第19話 ここから始まる、退屈な皇子の物語
二人の想いが交わったその瞬間、歓声もざわめきも、遠い残響へとほどけていく。
――だが、ここで幕は下りない。
絆を得た今だからこそ、レオンハルトは選ばねばならなかった。
帝国の皇子としての務めを、ひとりの男としての生を。
彼は踵を返し、玉座の父帝を仰ぐ。
「陛下。私は――辺境に参ります」
大広間が大波のようにどよめいた。
彼は続ける。
「辺境は今も魔獣に脅かされ、人手が足りぬと聞きます。ヴァルトハイム閣下に与し、城砦の修繕、物資の補給路の確保、魔域の掃討にあたる所存。官位は不要。ただ剣と術で務めを果たします。そして――」
視線がまっすぐエリナに戻る。
「彼女を、守りたい」
大広間は、嵐の渦中に投げ込まれたように揺れていた。
「殿下が……辺境へ?」
「氷の皇子が、自ら望んで?」
「しかも、あの娘のために……!」
貴族たちが顔を寄せ合い、令嬢たちは扇を震わせて声をひそめる。
「愛のために動くなんて……」
「まるで物語のよう……」
「でも、あの氷の皇子が……恋に溺れるなんて」
憧憬、羨望、嫉妬、戸惑いが渦を巻き、宮廷の空気は一夜にして色を変えた。
皇太子は杯を傾け、口端に不敵な笑みを浮かべる。
「……ふん。完璧な弟が辺境に籠もるとはな。帝都の玉座は安泰だ。実に好都合」
その瞳には、安堵と計算高い光が宿っていた。
一方、皇帝は高座から黙して人々を見渡す。白髪の下の鋭い眼差しが一瞬光り、低く呟く。
「触らぬ神に祟りなし――か」
帝国随一の才を誇る息子の決断に、無理に逆らう必要はないと悟ったのだ。
彼はただ、冷ややかに、しかし確かにその決意を認めた。
皇帝が立つ。
白い手がひらりと掲げられると、ざわめきが潮のように引いた。
「よい。第二皇子レオンハルト、北境鎮護総監としてヴァルトハイム辺境伯に従い、魔域鎮撫にあたれ。権限は前線指揮官に準ず。補給・人員は帝都が責を負う」
静かな宣言が、絶対の勅命となって降りた。
廷臣たちはすぐに声を潜めて囁き合う。
「帝都の権勢から身を引くおつもりか?」
「いや、名誉を得て帰還なさるおつもりだろう」
現実的な課題が列挙され、混乱はやがて熱狂へと変わっていく。
フリードリヒが腹の底から笑った。
「がはははは。殿下なら、娘を守り抜いてくださるだろう。親バカの私も、ようやく安心できる」
その一言に、張り詰めた空気がふっとほどけ、場に笑みとざわめきが戻った。
「辺境伯が……皇子殿下を認めたぞ」
「まさか、あの頑固な辺境伯が……!」
広間のあちこちで、驚きとざわめきが広がった。
貴族たちの目には、辺境の雄が第二皇子を一人の男として認めた、という重みが映っていた。
「大歓迎だ、殿下!私の砦は要塞ゆえ広大だ。剣を振るう場も、討つべき魔獣も尽きぬほどある!」
三兄弟も、幸せそうな妹の横顔に観念したように視線を交わす。言葉にはそれぞれの色がにじんだ。
ゲオルクは苦々し気に口を開く
「……殿下。辺境は帝都育ちのお坊ちゃまには退屈に見えるかもしれませんが……妹と共に歩むなら、その退屈など吹き飛ぶでしょう。嫌でも巻き込まれるはずです」
ルーカスは眼鏡を押し上げ、穏やかに。
「寒冷の地です。どうかご自愛を。……妹のそばにいてくださるなら、私から言えることはそれだけです」
ユリアンは諦めたように笑みを作る。
「辺境の魔獣は手ごわいですよ、殿下。……でも、妹を守れるのは――やっぱり、あなたなのかもしれません」
三者三様の言葉には妹を奪われる悔しさもにじんでいたが、同時に「妹の幸せを壊したくない」という兄としての情も隠しきれなかった。
レオンハルトの胸に熱が走った。
――受け入れられた。
“氷の皇子”ではなく、一人の男として。父帝も兄皇太子も与えなかったまなざしが、ここにある。
エリナを守る輪に、自分も加わっていいのだと。
この家族が紡いだ温かな絆に触れられたことが、沁みるほど嬉しかった。
――彼女はこんなにも真っ直ぐで、優しく、強い。
この家族に育てられたからこそ、あの無垢な笑顔を咲かせられるのだ。
淡い憧れが心に浮かぶ。
いつか自分も、この輪に居場所を得たい――と。
その未来を夢見てしまうほどに、胸が熱く満ちていった。
レオンハルトはひと呼吸置き、視線を落とす。
エリナの頬が、深い薔薇色に染まっていた。
彼女は一歩近づき、胸の前で両手を結ぶ。
「……ありがとうございます、殿下。――いいえ、レオンハルトさま」
思い切って名前を呼んだ瞬間、自分でも驚くほどの照れがこみ上げ、頬がさらに熱を帯びる。
緑の瞳を伏せながら、それでも勇気を振り絞って続けた。
「……一緒に、来てくださるのですね」
名を呼ばれた一言で、レオンハルトの蒼金の瞳に柔らかな光が宿る。口元がほどけ、氷の仮面が音もなく落ちた。
その笑みの美しさに、エリナは胸を高鳴らせた。
けれど直視することができず、視線を逃がすように俯いた。
――あまりにも眩しくて、見つめていたら息ができなくなってしまいそうで。
そんな彼女の揺れる睫毛を、レオンハルトは見逃さなかった。
そっと身をかがめ、伏せられた瞳を覗き込むように顔を近づける。
「……エリナ」
低く、掠れるほどの声。
呼ばれた瞬間、彼女の心臓は跳ね上がる。
思わずさらに俯こうとするが、彼の指先が優しく顎をすくい、逃がさない。
「顔を、見せてほしい」
その囁きに、エリナは震える睫毛を持ち上げた。
視線が絡んだ刹那、彼女の胸いっぱいに熱が溢れ、世界が一瞬止まった。
周囲のざわめきも、楽団の旋律も、まるで遠い彼方に霞んでしまう。
残されたのは、ただ彼の蒼金の瞳と、自分の緑の瞳が交わる静かな一瞬。
その目に映るのは、虚飾の仮面を捨てた青年――ただひとりの男。
そして、エリナの中に芽生えた確かな想いは、言葉ではなく視線だけで伝わっていった。
ほんの一瞬の交わりに、誰よりも深い約束が宿る。
令嬢たちの扇が凍りつき、廷臣たちは思わず息を呑む。
「氷の皇子が……」
「あんな目を……」
小さな囁きが、驚愕と羨望を交えて波紋のように広がっていった。
彼は、ゆっくりと微笑んだ。
これまで誰も見たことのない、壮絶なまでに輝く、神の微笑みに似た笑みだった。
それは光を飲み込み、宝石のようにきらめきながら、ただひとりの少女に向けられた。
蒼と金の瞳に、惜しみない優しさと、誰にも譲らぬ決意が宿る。
冷徹と恐れられてきた男が、今はただ一人の娘を見つめ、心の底からの安らぎをにじませている――その変化に、周囲の空気が大きく震えた。
「行く。――君がいるところへ」
言葉は低く、だが雷のように人々の胸を打った。
彼にとって帝位も、栄誉も、未来さえも、すべては彼女と共にあるかどうかだけなのだと、誰もが悟る。
大広間に息を呑む音が連鎖した。
令嬢たちは胸に手を当て、扇を握る指を震わせる。
「氷の皇子が……恋を誓った……」
貴族たちは互いに顔を見合わせ、囁きを止められない。
皇子の一言が、帝都の均衡すら揺るがすのではと、誰もが直感していた。
エリナは頬を染め、胸の前で指をぎゅっと結んだ。
会場中の視線が注ぐ中で、見えているのはただ一人。
大広間に再び音が戻る。楽団が新たな旋律を奏で、弦の響きが波のように天井へ広がっていく。
その中心で、フリードリヒが大きな杯を高々と掲げた。
「北へ! ヴァルトハイムへ!」
豪快な声は雷鳴のごとく響き、場の空気を一瞬で塗り替えた。
ざわめいていた廷臣たちが思わず振り返り、その威風に気圧される。
三兄弟も続けて杯を上げる。
「妹と殿下の前途に!」
広間の空気は一気に解き放たれたように沸き立ち、笑い声と歓声が渦を巻く。
廷臣たちは杯を掲げ、令嬢たちは扇を叩き、楽団は旋律を力強く重ねた。
先ほどまで張りつめていた緊張は、熱狂と祝福へと姿を変えたのだった。
レオンハルトは、そっとエリナの手を取った。
掌の体温が、確かな現実として彼の胸に置かれる。
かつて灰色だった未来に、鮮やかな色が灯る。
――この手を、二度と離すまい。
彼は低く囁いた。
「エリナ。次の冬――北壁の砦から、星空を一緒に見よう。君が育った大地を、共に歩きたい」
不意に差し出された言葉に、エリナの緑の瞳が潤んだ。
「……殿下が、辺境の冬を……」
胸に熱が広がり、声が震える。
だが、彼女ははっきりと微笑んだ。
「……はい。約束いたします。殿下となら――どんな寒さも、きっと幸せです」
その返事は小さいのに、帝都のどの鐘よりも澄んで、強く彼の胸に響いた。
レオンハルトは彼女の手を包み込み、深く息を吸う。氷のように凍りついていた胸の奥に、初めて春の陽が差し込むような温もりが広がっていた。
広間を埋め尽くす貴族たちは、息を呑んで二人を見守っていた。
帝国第二皇子がついに心を許した存在が現れたのだと、誰もが悟っていた。
羨望と嫉妬と畏怖の入り混じったざわめきが、会場の隅々にまで染み渡る。
エリナは、そっと微笑んだ。
――自分は辺境伯家の娘にすぎない。けれど、彼がこうして手を取ってくれるなら、どんな運命でも歩んでいける。
彼女の緑の瞳に浮かんだ確信は、何よりも強い誓いだった。
「エリナ」
レオンハルトが彼女の名を低く呼ぶ。
「これからは……君と共に生きる。それが、俺のすべてだ」
その声は彼女だけに届くほどの囁きであったのに、広間の灯火までもがその誓いに応えたかのように揺れた。
氷の皇子の物語は、ここから北へ――彼女と並んで続いていくのだった。
荒ぶる風が吹きすさぶ辺境の地であろうとも、その歩みは二つの影を寄り添わせ、どんな嵐の中でも確かに進んでゆく。
灰色に閉ざされていた彼の世界は、もう二度と色を失わない。
エリナという光を得たその瞳には、冬の大地すら春の息吹を宿すかのように映り、冷たい氷の心に温かな炎が燃えていた。
そして――帝国の未来もまた、この二人の歩みとともに新たな彩りを得ようとしていたのだった。
――退屈な皇子の物語は、ここから始まる。
<完>