柔道サークルの紅一点じゃなく紅多点!
【柔道サークルの紅一点…じゃなくて、紅多点!】
1期 第1話〜第12話
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第1話「入部初日、いきなり投げられました」
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桜の花びらが風に舞う四月の午後、東和大学の体育館へと続く廊下を、新入生の橘 凜太郎(たちばな りんたろう・20歳)はゆっくりと歩いていた。
凜太郎は中学・高校と柔道部に所属していたが、ある理由から競技の世界を離れ、今は「サークル活動」という気楽な場でだけ柔道を楽しもうと決めていた。目立たず、穏やかに、女子部員たちに囲まれながらのんびり過ごせればそれでいい――そんな計算があった。
「あっ、あなたが今日入るって言ってた男の子ね!」
道着姿の女性が、体育館の入り口で手を振った。背が高く、きりっとした目元が印象的な先輩だ。
「は、はい。橘凜太郎です。よろしくお願いします」
「私は部長の桐島 葵! 三年生よ。さっそく乱取りしましょ!」
こうして凜太郎の「のんびりサークルライフ」は、開始十秒で消滅することになった。
道場に入ると、六人の女子部員たちが一斉に凜太郎を見た。品定めするような視線に、凜太郎は苦笑いを浮かべる。
「男子は久しぶりだね〜。絶対すぐ音を上げて辞めるやつ」
そう言ったのは、ショートカットの小柄な先輩――二年生の天野 結衣(あまの ゆい・21歳)だ。腕を組んで凜太郎をじろじろと眺める。
「結衣先輩、ひどいな。でも正直、僕は初心者に毛が生えた程度ですから、優しくしてください」
凜太郎はわざと弱々しく笑った。これが彼の作戦だ。実力を隠し、ぬるく楽しむ。
「じゃあ最初は私が相手してあげるわ」と葵が言った。
乱取りが始まった。葵は明らかに手を抜いていない。大内刈りを仕掛けてくる。凜太郎はギリギリのところで回避しながら、転んだふりをして畳に倒れた。
「あら、案外早かったわね」
「いや〜参りました〜」
その後、結衣にも、他の先輩にも、適当に投げられ、適当に負けた。
「まあ、せっかく入ってくれたんだし、しごいてあげるわよ」と葵が腕をまくった。
凜太郎はへらへら笑いながら、心の中でつぶやいた。
(よし、完璧だ。これでしばらくは楽ができる)
しかしその帰り道、着替えを終えた凜太郎が廊下を曲がったとき――
「わっ!」
曲がり角から飛び出してきた人物と正面衝突した。
ドンッ、と鈍い音。凜太郎は咄嗟に相手の腕を取り、自然な動作で受け身を補助する形で一緒に倒れた。気づいた時には、柔らかい感触が胸の上に乗っていた。
「……え、あ」
顔を赤らめているのは、三年生の先輩・桐島 葵だった。なぜか私服に着替えており、手には購買のパンを持っている。
「り、凜太郎くん……このっ、体勢、自覚してる!?」
「し、してます! ごめんなさい!」
凜太郎が慌てて離れようとしたとき、葵は彼の手首を捕まえた。
「……ちょっと待って」真剣な目で、彼の動作を思い返すように言った。「今の、受け身の補助……自然にやったでしょ」
「え、いや、たまたまで……」
「初心者に毛が生えた程度の人間に、あんな動きはできないわ」
沈黙が流れた。
「……気のせいですよ」
「そう」葵は一拍置いて、微笑んだ。「じゃあ今日のことは忘れるけど、また明日ね、凜太郎くん」
廊下を歩き去る葵の背中を見ながら、凜太郎は額に手を当てた。
(やばい。初日からバレかけた)
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第2話「先輩たちの猛攻と、謎のバランス感覚」
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翌日の練習で、凜太郎はまた「弱者の演技」を続けていた。
サークルの女子部員は全部で七名。部長の葵(三年)をはじめ、二年生が三名、一年生が三名という構成だ。
二年生の三名は、天野 結衣(ゆい・小柄でキレのある動き)、中川 彩音(なかがわ あやね・長身でクール系)、そして宮本 凪(みやもと なぎ・おっとりした雰囲気だが技が重い)。
一年生は、本条 ひな(ほんじょう・元気いっぱいのムードメーカー)、志田 楓(しだ かえで・眼鏡でインテリ系)、速川 千夏(はやかわ ちなつ・陸上出身で足技が鋭い)。
「今日は乱取りの前に、受け身の基礎からね」
葵が全員を集めた。凜太郎も混じって練習する。
受け身の確認では、凜太郎はわざと少しだけぎこちなく動いた。しかし……
「あれ、凜太郎くん、今の後ろ受け身、姿勢が完璧だったけど」
眼鏡の楓が横から指摘した。鋭い観察眼だ。
「ええと、中学の頃ちょっとだけやってたので……」
「中学ちょっとだけ、で後ろ受け身があのレベルになる?」楓はノートを取り出してメモを始めた。「もしかして、あなた、才能がある?」
「そんなことないですよ」
その後の乱取りで、凜太郎は結衣と組んだ。
結衣は小柄ながら動きが速く、内股でズバッと入ってくる。凜太郎はギリギリで崩れたふりをしながら倒れた。
「あれ」結衣が首をかしげた。「今、私の内股に合わせて転んだよね? 受け流したわけじゃなくて、あえて倒れた?」
「え、転んじゃっただけですよ」
「……うそくさい」
凜太郎の心臓が少し跳ねた。
練習終わりのストレッチの時間、凜太郎が隣でストレッチしていた宮本 凪の方を向いたとき、凪がちょうど開脚のまま横に倒れてきた。
「わあっ」
バランスを崩した凪の肩を、凜太郎が咄嗟に支えた。が、ちょうど道着の衿が広がっていて、支えた手がすべり込む形になってしまい……
「あぁ……んっ」
凪の顔が一瞬真っ赤になった。
「ご、ごめんなさい!」凜太郎が手を引いた。
「い、いいの……ありがとう、転ばずに済んだから……」
凪はそっと目を逸らしたが、その頬はしばらくずっと赤いままだった。
帰り際、葵が凜太郎の肩をつんとつついた。
「ねえ。私、今日の乱取り全部見てたんだけど」
「はあ……」
「あなた、絶対強いわよ。どうせ隠してるんでしょ」
「そんな、先輩の妄想ですよ」
「ふうん」葵はにやっと笑った。「じゃあ来週、私と本気でやってみましょうか」
凜太郎はとっさに「体調が悪くなるかもしれません」と言い訳を準備した。
(ピンチだ)
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第3話「部長との真剣勝負、仮面が剥がれる瞬間」
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約束の日が来た。
全員が見守る中、葵と凜太郎が向かい合う。
「本気で来てね」葵が静かに言った。「手を抜いたらわかるから」
「は、はあ……」
組み手が始まった。葵は正統派の柔道だ。しっかりした組み手から、大外刈り。凜太郎はやむなく受け流す。
三十秒が過ぎ、一分が過ぎた。
「……やっぱりね」葵が静止した。「あなた、さっきから全部さばいてるじゃない」
サークルのメンバーが息を呑んだ。
「え、だから、運良く……」
「凜太郎くん」葵の目が真剣になった。「私、全国三位なの。その私の技を、三回連続でさばいた新入生が『運』なわけないでしょ」
沈黙。
「……一回だけ、本気を見せてほしい」
凜太郎は目を閉じ、息を吐いた。
(しょうがない)
次の瞬間、葵が踏み込んだ。大内刈り。凜太郎はそれに乗るように体を流し、引き落とし気味に葵の重心を崩し、その流れのまま――畳に、柔らかく葵を着地させた。
一秒の沈黙の後、全員が目を丸くした。
「……今の、何をやったの」葵が起き上がりながら言った。
「引き落とし、だと思います」
「なんで『だと思います』なの!?」
「考えずにやってるので……」
楓がメモ帳を取り出してがしがしと書き始めた。「天才……本物の天才……!」
結衣が顔を赤くしながら「なんで隠してたの!」と叫んだ。
「怖かったので」と凜太郎は正直に言った。「ぬるくサークル活動したかっただけで……」
「ぬるく!?」葵が頭を抱えた。「全国三位を転かした人間が『ぬるく』って言った!?」
その後、練習が二時間延長されたのは言うまでもない。
帰り道、道具を片付けていると、本条 ひなが隣に来た。
「ねえねえ、凜太郎くんってさ、どこで柔道習ったの?」
「……小学校から、ずっと」
「それだけ?」
「……師匠がいました」
「師匠!? 本物の師匠!?」ひなの目が輝いた。「すごいじゃん! どんな人?」
「変わった人でした」と凜太郎は苦笑いした。「あとは、ちょっと話したくないです」
ひなはそれ以上は聞かなかった。ただ、「ありがとね、素直に教えてくれて」と笑った。
その笑顔が、なぜかしばらく凜太郎の頭に残った。
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第4話「シャワー室の悲劇と、速川千夏の宣戦布告」
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凜太郎の「天才隠蔽計画」が崩壊してから数日後、サークルの雰囲気は微妙に変わっていた。
以前は「投げ飛ばす対象」として見られていた凜太郎が、今や「尊敬と興味の対象」になっていた。
それはそれで、やりにくかった。
「凜太郎くん、今日は大内刈りのコツ教えて!」
「凜太郎くん、受け身のタイミング見てくれる?」
「凜太郎く〜ん!」
三人の一年生がぞろぞろついてくる。凜太郎は苦笑いしながらも、丁寧に指導した。
問題は、練習後に起きた。
男性用シャワー室は一つしかなく、凜太郎が使おうとしたとき、普段は別棟を使うはずの女子部員の荷物が置かれていた。どうやら別棟のシャワーが故障したらしく、鍵のかかっていない脱衣所の前で凜太郎が立っていると――
ガラッ。
「あれ、なんで鍵が……きゃあああっ!」
速川 千夏が、タオル一枚の状態でシャワーから出てきた。
凜太郎は反射的に目を瞑り、後ろを向いた。
「ご、ごめん! ドアが開いてて、荷物があるのに気づかなかったけど……ノック、したんだけど……」
「うるさい見た見た! 絶対見た!」
「見てないです! 目瞑りました!」
「声で感づいて目瞑ったなら遅い!」
「どっちにしろ怒るんですか!?」
廊下で言い合う二人の声を聞きつけた葵たちが来て、状況を把握して爆笑した。
「あ〜あ、千夏〜、ちゃんと鍵かけなきゃ」
「先輩たちも笑わないでください! 橘くんが見たんですよ!」
「見てないって言ってるじゃないですか!」
その日以来、千夏は凜太郎に対してガチンコで張り合うようになった。
「橘くんの実力が本物なら、私が勝つまで練習に付き合ってもらう。それが落とし前よ」
「シャワー室の件はどこ行ったんですか!?」
「うるさい! 始めるよ!」
千夏は陸上部出身だけあって、フットワークと脚の動きが鋭い。足払い・払い腰を中心にガンガン攻めてくる。凜太郎は本気を出さないように加減しながら対応するので、逆に疲弊した。
「……なんで私の攻撃が当たらないの」
「いや、当たってますよ」
「うそ! 今のは崩せてなかった。どうして倒れるの避けた!?」
「……千夏先輩の攻撃、なんとなく読めるんです」
「読めるって……私の動きを?」千夏が絶句した。
「足のリズムで入り方がわかるので。陸上やってたでしょ? スタートの癖が出てます」
沈黙。
次の瞬間、千夏の顔がじわじわと赤くなった。
「……負けた」と彼女は小声で言った。「実力で、完全に」
「ありがとうございました」
千夏は凜太郎から目を逸らし、横を向いたまま言った。
「……今度、私のスタートの癖、直すの手伝って」
「え? いいですけど、なんで急に素直に……」
「うるさい! お礼を言われてる気分になれないわけ!?」
葵がこっそり凜太郎に耳打ちした。「千夏ね、負けた相手のことしか素直に頼めない子なの」
「……なるほど」
「今後ともよろしくね、凜太郎くん」
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第5話「中川彩音の秘密と、二人きりの夜間練習」
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中川 彩音(なかがわ あやね・21歳)は、サークルの中でも一番クールな先輩だった。
黒髪ストレート、長身、無口。乱取りになると別人のように動き、技の精度は部長の葵に次ぐと言われている。普段は感情をほとんど表に出さず、凜太郎とも必要最低限の会話しかしなかった。
それが、ある夜。
「橘くん、今夜、道場残れる?」
LINEにそんなメッセージが届いた。送り主は彩音だった。
普段のやりとりは練習連絡だけだったので、凜太郎は少し戸惑ったが、道場へ向かった。
夜の道場。蛍光灯の白い光の中に、彩音が一人で立っていた。
「来てくれたの。ありがとう」
「何かありましたか?」
彩音はしばらく黙っていた。それから、口を開いた。
「来月、全日本学生の地区予選がある。私、去年の準決勝で足を取られて負けた。同じ技を繰り返されると、どうしても体が固まる」
「……それを、克服したい?」
「橘くんなら、同じタイミングで何度も仕掛けてこられると思って」
凜太郎は少し考えてから、頷いた。
「わかりました。付き合います」
そこから二時間、凜太郎は彩音の「苦手パターン」を徹底的に再現し続けた。何度も崩し、何度も立ち上がらせ、彩音が体で動きを覚えるまでつき合った。
終盤、彩音がバランスを崩したとき、凜太郎の腕が自然に彼女の背を支えた。
「……ありがとう」と彩音が静かに言った。
「いえ」
「なんで」彩音がふと聞いた。「あなた、こんなに柔道が得意なのに、競技をやらないの?」
凜太郎は少し間を置いた。
「……やめなきゃいけない理由があって。今はまだ、話せないです」
「そう」彩音はそれ以上聞かなかった。ただ、「話せるようになったら聞く」とだけ言った。
道場の電気を消して、二人で外に出た。夜風が心地よかった。
「橘くん」
「はい?」
「……あなた、道場に来て良かった。本当に」
彩音の横顔は、いつものクールな表情の中に、かすかに柔らかいものがあった。
凜太郎は「僕もです」と答えた。その言葉が、思ったより本心から出てきたことに、少しだけ驚いた。
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第6話「志田楓の研究と、分析されすぎた件」
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志田 楓(しだ かえで・20歳)は、インテリ系メガネ女子で、柔道のセンスより「柔道の分析」で存在感を発揮していた。
彼女はサークルに入ったのも「スポーツ科学の研究材料として柔道のフィジカル分析をするため」というユニークな動機だった。
そして今、彼女の研究対象は完全に凜太郎になっていた。
「橘くん、少しいい? 今日の乱取り、動画で撮らせてほしいんだけど」
「……なんで?」
「あなたの動作解析がしたい。体重移動のタイミングが人間の反射速度の限界に近いんだけど、どうやってやってるか全然わからない」
「勘です」
「勘で全国三位の動きをさばく人間が!?」
結局、凜太郎は楓にあらゆる角度から撮影され、動作を分析され、「これ本当に人間ですか?」と何度も聞かれた。
「楓先輩、普通に失礼ですよそれ」
「ごめんなさい。でも、あなたのデータ、本当に異常値なの。反応速度、体幹の安定性、どれも測定上位一パーセントを超えてる」
「……そんなに?」
「うん。あなた、もしかして昔、ちゃんとした師匠に師事した?」
凜太郎は黙った。
「……聞いてごめん」楓がノートを閉じた。「データだけじゃなくて、人のことも考えるべきだった」
「いえ」凜太郎は苦笑した。「嫌な話題ってわけじゃないんです。ただ……複雑で」
その日の帰り、楓が追いかけてきた。
「橘くん!」
「はい?」
「これ」と、楓は折り畳んだメモを渡した。「あなたのデータグラフ。客観的に見たら、すごく綺麗な数値なの。……自分がどれだけすごいか、知っといてほしくて」
凜太郎はメモを受け取り、広げた。びっしりと数字とグラフが書かれている。
「楓先輩なりの褒め方ですか?」
「そう! そういう解釈でいい!」
顔を赤くして早足で離れていく楓の背中を見て、凜太郎は思わず笑った。
道場に戻ると、着替え中だった宮本 凪が驚いて振り返り、上着の前が開いた状態で固まった。
「……あっ」
「ごめんなさい!!」凜太郎は即座に引き戸を閉めた。
「も、もう入ってきていいよ……」と凪の声が言った。「着替えてない部屋間違えたの……こっちこそごめんね」
「いえ、こちらこそ……」
沈黙。
「……見た?」
「全力で目を閉じました」
「……ありがと」凪が小さく言った。「正直に言ってくれて」
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第7話「本条ひなの涙と、先輩の背中」
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本条 ひな(ほんじょう ひな・20歳)は、サークルで一番明るいムードメーカーだった。
いつも笑っていて、誰にでも気軽に話しかける。「天然ムードメーカー」として、サークル全体の空気を和らげていた。
だから、ひなが一人で道場の端に座っているのは、かなり珍しかった。
「……ひな先輩?」
凜太郎が声をかけると、ひなはびくっとして振り返った。目が少し赤い。
「あ、凜太郎くん! なんでもないよ! 全然大丈夫!」
「……大丈夫じゃなさそうですね」
「うっ」
凜太郎は隣に座った。ひなはしばらく黙っていたが、やがて言った。
「……うちさ、親に柔道もサークルも反対されてて」
「え」
「将来役に立たないって。就活に使える活動しろって。……でも、ここが好きなんだよね。みんなが好きだし、柔道も好きだし……でも昨日また電話でめちゃくちゃ言われて」
ひなが膝を抱えた。
「……ひな先輩が好きなものを、好きだって言えない状況はつらいですね」
「うん」
「でも」凜太郎は少し考えてから言った。「好きなものを好きでいられる間は、好きでいてください。それを誰かが笑ったとしても、それはその人が間違ってる」
ひながじっと凜太郎を見た。
「……凜太郎くんって、そういうこと言う人なんだね」
「変でしたか?」
「ううん」ひなが少し笑った。「凄く良かった。ありがとう」
翌日の練習で、ひなはいつも通りに元気だった。ただ、凜太郎と目が合ったとき、ちょっとだけ照れたように笑った。
その日の乱取りで、ひなが払い腰を仕掛けてきたとき、体勢が崩れて凜太郎に突っ込んできた。咄嗟に受け止めたが、ひなの道着の衿が引っ張られ、肩口がかなり開いた状態で凜太郎の胸に顔を埋めるような形になってしまった。
「わ、わわわわわ!!」
「ご、ごめん!!」
二人同時に飛び離れた。
「み、見た!?」
「見てないです! ……多分!」
「多分って何!?」
周囲の先輩たちが笑いを堪えながら練習を続けていた。葵だけが静かに「青春だねえ」と言った。
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第8話「天野結衣の負けず嫌いと、特訓の代償」
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天野 結衣(あまの ゆい・21歳)は、入部初日から凜太郎に対して「コイツには負けたくない」という闘争心を燃やし続けていた。
体格的には小さいが、スピードと技のキレは部内トップクラス。凜太郎相手でも果敢に挑んでくる。
しかし今日、ついに結衣が凜太郎を追い詰めた。
素早い内股から変化した背負い投げ。凜太郎も思わず「おっ」と声を出した。
「どう! この動き、一ヶ月磨いたんだからね!」
「……綺麗でした、本当に」
「褒めた!? 橘凜太郎が褒めた!!」結衣が目を輝かせた。「よし、もっとやる! また仕掛けるよ!」
そこから二時間、結衣の特訓に付き合った。
終わる頃には、二人ともへとへとだった。
「……凜太郎くん、本当ありがと」結衣が畳に大の字に寝転がりながら言った。
「結衣先輩が疲れてるの、あまり見ないですね」
「私だって疲れるわよ。……でも、あなたが相手だと全力出したくなるんだよね」
「それ、褒め言葉ですか?」
「当たり前じゃん」
結衣が上半身を起こした。その際、道着の衿が大きく開いてしまい、凜太郎はとっさに目を逸らした。
「……何よ」
「いえ……衿が」
「あっ」結衣が慌てて直した。「もう! 見た!?」
「見てないです」
「嘘つき! 顔赤いじゃん!」
「それは運動のせいです!」
「私も赤い! でも私は怒ってるから!」
「なんで怒るんですか! 悪いのは衿です!」
そこへ葵がひょこっと顔を出した。「あらあら、またやってる。仲いいね二人とも」
「「仲良くないです!!」」と二人同時に言った。
帰り道、結衣が少し後ろから「……ねえ」と声をかけてきた。
「なんですか?」
「今日、ありがとう。本当に。また付き合ってくれる?」
凜太郎は振り返ってうなずいた。
「もちろんです」
結衣は少し照れたように前を向き、早足で歩き始めた。
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第9話「宮本凪の重さと、畳の上の告白未遂」
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宮本 凪(みやもと なぎ・21歳)は、見た目のおっとりとした雰囲気に反して、柔道の技が重い。
体格がしっかりしていて、組み手になると圧力がある。技自体は派手ではないが、基礎が盤石で、崩すのが難しい。
そして、声が小さく、口数が少ない。
凜太郎が凪と二人きりになることは少なかったが、ある日の練習後、他の部員が先に帰り、道具の片付けを二人でする機会があった。
「凜太郎くん」
「はい?」
「……あの、訊いてもいい?」
「どうぞ」
「あなた、柔道が好き?」
凜太郎は少し驚いたが、正直に答えた。
「……好きです。人に言いにくい事情があって隠してたけど、好きであることは変わらないです」
凪が頷いた。
「よかった」
「え?」
「あなたが柔道を好きでいてくれてる方が……私は好き」
凜太郎がじっと凪を見た。凪はゆっくりと畳の片付けを続けながら、目を逸らしたまま続けた。
「……柔道が嫌いな人と、柔道の話したくないから」
「……なるほど、そういう意味ですね」
「そう、そういう意味」凪が少しだけ口の端を上げた。「それ以上の意味じゃないよ。今は」
「今は、って何ですか」
「……ないしょ」
沈黙が流れた。悪い沈黙ではなかった。
片付けを終えた凪が立ち上がろうとしたとき、バランスを崩してよろめいた。凜太郎が手を伸ばして支えたが、そのまま二人で畳に倒れ込む形になってしまった。
凪が凜太郎の上に乗り、顔と顔が近い。
「……また、こういうことに」凜太郎が苦笑した。
「……うん」凪も苦笑した。でも、すぐには離れなかった。
三秒後、凪がゆっくりと起き上がった。
「……ごめんね」
「いえ」
「……でも、ちょっとだけ、嬉しかった」
凪はそのまま先に道場を出た。凜太郎はしばらく、天井を見上げていた。
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第10話「サークルの危機と、凜太郎の決断」
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十月。大学の学園祭の時期、サークルに異変が起きた。
学生自治会から「活動実績が少ないサークルは予算削減の対象」という通達が届いた。「東和大柔道サークル」は、部員数が少なく、大会実績もほぼゼロ。リストの上位に名前があった。
「まずい」葵が職員室から帰ってきて、深刻な顔で言った。「このままだと来年度の予算がなくなる。道場の使用許可も危うい」
全員が静まった。
「大会に出るしかない、でしょうね」と彩音が言った。「実績があれば、予算の交渉ができる」
「問題は」結衣が腕を組んだ。「誰が出るか、よ。個人戦で結果を出せそうなのは……」
全員の視線が、凜太郎に向いた。
「……僕ですか」
「あなたしかいないでしょ、正直」葵が言った。「私も出るけど、全国三位の私より確実に強い人間がいるなら、そっちが出た方がいい」
「でも僕は……競技として出るのは」
「理由が話せないのはわかってる」葵は真剣な目で凜太郎を見た。「でも、ここがなくなったら、みんなの居場所がなくなる。凜太郎くんも含めて」
長い沈黙。
ひなが小さく「無理にとは言わない」と言った。「でも……私は凜太郎くんが戦うところ、見てみたいな」
凜太郎は目を閉じた。
師匠の声が蘇る。「お前はいつか、理由のある戦いをする時が来る」
(……そうか、これが、その時か)
「わかりました」凜太郎は目を開けた。「出ます」
全員の表情が変わった。葵が静かに「ありがとう」と言った。
その夜、凜太郎は実家に電話した。
「……大会に出る。久しぶりに」
電話口の向こうで、父親がしばらく黙った。それから、「……そうか」とだけ言った。
その声に、複雑なものが混じっていた。
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第11話「地区大会と、橘凜太郎という答え」
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地区大会当日。
凜太郎は二年ぶりに試合場に立った。会場の空気、畳の感触、相手の目――すべてが蘇ってくる。
スタンドには、サークルの全員が来ていた。横断幕まで作ってある。
「東和大柔道サークル 橘凜太郎 全力応援!!」
「……手書きで横断幕作らないでください」
「いいじゃん! 気合入るでしょ!」ひなが笑った。
一回戦。相手は他大学の部員。身長は凜太郎より十センチ高い。
組み手争いから、相手が大外刈りを仕掛けた。凜太郎は受け流しつつ、相手の重心を見切り、体落としで一本。
二回戦。相手は素早い動きの選手。凜太郎は相手のペースに合わせながら、小内刈りから払い腰へ。一本。
準決勝。相手は全国大会出場経験者。実力は本物だった。
三分間、互いに組み手を制し合う展開。一度技を受けかけ、凜太郎の体が大きく崩れた。
スタンドが息を呑んだ。
しかし凜太郎はそこから体を沈め、逆に相手の重心を下から崩した。返し技が決まり、有効。
そのまま終了。技術点で勝利。
決勝。相手は同学年で、昨年の学生チャンピオン。
試合が始まった瞬間、凜太郎は確信した。(この人は、本物だ)
しかし同時に、スタンドから声が飛んできた。
「凜太郎くん!!」
葵の声だった。その後ろでひなが「ファイト!!」と叫んでいる。結衣が「ぼさっとしないで!」と言い、凪が静かに「頑張って」と言い、彩音が無言で頷き、楓がノートにペンを走らせながら「データ的には勝てます」と呟いた。
凜太郎は笑った。
そこから七分間、試合は延長にもつれ込んだ。
最後、凜太郎は相手の大外刈りに合わせ、引き落としの変形で相手の体を返した。
一本。
優勝。
スタンドが爆発した。
凜太郎は畳の上で一呼吸して、スタンドに向かって一礼した。
その夜、打ち上げで全員が居酒屋に集まり、葵が「乾杯!」と言って全員が笑った。
「凜太郎くん、なんで競技やめてたの」と結衣が聞いた。
「……いつか話します。今日は飲みましょう」
「それでいい」と葵が言った。「今日は今日の話をしよう」
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第12話「帰り道に降る雨と、部長の本音」
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打ち上げの帰り。
他の部員が解散した後、葵と凜太郎は同じ方向だったため、二人で夜道を歩いていた。
途中で、雨が降り始めた。
「あー、傘持ってなかった」
「僕も」
二人はコンビニの軒先で雨宿りをした。夜の雨はそんなに強くなく、どこかのんびりしていた。
「ねえ、凜太郎くん」
「はい」
「今日、ありがとう。本当に」
「サークルを守りたかっただけです」
「それだけじゃないと思うけど」葵がそっと笑った。「……あなた、みんなのことちゃんと見てるじゃない。ひなが落ち込んでた時も、千夏が意地張ってる時も、凪が不器用に話しかける時も。全部」
「先輩こそ、全員のこと見てますよね」
「部長だから当たり前よ」
「僕は部長じゃないです。ただ……みんなが大事になってきたんだと思います」
葵が少し驚いたように目を見開き、それから視線を雨の方に向けた。
「……そっか」
沈黙が流れた。雨の音が静かだった。
「凜太郎くん」
「はい?」
「私、競技柔道より、あなたと一緒に練習してる今の方が楽しい」
「……それ、部長として言っていいんですか?」
「部長としてじゃなくて」葵が凜太郎をまっすぐ見た。「桐島葵として言ってる」
凜太郎は葵の目を見返した。
答えは、見つからなかった。でも、何も言わなくていい気がした。
「……雨、やみそうですね」と凜太郎は言った。
「そうね」葵が前を向いた。「じゃあ行こうか」
並んで歩きながら、凜太郎は雨上がりの空気の中に、確かな温かさを感じていた。
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1期 前半(第1〜12話)了
後半(第13〜24話)へ続く
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【柔道サークルの紅一点…じゃなくて、紅多点!】
1期 第13話〜第24話
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第13話「新しいメンバーと、凜太郎の立場の変化」
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大会優勝の翌週。
サークルに突然、新入部員が来た。
名前は瀬川 美桜(せがわ みお・20歳)。同じ学年で、体育学部の学生。小柄だが引き締まった体で、「試合を見て入りたくなった」という。
「橘くんの動き、会場で見てたんだけど……ちょっと意味わかんなかった。どうやって動いてるの?」
「身体で覚えてるのでうまく説明できません」
「それ教えてほしいんだけど。私、あなたに稽古つけてもらいたい」
「え……一応、部員ですよ全員」
「でも一番強いのはあなたでしょ」と美桜はにっこり笑った。「直球でごめんね。私、好きな人にしか頼まないタイプだから」
「今のは何の告白ですか」と結衣が横から口を挟んだ。
「柔道の話!」と美桜が返した。「……今のところは」
その「今のところは」という言葉が、サークル内に静かな波紋を作った。
練習終わりに葵が凜太郎を呼んだ。
「美桜ちゃんの教育係、頼んでいい?」
「ええ……僕が?」
「あなたが一番適任だから。それに、全員が彼女を指導できるレベルじゃないし」
「先輩たちは全員僕より柔道歴長いですよね……」
「あなたの動き方は説明できないのよ、誰も。本人にしか教えられない」と葵は少し笑った。「……まあ、美桜ちゃんが気に入ったのはあなたみたいだし、ちょうどいいでしょ」
「最後の理由は何ですか」
「冗談よ」と葵は笑ったが、目は笑っていなかった。
その夜、凜太郎はLINEに通知が来ているのに気づいた。
グループLINEが一件。それとは別に、個人メッセージが複数。葵から。結衣から。凪から。ひなから。楓から。千夏から。
全員から、ほぼ同時刻に。
全部「今日の大会、かっこよかった」と書かれていた。
(……全員にちゃんと返信しないといけない)
凜太郎はため息をついた。しかし、どこか嬉しかった。
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第14話「美桜の特訓と、またもや事故が起きる」
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瀬川 美桜の特訓が始まった。
美桜は飲み込みが早く、一度見た動きをすぐに真似できる。しかし力任せな部分があり、崩しの概念がまだわかっていない。
「力で投げようとしてる。相手の重心を利用すれば、力はいらない」と凜太郎が言った。
「言ってることはわかるんだけど、どうすれば……」
「こっちの腕を持って。こう動かしてみて」
凜太郎が美桜の手を取り、動きを誘導した。
途中で美桜がバランスを崩し、凜太郎の胸に顔から突っ込んできた。
「……ふ、む」
「ご、ごめん! ちゃんと受け身できてる?」
「体で覚えました……あなたの匂い」と美桜が顔を上げて言った。
「!?」
「柔道着の匂いが心地よくて……柔道家っぽいなって」
「それはそういう感想として受け取っておきます」
「どういう感想だと思ったの?」美桜がにやっとした。
その直後、道場の入り口に立っていた結衣が「凜太郎くん! 次は私の番!」と叫び込んできた。
「一対一の特訓中ですよ?」
「関係ない! 私もやる!」
その声を聞きつけて、ひなが「私も〜!」と来た。
こうして「特訓」は五人に膨らんだ。
後半、全員で乱取りをしていると、千夏が仕掛けた払い腰が流れて、凜太郎の背後にいた美桜に衝突。美桜が凜太郎に倒れ込み、今度こそ完全に重なる形で畳に転んだ。
「これは……」と楓がノートに書き始めた。
「分析しないで!」と美桜が叫んだ。
「データは感情に左右されないの!」
「今は感情の話をしてるの!!」
凜太郎は、ごちゃごちゃした七人の状況を見渡して、一言だけ言った。
「……楽しいですね、ここ」
全員が一瞬止まって、それからひなが「それが本音?」と言って笑い出した。
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第15話「師匠の話と、凜太郎が柔道をやめた理由」
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十一月の終わり、練習後に凜太郎が一人で道場に残っていた。
誰もいない空間で、凜太郎は一人で形の動きをゆっくり繰り返していた。
「……一人で練習?」
声がして振り返ると、葵が戻ってきていた。
「忘れ物があって」と葵が道着袋を持ち上げた。「……でも、聞いていい? 今の動き、誰かに習った型だよね」
「師匠の型です」
葵がそっと近づき、凜太郎の隣に座った。
「……話してくれる?」
凜太郎は少し沈黙した後、話し始めた。
「師匠は、小学校の頃に出会った老人でした。公園で変な動きをしてて、最初は怖かったけど、『お前は重心の感覚がある』って声をかけてきた。それから十年、毎日教わりました」
「……十年」
「おかしな人で、柔道の試合は一度も見せてくれなかった。勝ち負けじゃなく、動きそのものを教えることにこだわってた。でも、本物でした。今思えば、全日本クラスの選手でも実力があったと思う」
「その師匠が……」
「去年、亡くなりました」
葵が息を呑んだ。
「……それで、競技をやめた」
「試合に出ることの意味が、しばらくわからなくなって」凜太郎は静かに言った。「師匠は『お前の動きは誰かを倒すためじゃない』ってずっと言ってた。でも試合は倒すことが目的だから……なんか、ちぐはぐで」
「それが今年、出る気になったのは」
「みんながいたから」凜太郎はまっすぐ葵を見た。「師匠の動きを、みんなに少しでも伝えられたら……って、初めて思えたんです」
葵がしばらく無言でいた。
「……凜太郎くん」
「はい」
「師匠の動き、私たちに教えてくれる? ちゃんと、全部」
「……はい」
その夜から、凜太郎の教え方が少し変わった。「師匠の柔道」を、言葉にして伝えようとするようになった。
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第16話「彩音の試合と、静かな感謝」
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地区予選を経て、中川 彩音が全日本学生の本戦に出場することになった。
当日、凜太郎と葵と結衣とひなが応援に来た。楓はデータ収集のためにカメラを三台構えた。
彩音の試合は、見事だった。
一回戦、二回戦と危なげなく勝ち進み、準決勝では去年負けた相手と再戦した。夜間練習で繰り返した動きが、彩音の体に染み込んでいた。足を取りに来た相手の技を見切り、切り返して技あり。
最終的に三位。
表彰台から降りてきた彩音の前で、全員が出迎えた。
「おめでとう!」とひなが飛びつくように抱きついた。
「……ありがとう」と彩音が静かに言った。
凜太郎の前に来たとき、彩音はしばらく何も言わなかった。
「彩音先輩、」
「あの夜間練習、助かった」と彩音は静かに言った。「あなたに付き合ってもらわなかったら、また同じ場面で止まってたと思う」
「先輩の実力があってこそです」
「半々よ」と彩音が初めてはっきりと笑った。「あなたが半分。私が半分」
「……光栄です」
「凜太郎くん」彩音が少し声を落として言った。「……好きよ、あなたのこと」
「え」
「柔道家として。今のところは」
「……また『今のところは』ですか」
「そう。今のところは」
彩音はさらっと前を向いて歩き出した。凜太郎は頭を掻いた。
後ろから結衣が「どういう意味かわかった?」と聞いてきた。
「……わかってたら今頃もっと困ってます」
「そっか」結衣が笑った。「じゃあしばらくは安全ね」
「何が安全なんですか」
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第17話「クリスマス練習と、七人のサプライズ」
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十二月。クリスマスが近づいても、柔道サークルは練習を続けていた。
「クリスマスも練習するんですか?」と凜太郎が言った。
「当たり前でしょ、武道に休みはない」と葵が言ったが、その目がどこかそわそわしていた。
その日の練習は、いつもより早く終わった。
「片付けは後でいいから、ちょっとだけ待ってて」と葵が言い、全員が道場の奥へ消えた。
一人で立っていると、電気が消えた。
「え、停電?」
「ちが〜う!」
ぱっと灯りがついた。道場の端に小さなケーキと、手書きのメッセージボードがあった。
「入部半年ありがとう・凜太郎くんへ」
七人が全員、ニコニコしながら立っていた。
「…………」
「言葉なくなった!?」とひなが笑った。
「ちょっと想定外すぎて」
「私が発案者よ」と葵が胸を張った。「全員で書いたのよ、そのボード」
ボードには、それぞれの筆跡でメッセージが書かれていた。
葵:「一番強い後輩で困ってる」
結衣:「負けたくないけどありがとう」
彩音:「感謝してる。ちゃんと」
凪:「……凜太郎くんがいてよかった」
ひな:「ここが好きなのは半分あなたのせいだよ」
楓:「データ的にも最高の部員です」
千夏:「認める。強い。以上」
凜太郎はしばらくボードを見ていた。
「……僕の方が、ありがとうございます」
「なんで受け取り上手なの急に! 泣くじゃん!」とひなが叫んだ。
ケーキを囲んで、七人でクリスマスの夜を過ごした。
後半、酔ったわけでもないのに結衣が凜太郎の肩に頭を乗せて居眠りを始め、美桜が「かわいい」と写真を撮り、凪が「……寒いの?」と自分のひざ掛けを結衣にかけ、葵が全部見て「年齢関係ないなあ」と笑った。
その夜が、一年で一番平和な夜だった。
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第18話「楓の研究発表と、凜太郎が実験台になった話」
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一月。楓が大学のゼミ発表で「橘凜太郎の動作解析」をテーマに選んだ。
「本人の許可は取った」と楓は言った。
「取ってないです」と凜太郎は言った。
「同意なしでのデータ使用はよくなかった。ごめんなさい」と楓は頭を下げた。「でも発表は一週間後だから、今から許可をもらえると助かる」
「……既成事実じゃないですか」
「そうなの。ごめんなさい」楓は再び頭を下げた。「でも、あなたのデータが本当に面白くて……どうしても研究したかった」
凜太郎はため息をついた。
「……わかりました。条件が一つあります」
「何でも」
「発表前に、内容を私に教えてください」
「もちろん」
翌日、楓が研究内容を説明した。スポーツ科学の専門用語が並んでいたが、要約すると「橘凜太郎の動作は既存の柔道技術の枠組みを超えており、直感的な重心制御に関しては現代の最高レベルの選手と同等かそれ以上の能力を持つ可能性がある」という内容だった。
「……それを僕に言う前に発表するつもりだったんですか」
「うん。でも先に言うって約束したから今言った」
「楓先輩……」
「なに?」
「もう少し感情の機微というものを」
「研究者に感情は不要だと思ってたけど」楓が少し首をかしげた。「最近、凜太郎くんを見てると、感情も大事かもって思い始めてる」
「それはどういう意味で……」
「どういう意味かはまだ分析中」楓がノートを開いた。「私自身のデータが不足してて」
「自分を研究してるんですか?」
「凜太郎くんを見てる時の自分の心拍数が平常時より高いのはデータとして異常値なので」
凜太郎はしばらく固まった。
「……それは」
「まだ結論が出てないから言わないで」楓が先手を打った。「分析中だから」
「……わかりました」
「ありがとう」と楓が笑った。眼鏡の奥の目が、少し柔らかかった。
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第19話「凪の重大告白と、ゆっくりな恋の話」
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二月の寒い日。
凜太郎が道場の掃除をしていると、宮本 凪が一人で入ってきた。
「凜太郎くん、ひとつ話がある」
「はい、どうぞ」
凪はゆっくり畳の上に正座した。凜太郎も向き合って座った。
「……私、あなたのことが、好き」
一拍の沈黙。
「……凪先輩」
「ちゃんと言いたかっただけ。返事は今じゃなくていい」凪は静かに続けた。「いつも何かを言おうとして、言えなくて。それが嫌だったから。……ちゃんと言葉で言っておきたかった」
「……ありがとう、ございます」
「どういたしまして」凪はほんの少し笑った。「あなたが困るのはわかってる。好きな人が一人だけになれる人間じゃないことも、何となくわかる。それでも、言いたかっただけ」
「凪先輩……」
「急がなくていい」凪は立ち上がった。「ゆっくり考えて。……でも忘れないでね」
凪が道場を出ていった後、凜太郎はしばらく一人で座っていた。
正直に言えば、好きな気持ちはある。全員に対して。それが平等に皆への好意なのか、それとも誰か一人への特別な感情なのか、凜太郎自身にもまだわからなかった。
夜、アパートに帰る途中、スマートフォンに全員からのLINEが届いていた。
普通の内容だった。練習の話、翌日の予定、「明日寒いから暖かくして来てね」という凪からのメッセージ。
凜太郎は一通ずつ丁寧に返信しながら、思った。
(こういう毎日が、たぶん、幸せなんだ)
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第20話「先輩たちの卒業と、残されるもの」
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三月が近づいてきた。
葵と彩音と結衣と凪の四人は三年生。今年度が終われば四年生になり、本格的に就活が始まる。来年はサークルに顔を出せる頻度が大きく下がるかもしれない。
ある日の練習後、葵が言った。
「来年度の部長、決めないとね」
全員が少し静かになった。
「……誰がいいと思う?」と結衣が聞いた。
「凜太郎くんでしょ」と葵が即答した。
「僕は一年生(学年上は二年目)ですよ?」
「学年じゃなくて実力と人望よ。みんな、凜太郎くんのこと信頼してる」
「それは……先輩たちが積み上げてきたものがあるからだと思います。僕一人じゃ何もできなかった」
「そういうことが言えるから、適任なのよ」葵がにっこりと笑った。
その夜、葵から個別LINEが届いた。
「来年も道場に来るから。部長じゃなくなっても、師匠に会いに来る生徒みたいな感じで」
凜太郎は「楽しみにしてます」と返信した。
少ししてから「楽しみにしてるのは、道場だけじゃないけどね」という追加メッセージが来た。
凜太郎はしばらく既読のまま返せなかった。
翌朝「僕も同じです」とだけ返信した。
数分後に「遅い! でも嬉しい」という返事が来た。
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第21話「千夏の変化と、素直になれた日」
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速川 千夏は、ここ最近、凜太郎に対する態度が少しずつ変わっていた。
最初は「シャワー室の落とし前」として練習に付き合わせていたが、今では普通に「教えてほしいから頼む」という形になっていた。
「千夏先輩、ずいぶん素直になりましたね」
「うるさい」
「最初は口実っぽかったのに」
「……最初は口実だったよ」千夏が渋い顔で言った。「でも本当に強くなりたくなった。あなたの動きを見てたら」
「光栄です」
「褒めてない! 悔しいって言ってるの!」
「悔しいのに続けてるのは、好きだからだと思いますよ」
千夏がぴたっと止まった。
「……柔道が、ってこと?」
「そうですよ」と凜太郎は笑った。「何を想像したんですか」
「うるさい! 何も! 柔道の話してる! 分かってる!」
その日の練習後、千夏が「ちょっと待って」と呼び止めた。
「なんですか?」
「……あの、ありがとう。最初から今まで、ちゃんと向き合ってくれて」
「当たり前のことですよ」
「私が面倒くさい絡み方してたのに」
「それも千夏先輩らしくて好きですよ」
千夏が固まった。
「……今の、どういう意味で言ったの?」
「面倒くさい部分も含めて先輩だな、って意味です」
「……それは全部好きってこと?」
「そうですね」
千夏はしばらく何も言えなかった。頬が赤くなっていた。
「……ずるい」と小さく言った。
「何がですか?」
「全員にそうやって言えるあなたが、ずるい」
凜太郎は少し考えてから、「それはすみません」と言った。「でも、嘘はついてないです」
「……知ってる」千夏が前を向いた。「だからずるいって言ってるの」
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第22話「ひなの手紙と、春が来る前の夜」
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三月の終わり。
本条 ひなが、凜太郎に封筒を渡してきた。
「手紙?」
「うん。どうしても文字で伝えたいことがあって」
「……読んでもいいですか」
「後で読んで。今は読まないで」
凜太郎は頷いて、封筒をポケットに入れた。
その日の練習は、なんとなく全員が集まり、最後に輪になって話した。
「来年度、どうなるかわからないけど」と葵が言った。「このサークルが続く間は、続けましょう。……でも、サークルが終わっても、人のつながりは終わらないと思う」
「部長……」
「私、みんなのことが大好きだから」葵が笑った。「凜太郎くんも含めて」
「含めて、ってなんか扱いが雑ですね」と凜太郎が言った。
「特別な括弧でくくってあるのよ、あなたは」
「それ公言していいんですか?」
「いいの。全員知ってるから」
帰り道、凜太郎はひなの手紙を開いた。
丸くて柔らかい字で、こう書かれていた。
「凜太郎くんへ
うちの親に、サークルの話をした。去年はずっと言えなかったけど、今年は言えた。言えたのは、あなたが『好きなものを好きでいていい』って言ってくれたから。ちゃんとありがとうが言えてなかったから、書きました。
それと、もう一つ。
私、凜太郎くんのことが好きです。
返事は、いつでもいいです。急がなくていいです。
でも、ちゃんと伝えたかった。
ひな」
凜太郎は手紙をゆっくり折りたたんだ。
夜空の下で、しばらく立ったまま、静かにいた。
この場所に来て、柔道を続けてよかった。それだけは、確かだった。
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第23話「春の終わり、それぞれの気持ち」
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四月。新学期が始まった。
葵たちは四年生になり、サークルへの顔出しは月に数回になった。三人の新入生が二年生になり、美桜と凜太郎が二年生に。そして新たに三人の一年生女子が入部してきた。
「また増えた……」と結衣が来るなり言った。
「今年も男子一人ですか」と凜太郎が言った。
「なぜかそうなるのよ」葵が笑った。
新入生の三人は、凜太郎の存在にすぐ気づいた。
「先輩、柔道サークルに男子がいるんですね」
「はい。なにか?」
「……すごく強いって噂を聞きました」
「どこからその話が」
「去年の大会でサークルが優勝したって、体育館の掲示板に」
そう言いながら三人とも、凜太郎をちらちらと見ていた。
「凜太郎くん、また人気が増えたね」とひなが楽しそうに言った。
「笑ってる場合じゃないですよ」
「大丈夫! うちの先輩方は手強いから!」
「いや、そのフォローはフォローになってないですよ?」
練習後、今度は美桜が凜太郎に並んで歩いてきた。
「ねえ、凜太郎。去年からずっと気になってたんだけど」
「なんですか?」
「ここのサークル、みんな凜太郎のことが好きじゃん。気づいてる?」
「……そういう話はやめてください」
「なんで?」
「どう答えていいか、まだわからないので」
美桜は少し考えてから「じゃあいつわかる?」と聞いた。
「……もう少し、時間をください」
「わかった」美桜があっさり言った。「待てる。私は待つのが得意じゃないけど、あなたのためなら待てる気がする」
「……どうしてそんなに」
「だって、あなたが誰かを選んで、それでも笑顔でいられるくらい、ちゃんと大事にされたいから」
凜太郎は足を止めた。
「美桜先輩って、すごく真っ直ぐですね」
「それ、褒めてる?」
「もちろんです」
「じゃあよかった」と美桜が笑った。
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第24話「畳の上の約束と、続いていく日常」
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四月の最後の練習日。
葵が久しぶりに道場に来た。
「たまにはやろうかと思って」
「四年生が来るのは珍しいですね」と凜太郎が言った。
「邪魔?」
「逆です」
全員が揃った。新入生三人を含む計十一人。道場が少し狭く感じるくらいだった。
乱取りが始まった。
凜太郎は全員と順番に向き合った。ひなの払い腰、千夏の足技、凪の重い組み手、楓の分析的な間合い、彩音の正確な崩し、結衣のスピード、美桜の力強さ、葵の安定した技。
そして最後に、新入生の一人と組んだ。まだ動きは荒削りで、力任せだったが、目が真剣だった。
凜太郎は丁寧に受け流しながら、その動きを読んで、崩れた隙を優しく制した。
「……なんで投げられたかわかった?」と凜太郎が聞いた。
「……足の重心が、右に偏ってた」
「正解です。じゃあ次はそこを意識して」
新入生が頷いた。
その様子を見ていた葵が、後から凜太郎に言った。
「いい教え方ね」
「師匠の受け売りです」
「でも、あなたの言葉になってた」
練習が終わり、みんなで畳を拭いた。
窓の外に、桜が散り始めていた。ちょうど一年前、凜太郎がこの道場に初めて来た時期と同じだった。
葵が窓際に立って、外を見ていた。
「凜太郎くん」
「はい」
「来年もここにいる?」
「います」
「再来年も?」
「……います」
「ずっと?」
凜太郎は少し笑った。
「……卒業するまでは、確実に」
「それ以降は?」
「……考えてます」
葵が笑った。「それでいい。ゆっくり考えて」
その時、後ろでひなが「部長、凜太郎に告白してる!?」と叫び、千夏が「え!?」と声を上げ、凪が「……聞こえてたよ、みんな」と言い、楓がノートに何かを書き、彩音が静かに微笑み、結衣が「私も言いたいことある!」と手を挙げ、美桜が「順番待ち」と言った。
道場が笑い声で満たされた。
凜太郎は、その全員の顔を、ゆっくりと見渡した。
師匠が言っていた。「お前の柔道は、誰かを倒すためじゃない」
(わかった、ようやく)
この人たちとともに磨き続けること。それが、橘凜太郎の柔道だった。
道場に残る笑い声の中で、凜太郎は静かに畳を踏みしめた。
春の光が、道場いっぱいに差し込んでいた。
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1期 完(全24話)
2期へ続く
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【登場人物一覧】
橘 凜太郎 20歳・主人公・天才柔道家
桐島 葵 22歳→23歳・三年→四年・部長・全国三位
中川 彩音 21歳・二年→三年・クール系・大会三位入賞
天野 結衣 21歳・二年→三年・負けず嫌い小柄系
宮本 凪 21歳・二年→三年・おっとり重技系
本条 ひな(ほんじょう ひな) 20歳・一年→二年・元気ムードメーカー
志田 楓 20歳・一年→二年・インテリ分析系
速川 千夏 20歳・一年→二年・陸上出身足技系
瀬川 美桜 20歳・途中入部・直球系体育学部




