第16話 君に着てほしい色
エリナは狂気の夜も、刑の執行のことも知らず、ただ辺境伯邸の静かな部屋で目を覚ましていた。
朝、目を覚ましたエリナの視線は、窓の外へと吸い寄せられた。
そこに広がっていたのは、荒れ果てた屋敷の一角。砕け散った石壁、黒く焦げ付いた玄関の扉。
庭先では従者や兵士たちが包帯を巻かれ、互いを支え合いながら動いている姿が見えた。
――自分が眠っていた夜に、この屋敷を守るために彼らは命を賭して戦ったのだ。
背筋を冷たいものが走る。
もし結界がなければ。もしレオンハルトが傍にいなければ。
ドロテアの狂気に飲み込まれていたのは、自分だったに違いない。
「……怖い……」
思わず震えが漏れた。だが同時に、胸の奥に込み上げてきたのは別の感情だった。
――自分は守られた。誰よりも強く、誰よりも真剣に。
あの人がいたから。
恐怖の底から湧き上がる安堵と温もり。
そのとき、背後から静かな声が落ちてきた。
「もう心配はいらない」
振り向いた先に、彼がいた。
蒼い瞳は揺るぎなく澄み、肩に触れる手は驚くほど温かかった。
「すべて終わった。君を脅かすものは、もうどこにもいない」
その言葉を聞いたとき、エリナの胸は決定的に揺れた。
恐怖を塗り替える安堵。感謝を超えて、心の奥に芽吹いた恋情。
涙をにじませながら、彼女は小さく囁いた。
「……ありがとうございます」
――もう迷わない。
全身で誠実に想いを注いでくれる彼を、拒むことなどできるはずがなかった。
エリナははっきりと、レオンハルトへの愛を自覚した。
だがその気づきは甘やかな幸福とともに、鋭い痛みも伴っていた。
自分は辺境伯家の娘。帝都での療養は本来一時のことにすぎず、そろそろ帰郷せねばならない。
身体が回復していくということは、同時に――彼との別れの時が迫っていることを意味していた。
せめて最後に思い出を残したい。そう思い、エリナは新年の舞踏会で、胸に秘めた感情と別れを告げようと心に決めた。
けれど、その日々の中で二人の距離は自然に縮まり、互いの気持ちは深く絡み合っていく。
レオンハルトにとって、彼女と共に過ごす時間は、まるで別の世界だった。
それまでの彼の人生は、任務と責務の灰色に塗りつぶされていた。
だが、エリナが庭の花を「綺麗」と囁けば、本当に世界は色を取り戻し、かすかな花弁の震えさえ宝石のように映った。
彼女が食卓で「美味しい」と笑えば、その一匙はどんな甘露にもまさる滋味へと変わった。
彼女の喜びが、そのまま彼の歓びとなる。彼女の微笑が、この世に存在するどんな勝利よりも尊い。
――そんなふうに、いつの間にか彼は浮かれ切っていた。
冷徹と呼ばれてきた自分が、ただひとりの娘の前では少年のように心を揺らす。その変化を自覚しながらも、もはや抗う気すら起きなかった。
だが、時折エリナの顔に宿る憂いの色が、彼の胸を締めつけた。
問いただすことはしなかったが、曇った瞳を見てしまうたび、彼は無意識に彼女の手を握りしめ、離したくない衝動に駆られた。
そしてある夕暮れ、橙の光が窓辺を染める中、レオンハルトはゆっくりと口を開いた。
「新年の舞踏会に……もう一度、俺の隣に立ってほしい。今度は、俺が用意した衣装で」
唐突な申し出に、エリナは瞬きを繰り返した。
「……殿下が……私のために、衣装を……?」
彼女の声は小さく震えていた。これまで舞踏会の衣装といえば、家族や義務の名で用意されたものであり、誰かに「贈られる」など思いもよらなかったからだ。
レオンハルトは一歩近づき、彼女の視線を逃さぬように囁く。
「そうだ。君のために仕立てさせた。俺の瞳と同じ蒼に、金の光を散らした。……どうしても、君に着てほしい色だから」
胸が詰まるほどの言葉に、エリナは咄嗟に返事をすることができなかった。
頬が熱を帯び、手を胸元に重ねて、ようやくかすかに微笑む。
「……そんな、贅沢すぎます。私には似合いません」
否定の言葉を選んだつもりでも、その声は喜びに揺れていた。
レオンハルトは彼女の返答を遮るように、そっと手を取る。
「似合わないはずがない。……俺が見たいんだ。蒼と金に包まれて、堂々と俺の隣に立つ君の姿を」
その真摯な眼差しに、エリナは抗えなかった。
胸の奥がじんと熱くなり、自然に言葉が零れる。
「はい……では、その時は……殿下の隣に」
彼女が小さく頷いた瞬間、レオンハルトの顔に浮かんだ安堵と微笑みは、これまで見たどんな表情よりも柔らかかった。