第18話 家族の輪の中に
楽団の旋律が終わりを告げ、舞踏の中央に立つ二人へ視線が集まっていた。
蒼と金を纏い、互いを映すように寄り添うレオンハルトとエリナ。
煌めく光に照らされるその姿は、祝宴の中心でありながら、まるで誰にも触れられぬ神話の一頁のようだった。
――その静謐を破るように、背後から張りのある声が響いた。
「エリナ!」
人垣を割って現れたのは、長身で端正な顔立ちをした青年だった。細身ながら鍛え抜かれた体躯に、涼やかな瞳。ためらいもなく歩み寄ると、そのままエリナを抱き寄せた。
周囲の貴族が息を呑み、皇子の周囲に一瞬で冷気が張った。黄金の髪がわずかに揺れ、蒼金の瞳が細くなる。
「……何者だ」
刃のような声に、空気が一瞬で凍りついた。
だが青年は怯まず、ただにこやかに微笑んで、答えを返すことなくエリナを見つめた。
「ゲオ兄さま!」
エリナの声が弾ける。
レオンハルトの眉がぴくりと動いた。
「……兄上、であったか」
しかし長兄ゲオルクは、憮然とした表情を浮かべて言い放つ。
「あなたの“兄上”ではない」
冷ややかな声音に、張り詰めた空気がさらに強まる。
だが次の瞬間、別の声が柔らかく場を撫でた。
「エリナ」
銀縁の眼鏡をかけた次兄ルーカスが現れる。
「ルー兄さま!」
エリナが駆け寄ると、落ち着いた抱擁で妹を包む。
「よく頑張ったね」
普段は冷徹さを崩さない兄の目尻がわずかに緩む。その一言に、エリナの胸が熱くなり、思わず拳を胸元で強く握りしめた。
そこへ、力強い声が加わる。
「エリナ! 会いたかった!」
現れたのは三男ユリアン。精悍な顔立ちに若さの奔流を乗せ、快活な笑みを浮かべていた。
彼は勢いのまま妹を抱きしめる。
「私も……ユリ兄さま!」
妹が嬉しそうに笑い、会場の空気は一気に華やぐ。ユリアンは白い歯を見せて妹の肩をぽんと抱いた。
たちまち、周囲の令嬢たちが小さく悲鳴を上げた。
「見て、ヴァルトハイムの三兄弟がそろったわ……」
「それぞれ違うのに、みんな素敵……」
「なんて絵になる兄弟……!」
その空気を揺さぶるように、朗々たる笑い声が広間を震わせた。
「がはははは!」
戦場を思わせる巨躯が現れる。褐色に焼けた肌、額に斜めの古傷、分厚い腕。帝国北辺を守る雄――フリードリヒ・ヴァルトハイム辺境伯である。
エリナが駆け寄り、無邪気に抱きつく。
「お父さま!」
フリードリヒは人々の視線をものともせず、豪快に娘を抱き上げた。
「元気そうじゃないか!」
「も、もう……お父さま、ここは宮廷です!」
エリナは足をばたつかせ、頬を真っ赤にして抗議する。広間は笑いと驚きの入り混じったざわめきで揺れた。
レオンハルトは、その一部始終を無言で見つめていた。
――彼女が父や兄の腕に収まるたび、胸の奥がざわつく。
エリナの屈託のない笑顔が家族に向けられるたび、胸を締めつけるような痛みと嫉妬が燃え上がる。
(……俺の知らない、君の時間)
彼女の世界には、かけがえのない者たちがすでにいて、その輪に自分はまだ入れていない。
理屈ではわかっている。彼女が家族を大切に思うのは当然だ。
だが、それでも抑えられない。
心は彼女の笑顔を独り占めしたいと叫んでいた。
誰よりも長く、誰よりも近くで、自分だけに向けられる表情を欲してしまう。
「がははは! “氷の皇子”殿が、こんな顔をなさるとは!」
レオンハルトの感情を見透かしたかのように、フリードリヒが愉快そうに笑った。
「いやあ、娘の笑顔に焦らされる殿下を見るとは、まこと眼福よ!」
場にどよめきが広がり、貴族たちが息を呑む。
氷の仮面を崩された皇子――その姿は誰の目にも衝撃的だった。
レオンハルトは目を細め、低く応じる。
「……父も兄も、随分と甘やかしているのだな」
「当たり前だ!」
フリードリヒは豪快に言い放つ。
「うちの娘は、父も兄も溺愛している宝でしてな。誰かが横から奪おうとしたら、そりゃあ俺たちだって黙ってはおらん……というだけのことよ!」
豪快な言葉に場が再びどよめいた。
ただの親馬鹿――そう受け取った貴族たちの顔に、わずかに笑みが戻る。
だが次の瞬間、フリードリヒは娘を下ろし、静かに一歩前へ出た。
戦場を統べる雄が、静かに頭を垂れた。
その場にいる誰もが息を呑む。
「殿下」
その声はよく通り、誠意と重みを帯びていた。
「娘を守ってくださり、感謝いたします。あなたはエリナの恩人だ」
その深々とした頭の下げ方に、ざわめきが広間を走った。
ヴァルトハイム辺境伯――北方を守る戦場の獅子が、宮廷の舞踏会で第二皇子に頭を垂れた。
それは単なる礼ではなく、誇り高き武人の真実の言葉であった。
「……お父さま……」
エリナの瞳に涙がにじむ。父の声が震えていたことに、彼女は気づいていた。
すぐにゲオルクが続いた。
普段は冷静で寡黙な長兄が、真っ直ぐに皇子へ視線を向ける。
「殿下。妹を守ってくださったこと、兄として心から感謝します。あなたがいなければ……彼女は今ここにいなかった」
その声音は低く、だが揺るぎなかった。
ルーカスも静かに眼鏡を押し上げる。
「……同じく。あなたが妹を救った。それだけが揺るぎない事実です。ありがとうございました」
そして最後に、ユリアンが快活な笑みを少し和らげ、真剣な瞳を皇子に向けた。
「殿下……いや、レオンハルト殿。俺たち兄弟にとってエリナは誇りであり宝です。その彼女を守ったあなたは、俺たちにとっても恩人です。……ありがとう」
四人の声が重なり、広間は静まり返った。
ただの形式的な礼ではない。北方の戦場を血で守り続けてきた家族が、心から皇子に頭を垂れている。
その姿に、人々は息を呑んだ。
レオンハルトの胸に、熱いものがせり上がる。
これまで“氷の皇子”と呼ばれ、感謝や信頼を心から受け取ることなどほとんどなかった。
だが今、目の前にいる者たちは偽りなく自分に礼を告げている。
それは確かに重く、そして温かいものだった。
……この家族は、彼女を本当に愛している。亡き母に似た色を、そっと守り続けてきた。
胸に温かな感情が差し込む。
彼らの愛情を否定することなどできない。
むしろ、その輪に加わりたい――そう、心の奥で願っていた。
守る手の仲間に――自分も。
レオンハルトは静かに首を振った。深く息を吸い、言葉を置いた。
「……こちらこそ、感謝する。エリナを育て、ここまで守ってくれたことに」
そして視線をエリナへ戻す。
喧噪が遠のき、楽団の調弦すら霞む。
低い囁きが、彼女だけに届くように落ちた。
「……言っても、いいか」
エリナは驚きに瞬きをし、見上げる。
「殿下……?」
「君のことを。皆の前で」
その問いに、柔らかな緑の瞳がわずかに揺れた。
エリナは唇をきつく結び、ほんの刹那、胸の奥で迷いが渦を巻いた。
――でも、もう隠せない。
やがて、かすかな吐息とともに、震える唇が動いた。
「……本当は、帝都を離れなければと思っていました」
声は小さい。けれど真っ直ぐだった。
「身体が治るほどに……殿下と離れる日が近づくようで、怖くて……苦しかったのです」
言葉がこぼれるたび、彼女の肩は細かく震えた。
彼の隣にいた時間が幸せであったからこそ、その終わりを意識するほどに胸が痛んだ――その切なさが、今ようやく形になったのだ。
レオンハルトの心臓が、強く打ち鳴らされた。
冷たい仮面の奥に、抑えきれぬ熱が溢れ出す。
彼女が同じ苦しみを抱いていたと知った瞬間、その想いを抱きしめずにはいられなかった。
レオンハルトは、堪らず彼女の手を強く握った。
「……俺も同じだ」
低く、熱を帯びた声。
「君と離れることを考えるたびに、胸を抉られる思いだった。義務も責務も、帝都のしがらみも……そんなものはどうでもいい。俺が望むのは――君とずっと一緒にいることだ」
言葉は刃のように鋭く、同時に祈りのように切実だった。
冷酷と呼ばれてきた皇子の仮面は、もうそこにはない。
ただ一人の娘を失いたくないと願う、ひとりの男の顔があった。
エリナの頬に熱が走る。
目に涙がにじみ、揺れる声で応えた。
「……私も……同じです。殿下と離れたくない……!」
彼女の声は震えていたが、そこには確かな真実があった。
か細い告白に、兄たちの気配が静かに固くなる。父の拳が、ぐっと握り締められた。
レオンハルトの蒼金の瞳が、彼女だけを射抜く。
彼は迷いなく言い放った。
「ならば決まりだ。俺は――君と共に辺境へ行く」
広間にざわめきが広がった。廷臣たちは目を見開き、皇帝も眉をひそめる。
だが、レオンハルトの声音は一片の揺らぎもなく、大広間の奥まで響き渡った。
「この命が尽きるまで、俺は君を守る」
その言葉に、エリナの胸は熱く満たされ、涙が頬を伝った。
歓声か、ため息か、広間に渦巻くざわめきの中で――二人の心は、誰のものでもない、確かな結びつきを刻んでいた。