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退屈な皇子は、ただ一人にだけ微笑む  作者: 月光院ゆら


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20/20

後日談 退屈の果てに見つけたもの

 帝都から遠く離れた北の果て。


 ヴァルトハイム辺境領に、今年もまた冬が訪れていた。


 息を吸うだけで肺の奥まで凍りつきそうな大気。見渡す限りの大地は分厚い雪衣をまとい、遠く連なる山脈は、陽の光を弾いて青白く輝く氷冠を戴いている。人の住む場所とは思えないほど静謐で、しかしその静けさの底には、いつも刃物のような緊張が眠っていた。


 そのさらに北――。


 人の領域と、魔獣の巣食う魔域とを分かつように、巨大な城壁が延々と続いている。

 北壁。帝国最北の防衛線であり、この地に生きる者たちにとっては生命線そのものだった。


 その日、けたたましい鐘の音が凍てついた空気を切り裂いた。


 ガァン――! ガァン――! ガァン――!


「魔獣だ!」

「北西より群れが来るぞ!」

「総員、配置につけ!」


 兵士たちが雪を蹴散らして駆け出す。吐く息はことごとく白く、汗と緊張の匂いが冷たい風に混じって漂った。物見塔からは次々と旗が上がり、鋭い指笛が飛び交う。


「数は!」

「確認できるだけで六十! いや、まだ増えます!」

「種類は!」

「雪狼種を先頭に、牙熊種が十! 後方に大型の反応あり!」


 報告を受けた兵士たちの顔から、みるみる血の気が引いていく。冬の魔獣は飢えている。食料を求めて人里へ下りてくること自体は、この地では珍しくもない日常だ。だが六十を超える群れとなれば、話はまるで違ってくる。それは日常の延長ではなく、明確な「災厄」の域だった。


「ちっ……ずいぶんと景気よく来やがったな」


 城壁の上で、フリードリヒ・ヴァルトハイム辺境伯が低く吐き捨てた。長年の戦で刻まれた顔の皺が、いっそう深くなる。その隣には長男ゲオルクが並び立っていた。


「父上。第三隊を西門へ。雪狼はおそらく二手に分かれます」

「分かってる! ルーカス!」

「すでに結界術師を配置しています。東側の防壁は昨日補強したばかりですから、多少の衝撃なら耐えます」

「ユリアン!」

「騎兵隊、いつでも出られるよ!」


 ヴァルトハイム家の男たちが、迷いのない動きで次々と持ち場へ散っていく。長年の実戦で研ぎ澄まされた、無駄のない連携だった。北境に生きる者にとって、魔獣の襲来はもはや呼吸をするのと同じくらい当たり前のことだ。


 だが――。


「辺境伯」


 その場に似つかわしくないほど静かな声が響いた。剣戟の予兆と怒号の中にあって、その声だけが妙に凪いでいる。


 フリードリヒが振り返る。

 そこには、一人の青年が佇んでいた。


 帝国第二皇子、レオンハルト。


 帝都では「氷の皇子」と呼ばれ、剣、魔術、学問、軍略――あらゆる分野において他の追随を許さぬ天才として、その名を知らぬ者はいない。


 だが、辺境に来てまだ日が浅い。北境の兵士たちの多くは、その実力を噂でしか知らず、実際にこの目で見たことがなかった。


 皇子が北境へ赴任すると聞いたときも、歓迎一色だったわけではない。


 ――帝都の皇子様に北の冬が耐えられるのか。

 ――どうせ後ろで指図するだけだろう。

 ――辺境伯令嬢を追ってきたらしいぞ。


 そうした囁きが、雪の下でくすぶる燠火のように広がっていたことを、レオンハルト自身も知っている。

 けれど、彼は一度として弁明しなかった。言葉で証明する必要などない――そう思っていたからだ。彼にとって、証明とは常に行動でするものだった。


「俺も出る」


 淡々と告げる。

 フリードリヒが片眉を上げた。


「殿下」

「何だ」

「ここは訓練場じゃありませんぞ」

「知っている」

「魔獣は剣を合わせて礼をするような相手でもない」

「それも知っている」

「……死にますぞ」


 周囲の兵士たちが、思わず息を詰めた。皇族に向ける言葉ではない。あまりに不敬な物言いに、誰もが辺境伯の首が飛ぶのではと肝を冷やした。


 だがレオンハルトは気分を害するどころか、ほんのわずかに口の端を持ち上げた。氷のような彼の表情に、確かに笑みと呼べるものが浮かんだ。


「俺が?」

「…………」


 フリードリヒの眉がぴくりと動く。何か言い返そうとして、しかし言葉を探しあぐねているようだった。ゲオルクが額を押さえてため息をつく。


「殿下。父を挑発しないでください」

「そのつもりはない」

「その言い方が挑発なのです」


 そのとき。


「父上!」


 雪原を切り裂くように、軽やかな声が飛んできた。

 レオンハルトが振り返る。


 白い息を弾ませながら雪の上を駆けてきたのはエリナだった。防寒用の外套の下には軽装の鎧、腰には使い込まれた剣を帯び、柔らかな茶色の髪を高い位置で束ねている。頬は寒さと興奮とで薄く紅潮していた。


「エリナ」


 ただそれだけで、レオンハルトの声音がまるで違うものに変わる。低く硬質だったはずの声に、ほんのわずかな柔らかさが滲む。周囲にいた兵士たちが、微妙な、それでいて温かい顔をした。


 彼らもこの数週間で、すでに学んでいたのだ。第二皇子には二種類の声がある。自分たちに向ける、氷のように整然とした声。そして――エリナに向ける声だ。


「私も出ます」

「駄目だ」

「なぜですか」

「危険だからだ」


 即答だった。有無を言わせぬ響き。

 エリナの眉が、すっと上がる。


「レオンハルト様」

「何だ」

「私が魔獣討伐を何年していると思っているのですか?」

「…………」

「それに、レオンハルト様は私に一度負けています」


 周囲が、しん、と静まり返った。言ってはいけないことを聞いたような顔で、兵士たちが二人を交互に見る。


 レオンハルトはしばらく黙っていた。過去の記憶――剣を交えたあの日の、屈辱にも似た、けれど不思議と胸の底が熱くなった敗北の記憶を辿るように。

 やがて、小さく息を吐く。


「……分かった」

「ありがとうございます」

「ただし、無茶はするな」

「それはレオンハルト様もです」

「俺はしない」

「レオンハルト様の無茶と普通の人の無茶は基準が違います」

「そうか?」

「そうです」


 きっぱり言われ、レオンハルトが黙る。反論の糸口が、どこにも見つからなかった。

 フリードリヒが肩を震わせた。


「がはははは!」


 豪快な笑い声が城壁に響き渡る。緊迫していた空気が、わずかに緩んだ。


「いいぞ、エリナ! もっと言ってやれ!」

「父上!」

「殿下にあれだけ言えるのは、お前くらいだ!」


 レオンハルトは何も言わなかった。ただ、エリナを見る蒼金の瞳には、どこか楽しげな、そして誰にも渡したくないと言わんばかりの、静かな光が宿っていた。


 ◇


 北門が、重い音を立てて開かれた。

 凍てついた大地を、騎兵たちが一斉に駆ける。蹄が跳ね上げる雪が、朝の光を弾いて宝石のように舞った。

 先頭に立つのはフリードリヒ。その左右にゲオルクとエリナ。そして――少し離れた場所に、レオンハルト。


 地平線の向こうに、黒い影が幾重にも蠢いていた。

 雪狼。白灰色の毛皮に覆われた大型魔獣だ。一頭だけなら熟練の兵士数人で仕留められる。だが群れとなれば、その脅威は幾何級数的に跳ね上がる。


「来るぞ!」


 フリードリヒが叫んだ。

 雪煙が地平線を覆うように立ち上る。数十頭の魔獣が一斉に駆けてきた。大地そのものが震えているようだった。

 兵士たちが槍を構える。弓兵が弦を引く。誰もの顔に、恐怖と決意が入り混じった緊張が刻まれていた。


 その中で。

 レオンハルトだけが動かなかった。


「殿下?」


 近くの兵士が不安そうに声を上げる。

 レオンハルトは答えない。蒼金の瞳が、ただ静かに魔獣の群れを見据えていた。

 数。速度。間隔。風向き。地形。雪の深さ。


 ほんの数秒。それだけで、必要な情報のすべてが彼の中で組み上がっていく。まるで戦場という混沌そのものが、彼の眼にだけは一枚の精密な地図として見えているかのようだった。


「弓兵、撃つな」

「え?」

「まだ早い」


 静かな声だった。だが、不思議と逆らえない――そんな重みが、その一言にはあった。


「第一、第二隊は二十歩後退。騎兵は左右へ分かれろ」


 兵士たちが戸惑う。フリードリヒだけが、値踏みするような、しかし信頼のこもった目でレオンハルトを見た。


 そして。


「聞いたか! 殿下の指示どおり動け!」

「はっ!」


 隊列が音もなく割れていく。まるで道を開けるように。

 そこへ、魔獣の群れが殺到した。


「殿下!」


 誰かが叫んだ。

 レオンハルトは一人、その正面に残っていた。

 雪狼が牙を剥く。十。二十。三十。巨大な群れが、たった一人の青年へ向かって殺到する。


 それでも彼は動かない。ただ右手を、静かに上げた。


「――凍れ」


 瞬間。

 世界が白く染まった。


 轟音。大地を這った魔力が一気に広がり、雪原を駆けていた魔獣たちの足元を呑み込んだ。氷結。先頭の雪狼たちが次々と足を取られ、後続がそれに衝突する。群れの隊列が、音を立てて崩壊した。


「今だ」


 レオンハルトが剣を抜く。


「弓兵、放て!」


 矢の雨が、澄み渡った冬空を覆った。


「騎兵、左右から挟め!」

「おおおおおっ!」


 兵士たちが雄叫びを上げながら雪原を駆ける。魔獣の群れは、もはや完全に分断されていた。

 レオンハルトも踏み込む。一閃。一頭。返す刃でもう一頭。横から飛びかかった雪狼には目も向けず、左手を軽く振る。ただそれだけで、魔力の衝撃波が巨体を吹き飛ばした。


「…………」


 兵士たちは戦いながら、次第に言葉を失っていった。

 速い――などという言葉では、到底足りない。強い――それだけでもない。すべてが、あまりに正確なのだ。一歩の踏み込み。一振りの軌道。一度の魔術の展開。何ひとつとして、無駄がなかった。


「なんだ、あれ……」


 一人の若い兵士が呆然と呟いた。


「本当に人間か……?」

「第二皇子だぞ」

「いや、それは知ってる!」


 別の兵士が叫ぶ。


「あんなの聞いてねえぞ!」


 そこへ雪狼が飛びかかる。


「喋っている暇があるのか!」


 ゲオルクが一刀で斬り伏せた。


「す、すみません!」


 だがゲオルク自身も、レオンハルトから目を離せずにいた。噂は知っていた。帝国最強。神に愛された天才。無敗の皇子。いくらでも聞いた言葉だった。だが――。


(これほどか)


 認めざるを得なかった。剣だけではない。彼は戦場そのものを見ている。兵を動かし、魔獣を誘導し、自ら最も危険な場所へ躊躇なく踏み込んでいく。皇子という肩書を外しても、間違いなく一流の指揮官だった。いや――その言葉すら、生温いのかもしれない。


「レオンハルト様!」


 エリナの声が飛ぶ。


「右です!」


 レオンハルトは振り返らない。


「分かっている」


 右側から三頭。そのうち二頭をレオンハルトが斬る。一頭だけ、意図的に残した。


「エリナ」

「はい!」


 銀光。エリナの剣が走る。雪狼の喉が裂けた。

 二人は自然と背中合わせになる。互いの体温だけが、雪原の中で確かな熱を持っていた。


「後方に五頭!」

「三頭もらう」

「では、私は二頭を」

「任せる」


 それだけ。互いに振り返りもしない。必要がないのだ。相手がどう動くか、手に取るように分かっている。そして何より――任せれば、相手が必ず仕留めると信じている。そこには言葉を超えた信頼があった。


「……すげえ」


 誰かが呟いた。


「殿下だけじゃない」

「ああ」

「あの二人……」


 まるで長年同じ戦場を駆けてきた相棒のようだった。


 そのときだった。

 地響きがした。

 ドン――。雪が跳ねる。ドン――。遠くの林から鳥が一斉に飛び立つ。


 フリードリヒの表情が、それまでとは違う色に変わった。


「来やがったな」


 雪煙の向こうから、それは姿を現した。

 巨大な四足の魔獣。牙熊種――ではない。その倍はある体躯。黒々とした毛皮。額には歪んだ角。吐き出される息が、白煙となって周囲に漂っている。


「魔角熊……!」


 兵士の一人が呻く。


「上位種だ!」

「総員、下がれ!」


 フリードリヒが叫ぶ。魔角熊が咆哮した。空気そのものが震える。馬が怯え、数頭が棹立ちになった。


「殿下! あれは我々が――」


 ゲオルクが振り返ったとき。

 すでにレオンハルトはいなかった。


「……は?」


 前方。一人の青年が、静かに歩いている。魔角熊へ向かって、まるで散歩でもするかのように。


「殿下!?」

「ちょっと待ってください!」


 ユリアンが叫ぶ。


「一人で行くんですか!?」


 レオンハルトは振り返った。


「一頭だろう?」

「そういう問題じゃありません!」


 エリナが額を押さえる。


「レオンハルト様」

「何だ」

「無茶はしないとおっしゃいましたよね?」

「していない」

「しています!」

「これが?」


 本気で分かっていない顔だった。エリナは言葉を失う。

 その隙に、魔角熊が突進した。


「殿下!」


 兵士たちが叫ぶ。

 レオンハルトは剣を構えた。真正面から。

 巨大な前脚が振り下ろされる。雪原が爆ぜた。


 だが。

 そこにレオンハルトはいない。


 魔角熊の頭上。金色の髪が舞う。剣に魔力が集束していく。凄まじい密度。周囲の空気そのものが軋むように震えた。


「――遅い」


 一閃。閃光が走った。

 直後。魔角熊の巨体が、ゆっくりと、まるで時が引き延ばされたかのように傾いだ。地面へ沈む。轟音とともに雪煙が舞い上がった。


 静寂。誰も動かない。


 レオンハルトは魔角熊の傍らへ音もなく着地すると、剣についた血を払った。


「終わった」

「…………」

「他は?」


 返事がない。

 レオンハルトが振り返る。兵士たちが、全員こちらを見ていた。まるで信じられないものを見るような目で。


「どうした?」


 やがて。


「う……」


 一人が声を漏らした。


「うおおおおおおおおっ!」


 歓声が、凍てついた雪原に爆発した。


「殿下!」

「すげえ!」

「何だ今のは!」

「一撃だぞ!」

「魔角熊を一撃だ!」


 兵士たちが雪を蹴って駆け寄ってくる。レオンハルトは面食らったように瞬きをした。

 戦場で勝つことなど、彼にとって珍しくない。勝って当然。できて当然。帝都では、いつもそうだった。称賛は空気のようにありふれていて、心を動かすことなど一度もなかった。


 けれど。


「殿下、すげえよ!」

「助かりました!」

「ありがとうございます!」


 泥と血に汚れた兵士たちが、屈託なく笑っている。誰も彼を神のようには見ていない。ただ共に戦い抜いた仲間として、肩を叩き、心の底から喜んでいる。

 その温かさを、レオンハルトは知らなかった。生まれてこの方、一度も。


「がはははは!」


 豪快な笑い声が近づく。フリードリヒだった。


「恐れ入ったぞ、殿下!」


 大きな手が、レオンハルトの背をしたたかに叩く。


 バン!


「…………」


 さすがのレオンハルトも、一歩よろめいた。


「父上!」


 エリナが慌てる。


「皇子殿下になんてことを!」

「戦場で一緒に血を浴びたんだ! 肩くらい叩いて何が悪い!」

「力加減の問題です!」

「がははは!」


 レオンハルトは自分の肩を見た。それから、豪快に笑っているフリードリヒを見る。


「……辺境伯」

「何ですかな?」

「痛い」


 一瞬。静寂。


 次の瞬間。兵士たちの爆笑が、雪原いっぱいに響き渡った。


 ◇


 その日を境に、何かが確かに変わった。


 最初は遠巻きにしていた兵士たちが、少しずつレオンハルトに話しかけるようになっていった。


「殿下、今日の巡回ですが」

「ああ」

「西の谷で足跡が見つかりまして。一緒に見てもらえませんか」

「分かった」

「殿下! 剣の稽古をお願いします!」

「基礎は?」

「やってます!」

「昨日も同じことを言っていたな」

「うっ」


 レオンハルトは皇子だった。その事実は、これからも変わらない。誰もが敬意を払っている。けれど、その敬意の中から、少しずつ恐れという名の壁が消えていった。まるで厚い氷が、春の兆しに溶けていくように。


 ゲオルクもまた、その変化の中にいた一人だった。


 ある日の訓練後。


「殿下」

「何だ」

「以前申し上げたことを覚えておられますか?」

「何を?」

「帝都育ちのお坊ちゃま、と」

「ああ」

「……訂正いたします」


 ゲオルクは真顔だった。


「殿下は、辺境でも十分やっていけます」

「そうか」

「むしろ、やりすぎです」

「?」

「昨日一日で魔獣を二十七体討伐されたでしょう」

「いたから倒しただけだ」

「そういうところです」


 レオンハルトには、その言葉の意味がよく分からなかった。ゲオルクは深くため息をつく。


「まあ……妹と共に歩むおつもりなら、それくらいでちょうどいいのかもしれません」


 その言葉に、レオンハルトの目がわずかに見開かれた。感情の動きに乏しい彼の顔に、確かな驚きが浮かんだ、ほんの一瞬。


 ゲオルクはそれ以上何も言わず、背を向ける。


「ゲオルク」


 呼び止められた。


「何でしょう」

「ありがとう」


 ゲオルクは一瞬だけ黙った。


「……礼を言われるようなことではありません」


 そう答えた耳が、寒さのせいではなく、わずかに赤かった。


 ◇


 ルーカスの受け入れ方は、もっと現実的だった。


「殿下。こちらをご覧ください」


 机いっぱいに広げられた、北境の地図。細かな書き込みが、蜘蛛の巣のように紙面を覆っている。


「何だ、これは」

「北壁周辺の魔力流です」


 銀縁の眼鏡を押し上げながら、ルーカスが淡々と説明する。


「殿下ほどの魔力を継続的に防衛へ利用できるのであれば、既存の結界配置を見直せます。こちらの三地点を――」

「待て」

「はい?」

「俺は今戻ったばかりだ」

「存じています」

「魔獣討伐から」

「ええ」

「休ませる気は?」

「ありません」

「…………」

「妹を追って辺境まで来られたのでしょう?」

「それだけではない」

「では働いていただきます」

「…………」


 レオンハルトは黙って椅子に座った。抗弁しても無駄だと、経験則で悟ったらしい。

 ルーカスの口元が、ごくわずかに上がる。


「……本当に、妹を追ってきただけではなかったのですね」

「当然だ。俺は皇子だ」

「なるほど」


 眼鏡の奥の瞳が、興味深そうに細められる。


「では、妹のためというのは半分くらいですか?」

「…………」

「否定なさらないのですね」

「話を続けろ」

「はいはい」


 その夜、二人は深夜まで灯りを絶やさず、北壁の防衛計画を練り直した。窓の外では雪が静かに降り続けていた。


  ◇


 ユリアンはもっと早かった。


「殿下!」

「何だ」

「弟子にしてください!」

「断る」

「即答!?」

「俺は弟子を取るつもりはない」

「じゃあ剣を教えてください!」

「それは弟子と何が違う」

「気分です!」

「意味が分からない」


 だが結局、翌朝。訓練場には、当然のようにレオンハルトとユリアンの姿があった。


「違う。踏み込みが浅い」

「はい!」

「腕で振るな」

「はい!」

「遅い」

「はい!」

「もう一度」

「はい!」


 少し離れたところで、エリナがその様子を眺めていた。朝の淡い光が、二人の吐く息を白く浮かび上がらせている。


「……レオンハルト様」


 思わず、笑ってしまう。

 レオンハルトが振り返る。


「何だ?」

「いいえ。何でもありません」


 その隣でゲオルクが腕を組んでいた。


「完全に馴染んだな」

「はい」

「最初はどうなることかと思ったが」

「私もです」

「……お前が一番心配していなかっただろう」

「そうでしょうか?」


 エリナは小さく笑った。


 その視線の先。ユリアンに何度も同じ型をやり直させながら、レオンハルトは真剣な顔で指導している。帝都で、遠くから噂だけを聞いていた、誰も寄せつけない氷の第二皇子。今はもう、その姿がまるで嘘のようだった。


 ◇


 変わったのは、兵士たちだけではなかった。

 領民もまた、少しずつレオンハルトを受け入れていった。


 ある日、エリナとともに城下を歩いていたときだった。凍てついた石畳の両側に、木造の家々が肩を寄せ合うように並んでいる。屋根には分厚い雪が積もり、煙突からは薪の煙が立ち上っていた。


「で、でんか!」


 幼い声に呼び止められる。

 振り返ると、小さな男の子が立っていた。五、六歳ほどだろう。母親らしき女性が慌てて追いかけてくる。


「こ、こら! 殿下に失礼でしょう!」


 だが男の子は両手で何かを握りしめたまま、ひたむきな瞳でレオンハルトを見上げていた。


「あの……これ」


 差し出されたのは、小さな焼き菓子だった。少し形がいびつで、端が焦げている。


「おかあさんと作ったんだ」

「…………」

「まじゅう、やっつけてくれてありがとう」


 レオンハルトは動かなかった。どうすればいいのか、本当に分からなかった。


 皇宮で贈られるものには、必ず意味があった。宝石。酒。絵画。珍しい魔道具。そのすべてが、何らかの政治と結びついていた。純粋な贈り物など、彼の知る世界には存在しなかった。


 だが。


 目の前の子供が差し出している、少し焦げた焼き菓子には。何もない。ただ「ありがとう」という気持ちだけが、そこにあった。


「レオンハルト様」


 エリナが優しく声をかけた。


「受け取ってあげてください」


 レオンハルトはゆっくり膝を折った。子供と同じ高さまで目線を下げる。それから、両手で丁寧に焼き菓子を受け取った。


「……ありがとう」


 男の子の顔が輝いた。


「うん!」


 そして母親のもとへ、跳ねるように駆けていく。

 レオンハルトはしばらく、その小さな背中を見ていた。胸の奥に、うまく名前のつけられない何かが広がっていくのを感じながら。


「嬉しいものですよ」


 隣からエリナが言う。


「……そうだな」


 手の中には、小さな焼き菓子。形はいびつだった。少し焦げてもいる。帝都の宮廷菓子職人なら、決して食卓に出さないようなものだ。


 一口食べる。


「どうですか?」

「……甘い」

「お菓子ですから」

「知っている」


 エリナが吹き出した。澄んだ笑い声が、冷たい空気の中に溶けていく。

 レオンハルトはもう一口食べた。不思議だった。帝都で食べてきたどんな高級菓子よりも、その素朴な甘さのほうが、いつまでも舌の上に残っていた。


 ◇


 その夜。砦では、ささやかな宴が開かれた。魔獣の大群を退けた祝いである。松明の炎が壁に躍り、湯気の立つ料理の匂いが広間を満たしていた。


「飲め、殿下!」


 フリードリヒが酒杯を突き出す。


「父上、レオンハルト様に無理強いしないでください!」

「何を言う! 北境で戦った男が酒も飲まずにどうする!」

「明日も巡回があります!」

「それは明日の話だ!」

「父上!」


 騒がしい。実に騒がしい。

 ゲオルクは呆れ顔。ルーカスは平然と食事を続け。ユリアンは兵士たちと何やら騒いでいる。そしてエリナは、父親を止めようと必死になっていた。


 レオンハルトはその光景を、少し離れた席から眺めていた。


 以前なら。こうした喧騒を、ただ煩わしいと思っただろう。意味のない会話。意味のない笑い。意味のない時間。そう切り捨てて、耳を塞いでいたはずだった。


 けれど今は。


「殿下!」


 ユリアンが叫ぶ。


「次の休みに狩りへ行きましょう!」

「魔獣討伐と何が違う」

「全然違いますよ!」

「殿下、騙されないでください」


 ゲオルクが割り込む。


「ユリアンは自分が勝てないから、殿下を連れていって獲物を仕留めてもらうつもりです」

「ゲオ兄上!」

「なるほど」

「納得しないでください!」


 また笑い声が上がる。レオンハルトの口元も、いつしか自然と緩んでいた。

 不意にエリナと目が合う。彼女も笑っている。頬は酒のせいか、それとも別の理由か、ほんのりと赤く染まっていた。


 それだけで。


 ここへ来てよかったと、そう心の底から思えた。


 ◇


 宴が終わった頃には、夜も深くなっていた。

 レオンハルトは一人、北壁へ上がった。石造りの階段を、足音だけを響かせながら進む。外へ出た瞬間、凍てつく風が頬を刺すように打った。吐息が白く尾を引く。

 城壁の向こうには、果てしない雪原が、月明かりを受けて青白く輝いていた。


 そして、その上には。

 満天の星。


 帝都では見たこともないほど無数の星が、漆黒の夜空を隙間なく埋め尽くしていた。まるで神々が、この北の果てにだけ特別な宝石箱をひっくり返したかのように。


「……ここにいらしたのですね」


 声がした。

 振り返る。

 エリナだった。防寒の外套を羽織り、頬を赤く染めながら、小さく息を弾ませている。


「寒いぞ」

「辺境育ちですから」

「それは知っている」


 エリナが隣へ並ぶ。二人の肩が触れそうな距離。

 しばらく何も言わず、二人は並んで星空を見上げた。風の音だけが、二人の間を静かに満たしていく。


 やがて。


「……綺麗でしょう?」


 エリナがそう言って、夜空を見上げた。その横顔に、星の光がやわらかく降り注いでいる。


「ああ」


 レオンハルトもその隣で、満天の星へ視線を向ける。

 しばらく二人で黙って眺めていたが、やがて彼が静かに口を開いた。


「エリナ」

「はい?」

「覚えているか」


 問いかけられ、エリナが首を傾げる。


「何をでしょう?」

「舞踏会の夜にした約束だ」


 その言葉に、エリナの目が大きくなる。そしてすぐに思い当たったのか、頬がゆっくりと赤く染まっていった。


「あ……」


 脳裏に、あの夜の光景が鮮やかに蘇る。煌びやかな大広間。蒼と金の衣装に身を包んだ彼。差し出された、まっすぐな手。そして、あの夜こっそりと交わした、二人だけの約束。


 ――北壁の砦から、星空を一緒に見よう。


「覚えておられたのですね」

「忘れるわけがない」


 レオンハルトはそう言って、もう一度夜空を見上げた。


「ようやく果たせた」

「……はい」


 エリナの声が、わずかに震える。


「本当に……来てくださったのですね」

「言っただろう」


 レオンハルトは彼女へ視線を戻した。蒼金の瞳に、無数の星が映り込んでいる。


「君と一緒に見る、と」

「それでも」


 エリナは小さく笑った。


「帝国の第二皇子が、本当にこんな北の果てまで来てしまうなんて」

「後悔しているのか?」

「まさか」


 即答だった。迷いのかけらもない声音。

 レオンハルトの目元が、ふっと和らぐ。


「寒くないか?」

「少し」

「戻るか?」

「レオンハルト様は?」

「寒い」


 エリナが目を丸くした。


「……レオンハルト様でも寒いのですか?」

「俺を何だと思っている」

「魔角熊を一撃で倒す方です」

「それと寒さは関係ない」


 エリナが堪えきれず笑い出した。澄んだ笑い声が、冬の夜へ溶けていく。

 レオンハルトはその横顔を見つめた。何度見ても飽きない。むしろ、もっと見ていたいと思う。


「エリナ」

「はい?」

「手を」

「え?」


 レオンハルトが右手を差し出す。エリナは少しだけ頬を染めながら、自分の手をそっと重ねた。指を絡める。冷たい。だから、その手を自分の外套の中へ引き入れた。


「レオンハルト様?」

「これなら少しは温かい」

「……はい」


 二人はそのまま、寄り添うように星を見上げた。


 帝都にいた頃。レオンハルトにとって、世界はひどく単調な色をしていた。剣を握れば勝った。魔術を使えば誰よりも巧みに操れた。学問を修めれば教師すら追い越した。何をしても、結果はあらかじめ見えていた。だから何ひとつ面白くなかった。明日が来ることを待ち遠しいと思ったことなど、生まれてこの方、一度もなかった。


 それが今では。


 朝になれば訓練がある。魔獣が現れれば討伐へ向かう。ゲオルクとは剣を交え、ルーカスには山のような防衛計画を渡され、ユリアンには稽古をせがまれる。フリードリヒには背中が痛くなるほど叩かれる。兵士たちは遠慮なく声をかけてくる。城下へ行けば子供が焼き菓子をくれる。


 そして。


 隣には、エリナがいる。


「……レオンハルト様?」


 呼ばれて、レオンハルトは彼女を見る。大きな緑の瞳に、北の星々が映り込んでいた。


「どうかなさいましたか?」

「いや」


 レオンハルトは微笑んだ。


「ただ――退屈しないと思っていた」

「え?」

「君といれば、退屈する暇などない」


 エリナは一瞬きょとんとしたあと、楽しそうに笑った。


「それは褒めてくださっているのでしょうか?」

「もちろんだ」

「レオンハルト様にとっては、最高の褒め言葉かもしれませんね」

「ああ」


 迷いなく頷く。


「これ以上のものはない」


 エリナの頬が、赤く染まった。寒さのせいだけではないことくらい、今のレオンハルトにはよく分かる。以前の自分なら、きっと気づかなかっただろう。人の心の機微など、彼にとっては解くべき問題ですらなかったのだから。


「エリナ」

「はい」

「また見よう」


 彼女の瞳が、柔らかく細められる。


「はい」


 繋いだ手に、力がこもった。


「何度でも」


 その答えを聞いて、レオンハルトは彼女をそっと抱き寄せた。エリナも拒まない。胸元へ頬を寄せる。


「レオンハルト様」

「何だ?」

「私……レオンハルト様と一緒に見るこの星空が、一番好きです」


 レオンハルトは答えなかった。ただ彼女の頬へ、そっと手を添える。

 エリナが顔を上げた。視線が重なる。どちらからともなく距離が縮まり――。


 唇が、そっと重なった。


 ほんの短い口づけ。離れたあと、エリナは恥ずかしそうに俯いた。そんな彼女を見て、レオンハルトはまた微笑む。


 北風が、二人の外套の裾を静かに揺らしていた。


 明日もきっと忙しい。魔獣が現れるかもしれない。砦では兵士たちが騒ぎ、ヴァルトハイム家の男たちには容赦なく巻き込まれるだろう。


 それでもいい。


 いや。


 それがいい。


 勝つことしか知らなかった自分に、初めて敗北を教えた少女。退屈しか知らなかった自分に、明日を待ち遠しいと思わせた少女。

 その彼女が、これからも隣にいる。


 ならば――。これから先の人生に、退屈する暇などない。


 レオンハルトはエリナの手を握ったまま、もう一度、北の星空を見上げた。


 無数の星々が、二人の行く先を祝福するように、静かに瞬いていた。


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