。先ほど狩人に追われ逃げ回っていたあの鹿は、群れからはぐれたのだろうか一匹で草を口に含んでいた。それほど大きくはないが、あの一匹で一週間以上は何も食べずに済む量だ。
狼にとって、初めて狩りだ。それも群れで行うものではなく、孤独な狩りである。同時に、孤独な鹿を見るのも初めてだった。
まずは餌を食べている鹿に気づかれないように、ゆっくりと前進する。死角である真後ろに来るまでに、そう時間はかからなかった。周囲は平で身を隠すものはなく、距離は貪るほどある。
今気づかれたら確実に逃してしまうであろう、絶妙にもどかしい道のりを、狼は貪るのではなく少しずつ咀嚼していった。草食動物が草や葉を口の中で時間をかけて磨り潰すように、ゆっくりと歩を刻む。
近づいていくうちに、狼はその鹿の異変に気がついた。鹿から血の臭いが漂っている。よく見ると獲物の左後ろ足に血の痕――いや、今も血が流れている。
狼は狩りの成功を確信した。それは油断だった。急ごうとする前足の爪が、小石と擦れて音を立ててしまった。
鹿の耳はそれを聞き逃さなかった。すぐさま食事を中断し、辺りを見渡した。振り返ったわけではないのに、真後ろにいたはずの狼の存在を捉えるや否やあっという間にその場から駆け出した。
遅れて、狼も後を追った。獲物に飢えた両目を頼りに、しつこく鹿の背後に食らいつく。
鹿は平原を右へ左へと走り、狼を撒こうとする。だが、足の傷のせいか、あまり速度が出ていない。狼は標的へと迫っていることを感じながらも、その足を緩めようとはしなかった。
そして、飛び掛った。涎を撒き散らしながら顎を大きく開き、鹿の背に噛り付く。牙が肉に食い込み、久しぶりの血の味が舌に広がった。
鹿がバランスを崩して転倒する。狼もつられる様に地面に叩きつけられ、口が離してしまったが、すぐに立ち上がった。鹿が起き上がる前に首筋を噛み、皮ごと肉を食い千切る。血が勢いよく噴き出し、後は小便の様に垂れた。鹿はもう動かない。狼は首筋から身体の方へと口を進めた。
腹が一杯になる頃には、鹿の原型は頭と足の先ぐらいしか残らなかった。
狼は満腹感と初めての狩りの成功に興奮していたが、その喜びを分かち合う仲間は何処にもいない。寂しさを紛らわすかの様に狼は吠えた。自分がいた群れでなくてもいい。狼は他の狼に、仲間に会いたかった。
しかし、反応はない。こんな時、どうすればいいのかわからなくて、狼はまた歩き出した。
しばらくして昨日と同じように、冷えた雑草にその身を委ねた。