怪文屋
最近、SNSで奇妙な本屋を見つけた。なんでも、同じ読書家仲間たちが先日その店に行ったようで「真の読書体験がここにある」「わかる人はわかる」など、口を揃えて絶賛しているのだ。中には店内の写真も投稿している者も居て、住宅街の中にある古びた本屋が写っていた。
しかし、売られている本がどれも私が読んだことないものばかりなのである。近所の図書館の本は読みつくしたし、芥川賞直木賞といった受賞作品も必ず目を通している。知らない書店へ行っても、「既に読んだ本ばかりだ、品揃えが悪いな」と何も買わず退店することもしばしば。
私は読書仲間のうちでも、読んだ本の冊数の多さで尊敬されることが多かった。幼少期から本を読み、古典文学からSFまで、エログロナンセンス、プロレタリア、耽美派無頼派白樺派。もちろん海外文学にも手をつけており、ドストエフスキーに想いを馳せ涙したこともあった。五十を迎えた今でも、そういった書物の数々について、インターネットやバーのマスターと語り合うのが日々の楽しみとなっている。
とにかく、その本屋こそ私の新たなる読書体験の宝庫だと、私は睨んだのだ。
電車を乗り継ぎ、駅から十分ほど歩いた先にその店はあった。私はからっぽの大きなトートバッグを肩にかけ、いざ出陣、と足を踏み入れたのだった。
店員は若い男が二人。客は、私みたいな奇特な読書家が数人。ぱらぱらと商品をめくりながら、首を傾げていたのである。
私は「バビルサの涙」とい文庫本を手に取った。聞いたことないタイトルだ。中身を読むと、私は彼らと一緒に首をひねった。
◼️
バビルサ泣くよえんえん泣くよ
牙が怖くてえんえん泣くよ
明日を想うと泣けてくるよ
栃木県のことを考えているよ
ここで一句
「サイダーに 塩を混ぜると 潮騒だ~」
例えば世界を揺るがす超合金がアルプスの奥深くから見つかったとして、私は上海で餃子のタレから未知のタスマニアビーフと青森の市民文化センターのことを考えるに至ることができずにおり、そしてそれはやがて溶けだし、融合しだし、かつてヨークシャーテリアの群れが住んでいた丘でただひたすら目を瞑り縷縷綿綿縷縷綿綿、この世は所詮海市蜃楼、朝三暮四、大器晩成、オオイヌノフグリ、ひたすら声をあげて叫んだ。
「カナダ人を左に!」
こんにちは、バビルサ。穿った脳から信号は届きましたか?
背中から立つタイプのしゃもじが生えてきた。
◼️
なんだこれは。
裏表紙に貼られた値段は、ちょっといいランチを食べられるくらいの値段だった。つまり、安くはない。こんな駄文の怪文書に金を払うくらいなら、漫画でも読んだ方がましである。
私はふんと鼻を鳴らし、商品を戻そうとした。しかしなぜかそこにためらいが生まれたのである。
本に限らず、希少なものは高価だ。世界三大珍味と呼ばれているものも、味の品質よりもその希少さゆえに値段が高い。学術書なんかも、購入する人も刊行できる冊数も少ないため、一冊一冊が数千円、または数万円するのである。
私が今手にしている本は、それに該当するのではなかろうか。まだ見ぬ図書ばかりのこの空間で、バッグをすかすかにしたまま帰ってよいのだろうか。
それに、よくよく読んでみるとだんだん興味深さも出てきた。言葉の言い回しもテンポがよく、まるで作者独自の死生観を感じるような……。まだ私が理解していないだけで、最後まで読んだらその値段に見合う素晴らしい作品だとわかるのではないだろうか。
気づいたときには、会計に向かっていた。きっとこの本の魅力にいち早く気づいたのは私だろう。読書仲間やマスターに教えてあげなくては。
「ありがとうございました」
店員が微笑みながら、私に手を振った。
・・・
閉店後、本屋にて。店員の一人が帳簿を確認し、「今月も黒字だ」と呟いた。
「店長、バビルサの涙ってどういう意味ですか?」
「知らん」
店員が「えーっ」と声を上げた。
「あなたが書いたんでしょ? ……っていうか、ここの本全部、店長の本でしょう」
店長と呼ばれた男はふっと笑った。彼の言う通り、この店の本は全て店長が執筆から印刷まで行った、世に流通するはずのないものである。その費用は、子どものお小遣いほどの値段。
店員は商品のうち一冊を手に取って文章を読むなり、「なんだこれは」と唸った。
「やっぱり、店長の変な本じゃなくて、ちゃんとしたの売った方がいいと思いますよ?」
店員の提案に、店長は首を振った。
「プライドの高い読書家が買ってくれるのさ。『自分にはこの本の魅力がわかるぞ』ってね」




